その日、アイズはユキを連れて女神祭を楽しんでいた。
リヴェリアはレフィーヤと数人の団員を連れてダンジョンへ小遠征に赴き、ロキとアストレアは少し考えたいことがあるからと2人でまた部屋に篭っていたからだ。
アストレアの存在はまだ表にはされていない。故にそもそもこの祭りをユキと共に楽しむことは出来なかったが、それでもお祭りである。子供はこういう賑やかなイベントが好きなもの。
アイズから離れないという条件で許された一時ではあったものの、アイズの見る限りではユキも相応に楽しんでいるらしい。お祭り特有の変な光る玩具を手に取りながら、アイズに対して笑いかけて来る。その笑みはやっぱり以前の彼のものにそっくりであり、少し複雑な気持ちになるところまでが1セット。
光る玩具の一部に擬態して揺れるクレアの姿も相まって、そこには相応に平穏な空間が存在した。
「……?」
何処かで何かが揺れた。
この女神祭、アイズは拠点でユキの世話をしていたので殆どまともに参加してはいなかったのだが、それにしても聞こえて来る噂話では色々と騒動があったという。
それは主にフレイヤ・ファミリアが大暴れしているようなものであったが、何処かの誰かを団員達が必死に追いかけていたという目撃情報が多く、ならばいつも通り逃げ出したフレイヤを彼等が血眼になって探していたのではないのだろうかとガレスは語っていた。
「……フレイヤ・ファミリア」
……もちろん、警戒はしている。そんな噂話をまともに捉えている者は、アイズやガレスを含めてロキ・ファミリアには存在しない。そのためにユキの側にはアイズが付いているのだから。
むしろアイズでなければ、こうして外出することさえフィンは許さなかっただろう。アイズであれば最悪、オッタルが相手でも逃げることは叶う。その辺りを加味しての自由時間である。とならばアイズの取る行動は1つしかなくて。
「ユキ、こっち」
「ん、はい」
もしもに備えて、アイズはユキを抱き上げる。
こうしていると本当に妹のように感じるが、臨戦態勢を取ったのはクレアも同じ。今の彼女がどれだけ戦えるかは分からないが、心強さは感じている。
今のところはお姉ちゃんと呼ばせようとする度に顔面に突撃してくるくらいだが、きっと何かしら力は使えるのだろう。何せ本物の精霊なのだから。……それも、全力のユキでも敵わなかったほどの怪物なら。
「剣姫、その子を渡してくれるかしら」
「っ…………フレイヤ、様?」
けれど、その仮定はあくまで。
同じ冒険者が相手の場合にしか通じない。
その神物が直接こうして手を出して来ることなど、想定していない。
「どうして……いや、それより……」
「剣姫、借りを返して貰うわ。その子を渡して」
「っ、渡せません」
「あら、約束を破るの?」
「……ユキは私のものじゃないから、渡せません」
「そう……まあ、別にいいわ。分かっていたことだもの。貴女が素直に承諾しなくとも、やりようは他にいくらだってある」
「!?………ぁ………ぅ」
美の女神による魅了、それに対する耐性をアイズは持ち合わせていない。仮にオッタルを当てていても逃げられていただろうが、フレイヤの魅了に対しては彼女でさえ対処することが出来なかった。
……むしろ、アイズ以外でもそれは変わらなかっただろう。今現在この街にフレイヤほどの女神の魅了に対抗出来るものなど、それこそヘスティアとその眷属である1人の少年くらいしか居ない。
もし期待出来るとするのであれば、今この場で唯一の未知である本物の精霊の彼女だけだが……
「クレア……私に協力しなさい、貴女の望みを叶えてあげるわ」
精霊の彼女が反抗することはなかった。
端的に、障害と考えられる要素は3つ。
1つは"処女神"ヘスティア、これは言うまでもない。彼女こそが全てをひっくり返す可能性を持ち、天敵とも言える存在。どう足掻いても魅了が効かず、神々の中に味方も多い彼女に手荒な真似は出来ない。扱いに困るというのが実際のところ。
次に"白兎の脚"ベル・クラネル、彼こそが全て。故に徹底的にやることを決めた、そこに少しの隙も与えるつもりはない。元より今回の件、最初に引鉄を引いたのは彼である。……いや、彼に想いを伝えた■■のせいかもしれないが、彼がそれを断ったことが決意を決めたきっかけ。
そして最後に、"九魔姫"リヴェリア・リヨス・アールヴ。最も彼の魅了の影響を受けた人物であり、それを受け入れ飲み込んだ女。ハイエルフという立場以上に、あらゆる意味で地雷になり得る人物。彼女だけはそれこそ、ヘスティアよりも確実に遠ざけておかなければならない。……自分にとって最悪の奇跡を起こしかねない、そんな存在。
「ずっと我慢していたものを、どんな手段を使ってでも手に入れると決めた……それなのにユキ、貴方を手に入れるにはもう少し時間が必要ね」
膝の上で寝息を立てている子供の頭を優しく撫でながら、悲しげな目で1人呟く。
そこはベルと話した部屋とは全く別の場所、この計画を考えた際に眷属達に突貫で作らせた巨大な地下室だった。この部屋にはそれこそ従者達でさえ容易く入らせることはない。目が回るほどに真っ白なこの空間は、ただ"彼"を眠らせ、目覚めさせるためだけに存在する。
「……ふふ、なにかしら。私のことを笑っているの?それとも憐んでいる?どちらにしても面白くないわね。協力してくれたことには感謝しているけれど」
ふわふわと飛んでいる橙色の球体を軽く指で跳ねると、フレイヤはユキを真っ白なベッドの上へと優しく寝かせた。深く深く眠りに就き、起きる気配さえない今の彼。ベッドに腰掛けて頭を撫でるフレイヤのその様子は、他の誰にも見せたことのないようなもの。
「分かっているわ、どうやったところでこの子に手を出した時点で計画は破綻してる。九魔姫が地上に戻って来た瞬間に全てが瓦解する可能性が高い。……貴女だってそうでしょう?私が九魔姫に危害を加えようとすれば、貴女はきっと迷わず私と敵対する。今こうして協力してくれているのは、彼女と彼女の心に私が手を出していないから。そこは消えたユキの願うところではない」
もしどちらかだけにしていれば。両方を取ろうとさえしなければ、破綻することはなかっただろう。しかし決めてしまった、もう我慢はしないと。両方を手に入れるのだと。少なくとも現状の全てを破壊することを、決めたのだ。
「……私はあの時、アナンタに娘の姿で訪れた。だから貴女達の前では一度たりとも女神としての姿は見せなかったし、精々が囮にする眷属を作るくらいしかしていない。けど、どちらにせよ、あの街での私は完全に無力な存在だった。いっそアストレアを羨ましく思ったくらいに」
眷属達を撒くことが出来た。自分でも信じられないその事実に少しの高揚感もありつつ、商業の中継地点として有名であったアナンタに足を踏み入れた。今日ばかりは神ではなく人として、新たな街を楽しんでみたいと。最初はそんな軽い気持ちだった。
「覚えているかしら。ユキが気を失って、貴女が闇派閥の残党に連れて行かれそうになった時に、私はようやく魅了の力を使ったの。そこが最善と最悪の別れ道だと勘付いたから。……そして通用しなかった。多少分かっていたにしても、酷く驚いたのは本当。だってこの力が使えなければ、私は自分の身さえも守ることが出来ない」
アストレア曰く、愛や恋などが芽生えることもないような空間となってしまっていたことが原因とのことだが。しかしどうあれ、当時のフレイヤは魅了の力を本気で行使していた。
ユキが打ち倒され、クレアが囚われ、隠れていた地下室に敵の兵が雪崩れ込もうとしていたのだから。数秒後には自分の命が奪われるような状況だったのだから、それは当然のことである。
「場の空気に当てられてしまったのかもしれない。直前まで人の姿を取っていたからかもしれない。あれほど濃密な子供達の闇に、神だからこそ心まで飲まれそうになった。……私はその状況に"恐怖"してしまった、恐ろしいと思ってしまった。神威にも屈しない狂気を前にして」
"恐怖"
意外にもそれこそが、フレイヤがあの時に抱いていた感情の正体である。普段の彼女の姿を見ていれば、誰もが口を揃えて疑うような、そんな感情があの時確かに彼女の中にはあった。
それでも、人と神との境界があやふやとなっていたような彼女が、人の子の大量で濃密な憎悪と狂気がこれでもかと掻き混ぜられた空間の中で、死を寸前に突き付けられるような絶望的な光景が目の前に広がっていれば。そして魅了という絶対が通用しないという事実まで突き付けられてしまえば、冷静で居られないのは仕方がないことだろう。
「だから私にとって、そして■■にとって、ユキ・アイゼンハートは英雄なの。あの絶望を打ち払い、救い出してくれた彼は」
まるで怪物を打ち倒し精霊の少女を救いにやってきた王子のように、敵軍を蹴散らし姫を取り返しに来た将軍のように、娼婦に落とされた少女の手を迷わず取った少年のように。
彼は無力で隠れることしか出来なかった自分を、神でもなく数度言葉を交わした程度の何処にでもいるような女の命を、どれほど深く傷付くことになっても最後まで立ち上がり、屈することなく、守り抜いてくれた。一番に傷付いていた筈の彼が、恐怖に震える自分に笑い掛けてくれた。大丈夫だと、絶対に助けるからと。両手を取って、約束してくれた。そしてその約束を見事に果たしてくれた。
「恋でもなければ、愛でもない。……これは憧れ。下に見るでも、対等に見るでもなく、私はユキを上に見ている」
だからこそ、酷い話なのだ。
そうして自分を犠牲にした彼は、誰よりも傷付き苦しむことになり、少し目を話した隙にアストレアと共に姿を消した。それからようやく見つけたと思ったら、彼は何故かロキのファミリアに居て、それでも仕方がないとその意思を尊重していたら、いつの間にか九魔姫に掠め取られていた。
これがリューならまだ納得が出来た、むしろ歓迎さえした。剣姫であっても、年齢は近いのだし、最後には納得した筈だ。大いに口は出すかもしれないけれど、きっと互いを救い合える良い関係になっただろう。
……だが、九魔姫はない。あれだけはない。何がどうしたらそんなことになるのか、未だにフレイヤは納得していないし、理解出来ていない。
だが納得していないなりに、それでもフレイヤはなんとか飲み込もうと努力したのだ。彼がそれで本当に幸せになれるのなら、彼がそれで笑って生きていけるのなら、自分は邪魔はせず見ていようと。自分の欲と憧れまで封じ込めて、そう我慢していたのだ。
……それなのに、結果はこれ。
「ベルに目移りした私には、もう何も言う資格なんてないのかもしれない。けど、そうだとしても、こんなものは見過ごせない。これ以上に私の英雄を汚すことは絶対に許さない」
悲しみに彩られた今の彼を見て。その結末に心を壊し、恋心まで捨てた友人までもを見て。そしてその結末すら受け入れて前へ進もうとした九魔姫を見て、全てを壊すことを誓った。全てをなかったことにすることを決めた。間違った今を正すことを決めた。
「……こんな形で終わらせない。私の憧れた英雄の物語だけは、絶対に涙で終わらせない」
九魔姫が帰って来た時点で、全ての計画は破綻する。
故に彼女が帰ってくる前に、完結させる。
彼と自分の物語を。
そこにあった筈の物語を。
彼が涙を流さなくて済むような物語を。
「賭けをしましょう、クレア・オルトランド。ユキは本当に自分の意思で九魔姫を選んだのか、それともあの女に弱った心を付け込まれただけなのか。……貴女がこの賭けに乗ってくれるのなら、私は必ず貴女の望みを叶えてあげる」
『……』
「何の問題もないでしょう?私と貴女の力があれば、それは実現出来る。そもそも、もし本当にそこに愛と運命があるというのなら、最後には全てが貴女の理想通りになるのだから」
フレイヤのその言葉に、クレアは特段何かしらの返事をすることはなかった。ただ拒絶することはなく、何処か少し迷いながらも、彼女はユキの体の中へと入っていく。
クレア自身、これが正しいことなのかどうか分からないのだろう。リヴェリアの言う通りにすべきなのかもしれない。失敗した自分にこれ以上なにかを選ぶ権利などないのかもしれない。
だがそれでも、彼女はもう一度見たかった。
理想を捨て切ることが出来なかった。
フレイヤと同じように、この結末を受け入れられなかった。
フレイヤのその気持ちが、彼女も痛いほどよく分かったのだ。
「さあ、やり直しましょう。ユキ・アイゼンハートの終わりの物語を」
これより始まるのは、彼女(美神)の理想の物語。
彼女が望んだ世界を実現させるための。
そして彼女の望みの正当性を証明するための物語。
道の書きかけは容易くて。
もし、アストレアが助けを求めたのがロキではなくフレイヤであったのなら。
もし、彼を導いたのがフレイヤだったのなら。
そしてもっと別の形で、"彼女"と"彼"が出会っていたのなら。
……そんな"もしも"の物語。
「楽しみね、リュー。貴女は一体どんな反応を見せてくれるのかしら」
本来の自分の部屋で、今も眠っているであろう大切な友人に思いを馳せる。
2つの計画を同時に進める無謀な計画。
それでもフレイヤの心は晴れている。
必ずどちらも手に入れてみせる。
求める世界に書き換えてみせる。
もし手に入れられなくとも……
必ずこの結末を変えてみせる。
そうして、フレイヤは魅了を行使した。
今も深い眠りについている、ユキとクレアに対して。
次回より最終章です。