その変化は劇的だった。
それまで一度たりともその瞳を開く事の無かったアルフィアが、その少女の声を聞いた瞬間に振り向き、両の目を見開き、動揺する。
リヴェリアも、ガレスも、ついぞ8年前にまで記憶を遡らせても彼女のそんな顔は見た事がない。
一方でそんな彼女の事を自身の母親と呼ぶ見覚えのないその少女は、全身を煤に塗れさせながら茫然とアルフィアの方へと目を向けている。
(アルフィアの、娘……?)
いや、そんな話は聞いたことがない。
仮にオラリオを出た後に産んだ子だとしても年齢が見合わない、なによりこんな女が他のどの男とでも交わるという姿が想像できない。
……ただそれでも、アルフィアが確かに動揺している事だけは分かった。
そうしてリヴェリアは思い出す。
アストレア・ファミリアとガレスから伝えられた、自分が好みそうな服装をした、黒髪のヒューマンの話を。
「……ガレス。もしかしなくとも、彼女が」
「ああ、その閃光の娘とやらよ」
少女の目線が彷徨う。
アルフィアの顔、
彼女が打ち倒した冒険者達、
そしてガレス、
次にリヴェリア……
「っ」
(なんだ……?)
リヴェリアの顔を見た瞬間、また少女の顔に影が差した。
困惑が増す。
けれど彼女のその足は彼女自身の意識とは別に動き、歩き、彼女の混乱した思考の代わりに染み付いた記憶と反射が自然と身体を導いていく。
それは母の隣でもなく、その場から逃げ出す訳でもなく、今日まで殆ど面識の無かった筈の、リヴェリアの前に。
「っ、なぜ……!?」
「そうか……やはりお前は、そちら側に立つのか」
「………どうして」
リヴェリアには分からない。
彼女がどうして自ら母と呼称する者と対立しようとしているのか。
リヴェリアには分からない。
どうして顔を合わせた事すらもない自分を守る様にして、彼女自身も混乱しているというのに立ってくれたのか。
「…………」
けれど、ガレスだけはなんとなく分かっていた。
本当に一度だけ顔を合わせ、言葉を交わし、彼女の戦い方を見だことがあったというだけでも……それだけでも、分かってしまったことがあったのだ。
例えば彼女が、そう、自分がどれだけ傷付こうとも、結局は正しい道を選んでしまうという事を。
「どうして?どうしてですか、お母さん」
「……私はもう、お前の母親ではない」
「なんでこんな事をするんですか、お母さん」
「お前との親子ごっこは昨日までだ、その名で私の事を呼ぶな」
「なんで、どうして……」
ああ、本当に。
たった1日会わなかっただけで、どうしてここまで変わってしまうものなのだろうか。
昨日まであれだけ幸せそうに笑って、本当に嬉しそうに擦り寄ってきていたあの可愛らしい少女が……こんなにも汚れて、泣き顔で、これではまるで最初に会ったあの日の様ではないか。
アルフィアがふとそう思ってしまう程に、今の彼女の様子は、酷い。
「なんで、どうして、こんな事するんですか……また私のせいですか?私が居たから、アルフィアさんは、こんな事を?」
「それは違う、お前と出会う前から私はこうだ」
「ならどうして、どうして私を助けたんですか……?」
「……お前が私の妹に似ていたからだ、それ以外の理由はない」
「それならどうして……どうして私の事を殺してくれなかったんですか!?」
「っ」
嘆きの叫び。
これ以上にその様子を表せる言葉もあるまい。
その悲痛な叫びは聞いているものの心を引き裂き、打つけられたアルフィアが思わず一歩下がってしまいそうになる程に必死なもの。
「こんな事になるのなら!こんな事をしているって、私に教えてくれないのなら!どうして、どうして私をこんな風に生かしたんですか!どうして私を殺してくれなかったんですか!!」
「それ、は……」
「私を苦しめる為ですか!?私を絶望させる為ですか!?本当に私を思ってくれるのなら、本当に私を大切にしてくれるのなら!殺してくれればよかったのに!死なせてくれればよかったのに!」
「………」
「私はそうまでして、生きたくなんて、なかった……」
その胸の中に溜めていた心の声を吐き出すと同時に、彼女はその場に崩れ落ちる。
アルフィアはもう何も言わない。
目を開く事も、もう無い。
何も言う事など無いからだ。
何も言える事など、無いからだ。
「……ごめん、なさい」
「っ」
それなのに、何故かそうして最初に謝ったのはユキだった。
責めても良い筈の、そうする権利がある筈の、これっぽっちだって悪くなんてない筈の彼女が、むしろ責められるべきであるアルフィアに向かって、俯きながらも、確かに、謝ったのだ。震える声色で。
「分かってるんです、全部私が悪いんだって……私が勝手に頼って、私が勝手に甘えて、依存して……また勝手に、絶望しているだけだって」
(……っ)
「お母さんと間違えて、それでも見捨てずにいてくれて、優しくしてくれて、もう、それだけで、十分だったのに……殺して欲しいって、側に居て欲しいって、求めて、願って、そうするだけで……」
(……違う)
「それでもアルフィアさんは、無理矢理にでも付き合ってくれた。甘えさせてくれた……これ以上を求める方が間違ってるって、分かってたのに。求めるだけだった私に、受け入れてくれたアルフィアさんを責める権利なんて無いのに」
(そうではない……そうではないだろう……!)
「本当に死にたいと思っているのなら、本当に誰にも迷惑なんてかけたくないって思っていたのなら……!私は今日、朝目覚めたその瞬間に、私自身の手で!この首を掻き切るべきだったのに!!」
(何故だ、何故お前は……何も悪くないお前自身を、責めている……)
「本当に死にたいと思っているのなら私は!今この場でさえも自分の手で!この命を終わらせるべきだったのに!!」
「【福音(ゴスペル】……!」
両手で持った剣を振り上げ、そのまま自分の腹部に突き刺そうとするユキに向けて、アルフィアは咄嗟に魔法を打ち当てた。
放たれた極小規模の音による衝撃波はユキの手に収まっていた剣だけを吹き飛ばし、彼女自身の身体も背後に蹌踉めき倒れる。
……そうだ。
アルフィアはその日の朝、ユキの事を殺さなかったのではない。
殺せなかったのだ。
その晩、何度も何度も彼女の首に手に掛け、何度も何度も殺そうとして、それなのに気付けば……扉の外では朝日が昇っていた。
そうして外から聞こえてくる鳥の囀り声にユキが反応し、呻き声を上げたその瞬間に、アルフィアはその場から逃げ出してしまった。
何故逃げ出してしまったのかなんて、その時は当の本人でさえも分からなかった。
それから考え直し、後悔し、再び教会の地下室に赴けば、そこには既に彼女の姿は何処にもなく……代わりにあったのはガネーシャ・ファミリアの警備員達だけ。
(約束を守れなかったのは私だ、悪いのは全て私だ……!お前は覚悟を決めていたのに、覚悟を決めきれなかったのは私の方だ……!お前は何一つ、悪くなんてない!)
そら見たことか。
それは今だってそうだ。
自ら命を断とうとした彼女の動きを、反射的にだとしても食い止めてしまった。
その行いが彼女にとっての唯一の救いであると分かっているにも関わらず、その否定が彼女にとって最も残酷な行いであると分かっているにも関わらず、自分はどうしてもその事実を受け入れる事が出来なかった。
「邪魔、しないで下さい……邪魔しないで下さいよ!!なんで、どうして私の事を、誰も殺してくれないんですか……!自分で死ぬくらい、別にいいじゃないですかぁ……!」
涙を流して泣きじゃくるユキ。
殺して欲しいと、死にたいと、何度も何度もそう言う彼女の様子は直ぐ側で見ているガレスやリヴェリアが自身の怪我の痛みを忘れてしまう程に痛々しい。
……だがそれでも、アルフィアは何も言わなかった。
何か一つでも言葉に出してしまえば、それがユキにとって決定的なトドメになってしまいそうで、トドメを刺さなければならないと分かっているのに、どうしてもその一言だけは、言葉にすることができなかった。
「ならばその役割、この俺が代わってやろう」
「っ、ザルド!」
「退いていろ、アルフィア。お前にはその役割は担えまい」
そんな2人の前に、男が鎧の音を立てて暗闇から現れる。
黒い鎧に身体程にその刃を持つ硬鋼の大剣。
その立ち姿だけで周囲を萎縮させ、その圧力だけで弱者を震え上がらせる歴戦の戦士。
『暴食』のザルド。
アルフィアと同じレベル7であり、かつて最強と呼ばれたファミリアの片割れゼウス・ファミリアの眷属として、3大クエストの一角であるベヒーモスのトドメを刺した伝説の英雄の1人。
ガレスとリヴェリアもまた目を疑った。
まさかアルフィアだけではなく、ザルドまで闇派閥に与しているという事に。
……それでも、ユキだけは違っていた。
役割を代わってやるというその男の言葉に、一つの希望を見出してしまった。
突然その場に現れ、鎧を深く被り、何の容赦もなく本気の殺意を向けてくるザルドに対して、最後の光を感じ取ってしまった。
それがアルフィアにとって正に絶望であり、心の葛藤故にただ立ち尽くし、見届ける事しか出来ないという状況を生み出してしまっている事もまた、好機であるとでも捉えているかの様に。
「立て、娘。そうまでして死にたいのであれば俺がお前を殺してやる」
「……本当、なんですか?」
「ああ……だがその代わり、お前もまたその身に宿る全ての力を使い果たし、俺の事を楽しませてみせろ。争う事もなくただ命を差し出す獣など、俺は喰おうとすら思わない」
「本当に私の事、殺して、くれるんですよね」
「この期に及んで約束などするまい。お前が本当に殺して欲しいのであれば、俺が加減など出来なくなる程に苛烈にその剣を振るってみせろ」
「……分かり、ました」
ああ……立ってしまう、立ち上がってしまう。
せっかく死から引き離したのに。
武器を取る。
飛ばされた剣を手元に呼ぶ。
慣れた様に。
その手に収まるのが当然かの様に。
そうして初めて見る、愛しい少女の強い表情。
戦う者の決意を帯びた、この数日の生活の中ではその一端すらも垣間見る事の出来なかった、運命に争い続けて来た戦士の顔付き。
「ああ……お前には期待が出来そうだ。暴食のザルド、レベルは7だ。名前を聞こうか」
「……ユキ・アイゼンハート、レベルは5です」
「っ、Lv.5だと!?」
知らない、知らない。
彼女がそこまでの実力を持っていたなどと。
ザルドが大剣を構える、ユキが両手の剣に光を宿しながら対峙する。
無謀だ、勝てる筈がない。
そんな事はガレスやリヴェリアにだって分かる。
けれどどうしても、彼女の事を止められない。
あんな悲痛な嘆きを聞いてしまえば、あんなに自らの死を望んでいる事を聞かされてしまえば、止められる筈もなかった。
必ずしも生き残る事が幸福であると、そんな考えすらも簡単に破壊してしまうくらいに、彼女の心は泣いているのだから。
「待て!ザルd……!」
二つの破壊が衝突した。