冷たい。
寒い。
寂しい。
何も感じない。
あった筈の温かさを。
今は何処にも感じられない。
耳に響いてくるのは落下音でも飛翔音でもなく、ただ小さな小鳥の囀り声だけ。
目を開く。
両手を開く。
首に手を回す。
瞬きをする。
目を動かしてみる。
声を出してみる。
身体を起き上がらせてみる。
生きている。
そして知っている、ここが何処なのか。
温かな記憶が今も鮮明に残っているこの空間が一体何処なのか、自分はよく知っている。
けれど、知っている人がここには居ない。
自分を愛してくれた彼女だけが、ここに居ない。
「アルフィア、お母さん……?」
廃教会の地下室。
何処にも居ない、灰髪の母。
何処にも残っていない彼女の温もり。
けれど確かに残っている、彼女が居たはずのベッドの空間。
彼女が確かに昨晩までここに居て、けれど日の昇った今ここに居ない事だけがどうしようもない事実として訴えかけられる。
強い寒さとして、寂寥感として、そしてなにより、絶望感として。
「なんで……?どうして殺してくれなかったの、お母さん?」
知っていた、知っていた。
アルフィアが約束を破り、まだ2日の余裕があった昨晩に自分を殺そうとしていた事など。
その為に母親となる事を許し、自分に幸福を感じさせる為に接してくれていた事など。
だから思考も何もかも投げ捨てて甘えた。
ほんの数日しか面識のない彼女に、けれど確かに自分のことを大切に思ってくれていた彼女に、家族の愛を感じて、受け合った。
それなのに、どうして自分は今生きている?
昨晩死ぬ事を覚悟して、覚悟を決めることができていたのに、どうして今自分はこうして傷一つなく起き上がっている。
そしてその肝心の彼女はどうして今、ここにいない?
「あ、あと2日……2日ある、から……昨日殺すっていうのは、私の勝手な勘違いで、それで……」
言い訳を並べる。
勘違いでない事など知っている。
それでも、まだ可能性として残っている言い訳を並べ続ける。
そうでなければ、本当に絶望してしまう。
またみっともなく涙を流す事になってしまう。
きっとそうだ、勘違いだ。
それとももっと良い死に方とか、そういうのを思いついたとかで、時期をずらしたりとか……そういう話に違いない。
与えてくれた愛は本物だった。
彼女は知性的な人だった。
優しい人だった。
だからきっと、想像しただけでこんなにも自分を絶望させる様な結末にはしない筈だ。
その筈なのだ。
だから今考えても分からないという事は、むしろ自分よりもよっぽど賢い彼女の策が上手く回っているという証拠に違いなくて、不安に思ったり勝手に絶望する事すらも間違いで、むしろ自分は彼女の事を信用するべきで、それで……
『全員突入!』
「っ!な、なに……?」
そんな風に思考の海で暴れ苦しんでいると、まだ普通の住民ならば起きてい無い様な朝の静寂を引き裂くようにして、一人の女性の大声と複数人の慌しい足音が教会の入り口の方から聞こえてくる。
分からない、何が起きているのか分からない。
思考の大半をアルフィアの事に使っていたのに、突然廃教会の中に押し入って来た者達の方にまで意識を割ける余裕がない。
焦りと混乱が心の中を占め、かといって他に何をすべきなのか、どう対処すべきなのかも分からず、ユキは呆然とベッドで上半身だけを起き上がらせながら停止する。
声を上げる事も、立ち上がる事も出来はしない。
「地下室を見つけました!」
「なに?……そこだ、そこにあの女は何かを隠していた筈だ!扉を開けろ!」
そんな大層な隠し方をしている訳でも無い地下室の扉。隅々まで見れば直ぐに分かる上に、大した鍵が付けられている訳でも無い。
男達によって地下室への扉は簡単に開け放たれ、そこから指示を出していた女性が先頭になって少しばかりの階段を降りてくる。
それでもまだ、ユキは動かない。
諦めというのもあったのかもしれない。
もしこれで自分が死ぬ事になったとしても、それはそれでいいかもしれないと、そんな投げやりな気分で、傍観者のように見ていたのかもしれない。
……ただ。
「っ、誰だ!?」
「シャクティ、さん?」
「!……生憎、私は君とは面識が無い筈だが、君はここに住んでいるのか?」
「……はい、ここ数日の話ではありますが」
ああ、なんと運の悪い事だろうか。
ガネーシャ・ファミリアの団長:シャクティ・ヴァルマ。
彼女が自分の事を殺してくれる筈がない。
厳しくも優しい彼女が、都市の平和を維持する為に活動している様な彼女が、たとえそれが怪しい人物だとしても、寝起きで無防備な人間を殺してくれる筈が無いのだ。
たとえここで自分が闇派閥の真似事をしようとしても、聡い彼女はその全てを見抜き、殺さず取り押さえてしまうだろう。
いや、それどころかきっともう彼女は気付いている筈だ。
自分がもうどうしようもない絶望に蝕まれ始めている事に。
「全員武器をしまえ。……君の名前は?」
「……ユキ・アイゼンハートです」
「!アストレア・ファミリアの言っていた閃光の少女か!」
「閃光の少女というのはよく分かりませんが、アストレア様やリューさんとは確かにお会いしました……」
「……アストレア・ファミリアから、君を探すように頼まれている。まさかこんな所で見つける事になるとは思っていなかったが」
「私も、まさかこんな所に他の誰かが来るだなんて思いもしませんでした。本当にここには何もありませんよ?ここはただ、私が自分の命を断つ為だけの場所なんですから」
「っ……やはり当たっていたのか、リオンと女神アストレアの勘は」
「………」
どうやら、たった数時間見ていただけなのに、自分の思惑は2人には伝わってしまっていたらしい。
だったらもう、全部が全部、手遅れなのだろう。一度会ったらそれでお終い、それだけの人間として忘れて貰うつもりだったのに。
ここでこうしてシャクティと出会ってしまったら、また自分の話が彼女達に伝わってしまう。そうすればやっぱり、彼女達はより力を入れて自分を探し始めてしまう。
もし昨晩にこの命を断つ事が出来ていれば……こうなってしまった今、そう思わずにはいられない。
今この場から逃げる事など、入り口を塞がれガネーシャ・ファミリアの精鋭が詰め掛けているこの現状で出来る筈が無いのだから。
「シャクティ団長、彼女に闇派閥との繋がりは……」
「アストレア・ファミリアからの報告を聞く限り、まず間違いなく無い。それに【殺帝】を1人で追い込む程の実力者だ、実績もある」
「なっ、それなら!」
「ああ……君の事は取り敢えずアストレア・ファミリアに一任する事にする、問題ないな?」
「……1人には、して貰えないんですか」
「何の理由があるのかは知らんが、自ら命を断とうとしている人間を1人置いて行く事など出来ない。それも何よりも戦力を必要としているこの状況で、Lv.5相当の実力を持つの人間を見殺しにするなど」
尤もな話だ。
シャクティの言っている事は何も間違っていない、それ程に今のオラリオは闇派閥によって荒らされている。Lv.5となればこの時代のオラリオにも殆ど居ないような実力者、それを手放す事など有り得ない。
それどころか、むしろ許せないくらいだろう。
それ程の力を持ちながら、自らの事情で命を断とうとしているなんて。
その力があるだけで守れるものはいくらでもある筈なのに。
「死なせては、くれないんですね……」
「そこまでして死にたいのならば、せめて戦って死んでくれ。言い方は悪いが、そう言わねばならない程に我々は追い詰められているという事を理解して欲しい」
「………」
たとえそのせいで更に被害が増える事になっても?
そんな言葉は言えなかった。
だって自分の事情など、よっぽどの事が無ければ誰も信じてなどくれない。
アルフィアが信じてくれた事でさえも、様々な条件が重なり合った上で成り立った奇跡のようなものなのだ。
普通に考えれば精神異常者の戯言にしか聞こえない様なユキの話を、出会ったばかりの者が信じてくれる筈が無い。
つまり、こうして見つかってしまった以上は逃げでもしない限り、死ぬ事は許されないという事だ。
それでも流石にこれだけの数のガネーシャ・ファミリアの精鋭達をこの小空間で打ち倒す事は不可能で、この思い出の詰まった場所を荒らす事だってしたくなくて、今はもう目の前の彼女のいう通りに行動するしかなくて……
「……せめて、アストレア様達の下へと連れて行く事だけは許して下さい。それさえ飲んで下さるのなら、いくらでも戦いますし、言う事も聞きます」
「いや、だが……」
「お願いします、これ以上は何も望みません。私の事をアストレア様達には知らせないで下さい。私はもう、あの方にお会いしたくないのです」
また心が揺らいでしまうから。
弱いこの心は、アルフィアにそうした様に、簡単に誰かに依存しようとしてしまうから。
だからもう、会う訳にはいかない。
アルフィアが自分を殺してくれるまで、そうでなくとも例えば闇派閥との戦いの中で命を落とすまで、もう2度と顔を合わせてはならないのだ。
他の誰からであっても、優しさや同情を受け取ってはならない。
「シャクティ団長……」
「……本拠地に連れて行く、女性の見張りを2人付けて空き部屋に案内してやってくれ。私はこれからすべき事もあるし、もう少しこの廃教会を調べねばならない」
まあ、他に何も出ては来ないだろうがな。
そう言って溜息を吐きながらシャクティはその場を後にし、階段を上って行く。
元の時代ではあまり親交があった訳では無いが、ロキ・ファミリア経由で何度か顔を合わせた事のある彼女。
けれどそんな彼女はこの時代であっても変わっていなかった。
それだけが救いで、申し訳なくて……
「ええと、それではこちらに……」
「……はい」
「あ、その前に持っていく物などがあれば手伝いますが」
「いえ、自分で持てる程度の物しかありませんので」
「……武器は、お渡し出来ません」
「……はい、お願いします」
未来の事を考えられない。
思考がうまく纏まらない。
もう何も考えたくない。
分からない、分からない。
分からない事が怖い。
どうして生きているんだろう。
どうして死んでいないんだろう。
どうして死ぬ事が出来なくなっていくんだろう。
どうして戦う事になってしまったんだろう。
どうして拒んでいないんだろう。
どうして今この場で首を掻き切らないんだろう。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……
「どうして、何処かに行ってしまったの……?お母さん」
また、心が蝕まれていく。
「アーディ、あの子はどうなっている?」
「お姉ちゃん……駄目、ずっと部屋の隅で俯いてるだけ。返事は返してくれるんだけど、そもそも他の誰とも関わるつもりが無いみたいな」
「お前でも駄目となると……やはりアストレア・ファミリアに当たるしか無いのか」
「でも、あの子はそれを嫌がってるんだよね?それに今はリオンも何か悩んでるみたいだし……」
一時期対策本部の方でも話題になっていた閃光の少女がガネーシャ・ファミリアの本拠地に運ばれてきてから数時間が経ち、まもなく日が暮れ始めて来た頃。
2人の姉妹は今も誰とも関わる事なく1人部屋で座り込んでいる彼女の対処について話し合っていた。
彼女達の主神であるガネーシャも含めて何度か彼女を励まそうと話しかけてみたが、それでも大きな反応を見せない少女。
それこそ本当に生きている意味を無くしているとか、ただ死を待つだけの半死人とか、そういう言葉が似合ってしまう様な酷い有様。
せっかく綺麗な顔をしているのに、それを台無しにしてしまう暗いあの表情は、見ているだけでもこちらが気を病んでしまいそうになる。
これからガネーシャ・ファミリアには、それこそ彼女の事など気にしていられない様な大きな出来事が控えているというのに。
「私はこれからリオンの所に行ってくるつもりだけど……お姉ちゃんはあの子のこと、どうするの?連れて行くの?闇派閥の拠点襲撃に」
「……一応はそのつもりだ。だが、私達はアストレア・ファミリアと行動を共にする。彼女がそれを嫌がっている以上、姿を隠させて待機だけさせているつもりだ」
「つまり、奥の手ってこと?」
「ああ。実力も確かで、信頼性もあの女神アストレアが示している。もしもの備えは確実にしておきたい。不安要素も当然あるが、そこはお前が側で見てやってくれ。……これは私の勘だが、あれは悪い人間ではない。ただ重荷を背負い過ぎた善人という奴だろう」
「……うん、それはなんとなく分かるよ。人と関わらない様にしてるのに、話しかけられたら反応せずにはいられない所とか。あの子はいい子だよ、絶対」
「任せてもいいな?」
「うん、任せて。きっと偶然じゃないよ、この出会いは。襲撃の前のこのタイミングで、探し求めていたリオン達じゃなくて、関係のない私達が彼女を見付ける事が出来た。……絶対に何か理由がある筈なんだよ、少なくとも私はそう思う」
根拠の無い、ただの勘。
けれどそれが決して間違っているとは思わない。
どんな事にも何か理由がある筈なのだ。
ましてや人と人との出会いなど……無いという方がおかしいくらいに。
「それに、私達のチームはレベル3の冒険者ばっかりだから。そこにレベル5の人が1人加わってくれるのなら、これ以上の事は無いもん」
「……そうだな、それはお前の言う通りだ。正直、死にたいと言う少女を止めておきながら、実力があるからと戦場に引き出そうとしている自分の現状に対する苛立ちの方が今は強いが」
「あはは、最低だね私達」
「ああ、最低だ。慰めるでも元気付けるでもなく、進んで死場所を用意しているのだから」
それでも、今は力が居る。
何を差し引いてでも、犠牲にしてでも、最低な行いであると知っていても。
街を、人々を守る為には力が要る。
それに十分な力が、今の自分達には存在しない。
ゼウスとヘラのファミリアが滅んだ今のこのオラリオに、闇派閥の影を完全に押さえ込む様な強い光は存在していない。
英雄はいない。
未だその蕾は花開いていない。
それでも戦うしかない。
だから泥臭くても、汚くとも、使える物は全て使うのだ。
たとえそれを非道と叫ばれたとしても、戦う自分達が全力を尽くさないという事は、人々を守るという意思を放棄する事と同意なのだから。