初手伸びもここ最近ではめちゃくちゃいい方だし……ありがてぇ!
ましろに言えない秘密ができる最初のきっかけは一年前のこと。僕が高校一年生になる時のことだった。父が四月付けで地方へ転勤となったことで、僕は二つの道を突き付けられた。一つは両親と一緒に引っ越すという道、もう一つは独り暮らしをしてでもここに留まるという道。安寧を得ることが大事な僕は両親の庇護で生活するよりも、より安心できる道、住み馴れた街から離れず、なによりましろと離れなくてもいい、独り暮らしを選んだ。
家を売り払って社宅に住むにあたり、僕はそのお金でワンルームでないマンションを選んでもらった。将来ましろと住むなら、今のうちにということらしい。
「ましろと暮らす……か」
だが、僕には全くそのビジョンが浮かばなかった。ましろのことは好きだ。小学生の時に出逢って以来、僕の世界の中心に彼女はいた。幼い頃からずっと僕は彼女を守って、彼女と一生を共にするのだと信じて疑わなかった。けれど、やはり両親が望むのは、ましろとの結婚、家庭を持つということ。すなわち、彼女の処女をこの手で奪い、彼女に血を流させるということでもあり、僕はそれが嫌だった。血も痛みも、あの子は人一倍苦手だから。
──そんな嫌悪感と、嫌悪感のはずが時折触れたくて仕方なくなるという二つの気持ちが僕を揺るがしているのが日常だった。だけど、
『はいはーい』
「すみません、今日隣に越してきた大崎です」
『ちょ~っと待ってて! すぐ出るから!』
呼び鈴から聞こえたのは随分と若く、軽い感じの女性の声だった。やがて速足に駆けてくる音がして玄関が開け放たれて出てきた彼女は、声の印象通り若く、僕と年が変わらないように見えた。
「ごめんね、お待たせしました!」
「大崎海斗です、つまらないものですが」
「わぁ、わざわざアリガト! アタシはいま……えーっと、
「はぁ」
随分とフランクなヒトだなぁと思った。それでいて無防備だ。身長差があるせいでキャミソールの胸元の谷間が目に入るし、降ろされた茶色のウェーブがかった髪はお風呂上りだったのかしっとりとしていて、シャンプーなのかコンディショナーなのか、甘くていい香りが漂ってくる。そんな彼女に目を逸らしながらファーストコンタクトは滞りなく、踏み込むことなく、何も知ることもなく。そのまま一ヶ月半が経過した。
「じゃあやっぱり会えないんだ」
『うう、もう塾で勉強ばっかりだよぉ……会いたい』
高校からマンションへの道を歩きながら、ましろの愚痴を聞いていた。彼女は受験の真っただ中で、しかも上を目指そうとしている以上妥協をさせてあげることはできなかった。電話やメッセージのやり取りだけではあったけれど、僕がましろにとって安らげる相手というのは、嬉しかった。
「しょうがないよ。ウチも月ノ森も今のままだと厳しいんでしょう?」
『カイく~ん』
「そんな声出さないで、僕だって寂しいんだから」
『……うん。電話出てくれて、ありがと』
「どうしてもダメだったら、迎えに行くよ」
『えへへ、大好き……』
「うん、それじゃあ頑張って」
名残惜しそうに電話が切れ、僕はふうと息を吐いた。その真後ろでかーいとっ、と明るく跳ねるような声がして僕はなるべく平静を保ちながら振り返り、リサさんにどうもと会釈をしてから少しだけ愚痴を言わせてもらった。
「びっくりするので、後ろから声を掛けないでください」
「え、びっくりしてる? 眉一ミリも動いてなかったケド?」
「……学校帰りですか?」
「まぁね、海斗もでしょ?」
そう、リサさん。最初は遠慮して久國さんと呼んでいたけれど、そう呼ぶと非常に困ったような顔をしてリサって呼んでよと言われてしまって、それを三回繰り返し、四回目からは名前で呼ぶことにしている。彼女はちょっと離れた羽丘、という高校に通う高校二年生で、本当に殆ど年が変わらないことに驚いた。年の近いお隣さんということもあり、多少の雑談をする仲になったものの、やはり彼女のことは苦手だった。
「──今のさ」
「……はぁ」
「カノジョさん?」
「ええ、まぁ」
「ふぅん?」
時折、彼女が読めなくなる。貼り付けた明るい営業スマイルじゃなくて、興味の色を含んだ瞳をぶつけられることが、たまらなく苦手だった。近いところから見上げられ、僕は何を訊ねられているのだろうと考えたところでリサさんが口を開いた。
「海斗ってさ、童貞だよね?」
「……は?」
「いや、そんな感じしたからさ」
意味がわからない、理解できない。急になんでそんなことを訊ねてくるんだろうと困惑していると、続けてリサさんは可哀想にと、何かを察したかのように慈愛の微笑みを貼り付けてくる。
「いやさ、だってカノジョさんがヤらせてくれないってことでしょ?」
「……は?」
「可哀想に」
「何言って……」
「──アタシとする?」
肩が僅かにあがる。変わらない興味の色を帯びた瞳に、だけどその奥にある何か別の、僕の良く知るナニカが潜んでいて一歩近づかれても、胸が当たっていても、それよりも彼女の瞳の色に目が離せなくなってしまった。
「……なーんて、冗談冗談♪」
「は?」
「ドーテーくんには刺激が強すぎたカナ? でも、海斗のこと、アタシ嫌いじゃないからさっ! 相手してほしかったらゆってね~」
一瞬で元のリサさんに戻り、ヒラヒラと手を振ってとっとと部屋に戻っていってしまうのを見送りながら僕はからかわれたのかと上がった肩を元に戻した。タチの悪い冗談だ、でも、そう思い切れないほどあの瞳から放たれた熱は僕の心までじんわりと熱を持たせるようなほど真に迫っていた。
「……なんだ、これ」
頭の中が、あのヒトで埋め尽くされていく。ましろに会って抱きしめて、キスをしても、あの瞳が忘れられない。頭の中から消えてくれない。
──結局ましろに会いに行った僕は、その帰り道に目の前で目撃してしまった。リサさんの部屋から男が出てくるのを。その男が玄関先で彼女を抱き寄せ唇を重ねていくのを。
「それじゃあ、行ってくるな」
「……次はいつ帰ってくる?」
「すぐ帰ってくるよ。オレの家はここしかねぇからさ」
「……ん」
背中には黒い何かを背負っている。楽器だろうか。カレシがいることについては、特に驚くこともなかった。でも彼女の表情が僕にはよっぽど衝撃だった。どこか冷めたような温度を持っていたリサさんが、ああまで熱を込めるのを、僕は知らなかった。いや僕は彼女のことを何も知らない。知っている気になっただけで、理解できているはずがなかった。
「最近越して来たの? オレはココに住んでる久國
「……どうも」
「あー海斗、おかえり。コッチの子は隣の部屋に越してきた大崎海斗くん」
「なるほど、リサがいつもお世話になってます」
にこっと微笑む。バンドマンなんだろうか、見たところ清潔感もあっておおよそのバンドマンのイメージとは対極というか、非の打ち所がないとは彼のことを言うのだろうと思えた。それほど、彼に嫌だと感じる隙が存在しない。驚くほど爽やかに、それじゃあと去っていく男の後ろ姿を眺めながら、僕は横目で寂しそうな顔をするリサさんに問いかけた。
「結婚していたんですね」
「あはは、結婚じゃないよ。この家に住まわせてもらってるだけ。本名は今井リサっていうんだ」
「……あんなヒトがいるのに、あんなこと言ったんですか」
「あんなコト? あー、アタシで童貞捨てる的なやつ?」
あっけらかんと口にするリサさんに僕は微弱な頭痛さえ感じた。このヒトは未知だ。僕にとってとんでもない未知の存在。安寧なんてものからは外れた、僕にとっての対極の存在だ。だから、僕はどうしてと訊ねることが多くなる。
「んー質問に質問で返しちゃうケドさ」
「はい」
「カノジョさんのこと、好き? 愛してる?」
「……そりゃ、付き合ってるんですから」
「あはは……別に、付き合ってるからって万人が万人、そういうワケじゃないんだよ」
また、どうしてと訊ねてしまう。どうして僕にそんなことを言ってくる? どうして僕の心に突き刺さるような熱を帯びた
「……知りたい、ですね」
「うんうん、知的好奇心が強いことは悪いことじゃないからね……じゃあさ」
「はい」
「──ウチ、来る?
「それじゃあ……おじゃまします」
ましろ、僕はね──興味を持ってしまった。どうしてここまで彼女の目に引き寄せられてしまうのか、どうしてそんなに冷ややかなのに、ひび割れそうなくらいに熱いのか。なだらかで安寧しかなかったましろとの付き合いにはなかった、僕の初めての冒険だった。そして僕はね、そこでカレシのいるヒトとセックスをしたんだ。
──初めてのセックスは、キミじゃないヒトとした。こんな最悪な行為、やっぱりキミにはできそうにないよ、ましろ。
メインヒロインの影がいきなり薄い? ははは、確かにね!
というわけで感想、評価、お気に入り待ってまーす! もうちょっとリサとの馴れ初め続くかもです。