ロキの部屋を出た後、ユキはそのまま部屋に戻って不貞寝をする……などという事は勿論無く、いつもの様にリヴェリアの部屋を訪れていた。
理由は当然、レベルが上がった件についての報告を行う為に。
そしてまあ、寝る前に顔を見ておく為に。
「……そうか、レベルが上がったというのは本当の話だったのか」
「はい、スキルの方も増えていました。自分と他の人の精神を安定させる、みたいなものなのですが」
「いや、私の精神は今正にお前に乱されているのだがな?」
「このスキル、どうやって使うのか私にも全く分からないんですよね」
「なるほど、つまりそれを私で試す為にわざとこうして心を乱しているのだな?」
「いえあの、本当に私そんなつもり無いのですが……」
「……冗談に決まっているだろう、どうした今日は」
仕返しとばかりに少しだけ意地悪を言ってみたのだが、思いの外ユキが落ち込んでしまったのを見てリヴェリアは慌ててその頭を撫でる。
別にユキに悪気が無いなどということは分かっている。
あれだってそれだって、決してユキが自ら引き起こしたという物は少なく、スキルだって魔法だってユキが自ら望んで得た物ではない。
その何もかもが外的要因によるものだ。
ユキは大抵の場合、それに振り回されているに過ぎない。
だからユキを責めるつもりなどリヴェリアには微塵も無いというのに、どうもユキはその意地悪を本気に受け止めてしまった様だ。
どうにも今日のユキは様子がおかしい。
「……暫くはダンジョンにも潜らず私の側に居ればいい。どうせ武器の修復もまだなのだろう?偶には休息を取る時間も必要だ」
「??休息ならずっと頂いて……」
「身体ではない、心の休息だ。何の心配もする事なく、何に追われる訳でもなく、ただのんびりと平和な日々を過ごす。そうして心を休ませる事も、人には必要だ」
「……はい」
ベッドの上に腰掛けたユキの隣に座り、リヴェリアはユキの頭を抱き寄せる。力無くもたれ掛かってくるその様子を見るに、やはり多少の疲れは感じていたのだろう。
考えてみれば当然だ。
初めての遠征……ダンジョン遠征とは単に遠出をすることでは無く、人間の手が一切届かない場所へと乗り込む事だ。
この事実にだけでも人は恐怖や不安を感じるというのに、ユキは更にその深層にまで連れて行かれ、単身であの穢れた精霊に立ち向かった。
加えて帰り道には大量の毒妖蛆に襲われて壊滅の危機に晒され、最後には正体不明の黒色のゴライアスとの戦闘を強制された。
これで何も感じて居ないと言えばそれこそ嘘だろう。見た目に出す事が無かったとしても、精神的な負担はかなり溜まっている筈だ。
ホームに帰ってきてそれ等の疲れが表に出てきたと考えれば、ユキの様子がおかしいのにも説明がつく。
「……正直に言えば、私は自分では精神的な疲労度合がよく分かりません。不安とか恐怖とかも、その場にいる時にはあまり感じるタイプではありませんから」
「そうだろうな、お前は見た目とは裏腹になかなかに逞しい。精霊との戦いの際にも、私達と同じかそれ以上の怪我をしていたにも関わらず、最初に立ち上がって最後まで諦めず行動したのはお前だった。お前の心の強さは私も知っている」
「もう。それは流石に褒めすぎですよ、リヴェリアさん。私はただ、諦める線引きがおかしくなっているだけです」
「いや、それこそが英雄の器だ。そして、英雄とて心を痛める。こうして何かに頼り、心を休める時も必要だ」
「……英雄、ですか」
"英雄"というその一言に、ユキの表情が曇ったのをリヴェリアは感じた。
普通ならば誰もが嬉しがるであろうその言葉に、まるで聞きたくないとでも言うかの様にリヴェリアの服が握られる。単に元気付けるために放った言葉が、どうしてかユキの中に潜む地雷を踏んでしまっていたらしい。
「……英雄は嫌いか?」
「嫌いでは無いんです。私だって英雄譚は好きでしたし、よく読んでいました。……ただそれを自分に重ねられるのは、私はあまり好きではありません」
「自分が英雄と呼ばれるのが嫌なのか?」
「その称号は私には重過ぎますから。私ではその称号に見合った働きはできませんし、それを望まれる事の苦しさは苦手です」
「……英雄を望まれる事の苦しみ、か」
「英雄になりたい、英雄と呼ばれたい、そんな英雄願望は私は生まれてこの方、一度も持った事は無いはずです。自分がそんな存在になれるとは思った事もありませんでしたし、アストレア様との人助けの旅も、英雄や正義の味方になるためというよりは、母の様な真っ白な人間になれる様にと思っての事でした」
「………そうか」
ユキの持つ母への憧れ。
それについてリヴェリアはあまり良い思いを抱いていない。
ユキがその憧れによって今日までその白さを保って生きて来られたというのは確かだが、その白さは異常とも言えるものだ。
ユキにそんな異常性を植え付けた原因に、リヴェリアはどうしても忌避感を感じてしまう。
「ですが人は危機に陥った時、どうしても他者に英雄を求めます。それは危機が小さくとも大きくとも変わりません。自らを救ってくれる英雄を求めて、誰かに重ねようとします。救ってくれる可能性のある人間に、英雄願望を押し付けるんです」
「……ああ、そうだな。そして、それを成し遂げた者が英雄と呼ばれ、それを成し遂げられなかった者が犠牲とされる。お前は少なくとも、英雄と呼ばれる人間になったのではないのか?」
「……誰からそれを?」
「女神フレイヤが……お前のことを英雄と評していた」
「……フレイヤ様も、ですか。アストレア様にそう言われた時もなかなかにショックを受けたものですが、やっぱり神様にそう言われると重過ぎますね」
ユキはそう言って更に顔をリヴェリアの身体に沈めていく。
まるで目の前の現実から目を逸らす様に、背後に忍び寄る何かから逃げる様に、リヴェリアに助けを求めるように。
どうやら今日のユキは本当に精神的に弱ってしまっているようだ。
「英雄になんかなりたくない、勇者になんかなりたくない、正義の味方になんかなりたくない……私はただ、白くありたかっただけなのに」
「ユキ……」
それきり、ユキは黙り込む。
まるで、自分からこれ以上何かを話すつもりは無いとでも言うかのように。
むしろ、今勝手に話してしまったことを後悔している様に。
ユキはやはり今この時においても、聞かれない限り自分の事は答えない。自分の過去を、そして自分の苦痛を、他人に押し付ける事を嫌っているから。
そしてそんなユキを見て、リヴェリアはそれ以上何かを聞く事も出来ず、ただ静かにその小さな背中を撫でる。
心を弱らせたユキが、珍しく自ら語った心の悲鳴。
それはあまりにも弱々しいもので、ユキにしては珍しく悲観的なもので、否定的なもので。
"英雄になんかなりたくない"
"勇者になんかなりたくない"
"正義の味方になんかなりたくない"
その言葉がリヴェリアの心に深く突き刺さる。
まさかそんな言葉が、ユキの口から出てくるとは思わなかったからだ。
「……女神アストレアの眷属だからか、私は自然とお前が正義に基づいて行動していると思っていたよ」
「私は……アストレア様の正義には共感できませんでした。どうしても正義というものを受け入れられませんでした。私の生きる指針は正義ではなく、絶対的な白さです」
「お前が神アストレアを尊敬しているのは、その心に宿る正義ではなく、その心の色そのものだったということか」
「……はい、私の心の中に正義はありません。むしろ私は正義を拒絶して生きています。それが私の正義なのだと、アストレア様は仰ってくださいましたが」
ただ母やアストレアの様な心の白さがあればいい。
それ以上は求めないし、それを邪魔するものはたとえ正義であろうと拒絶する。
それ程の病的なまでの絶対的な白への憧れ。
……にも関わらず、周囲はユキに拒絶したものを求めていく。
英雄になることを、勇者になることを、正義の味方になることを、白くなるための足枷となるものを、周囲はユキに自分勝手に重ねていく。
「私は正義に基づいて人を助けません。助けたいと思う人を助けますし、したいと思う事を行います。他の人の目には正義に映ったとしても、それは私の欲の結果です」
「………」
「ですが、私がそうやって自らの欲で生きると決めた以上、その欲望の行先を決める心の色だけは誰よりも白くなければいけません。欲によって他者を害する事のない様に、その欲が誰かを傷付ける事の無い様に、私は常に白く生きて欲を正して行かなければなりません」
「……それが理由か」
「はい、それこそが私が白く在らなければならない理由であり義務です。そしてそこに一番初めの憧れが器になって、私の絶対的な核となってこの胸にあります」
結果的にそれが強迫観念に変わってしまったとしても、人生の指針であり、心の柱であり、存在の核となっているその考え方。
きっと、ユキからその考えを排除するのは不可能だ。
もしそれを排除してしまえば、間違いなくユキは壊れてしまう。
「だが、人は必ずしも間違えるものだ。正義に生きる者であっても間違えるし、不幸な事故は必ず起きる。お前がいくら白くあろうとも、周囲の色によって当然に事故は起きるだろう」
「そうならないように、それを少しでも防ぐために、私は今よりもっと、そして際限なく、生きている限り永久に、白さを求め続けなければならないんです。私が憧れた2つの白さに、少しでも近付いていけるように」
「……正義を司る神の色を求めるか。傲慢だな、そして強欲だ。だが、それもまたお前の欲か」
「守って欲しいと言われたから守るのではありません、助けて欲しいと言われたから助けるのではありません。守らないといけないから守る訳でも、助けないといけないから助ける訳でもありません。守りたいから守るんです。助けたいから助けるんです。ただそれだけなんです」
「だが、そうしているうちに英雄や正義の味方に登り詰めるのは当然の話だとは思わないか?そんな生き方をして英雄と呼ばれてしまうのは、当然の話だと思わないか?」
「でも、私は英雄や正義の味方にはなれません。求められる規模が違います、それだけの器がありません、それほどの運にも恵まれていません。どれだけ努力しても英雄の様に立派にモンスターを倒せないし、勇者の様にどんな状況にも恐れを抱かない訳でもないし、英雄たる彼等の様に多くを救えない。私は必死にやっても大敵を完全には倒せない、どれだけ頑張っても大勢を犠牲にしてしまう。それでも私は求められて、同じ結果を生み出してしまう。本当の英雄が居たならば、私以外の人間が英雄として求められていれば、力も器も無い私を守る為に犠牲になる人も居なかった。私は英雄になりたくないし、求められたくもないのに、助けたい人達を助けようとすると、自然とその場に立ってしまっている。そしてこの恩恵というシステムもまた、私を無理矢理そこに立たせようとする。救えないのに、助けられないのに、英雄という聞こえの良い名称を私に付けて、必要の無かった犠牲を私に増やさせようとする。そうして犠牲を出してしまったのに、周りの人達は言うんですよ。貴女こそが英雄だ、貴女のおかげで助かった、ありがとう、と。お礼を言われる意味が分かりません。それならせめて、もっと責められた方が良かった。怒って欲しかった。叱って欲しかった。否定して欲しかった。お前は英雄では無かったと。お前は正義の味方なんかじゃ無かったと!お前に期待なんかするんじゃ無かったと……!!」
「ユキ……!落ち着け!」
その考え方は破綻する、などと言う話はもう遅かった。
とうの昔にその思想は、その理想は、その考え方は、破綻していた。
ユキ自身もそれを自覚し始めていて、今の言葉の中にもいくつかその節が見られた。
所々で話をズラし、論点をズラし、一見理論的に見える説明も細部まで聞けば矛盾していて、納得できるものでもないし、指摘できる部分も多くある。
ユキはそれだけ多くの言葉を並べながらも、話している中で自分の言葉の矛盾に気付いてしまい、より感情を昂らせて、必死になってその事実から目を背けている。
……認めてしまえば、壊れてしまうから。
なぜユキがあれほどベル・クラネルに執着していたのか。
どうしてユキがこのオラリオの、それもロキ・ファミリアに送られてきたのか。
リヴェリアはこの時になってようやくそれを理解できた気がした。
なぜ神アストレアは面識のあったフレイヤ・ファミリアではなく、このロキ・ファミリアをユキの受け入れ先として選んだ?
それはここに【勇者】という二つ名を持つフィンが居たからだ。
このオラリオにおいて英雄とされるに最も相応しい、ユキに代わって英雄として立ってくれる彼がここに居たからだ。ユキがこれ以上に英雄として矢面に立つ事を、神アストレアは恐れたからだ。
オラリオの街に来た事も、ユキよりも強く知識のある者達が多く居るからこそだろう。今のオラリオならば外の世界に居るよりもずっと、英雄を求められる機会は少ない。
そして、ベル・クラネル。
ユキの言葉を信じるならば、彼は正しく世界に選ばれた次の英雄候補だ。
彼は既にミノタウロス、そしてゴライアスの討伐を成功させ、英雄としての道を着実に歩み始めている。それこそ犠牲を出す事なく、彼自身が英雄になる事を望みながら、本物の英雄に近付いている。
だからユキは彼を気にしていたのだ。
もし彼が本物の英雄になるのならば、ユキはもう英雄としての役割を求められる事が無くなるから。
「……今日はもうこのまま眠ってしまえ。私が朝まで付いていてやる」
「……ごめんなさい」
「謝るな、気にしていない。今は甘えてくれ」
「はい……」
ユキの核となっている考え方は、既に破綻している。既に矛盾が生じている。そこを突けば突く程に核は割れ、崩れを早める。
ユキの核は何れ壊れてしまうだろう。
それは時間の問題だ。
故にこれ以上は決して、彼に誰からも英雄を重ねさせるべきではない。
(神アストレアの真意はそれか……)
そもそもアストレアが外で探し物をするというのならば、ユキも連れて行けば良かった話なのだ。わざわざユキだけが先にこの街に来る必要も、それこそロキの眷属になる必要も無かった。
神アストレアは、ユキにとってオラリオの外こそが彼を殺す環境であると判断したのだ。
そしてアストレアが本当にロキ・ファミリアに求めている事……それこそが、ユキの代わりとなる英雄としての役割。ユキが英雄として求められる事なく、ただ真っ白な人間として生きていくために覆い隠してくれる壁と盾。
きっとアストレアは、決してユキを遠征になど連れて行ったりして欲しくは無かっただろう。
それこそレベルを5まで上げ、オラリオの最上位に近い場所まで実力を上げてしまうことなど……オラリオにおいても誰かに英雄を求められてしまう程の実力を持ってしまう事など、絶対に避けたかった事の筈だ。
……だとしたら。
(もう、手遅れなのか……?)
着実にユキは自身の破滅への道を歩いている。
この破滅を回避するにはユキの根底を変えるか、極力他者との接触を断つか、リヴェリア達がユキのスキルによる急成長を上回る程の成長をするしか方法が無い。
だがユキの核とも言えるその考え方を変えるのはほぼ不可能であり、他者との接触を断つ事はユキの性質を考えるに軟禁や監禁を意味してしまう。
そして僅か2月でレベル3から5に上げた成長速度を上回ることなど、まず不可能だ。
……つまりやはり、現状ではユキの破滅への歩みを止める事は出来ない。仮にこの事に気付くのがレベル5になる前だったならばまだしも、それももう手遅れだ。
加えて、ユキは先日の神会でアストレアの眷属であったことが広まっている。恐らく直ぐにでもユキに以前のアストレア・ファミリアと同じ対応を、それこそ正義の味方を求める者も多く現れてしまうだろう。
(神アストレアが自らこの地に来なかったのも、それが原因なのか……?)
どれほど急いでいたとしても、何か探し物をするならば先ずオラリオに居る神々に尋ねるのが一番早い。
ロキは知らなくとも、フレイヤは知らなくとも、あらゆる事情に精通しているヘルメスやウラヌスならば知っていてもおかしくないし、頼めば事情次第では探してくれる筈だ。
それが他の神ならばともかく、アストレアの頼みとなれば断る者はそうは居まい。
それでも外で単独で探す事を選んだ訳とは何か。
……それこそ神アストレアは、ユキと共にこの街に戻りたくは無かったのでは無いだろうか。
もしユキがアストレア・ファミリアとして活動していれば、ユキは正義の味方としての立場を求められてしまう。そしてその在り方と自身の理想の食い違いに苦悩する事となっただろう。
神アストレアが長い旅の中でユキのその歪さに気付かなかった筈がない。そもそも神アストレアは手紙において、自分の事はまだ秘密にして欲しいと綴っていた。
これはつまり、アストレアがユキに関わっている事すらも秘密にしておいて欲しいという意味では無かったのだろうか?
ユキに余計な心配をさせる事なく、それでいてユキの心を守るために尽くされたそれらの手段。
気付くのが遅過ぎた。
もう全てが手遅れだ。
きっと普段のロキならばその手紙に込められた意味すらも理解できていた筈だ。
……だが、ユキが現れたのは遠征が終わった直後、それも手紙を読んだのは酒と雰囲気の回ったあの瞬間、更に直後からあらゆる問題事が表面化してきた最悪のタイミング。
全ての偶然が最悪の形で一致していた。
ロキはおろか、リヴェリアでさえも今の今まで気付くことが出来なかった。
(だが、)
ここで一つだけ疑問に上がるのが、どうしてその事を直接手紙に書いていなかったのかということだ。
ユキが手紙の中身を見てしまった時の事を考えて?ロキならば分かると言う事を信じて?それでも確かに理屈は通る。
だがユキの性格を考えれば、手紙の中身を盗み見る事など絶対にあり得ない。事故で見てしまっても直ぐに目を背けて全てを読む事は無いだろう。それはアストレアなら分かっていた筈だ。
それでもアストレアは簡略な文章しか書かず、理解についてをロキに投げた。そしてその手紙には確かに、急いで書いたかのような痕跡が残っていた。
……アストレアは本当に焦っている?
自身だけが外に残ったのは、オラリオにユキと共に戻る事が出来ないからだけではなく、本当に外で探し物をする必要があるから?
その探し物がユキの根底を変える事に必要なものだとは思えない。ユキのそれは精神的なもので、物や魔法でどうにかなる事では無いからだ。
つまりアストレアが探しているものは、きっとまたこの件とは別のものだ。
それこそ、ユキの件をロキに丸投げしてでも同時並行で解決しなければならない程の重要な案件。
もし神アストレアがユキの精神的な破綻ともう一つ、その2つのリミットに追われていたとすれば……
(やはり一度、神アストレアと連絡を取るしか無い。そしてロキにもこれについては相談しなければならないだろうな。時間に余裕のある話だとも思えない。……全く、またロキが胃を痛めそうな案件だ)
まだまだ底は見えてこない。