暗闇に包まれた廃教会の地下室。
扉は開けられ、すすり泣く声が聞こえ……けれど何処にも灯りは付いていない、見る人が見れば幽霊でも居るのではないかと思ってしまう様な異質な空間。
……だがもう、そんな泣き声も聴き慣れた。
彼女の泣く声なんて、もう知っている。
あの子の泣き声は、本当に心が痛くなる。
「また、泣いているのか」
「っ、あるふぃあ、さん……」
「顔を見る事は出来たか?お前の知り合いとは」
「………はい」
「そうか」
真っ暗な地下室のベッドの横で、わざわざ床に座り込んで1人泣いている少女。
レベルの高い眷属は暗闇でもある程度周囲を見渡す事は出来るが、それでもアルフィアは手元にあった小さな灯りに火を付ける。
暗闇に居ればいるほど気分は沈むものだ。
悲観の気分にとことん染まりたいのは分かるが、わざわざこうして来たのだから、いつまでも泣いているのは止めて欲しいというもの。
ユキに触れる事なく、けれど触れるのならばいつでも出来る距離に、アルフィアはゆっくりと腰掛ける。
すると彼女は他者の存在が恋しかったのか、直ぐに親指と人差し指でアルフィアのスカートを摘んでくるのだから、何とも言えず目を閉じながらも溜息を吐くしかない。
掴むのなら掴むで、そんな遠慮した摘み方をする必要はないというのに。
「……今度は何が悲しくて泣いている」
「そ、その、もう2度とあの人達と話す事も、顔を見る事もないって、考えると……なんだか胸が、辛くて、苦しくて……ぐすっ」
「……あの時、別れをせずに命を落としていた方がマシだと思ったか?」
「それは……分からない、です。こんな思いをするくらいならって、思うんです。でも別れも出来ずに死ぬのも、辛くて」
「……死にたく、ないのか」
「駄目、なんです、それだけは。私は死なないと、駄目なんです。だからアルフィアさんだけは、私を生かさないで下さい。そうじゃないと私、私……」
「もういい、それ以上は言うな。心配しなくてもいい、お前は私が必ずこの手で殺してやる」
「……ありがとうございます。本当に、本当にごめんなさい」
ああ、ああ、もう嫌だ。
どうして自分がこんな立場に居なければならないのか。
自分以外でもいい筈だ。
他にももっと相応しい人間が居たはずだ。
どうして私なのだ。
どうして私以外の人間がここに居てやらないのだ。
屑ばかりのこのオラリオという街。
私でなくとも他の屑でも良かったではないか。
自分を殺してくれる人間にしか本当の意味で甘えられない。
殺してくれる事に感謝する。
こんな歪んだ愛情を持たなければならない人間など、別にこの子でなくとも良かったではないか。
こんな子よりも死ぬべき屑など、それこそ自分を含めても星の数ほど居るではないか。
「……アルフィアさん。今日のメインストリートであった襲撃、あれも、私のせい、なのでしょうか」
「!!」
「実は私、今日あの場所に居たんです。そしたら、少し話していたら、まるで私を待っていたみたいに、人が襲われて……それで、それで……!」
「それは違う」
「え……?」
「それは、違う……お前は、関係ない」
そうだ、ユキは何も悪くない。
あれは最初から、そういう段取りだった。
その筈だ。
他の拠点に目を向けられない為に、陽動目的で行われた殺戮劇。それがあのヴァレッタによる炊き出し場への襲撃だ。
ユキが来るよりも遥か前から計画され、あの時間、あの場所で行われる事は、それこそ昨日よりもずっと前に決められていた。
ユキは偶然にもその場に居合わせただけだ。
だからユキがいくら災厄を背負ってこようとも、今回のことだけは何も関係ないと断言できる。
断言できる、のに……
「どうして、そう言えるんですか……?」
「っ」
その理由を、その理由を知っている事を、断言することなんて出来ない。打ち明けることなんて出来ない。
今この場で、彼女を前にしてそんな事を……
いつかはバレてしまうとしても、いつかは知られて軽蔑されてしまうとしても、どうしても今この時にだけは、口に出す事は出来ない。
「……冒険者としての勘だ。お前は巻き込まれただけで、何も悪い事はしていない」
「勘、ですか……」
「信じられないというならばそれでもいい。だが、全ての責任を背負い込む事は、見方を考えれば単なる傲慢と自意識過剰だ。お前がこれまで遭遇した事の全てがその体質によるものだとは限るまい」
「傲慢と、自意識過剰……」
「どうせ同じ傲慢ならば、お前にとって都合の良い理屈で生きて見ろ。全ての災厄を偶然だと決め付けて、図々しく笑って見せろ。……それくらい太々しく生きたとしても、あと4日。いや、3日くらいならば許されるだろう」
「……無理、ですよ。だって居る筈のない私がそんな生き方したら、ここは……」
「?」
ああ、またその顔だ。
思考の末に壁に打ち当たり、それまで積み重ねた正の感情を全て捨ててしまう。
そんなお前の真っ白な表情。
腹が立つ、本当に。
せっかくこれだけ言葉を並べているのに。
せっかくこれだけ思考して思ってやっているのに。
そんな慣れない真似までして慰めているのに、それでも未だに絶望から這い上がることの出来ないお前が。
そして、そんなお前を未だに絶望の底から逃すまいと引き止め続ける、目に見る事が出来ないその何かが。
本当に、たまらなく憎たらしい。
「?」
そんな事を考えながら今も少しの涙を流しながらこちらに視線を向ける少女の顔を見ていたら、アルフィアの頭の中に一つ、悪い考えが浮かんだ。
もう、泣き顔は見飽きた。
笑顔も一度は見たが、それも内心に無理と悲痛と自分の反応を伺う遠慮が入り混じったものだ。
恐らくこのままいけば、この少女は死ぬまで心からの笑顔を見せる事なく、最終日まで泣きながら過ごし続けるだろう。
……ならば、一度くらいは心から笑わせてやってはどうだろうか?
そんな悪い考えが、頭の中に。
「…………」
「あの、アルフィアさん……?」
だが、この少女の秘めている闇は根強い。
この娘を心から笑わせる為には、一時的にでもその闇を忘れさせてしまう程に大きな幸福を与える必要があるだろう。
だが、果たして自分にそれほどの手札があるだろうか。
……いやある。
その手札は間違いなく、自分の中に。
そしてそれを認識した瞬間、アルフィアの口は弧を描いた。
「ユキ」
「!いま、名前……」
「明日も街に出るか?」
「……その、それは」
「期限は明明後日、確かに時間はないだろう。だがまあ、明日くらいは休んでも問題あるまい」
「あの、それはどういう……?」
知っているとも、お前が辛い事など。
分かっているとも、お前が泣きたい事など。
それを取り除いてやる事は自分には出来ないが、その苦痛を減らし、その苦痛を引き受けてやる事くらいは自分にもできる。
せめてその泣き顔を、少しでもマシにしてやる事くらいなら今直ぐにでも出来る。
簡単だ。
この娘は本当に単純なのだから。
「明日は、1日くらいならば……私もここに居てやってもいい」
「!ほ、ほんとですか……!?」
「ああ、本当だ」
「本当の本当に!本当なんですよね!?」
「ああ。……その代わり、家事はお前に任せる。私は寛いでいるだけだ。それでもいいな?」
「だ、大丈夫です!だから、だから……その……」
ああ、そうだ。
だから私は、お前とのこの約束を破ろう。
7日後に必ず殺してやると約束をしたが、その約束を破る決意をしよう。
お前が幸福で笑い、まだ2日の余裕が残され、心からの笑顔で眠りについたその時に、私はお前を殺してやる。
「……明日だけだ。明日だけは特別に、私の事を母と呼ぶ事を許してやる」
「っ!で、でも……」
「私が良いと言っている。これがどういう意味か、わざわざ私に言わせる気か?」
「ご、ごめんなさい……お、お母さん……?」
「許すのは明日からだがな」
「あ」
「ふっ、冗談だ。別に構わない、そこまで面倒な条件を課すつもりもない」
断言する。
お前に6日目は来ない。
来させては、ならない。
たとえ約束を破り、お前に恨まれる事になったとしても……冒険者達が、闇派閥が、そして私達が動き出すその時に、お前の姿がそこにあってはならない。
たとえお前が会っておきたい人間がまだ居たとしても、それはもう諦めて貰うしかない。
……分かっている、全ては私の責任だと。
それでも私は図々しくこう言うしかない。
あとの1日を思いっきり幸福にしてやるから、その望みだけは諦めて欲しいと。最初に顔を合わせて来いと言った人間が他ならぬ自分であるという事を認識しながらも。
「さて、こちらに来い、ユキ」
「……?ベッドの上、ですか?」
「そうだ。私も今日はもう疲れた、さっさと寝たい」
「ひゃっ!?あ、あの……!その……!」
「話は聞かん、私はもう寝る。いいから大人しくこうしていろ、私は何かを抱いていた方が寝易いんだ」
「は、はい……」
問題の先送りもしない。
お前1人を旅立たせはしない。
この戦いで、私もまたお前を追って力尽きる。
1人なのは、ほんの僅かな間だけだ。
お前の本当の母親が天界で待っていたとしても、そこまでの旅路の間だけは、孤独にせずに付き合ってやれる。
(……いよいよ病が頭まで回ってきたかもしれないな)
妹の子には会わなかった。
決意が揺れると思ったからだ。
けれど、妹と似ている少女を見掛けただけでこれなのだから、やはり会わなかったのは正解だったのかもしれない。
ただ、妹の子と、妹によく似た追い詰められた少女。
どちらに会えばよりより大きく自分の心が乱されるかと言われれば、それは間違いなく後者だったろう。
そういう意味では、やはり自分は、運は良くない。
これでは役割を果たした後も、清々しい気分のままでは命を終えられないのだから。
本当に、本当に本当に……運がない。