爛々と輝く水晶と青緑の木々、光を照り返す広大な湖に囲まれた存在自体が奇跡のような空間。それが18階層という空間であった。
血生臭く悍ましいあのダンジョンの中にある空間だと信じられないほどに美しく、それまでの地獄を目の当たりにして来た冒険者達はここへ足を踏み入れた途端に崩れ落ちてしまうものもいるほどだ。
見ただけで分かる別空間。
どこからも殺気や寒気を感じることもなく、本能的に安らぎと安心感を覚えてしまう休息の場。
幼き日のアイズもまたこの空間へと足を踏み入れた時には情動し、こうした今も訪れる度に心には解放感のようなものが訪れる。
そしてそんな中、初めてこの場を訪れたユキはと言えば……
「うわぁ」
遠目に見えるリヴィラの街をものすごく微妙な顔をしながら見つめていた。
「……?ユキ、どうしたの?」
「いえ、その、なんというか……判断に困る街だなぁと思いまして」
「判断?」
「えっと、あそこに住んでる人達は、決して悪い人達ではないんですよね?」
「……多分?怪しいけど、こういう場所や人達も世の中には必要だってフィンが言ってた」
「フィンさんがそう言うのでしたら……それでもあまり長居したい街ではないですね」
「???」
そう苦笑いしながら呟くユキ、心なしか少しばかり顔色も悪い。
まだ遠目から街を見ている程度なのに、一体何をそれほど嫌がっているのだろうかとアイズは不思議に思った。
アイズとしては最近はこれといってトラブルに巻き込まれた記憶が……あるけれども、それはさておくとして、それでもそこまで悪い街というイメージは少ないので首を捻る。初見だからなのだろうか。
確かに初めて来た人にとっては近寄り難い雰囲気を持っていることは間違いない。
アイズはそう適当に解釈を投げて目的地の方角へと足を向ける。
「私はこのまま行くけど、ユキはどうするの?」
「……一応リヴィラの街は見てこようかと思っています。その後は色々と探索をして、暇を潰しながらアイズさんのこと待ってますよ」
「先に帰ってもいいのに」
「アイズさんが早く帰って来ないと、私も帰れないということです」
「……ユキは結構意地悪」
「意地悪で構いません、それでアイズさんが無事に帰ってくるのなら」
「むぅ」
そう言って少し寂しそうな顔をしながら手を振って見送るユキ、アイズはそんな彼女を最後まで頬を膨らませて見ていた。
結局、アイズが見えなくなってもユキはその場で立ちつづけていた。
17階層へ繋がる階段を見つめ、ただひたすらに何かを待つように。
その日、レフィーヤは困り果てていた。
原因は共にパーティを組むこととなった2人があまりにもコミュニケーションという言葉から程遠い問題児達だったからである。
「オイ、アイズの情報集めるためにリヴィラ寄るぞ。この程度でへばってんじゃねえ」
「は、はぃぃ……!!」
何の容赦もなく早歩きで先頭を歩いて行くベート。
そしてそんな彼に必死でついて行くレフィーヤの横を、汗一つ無く歩いて行くフィルヴィス。
しかし今日まで全くと言っていいほどに面識の無かった2人だ、ロクな会話もなければ話しかけることすらない。
2人の仲を取り持つこともできず、付いて行くこともやっとなレフィーヤは精神的にも肉体的にも限界であった。
それからそのまま特に何か変わる事もなく17階層を通り、18階層へと入る一向。そうして18階層へ入った直後にピクリとその耳を動かしたベートは、それまで不機嫌だった表情を何とも言えない微妙そうな表情へと変える。
彼のそんな変化にフィルヴィスもレフィーヤも理解が追いつかなかったが、暫く進んでいくうちに1人の人影がこちらからも見えてきたことでその疑問は氷解した。
「おや、意外な方もいらっしゃいますけど……お待ちしてましたよ。ベートさん、レフィーヤさん、それにフィルヴィスさんも」
18階層の光を見上げる様に佇んでいたユキは、ここに辿り着いた3人に向けてゆったりとした動きで微笑んだ。
彼女がフィルヴィスのことを知っていることについてもレフィーヤは驚いたが、明らかに自分達のことを待っていた様にも見える。
「……おい、アイズはどうした」
「一緒に連れてはいけないと言われてしまいました。24階層のパントリーに行くそうですよ、なんでも協力者の方々もいらっしゃるとか」
「そうかよ……で?テメェはここで何してたんだ」
「もちろん、ベートさん達を待つためですよ。ロキ様の性格からしてあの知らせを受け取れば確実に誰かを派遣すると思いましたので。早急な情報提供と、ついでに連れて行って貰おうかと思ったんです。私、24階層はまだ未探索なんですよね」
「……チッ、まずはリヴィラのデカブツの所に行く。あいつならなんか知ってんだろ」
「はい、分かりました。案内お願いしますね?ベートさん♪」
「うっぜぇ……」
そう言って苦々しそうな顔をして頭をかくベート。
彼にとってユキとは"扱いに困る奴ランキングNo.1"の位置に居座る男(女)だ。
男とも女とも取れず、甘い考えを持っているかと思えば実際にはそうでもなく、決して弱い人間でもない。
ただ一方で弱者を甘やかすというベートにとって看過できない要素も持っている。
しかしその性質がユキという人間を強くしている事も事実で……あらゆる意味で扱い難い、それがベートにとってのユキであった。
「チッ」
ベートがリヴィラの街の方へと足を向けると、フィルヴィスも、一歩遅れてレフィーヤもあたふたと歩き出す。そんな彼女の元へと軽い足取りでユキは近付きながら、レフィーヤが背負う荷物を盗人さながらの滑らかな動きで奪い去った。
「あ、あれ……ユ、ユキさん?」
「お疲れ様です、レフィーヤさん。ここからは私が持ちますよ?立場としてはレフィーヤさんの方が先輩ですからね♪」
「え、でも……いいんですか?こういうのは後衛の人が受け持つのが定番ですし」
「私も一応ですが後衛職はできますし、前衛職の方は十分そうなので問題ありません。私の持ち物は殆どアイズさんに渡してしまいましたし、気にしないでください」
「……その、ありがとう、ございます」
レフィーヤにとってユキは正に救いの女神であった。
この息の詰まる様なパーティの空気を一瞬にして取り払い、その上魔法職の自分の体力を気遣って荷物まで持ってくれる。
最初は嫉妬して嫌っていたこともあったが、何の下心もなく、むしろ男性的要素が皆無であり、知れば知るほどに優しく気遣いのできるお姉さんにしか見えなくなる。
女として見ればアイズとは違う方向性でありながらも彼女くらい憧れることができる要素を併せ持つ、レフィーヤにとってのもう1人の理想の女性だ。
レフィーヤの中でユキという存在の評価はそこまで上がっていた。
最近ではそんなユキとアイズが並んで本を読んでいる姿を見ているだけで、目の保養になると思ってしまう所にまで来てしまっている。
もちろんユキが男性であるということなど、とうの昔に目を逸らしている訳で。
「フィルヴィスさんもお久しぶりですね、デュオニソス様のご指名ですか?」
「……そうだ」
「ふふ、とても頼もしいですね。今日はよろしくお願いします」
「………」
無視をされてもまるで動じることなくニコニコと見つめ続けるその姿勢を見習いたいと、レフィーヤはこれにもまた強く憧れた。
フィルヴィスは全力で顔を背けた。
この後、影響されて更に強く食い付いてきたレフィーヤからも目を背け、リヴィラの街に着く頃にはフィルヴィスは完全に下を向いて歩くこととなってしまった。最早軽いイジメである。
……それでも、やはりユキが見ていたのはフィルヴィスの上方の辺りなのだが。毎度毎度こうして会う度に自分の上の方の虚空を見て来るユキは、フィルヴィスからすれば恐怖以外の何者でも無いだろう。
何も無いところを凝視する猫の様で、何か霊的なサムシングがいるのでは無いかと恐ろしくなる。
「あ〜ん?24階層?アイズの嬢ちゃんの行方だあ?」
リヴィラの街の表の顔、ボールス・エルダー。
買取所の主人でもありながら本人も実力者であり、このリヴィラの街で最も顔のきく男である。
筋骨隆々なその肉体に袖を引きちぎった様な上着だけを羽織る変態チックな格好をしているが、本人はとても野性的で男の魅力に溢れる格好だと自称している。
もちろんそんな訳がない。
そしてそんな彼の前に見慣れぬ美少女が現れたとなれば、彼は意気揚々とその肉体を見せつけるかの様にして男を魅せるのだ。相手もまた男などと微塵も思うことなく。
「……クネクネしてんじゃねぇ、気持ち悪ぃ。ぶっ殺されたくなかったらさっさと話せ」
「あ、はい」
ポージングをしながら話そうとする気持ちの悪い筋肉ダルマを引っ捕らえてベートは脅す。
流石に気持ち悪さが過ぎたらしい。
その目に容赦は一切ない。
どうやら、やはりアイズは一度この街に寄って物資の補充をしていたらしい。その行動から24階層に大量発生しているモンスターの討伐が目的であることは間違いないだろう。
肝心の発生場所についてはボールスも把握していなかったが、ユキの聞いていた通りにパントリーに行けば何かしら分かるに違いない。
引き連れている人数はそこそこ居たようだが、彼女以外は皆しっかりと顔を隠していて誰かは分からなかったとか。もしも彼等に騙されていたら……などと考えることもできるが、ユキは特にそのことは気にしていないらしかった。
それよりも、
「ボールスさんボールスさん。あればでいいんですけど、要らない剣とか使いものにならない剣とかありませんか?あれば売って欲しいのですが」
「ん?なんだ嬢ちゃん、そんないい剣持ってんのになんだってそんなものを……いや、5本くらい刃が欠けた奴はあるんだがな?」
そう言って取り出された五本の壊れかけの剣を食い入るように見つめ始めたユキは、どこからどうみても理解のできない人種に違いない。
壊れて使い物にならない武器を大量に欲しがる人間など、どこの世界を探してもそうは居ないだろう。
いくら見た目が綺麗であったとしても、ボールズにはその趣味は理解できなかった。
「……あー、そんなに欲しいんだったらやるよ。どうせ売り物にならねえしな」
「いいんですか!?ありがとうございますボールスさん♪」
「うぐっ、こんな美人に真っ当な笑顔を向けられたのが久々過ぎて……もっとまともな商売でその笑顔が欲しかったぜ」
嬉々とした表情で五本の剣をベルトに挟み込んで行くユキ。
腰に9本の剣を刺した変人の完成である。
"なんだこいつは"という目を向けるレフィーヤとフィルヴィスとボールス。一方で事情を知っているベートは、"またか、こいつ"という呆れの表情を隠す事なく出す。
まあある程度慣れた今では、その危うい戦い方にそう動揺する事も無くなって来ているのだが。
「オイ、さっさと次行くぞ。たかがモンスターにアイズがやられる訳がねぇが、ロキがわざわざ俺達を送り込んだってことは何か起きんのは間違いねえからな」
ユキと合流してからと言うもの、どこか先輩風のようなものを吹かせている様なベートを不思議に思いつつも、レフィーヤは素直に行動する。
既に街の外に向けて歩いているフィルヴィスはさておき、未だに剣を撫でているユキの袖を摘み引っ張って行こうとすると、突然ボールスが何かに気づいた様にカウンターからこちら側へと身を乗り出してきた。
ユキとレフィーヤは一瞬目を合わせながらも何事かと耳を貸す。
「お、おい、嬢ちゃん達。お前らまさか死妖精(バンシー)とパーティ組んでんのか?」
「「……ばんしー?」」
揃って首を傾げる光景は非常に可愛らしい光景ではあったのだが、ボールスの驚愕と焦りは一瞬しか止まらない。
「お前らも6年前の27階層の悪夢のことは知ってんだろ?」
「は、はい、聞いたことくらいは……」
「私も資料には目を通しました」
「だったら話は早え、あいつはその時の生き残りの1人なんだよ。闇派閥の奴等のせいで少なくねぇ上級冒険者がそこで死んだ。当時のあいつだって戻ってきて早々はそりゃ死人の様な面してたさ。自分以外のメンバーが全滅したんだから当然っちゃあ当然だが」
「……話を聞いている限りでは忌避される様なお話ではないのですが」
「問題は戻ってきたその後の話だ」
「……」
本人に聞かれない様に小声で話すボールスの言葉に息を潜める2人。
ベートもまた足を止めて話に耳を傾けていた。
……勿論、当のフィルヴィスも少し離れた所でまた同様に。
「27階層から帰ってきた後、あいつが参加したパーティはまるで呪われたかのように尽く全滅するようになった。
全部で4回だ。1回や2回じゃねえ、単なる偶然だと思う奴の方が少ないだろ。そうして付けられた名が死の妖精、「死妖精(バンシー)」。あいつと組めば必ず全滅する、今じゃ同じファミリア内でも忌避されてるって話だ」
「……呪い、ですか」
そう呟くユキを他所に、レフィーヤは口を開けて呆然としていた。
その話を聞いて驚かない訳がないだろう。
4度も自分以外の全滅を経験するなど普通の冒険者にとってはまずあり得ないことだ。それこそ、その人間が企んだりしなければそうそう実現できることではない。
彼女が疑われた、忌避されることだって当然のことだと言える。
……しかし一方で、レフィーヤにはそれが信じられないという思いもあった。だからこそ、今の気持ちの整理ができそうにない。
18階層に来るまでの間、何度も戦闘を行う機会があったのだが、その際も彼女は自分達を全滅させるどころか、むしろ気付かれない程度にフォローをしてくれていたことをレフィーヤは知っている。
荷物を背負ってまともに動けない自分の側に付き、自分の代わりに常に周囲を警戒してくれていたことを知っている。
彼女が悪人ではないことを知っているからこそ、レフィーヤはその話をどのように受け止めれば良いのか分からなかったのだ。
「まあ、この話をどう判断するかはお前等次第だから口を挟むつもりはねぇが……そういう話もあるってことだけは覚えときな。俺も今日できた常連候補を早々に無くすのは惜しいんでな」
そう言ってボールスは店の奥へと消えていく。
後に残された2人は取り敢えずとばかりに、立ったまま背中を向けているベートとフィルヴィスの方へと駆け寄った。
「……4度も懲りずに仲間見捨てて逃げて来た奴が、なんでまだ冒険者やってんだ?さっさと辞めちまった方がいいんじゃねえか?」
「ベートさん!!」
「……返す言葉もないな、お前の言う通りだ。あれだけ悔やんだにも関わらずこうしてお前達と組んでいるのだから、反省すらできていないのだろう。私の様な輩は早々に消えるのが世の為なのにな」
「フィルヴィスさんも!!」
ベートのあまりにも辛辣に聞こえるその言葉に、レフィーヤは何を考えるより先に口を挟む。
しかしそんな彼女の意思も虚しく、フィルヴィスは彼の言葉に賛同して自身を嘲笑うかの様な表情で胸の前で両手を握り締めた。
その手が空しか掴めないことへの虚しさなのか、あまりにも力強く握られ震える様子がとても痛々しくて……
「ユ、ユキさん……!」
これ以上何を言えばいいのか、何をどうすればこの事態を収めることができるのか、レフィーヤは答えを求めて後ろへ振り返った。
誰にでも優しく、ファミリア内での仲介役を自ら進んで行い、人が傷付く事を誰よりも嫌う彼ならば自分の考えもつかない様な案を出してくれるのではないか。
もっと言えばこんな事態直ぐにでも解決してくれるのではないか。
そんな期待を込めて。
だが、
「…………」
そんな勝手な期待はユキの顔を見た瞬間に裏切られることとなってしまった。
「ユキ、さん……?」
「ごめんなさい、レフィーヤさん。今回の件については私には何かを言える説得力が無いんです。……ですから、"私には助けを求めないで下さい"。お願いします」
フィルヴィスの話に悲しむでも困惑するでも憤怒するでもなく、ただそう言ってユキは"無理に"微笑む。
いつものユキに似合わない様な言葉を受け、レフィーヤの混乱は益々増大していく。
けれどユキはそんな彼女を見兼ねて、両肩を強引に引っ張り、フィルヴィスの方へと向けてその背中を強く押した。
「えっ、なにを……!?」
「余計なことなんか考えずに、自分の言いたい事を言うのが一番です。飾った言葉なんて要りません、本心を語られた方が言われた方には伝わるものですよ」
「なっ!?」
「ひゃっ!!」
ドサリと、レフィーヤがフィルヴィスの胸元へと飛び付く形で倒れ込んだ。
危うくそのまま地面へ衝突しそうになるレフィーヤを、フィルヴィスは思わず胸の前で組んだ両手を離して受け止める。
困惑するフィルヴィスの顔を間近で見て、先程まであれ程までに混沌としていた頭の中が一瞬で一つの感情に塗り潰されていくのが分かった。
こんな状況にも関わらず、自分を気遣う様な彼女の瞳を見て、それまでの自分が急にバカらしく思えてしまったのだ。
何を小さな事を悩んでいたのか。
人から聞いた話で何を疑う必要があったのか。
自分が感じ取ったこと、
自分が思ったこと、
自分が実際にされたこと、
人を判断するのにそれ以上の何が必要なのか。
彼女にかける上手い言葉なんて思い浮かばない。
ユキの様に慣れたことはできないし、
リヴェリアの様な言い回しもできない、
ロキの様な察しの良さもなければ、
アイズの様に人の過去をすんなりと受け止められるほどの強さもない。
ないない尽くしで嫌になる。
けれど何も出来ないからこそ、自分に出来ることを、言えることを、全力で叩きつけるしか選択肢など無いではないか。
『本心を語られた方が言われた方には伝わるものですよ』
そう言ったユキの顔は見えなかったが、今はその言葉がなによりも自分の自信になる。
どこか懐かしさを感じるように言われたその言葉の説得力は凄まじいものだった。
……だったら、自分も自分の言葉にあれくらいの説得力を持たせられる様に、寸前に現れたその目標を心に、言える事を言ってやる。
倒れそうになった所を受け止めた直後、しばらくの間ぽーっとしていたレフィーヤの両眼に、急激に熱い炎が灯った様に感じたフィルヴィスは反射的に一歩だけ彼女と距離を空けようとした。
しかしその企みも全く意味を成す事はなく、魔導師のものとは思えない様な速さで迫ってきた両手にフィルヴィスは捕らえられてしまう。
「お、おい!?一体何を……!」
『フィルヴィスさん!!』
「は、はいっ!」