寂れ、人気も少なく、活気すらも無い大通り。
誰もが下を向き、誰もが他者を警戒し、隅の方へ隅の方へと寄りながら歩き進める異様な世界。
それが今のオラリオの姿だった。
緊張感と寂しさ、そして肌寒さのあるこの街がどうして今この様な状態にあるのか。
それを人に尋ねることなど、世間知らずと言う事すらも愚かしい。
ゼウスとヘラのファミリアが黒龍の討伐に失敗し、世界が一度絶望に満たされ、そうして活動を強く始めた悪の者達。
オラリオの暗黒期。
正にそれがこの現在であり、世界が混沌に満ちていた人々が二度と戻りたいとは思わない地獄の真っ只中でもあった。
「……もういいか?あんたもあんまこの街を彷徨かない方がいい、育った町に帰っとけ。その様子だと一度もう何かに襲われたんだろう?あんたみたいな美人は余計に狙われるぞ」
「……ありがとう、ございます」
魔石製品の工場を狙った闇派閥の襲撃から数時間が経った頃、そこから少し離れたメインストリートをユキ・アイゼンハートは歩いていた。
オラリオの街である事は確かなのに、どうしてか周囲には知らない光景や知らない者達が歩いている。
あれほど活気と笑顔に溢れていた街の光景は幻の如く消え失せ、今では疑心暗鬼に駆られた人々の疑いの目線だけがありふれているこの世界。
そうして勇気を出して尋ねてみた男性から伝えられたのが、今のオラリオでは闇派閥が暗躍しているということ。
そしてそれ等に対処する為、ロキ・ファミリアにガネーシャ・ファミリア、そしてフレイヤ・ファミリアに加えてあの"アストレア・ファミリア"までもが活躍しているという話。
そこまで聞かされてしまえば、たとえそれが有り得ない話でも、常識では考えられない話でも、否が応でも認識してしまうというもの。
それこそ自分が、冒険者達が闇派閥と争っていたあの暗黒期と呼ばれた時間に戻ってしまったということに。
「地下道でタナトス様に会って、話を聞いて……それからどうして、私はこんな所に居るんだろう。それにクレアも……」
静かに自分の胸に手を当てる。
そこにはいつも居た筈の少女の気配が少しも感じられず、何かぽっかりと穴が開いてしまったかの様な少しの寂しさだけが存在している。
加えていつも自分を蝕んでいた、クレアを引き受けた時から続いていたあの苦痛すらも今は感じる事が出来なくて、それがむしろこの心細さを助長していた。
手元にあるのは少しのお金と、ヘファイストス・ファミリアの元に置いて来ていた筈の最初の愛剣である『母の鎖』のみ。
それもその愛剣はどうしてか命と機能をすっかりと取り戻しており、今でも新品の様にギラギラと生きる光を放っているのだから困惑は強まるばかり。
知らない街、知らない世界。
自分が何処で何をすべきなのかも分からない。
ただ沈んで行く夕焼けを、ユキは見向きもせずに歩いていく。
「どうして、私はここに……」
気付けば口癖の様に口走る様になってしまった『どうして』というその言葉。
もう涙を流す気力も無い。
歩みを止めればまたあの狂気が自分を襲いに来て、頭を打ち付けて死んでしまいたくなってしまう。
だから歩く、歩く。
いつも側で手を握ってくれていた緑の女性の手を探す様に、何度か空を掴みながら。
「……ここ、って」
そうして意識もなく目的もなく歩き彷徨い辿り着いたのは、いつの日にか真っ白な少年と約束を交わしたあの廃教会だった。
行くあてもない、今この時期のロキ・ファミリアに行った所で受け入れられる筈がない。
それどころか自分が戻ればまた何かしらの災厄が再び彼等を襲うのだと考えてしまうと……何処のファミリアどころか、組織に身を置く事すらも恐ろしくなってしまう。
本当ならばこの街からも出た方がいいのだろうが、そうなると自分がこの時代に来た意味が分からない。もしかして意味があるのでは無いか、すべき事があるのでは無いか。
他の誰かに災厄を持ち込みたくないと思いつつも、色々な理由をつけてはこの街に残っていたいと考えてしまうこの矛盾。
その矛盾すらもユキの心を蝕んでいき、ますます追い詰められていくのだから、生きているだけで罪を抱えている気分だ。
実際に生きているだけで罪だと、自分を殺す為に世界がその周辺を巻き込んでいるのだと他ならぬ神に言われてしまったのだから、それは殆ど間違いでは無いのだろうが。
(……分かってる、分かってる。本当は今すぐにでもこの命を絶たなければいけない事なんて。きっとこの世界も私がどれだけ死を望まれているのかを刻み込む為の夢なんだって。私がどれだけ足掻いても、私がどれだけ苦しんでも、最終的には元の歴史より酷い事になるって。そう示す為のものなんだって。そんな事は分かってるのに)
期待してしまう。
望んでしまう。
神タナトスが言った事が何かの間違いであると。
これまでの全てが単なる偶然であるのだと。
誰かにそう言って欲しくて、踏み切れない。
だってここは過去の世界なのだから。
もう終わった筈の世界なのだから。
たとえ酷い事になってしまっても、元の世界には何の影響も無いのだから、少しくらいなら……そう思って、気付いた。
もし今ここで自分の存在のせいでオラリオの勝利が崩れてしまったら。もし自分の存在のせいで生きるべき人達が死んでしまったりしたら。
未来の世界が変わってしまう可能性もあるのでは無いのかと。
目の前に広がっているのは自分に現実を教えてくれる優しい夢なのではなく、むしろ自分の存在を利用して過去の勝利を破壊させ様とする地獄の様な現実なのでは無いのかと。
そんな最悪の可能性を、考えて、しまった。
「駄目、そんなのは駄目……!ロキ様が、リヴェリアさんが、アストレア様が!必死になって掴み取ったあの世界を、私のせいで破壊してしまうなんて……!そんなの絶対に駄目……!!」
ならばどうする?
そんなのは当然、今この瞬間にこの世界から消える以外にない。
今この瞬間に天に命を返し、自分を殺そうとする世界の干渉を止めさせて、出来る限り元の歴史通りに動く様にするしかない。
そうでなくとも先程の工場の襲撃に、既にユキは干渉してしまっているのだから。
もしかすればもう遅いくらいかもしれない事を考えると、本当の本当に、今こうして生きている事すらも罪だ。
(もし、もし私がもっと早く死んでいたら。元の時代の闇派閥との戦いも、もっと有利に進んでいた?アストレア様やクレアも、あんな悲劇に巻き込まれなくて済んだ?だとすれば生きている事が罪どころか、そもそも生まれてきた事すらも……)
間違いだった?
……こうして廃教会の前で立ち止まってしまった事が、全ての間違いだったのかもしれない。
もしここで立ち止まらず中に入っていれば、ここまで考え込んでしまう事も無かっただろう。
一度悪い方向に考えてしまうと、思考は自分を否定する方に否定する方にと動いてしまうもので。
そして今、そんなユキの思考を止めてくれる者は誰もいない。
孤独になって考えて、どれだけ苦しみ悲しんでいたとしても、気にかけてくれる者すらもこの世界にはいない。
だってこの時期、ユキはオラリオには居なかったのだから。
日が沈み始めれば外に出てくる者が居なくなるこの時代では、当然廃教会の前で蹲ってしまった人間に声を掛けてくれる者だって存在しない。
たとえそこで30分、1時間と嗚咽を漏らしながら啜り泣いて居たとしても、誰もユキを助けてくれたりはしない。
そして涙を流せば流すほど、こうして時間を無駄に浪費すればするほどに、心の中の焦燥感は高まっていき、踏み出せない自分への嫌悪感は膨らんでいく。思考も命を断つ事ばかりに進んでしまう。
こんな事ならもういっそ、闇派閥の者が現れて襲い掛かって来てくれればいいのに……そう思っていても、こういう時に限って彼等は来ない。
世界はユキを殺しに来ている筈なのに、まるで苦しんでいるその様子を楽しんでいるかの様に、救いも甘えも許してくれはしない。
「リヴェリ……っ」
今はもう、その名前を呼ぶ事すらも罪の様に感じてしまう。
自分が死んでしまえば悲しんでくれる。分かってる、分かってるかるこそ、本当ならば出会うべきではなかった。関わるべきではなかった。甘えるべきではなかった。
本当は死ぬべき人間なのだから、相手を最後には悲しませてしまう事が決まっていたのだから。むしろ自分のせいで要らぬ重荷を背負わせてしまうのだから。
誰とも関わるべきでも無かったし、誰とも話すべきでは無かったし、そもそも人としての生を謳歌するよりも先に、もっともっと早く死んでおくべきで……
カチャリ
「っ」
そこまで考えた時、自身の腰に取り付けていた二本の剣が音を立てた。
まるで誘う様に、背中を押す様に、自身の存在を主張した。
あたかも自分を使って命を断つ事を促す様に。
「……死ぬのなら、教会の中がいいなぁ」
何故なのか、教会とは縁のある人生だった。
元々住んでいた村でも使われない教会の様な所でユキと母は住んでいたし、初めてクレアと出会った場所も教会を改築した孤児院だった。
クレアを取り込んだ後に自傷を防ぐために閉じ込められていた場所も教会だったし、この街に来て初めて居場所としての安らぎを得たのもこの廃教会だ。そしてあの希望に見えた少年と個人的な約束を交わしたのも……
そう考えると、自分の命を終わらせる場所として、これ以上に相応しい場所も無いかもしれない。
きっと自然とこの場所に足が向いたのも、そういう理由があったのだろう。
これもまた、偶然だとは思えない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい、リヴェリアさん。リヴェリアさん……!」
これで最後にするからと。
これで終わりにするからと。
だから彼女の名前に力を借りて、立ち上がる。
最後にもう一度顔を見たいとは考えた。
考えたが、見てしまえば甘えてしまうと思った。
きっと彼女なら、元の時代の彼女なら、自分の事を聞いてもそれでも受け入れてくれるのだろう。
『ユキが世界に嫌われているのなら、私がその分お前を愛してやる』なんて事を言いながら。
……けれど、それでは駄目なのだ。
クレアだって、あれ程の災厄の果てに結果として命を落とした。
生き残ったのは自分の方で、クレアはまるで見せしめの様に酷い最期を迎えてしまった。
クレアの時でさえも一度は心が砕けてしまいそうになったのに、もしリヴェリアが同じ様に自分の代わりに命を落としたりしてしまえば……そう考えたら、やっぱり思考は自殺にしか向かなかった。
僅か数ヶ月あのファミリアに居ただけで、あれ程の事件が立て続けに起きたのだ……きっともう、1日だって生き延びている事は間違いなのだろう。
本当に自分が彼等のことを大切に思っているのなら、本当に自分が彼等の事を愛しているのなら。その命を彼らの為に捧げる事くらいは出来る筈なのだから。
(きっと……きっと私がこの世界に飛ばされたのは、ここにしか私が納得できる死場所が無かったから。元の時代では、この教会はもう壊れてしまっているから)
だから……震える足を動かしながら、教会の扉に手をかける。
元の世界で見た時よりも少しだけ状態の良いその廃教会は、まるで自分がここに来ることを待ち侘びていたかの様にして、すんなりとその扉を開けた。
まるでユキがここに来る事が分かっていたとでも言う様に、見た目より軽く、大きな音を立てる事もなく、静かに、ゆっくりと。
決意を固めたユキの事を、その内部へと快く受け入れてくれる。
「……珍しいな。この時代に教会に迷える子羊が訪ねて来るか」
「っ」
その人物は、窓から入り込む月明かりに照らされながらもそこに佇んでいた。
月の光で白く輝く灰色の髪を後ろに流し、青い右眼だけを開いて興味深げに侵入者を視認し、自身がこの教会の主であるとでも言うかの様に壇の中央から見下ろしてくるその姿。
人によっては威圧感すら感じる様な彼女の態度と雰囲気に対し、しかしユキが感じた感情は全くの別物だった。
「お母、さん……?」
「なに?」
目の前の少女から溢れたそんな言葉に、女は少しの驚愕を示して両眼を見開く。
同時にその少女の様子が尋常で無い事にも気付き、意図的に醸し出していた威圧感が解けてしまった。
そうすれば余計に少女の様子はおかしくなって……
「お母さん、お母さん……!!」
「なっ!お、おい!お前は何を言って……!」
「お母さん、お母さん………ねぇ、どうして?どうして私は、生まれて来たの……?」
「っ」
いきなり抱き付いて来たと思ったら、そんな言葉を言い残して涙を流しながら気を失った少女に、女は何の反応も返す事が出来ず立ち尽くす。
女に子供はいない。
母親になった覚えもない。
けれど目の前の少女からはどことなく親近感を感じ、そして何より彼女の最後に残した言葉が女の心を揺さぶる。
『どうして私は、生まれてきたの……?』
まるで自分が生まれて来た事自体が間違いであったとでも言う様なその言葉。
女はその気持ちをよく知っている。
妹から全てを奪い、そうまでしても病に苦しめられ、最後には敗北を喫した自分の人生に、今日まで何度も何度も悩み苦しんだ。
けれど果たして、こうまでなる程に苦しんだかと問われれば、その答えはNoだ。
それ程に少女の表情は、絶望と苦痛に満ちていた。
ただ闇派閥の被害に遭ったというだけでは説明できない程に、ただ失敗したというだけでは済まされない程に、破滅的に。
「……何をしているんだ、私は」
額から血を流しながら、全身を埃に塗れさせながら、何度も何度も涙を流したかの様に顔に跡が付いているにも関わらず、それでもまだ涙を流し続けている少女を見て、女は少女を教会の椅子に横たわらせる。
果たしてそれが少女の言葉がきっかけなのか、それとも母と呼ばれてしまったからなのかは分からない。
ただなんとなく、少女から感じる雰囲気が自身の愛していた妹に似ている気がして……放って置けなかったというのは、自分の中でも言い訳のしようが無かった。
「アレンが廃工場に……?昨日はそんな指示は出していないわよ」
「そう……それなら、アリーゼの予想通りなのね」
「大量の闇派閥を瞬殺した白い閃光、なぁ。その話が本当なら、少なくとも速度だけなら戦車に匹敵するっちゅう事やんなぁ?」
「ふふ、アレンがまた癇癪を起こしそうな話ね」
「その正体が誰であれ、敵でない事だけは確かだと思うの。闇派閥側の勢力で無いという事は朗報なのかしら」
「どうやろなぁ、あんまりそういうイレギュラーが居るとフィンの計画にズレが生じるからなぁ。ウチの子はあんまり良い顔はせんと思うで」
「別に良いじゃない、敵に付かれるよりマシだもの」
「…………」
「……どうしたの、ロキ?何か心当たりでもあるの?」
「いや、なんやろなぁ……昨日からなんか違和感があるんや。その違和感の正体だけが、ず〜っと分からへんのやけど」