「……?あ、れ……私、また眠って……?」
「漸く起きたか、小娘」
「っ!」
この時代に来て初めての夜明けは、1度目の起床の時よりもずっとマシなものだった。
少し硬めの木椅子の上。
思考はまだ混濁しているし、焦燥感も心の内に残っている。
……けれど何より違うのは、近くに自分以外の誰かが居た。
そしてそこに座っていた人物は、目覚めて最初に掛けられたその声は、自分を何処か溶かしてくれる様にひび割れた心に染み渡って来る。
まるで幼い頃に一緒に眠っていた母が声を掛けてくれた時の様に。
「お母、さん……?」
「まだ寝呆けているのか?私はお前の母親では無い。耳障りでは無いが、流石に2度目となると私でも嫌気が差す」
「ぁ……ご、ごめんなさい」
「……ふん」
身体を引き起こし、目を擦りながらユキはもう一度自分の頭側に座っていた女性に目を向ける。
……確かにこうして見てみれば、彼女は自身の母親とは似ても似つかない。混乱さえしていなければ間違える筈もなく、むしろ混乱していた時でさえもどうして間違えたのか分からない程だった。
空も白み始めている頃合い。
ユキが意識を覚醒させたのを確認すると、女は立ち上がり、拭物を投げ付けて語り掛ける。
「……顔を拭け。血と涙と煤で見るに堪えない」
「あ、ありがとうございます……」
「勘違いするな、いつまでも母親と勘違いされたままでは困るからだ。お前の為では無い」
「す、すいません……」
女の言う通りに、ユキはそれを使って顔を拭いていく。
どうやら本当に酷い有様になっていたようで、こうして軽く拭いているだけでもどんどん拭物が汚れていった。
そしてユキが顔を拭き、綺麗にすればする程に、興味深そうに両眼を開けてまじまじとその顔を覗き込んでくる彼女。
なぜそれほど見られているのかは分からないが、女性のオッドアイの瞳はまるでユキの心の内まで読み解いている様で、少しだけ居心地を悪く感じてしまう。
「……小娘、名前は何という」
「ユ、ユキ・アイゼンハート……です」
「ユキ・アイゼンハート……知らない名前だな。家名すら聞いた事がない」
「そ、そうですか……」
「……?なぜそんな顔をする」
「あの、丁度このアイゼンハートという家名が元は私の名前で、育ての母が家名にしてくれたという話を聞きまして。母と血が繋がっていない事も、知りまして……」
「それが私と見間違えたという母親か」
「は、はい……でも、お母さんはもう少し髪が白かったですし、雰囲気も柔らかかったですし、何よりもう亡くなっていますので。混乱のあまり見間違えてしまいました、ごめんなさい」
「……まるで私の妹の様な女だな、そいつは」
そんな言葉を交わしている間にも、女はジッとユキの顔を見ている。
何か気になる事があるのか、それとも見覚えでもあるのか、もっと別の理由からなのかは分からないが。
「お前は、どこのファミリアの者だ。その剣を見る限り、それなりの冒険者なのだろう?」
「ぁ………いえ、その……」
「?」
「この街に、私の帰る場所は、無いんです……」
「ほう、ならばお前はここに寝床を探しに来たのか?」
「そ、れは……」
その質問に言葉を詰まらせたユキに、女は訝しげな顔をして片目を閉じた。けれど雰囲気は険呑に、その答えを無理矢理引き出す様に、圧力を醸し出して。
「……しようと、して」
「?聞こえないが」
「……自殺を、しようと、して」
「!」
「自分の居場所を感じられるここでなら……怖がらずに、死ねると、思って……」
「お前……」
「怖くて、辛くて、寂しいけど……ここでなら、死ぬ事も、出来るかなって……」
「なぜそこまで」
「…………」
女の質問に、ユキはまた答えない。
女もまたユキがその問いに答える気は無いという事を察し、漸く見開き目の前の顔を覗き続けていた両眼を閉じた。
生まれてきた理由が分からない。
自殺をしようとしている。
けれど彼女自身は自殺する勇気が持てていない。
死にたくないと思う様な何かがまだ心の内にある。
そしてこの街に居場所は無く、なによりその瞳の奥には凄まじい程の悲しみと焦燥感が満ちている。
率直に言って、異常だった。
どう考えても闇派閥の関連で彼女がこうなっているとは思えなかった。
……本当に、女にとって少女は不思議な存在だった。
汚れを拭き取り、顕になればなるほどに引き込まれるその相貌。
自身の妹を思わせる様な柔らかな雰囲気。
そして言葉だけでなら恐ろしいほど酷似している彼女の母親と妹の特徴。
加えて……こんな状況においても、自分には他に果たすべき役割があるという今でさえも、どうしてもこの少女を見過ごす事が出来ない奇妙な感覚。
本来ならば無視をし、計画前に姿を見られたからには何らかの処理をしなければならないというのに、なぜ自分はこんな人生相談紛いの事をしてしまっているのか。
理性では分かっているのに、口と身体はどうしても少女を気にかけてしまう。そんな自分に困惑すら抱いてしまう程に。
「……生まれてきた理由が分からない、か」
「ど、どうしてそれを……!」
「気を失う前に、お前が言っていただろう。自分が生まれてきた理由が分からないとな」
「っ」
「……話してみろ」
「………どうして、そんなに親身に」
「最早それは私にも分からない。何故見知らぬお前の人生相談に乗っているのか、考えれば考えるほど愚かしくて仕方ない。……だが、身体が勝手に動くのだ。ならばもう開き直って聞いてやる、時間だけなら腐る程ある」
「ありがとう、ございます……」
「いいから話せ」
そう言って再び不機嫌そうにユキの横に座り込む女。
それでもやはり話だけは聞いてくれるらしく、ユキはその姿に何故か心が癒される感覚を得た。
話しても無駄だと分かっていても、早くこの命を絶たなければならないという気持ちはまだあれど、女性のその強引さにある意味で救われている様に感じてしまう。
「……私は死なないといけない、みたいな事を言われました」
「ほう」
「私が生きていれば、周りの人間まで不幸になると。世界は私を殺そうとしていると。そんな風に、言われたんです」
「それはまた随分と剛気な物言いだな、他者の存在に難癖を付けるか。神でも無い癖に偉そうに……」
「神様に言われたんです、それも私のことをよく調べていたっていう神様に」
「……お前の主神は何も言わなかったのか?」
「その、その神様の話と私のこれまでの話が、全部当て嵌まっていて、納得出来てしまって……庇ってはくれましたが……」
「生きているだけで厄災を振り撒く存在、か。……なるほど、もしかすればそういった存在もあるだろう。かつてこの世界に存在していた大陸の主もまたそうだった。生きているだけで猛毒を振り撒く、天災の様な怪物だ」
「………」
「それ故にお前は自殺しようとしていたのか。これ以上、他の誰も犠牲にしない為に」
「……もっと言えば、私のせいでこれまで犠牲になってしまった人達への罪滅ぼしというのもあります。それに、絶対に死んで欲しく無い人も、居ますから」
ギュッと自分の胸元を握り締める。
こうして言葉にすればするほど、自分の現状を認識させられてしまう。
どうしてか隣に座っている女性にはスラスラと自分の秘めている事を話してしまっている事に少しの驚きはあるが、それも自殺しなくても済む理由を求めていると考えればなんとも自分の醜さを実感させられる。
支えにしてはいけない。
頼りにしてはいけない。
すればする程、次はこの女性が自分のせいで不幸になってしまうかもしれない。
今こうしている事でさえも、許されない事であるというのに。
「お前は他者の為に、己の母から託された生を捨てるのか?」
「……私1人が生きる為に周りの大切な人達が傷付いてしまうのなら、それは死ぬより苦しい事だと思いませんか?」
「さあな……私にはもうそれは分からない。だが、お前の母親はそれを望んでいるのか?」
「望んでは、いないと思います。望む筈がないとも、思っています。……けど、それでも私は、他人の命を犠牲にしてまで生きたいとは思いません。そうでなくともこの世界は、私を殺しに来ているのに」
「……今でさえも両の手が震えている程に自殺に対して抵抗を抱いているのにか?」
「っ」
「本当は死にたくないと、離れたくないと、そう感じているのに。それを押し留めてでもお前は他者の為に死ぬのか?」
「………はい」
分かっている、こんな事を母は望まないと。
分かっている、周りの誰も望む筈がないと。
だからだ、だからこそ他ならぬ自分が決心しなければならない。
これまで出会って気にかけてくれた彼等は、きっと事情を話せばその危険性を考慮してでも受け入れてくれるだろう。
それに甘えるのは簡単だ。
だが、その結果として不幸になるのはその彼等だ。
そうなってからでは遅いのだ。
彼等が受け入れてくれると分かっているからこそ、自分は彼等の為にその手を振り解かなければならない。
振り解いて、距離を置いて、諦めさせなければならない。
アストレアは悲しむだろうが……まだ出会って数ヶ月のロキ・ファミリアの面々ならば、まだ、傷は浅くて、済む、筈、だから……
「……ここの地下室を使え」
「え……?」
「この教会の地下には、1人で寝泊りする程度ならば十分な空間がある。私もそうは来れないだろうが、少しの間ならば生きる事くらいは出来るだろう」
「え……あ、あの、でも私は今から……」
「お前は私が殺してやる」
「!」
「自殺する勇気が持てないのなら、私がお前を殺してやる。ついでだ。だがそれは今ではない、今はそういった気分ではない。……そうだな、7日後にするか。それまでは自由にしていいが、勝手に死ぬ事だけは絶対に許さん。約束を違えればこの街ごと私が全てを焼き払おう」
「っ!?で、でもそれでは、私のせいで被害が増えてしまいますし……それになにより、貴女だって私のせいで!」
「今更だ、どうせ少しすれば病で滅ぶ身体。それが数日早まった所で恨みはしない」
「病……?」
そんなユキの疑問も他所に、女は立ち上がり地下室の鍵を投げ付けてくる。
有無も言わさず……本当に無理矢理に、彼女はユキに対しそう求めた。
それがユキにとっての救いになっていることも、恐らくは理解した上で。
「何があろうとこれからオラリオは荒れる、お前がいた所でそうは変わらない。そしてこれはお前のせいでもない。それにお前が私の側に居るのであれば、オラリオ側に悪影響が出る事も無いだろうよ」
「それは、どういう……」
「気にするな、思考を使うな、残りの7日間をせいぜい楽しめ。その後は私がお前を思う存分に殺し尽くしてやる」
「でも……でも……!」
「しつこいな……私が側に居る限りはお前の体質も意味が無い。これから起きる事もお前とは何の関係もない。……たかが災厄如きでは、もう何も止められん」
「えっと、お姉さん……?」
「アルフィアだ」
「!」
「念を押してもう一度だけ言っておくが、残りの7日間の人生も私が居る限りは問題ない。だから思う存分に生きろ、自分の好きに歩き回れ。7日後のその日に、悔いを残して死ぬ事を断った所で、私は止める気は無いからな」
その言葉を残して、アルフィアは廃教会から姿を消した。
彼女が残していったその言葉が、嘘か本当かは分からない。けれど、ユキに対して7日間の間は生きる事が出来る理由を、彼女は確かに残していってくれた。
そして7日の間、自分で命を断つ選択肢すらも、彼女は奪っていってくれた。
彼女が強いことなどユキは知っている。
かなりのレベルの冒険者である事も、ちゃんと理解している。
理解しているからこそ、彼女の言葉に説得力と強制力が付くのだ。
彼女の言葉のせいで、少なくともユキの寿命は7日間だけ伸びた。
「……ありがとう、ございます」
彼女に投げつけられた地下室の鍵を手に、ユキは祈る様にして蹲る。
けれどそれは悲しみによるものではなく、むしろ只管に感謝によるもので……
きっと今また自然と流れてしまっているこの涙も、これまでよりもずっとずっと救われた物であるに違いない。
「……どうしたアルフィア、お前は指示があるまでは廃教会に閉じ籠もっていると思っていたが」
「……気になる小娘を見つけてな、今はその小娘が住んでいる。余計な手出しはするなよ」
「ほう、それは珍しいな。お前がそこまでするか。面白い英雄の器でも見つけたか?」
「いいや、どうだかな。器はあるかもしれないが、今はそれどころでは無かった。絶望に浸り、恐怖に染まり、自殺への焦燥感に追い詰められていた」
「……なんだそれは、罪でも犯したのか?」
「なんでも、その小娘は生きているだけで災厄を呼び込む存在なのだそうだ。しかも神共のお墨付き、恐らくは本物だろう」
「なるほど、つまりそれが後進共の新たな壁となる事を期待してか。今でさえもエレボスの企みで悍しい計画になっているというのに、まだ奴等を追い詰める気か?」
「いや、そのつもりもない、あれを巻き込むつもりもない。7日後にあれは私が殺す、今はそれまでの猶予を与えているだけだ」
「……………ああ、お前の妹に似ていたのか」
「……流石に分かるか、ザルド」
「そうでもなければ、お前の様な女がそこまでする筈もあるまい。それも覚悟を決め、目を塞ぎ、全てを喰らい尽くす事を定めた、今のお前が」
「……節々に面影が見えた。容姿は似ていない。だが泣き方や、話し方、それに考え方。その小娘の母親が妹にそっくりだったという話も興味深かった。それになにより………こちらが心苦しくなる程に、アレは優しさに溢れていた」
「それは一度、俺も顔を合わせてみたいものだな」
「やめておけ、アレを見れば危うく神々を殺したくなる。生まれてきた事が罪だと小娘に突き付ける様な世界など、どうして作ったのか、とな」
「……まあ、それはこれからその世界を一度破壊するかもしれん俺達が言える事でも無いだろうよ」
「それもそうか……やれやれ、先達も楽ではないな」
「本当にな」
「……本当に、嫌なものを見させられた」