――小さい頃から時々変なものを見た。他の人には見えないらしく、それらは恐らく妖怪と呼ばれるものの類い――
「お!夏目、おはよう!」
「ああ、北本。おはよう」
朝。学校の正門前で声をかけられた少年、
「夏目、ちょっと聞いてくれよ。昨日、西村の奴が――」
「ハハハ、それは災難だったな」
北本と共に歩きながら夏目は他愛の無い会話を楽しむ。何てことはない、いつもと変わらない日常。しかし、他人には見えない“非日常”が見えてしまうことで不幸な過去を送ってきた夏目にとって、その変わらぬ毎日は何物にも代えがたい大事な宝物だった。
「ん…?」
「どうかしたのか?」
お喋りをしながら夏目たちがゆっくりと歩いていると、1人の女子がその横を早足で追い抜いていった。授業が始まる前に何か用事があって急いでいるのだろう。それは別にどうでも良かったが、夏目は遠ざかっていくその女子が気にかかり、首を傾げた。
なぜなら、その女子の髪が目の覚めるほど明るい緑色で染められていたからだ。腰の辺りまで伸ばしたロングヘアが根元から毛先まで綺麗に染められている。いくら校則が緩く、茶髪に染めている生徒も多いこの高校といえども、流石に全部緑色に染め上げるのはマズいのではないだろうか。少なくとも、夏目は今まで見たことがなかった。
そんな初めて見る髪色の女子に面食らい、夏目は思わず北本に尋ねた。
「この学校にあんな女子いたか?あんな髪が綺麗な緑…」
「確かに綺麗な
「――え?」
北本の返答に、ピタリと夏目の時が止まった。あれほど鮮やかな緑色だったというのに、彼には見えていない。いや、よくよく周りを見渡してみると誰もその髪色に反応していないのだ。生徒はおろか、校舎の前に立って朝の挨拶を返す体育会系の教師すらも、その髪色に一切口出ししていなかった。
「もしかしたら転入生かもな!」
そう笑って言う北本だったが、夏目は愛想笑いすら浮かべることが出来ないままでいた。
自分が見えているモノが他人には見えていない。夏目にとってそれは良くある事だった。物心ついた時から他人には見えぬ彼らは存在し、幼い頃から夏目は酷く苦しめられてきたのだ。
夏目だけが見える彼らとは、“
(あの女子…妖かもしれない…)
他人が本当に人間なのか分からないという不安。そんな恐怖を感じながらも午前の授業は終わり、夏目は友人の北本や西村と共に校舎の屋上で昼食をとっていた。この3人の中では夏目と西村が同クラスで北本だけが別クラスなのだが、西村と北本が親友であった縁から夏目も彼と仲が良い。今では、こうやって3人で行動することが多いくらい仲の良い友人になっていた。
「太陽がポカポカして気持ち良いな~」
「だなぁ!」
「……」
風が吹くと少々肌寒いものの、日に当たっている所からじんわり温かくなってくる秋晴れの季節。心地の良い天気だが、一方で夏目の心は晴れていなかった。妖関係で苦労してきた夏目にとって、朝の出来事は楽観視出来ることでは無かったのだ。
「ここに居たか西村、北本!おい、もう聞いたか!?5組に転入生が来たらしいぞ!」
突如、屋上のドアが開かれて1人の男子が声をかけてきた。彼は夏目や西村と同じクラスの友人、辻だ。クラス委員で面倒見が良い性格の男子で、夏目がこの学校に転入してきた際は当初から積極的に話しかけてくれた者の1人である。
「なに、本当か!?それで女子か!?女子なのか!?」
「女子だ!しかも、噂によるとかなり可愛い子らしい!」
「おお!」
辻の返答に西村が顔を輝かせる。ミーハーな彼にとって転入生が来るのは一大イベントだ。ここ最近は2人の転入生が来たが両方とも男子であった為(夏目と、もう1人は田沼という男子)、美人な女子が転入してきたと聞いて彼の期待度も爆上げだった。
「あー、もしかして朝見た女子。やっぱり転入生だったのか」
「…みたいだな」
「北本と夏目はもう見たのか!辻、俺たちも見に行くぞ!あ、2人も付いて来いよ!」
「お、おい、ちょっと西村…」
ご機嫌な様子で向かおうとする西村を止めようとした夏目だったが、彼はそんな制止の声など聞こえてない様子だった。
「ま、俺たちも横顔をチラッと見ただけだったし丁度良いか。夏目、行こうぜ」
「はぁ…分かったよ。行こう」
北本にもそう言われ、『妖かもしれないから近寄るな』とも言えない夏目は仕方無く了承した。食べ終わった弁当の箱を片付け、西村たちの後を追う。そして5組の前の廊下まで来ると、窓からクラスの中を覗き込んだ。人目を気にせず身を乗り出して覗き込む西村たちの後ろで、夏目も軽く視線を向ける。
「見ろ西村。あの女子だ!」
「おお!美人だ!」
辻が示す先には、やはり朝見た緑髪の転入生が居た。彼女を中心にクラスの女子たちが集まって色々と話しかけているようだ。しかし、やはり誰もが違和感なく彼女を見ていた。
(何度見ても不思議なくらい明るい緑色をした髪だ。でも他の人たちには全く見えていない…。やはりあれは妖なのか…?いや、もしくは妖に取り憑かれている人間かもしれない…)
妖の中には人に変化出来る者もいる。そうやって変化した姿は、妖力の無い普通の人間でも見ることが出来るのだが、それ故に見分けるのが難しい。時には、
また、ただの人間であっても妖に取り憑かれてしまったり、呪われてしまったりすると普通の人間には見えないナニカが浮かび上がってくる場合がある。それは文字であったり、模様であったり、その他の違和感であったりと様々だった。つまり、彼女の緑髪がそうである可能性も高いのだ。
それらを探る為にも、夏目は彼女たちの会話に耳を澄ませた。今の所、怪しい様子も無いようだが、安心は出来ない。妖ならば、大人しく見えても急に豹変して人間に襲いかかってくるなんて良くある事だからだ。
「でも、今の時期に転校なんて珍しいよねー。
「ええ、そんな感じです。ただ、私自身の用事の為でもあるんですよ」
「東風谷さんの?」
女子の1人が問いかけると、東風谷という変わった名前の転入生は微笑みながら頷いてみせる。朗らかな雰囲気を持った女子だ。怪しむ夏目自身でさえ『これで黒髪に見えていたら全く怪しまなかっただろうな』という印象を持つほどだった。
「私、実家が長野県の方で神社をやっておりまして。その分社がこの近くにあったのですが、本社も知らないうちに分社に仕えていた者たちが途絶えてしまっていたらしいのです。このままではいけないということで、その立て直しのために親戚と共に引っ越して参りました」
「えー、じゃあ東風谷さんは神社の巫女さんなんだ!すごーい!」
周りの女子たちから褒めそやされて転入生は気恥ずかしげに照れていた。表情は人間のそれであるし、違和感は全く無い。しかし、もしも彼女が妖だとしたら、それが逆に恐ろしい。完璧に人に変化出来るということは、それだけ大きな力を持った妖であるということの証左だからだ。
「この近くに途絶えた神社?どこだろう、そんなの有ったかな?」
「知らないのも無理はないかと思います。かなり昔に廃神社になってしまったようで、森に呑まれてしまって石の鳥居以外は何もかもボロボロでした。その鳥居も草木や蔓で覆われているほどでしたから。今は、かな…あー、親戚の方たちと片付けや修理を進めているところです」
「大変だね。何かあれば言ってね。手伝えるようなことがあれば手伝うよ」
「あはは、ありがとうございます。でも、そのお気持ちだけで十分嬉しいですよ。今は参拝道すら草木が生い茂って足元が危ない状態ですから。実は私もほとんど親戚の方たちに任せているような状況なんです」
女子たちが心配げに手伝いを申し出ると、彼女は笑みを浮かべて遠慮していた。周りの女子たちが、それなら…、と言った感じで言葉を続ける。
「そうなんだ。じゃあ、その神社に行けるようになったら教えてね。お参りに行くから」
「あ、私も!」
「本当ですか!?それはとっても嬉しいです!」
女子たちの“お参り”という言葉に彼女はパァッと顔を明るくした。余程嬉しかったのだろう。身振り手振りを交えて、自分の神社のアピールをし始めた。
「うちは御利益ありますよ!厄除け、金運上昇、安全祈願に天候祈願!そして、特に必勝祈願は最強です!他校にカチコミをかける際などは是非とも我が守矢神社に御参拝を!」
「カチコミ!?」
「東風谷さん真面目系かと思ったら、まさかの武闘派系!?」
ニコニコ顔で突拍子も無いことを言い出した彼女に、女子たちは驚きながらも笑っていた。どうやら冗談だと思われたらしい。実際、この辺りはド田舎なので高校も少なく、生徒数も少ない。そのせいか不良もほとんど居らず、他校に赴いてまで喧嘩を売りに行くという時代錯誤な生徒は居ないのだ。
「東風谷さんって、おもしろ~い。アハハ!」
「でも、冗談言えるくらい馴染めたのなら良かった~」
とりあえず彼女は面白系の転入生としてクラスに馴染み始めているらしい。確かに、話を聞く限りは親しみやすい性格のようだ。誰とでも仲良くなれるタイプなのだろう。どうにも物憂げな雰囲気を出してしまう夏目からすれば、羨ましいとも思える性格だった。
しかし、そんな彼女たちの会話を近くで聞いていたクラスの男子が口を挟んできた。
「えー?東風谷さんって神様とか信じてる系の人なの?」
「俺は子どもの頃、お化けが怖かったぜ~、なんてな。はははは!」
「ちょっと、男子!ごめんね、東風谷さん。うちのバカ男子たちが…」
普段から軽口を叩く男子らしく、クラスの女子たちも手を焼いているらしい。だが、それでも緑髪の転入生は気にすることなく明るい笑みを浮かべていた。
「あはは、いえいえ大丈夫ですよ。というか、神社で働く人間が神様などを信じて無かったら、逆に問題ですからね。私はしっかり信じるようにしていますよ」
「あー、そりゃ確かに…」
「信じてない人がやってる神社なんて、行く気が無くなりそうだもんなぁ」
その笑顔と言葉に男子たちも毒気を抜かれた。確かにそうなのだ。神社の家に生まれた者として神を信じるのは当然といえば当然。言ってしまえば、家の手伝いをしているだけだ。目立ちたがり屋の女子が『私、実は霊感有るんだ』とか『私、占い出来るんだ』とか急に言い始めるのとは訳が違うのである。
軽口を言った男子たちが気まずげに頭をポリポリ掻いていると、周りの女子たちからお叱りの言葉があった。腰に手を当てて『怒っていますよ』アピールをしている。
「ちゃんと謝りなさいよ、男子!東風谷さんに謝るか、必勝祈願して隣町の高校に行くかのどちらかだからね!」
「マジで!?俺らカチコミに行かされるの!?」
「謝るから勘弁してくれ~!」
これには流石の男子たちもお手上げだ。両手を合わせて拝むように謝る彼らを、彼女はやはりニコニコと微笑みながら許した。
当然、女子たちも冗談で言っていたので、そんな男子たちの様子を見て彼女たちも笑っている。緑髪の転入生が持っている朗らかな雰囲気がクラス全体に行き渡っているような感じだった。
「聞いたか、夏目!あのコチヤって女子、神社の巫女さんだってよ!くぅ~、巫女姿を見てみたいぜ!」
「巫女…」
ニヤケ面でバシバシと背中を叩いてくる西村を尻目に、夏目は彼女を見つめていた。悪意ある妖が持つ特有の嫌な感じは無い。しかし、言葉には表せない何か大きな力を夏目は感じ取っていた。
「おい、そろそろ休み時間終わっちゃうぞ。西村、辻。早く戻ろうぜ。ほら、夏目も」
「あ、ああ、悪い。今行く!」
いつの間にか予鈴が鳴っていたらしく、北本が夏目たちを急かす。午後の授業まで後5分も無い。彼らは慌てて自分たちのクラスに戻るのであった。
「っていうことが学校であったんだ。ニャンコ先生はどう思う?」
家に帰った夏目は、すぐさま今日の出来事を相談した。しかし、その相手は人間では無い。彼の名は
元々、斑は招き猫型の呪具に長期間封印されていた。偶然ながらも夏目がその封印を解いてしまったことで2人は出会い、その縁から彼は『ニャンコ先生』という名で夏目を他の妖から守る用心棒となったのである。
ただし、招き猫型の依代に身体が馴染んでしまった斑は、でっぷりと太った猫のような姿で普段を過ごしている。これは実体ある姿であり妖力の無い人間にも見えるので、夏目以外の家人の前では普通の飼い猫として日々を送っていた。
「己の霊力や妖力の強さによってはそういう事もあるかもしれん。害は無いはずだ。ほっとけほっとけ」
「ほっとけって、ニャンコ先生!」
斑が座布団の上でノンビリとしながら答えると、夏目は彼に詰め寄る。自分だけならまだしも、学校で何かあれば大勢の人たちに害が及ぶかもしれないのだ。
しかし、斑はその短めの前足をヒョコヒョコと振りながら夏目をあしらった。
「確かに緑色の髪とは私も聞いたことが無いが、分社を幾つか持つほどの大神の巫女なのだろう?強大な神格から祝福を与えられれば、そういうことがあってもおかしくない。もしかしたら、その小娘も妖が見える者なのかもしれんな」
「妖が見えるかも…」
「とはいえ、田沼の父親のように神格に気に入られて妖は見えなくとも力だけは持っている、というパターンも有るだろうから大きな期待はするなよ」
夏目の友人に
そして田沼の父は、近所の八つ原という地域にある寺の住職だ。彼に妖力は全く無く、妖が見えない者なのだが僧侶としての修行をしたことで法力を得た。更に、どこぞの神格に気に入られたことで強力な加護を受けたのだが、力を得ても本人は妖を見ることも感じることも出来ないままだったので、その自覚が全く無いという人でもあった。
「少なくとも、今日のお前からは妖の残り香は感じられん。気にするなってことだ」
妖に詳しいどころか、妖そのものである彼にそこまで言われると流石の夏目も反論出来ない。心の端にシコリが残るものの、夏目は自分を納得させて夜を過ごすのであった。
あの緑髪の女子が転入してきて一週間ほどが経った。
あれから夏目は何度か彼女を学校で見かけたが、怪しい素振りは全く無い。『やはり先生の言う通り、俺の心配しすぎだったか』と夏目も安堵し、今度機会があれば彼女に話しかけてみようかとも思っていた頃だった。
「大変じゃ、大変じゃ。おい、あの話を聞いたか?」
「なんじゃ?何の話だ?」
(ん…?)
学校からの帰り道。夏目は2人の妖が世間話をしている声を聞いた。
一般の妖たちは人間を見下している者が多く、自分たちの姿を見られたり声を聞かれたりすると激怒する妖も少なくない。この2人もそういう妖であれば面倒臭いので、夏目は彼らに関わらず通り過ぎようかと思ったのだが、妖の片割れが何かに恐れているような雰囲気を出していたので、ついつい気になってしまった。
夏目は靴紐を結び直す振りをしながら、耳の意識を妖たちに向ける。彼らは夏目がコッソリ聞いていることに気付くことなく語り出した。
「最近、余所の地から途轍もない力を持った大妖がやってきたらしいのじゃが、あの山を新たな住家にしたらしいぞ」
「なんと!大妖とな!?」
妖が指差す先を盗み見て、夏目はゲンナリしてしまった。そこは夏目の家*1にも割と近い山なのだ。家から徒歩でも十分行ける距離にある。正直言って、妖関係の面倒事は勘弁して欲しかった。
「だが、あの山の森にも力を持った妖は居たはずだろう。下級の妖たちを率いていた白き翼の…。その者たちは一体どうなった?追い出されたのか、それとも…喰われてしもうたか?」
「それが、その大妖に屈服したらしい。あまりにも隔絶した力じゃった故に戦いにもならず、率いていた一派ごと大妖の傘下に降った、と聞いた」
「そ、それほどの力を持った者がこの地にやって来たのか…!」
聞いていた方の妖が怯えたような声を出した。会話をしている彼らは、恐らく弱い妖だ。妖の世界は弱肉強食。弱者は強者に翻弄されるしかないのだ。
同時に、彼らの話を聞いて夏目もある記憶を思い出していた。夏目はあの山の森に行ったことがある。そして、森の妖たちを統率していた白い翼の妖のことも知っていた。
「リオウ殿も可哀想に。人間に封印され、最近やっと解放されたかと思えば余所者に降らざるを得んとは…」
「恐ろしや、恐ろしや…」
怯える妖たちはそのまま歩き去って行く。しかし、夏目はショックのあまりそこから動けなかった。『リオウ』と呼ばれた者こそ、夏目の知己の妖だったのだ。
「そんな…あのリオウが…?」
立ち呆ける夏目の口からは、ただただそんな呟きしか出て来なかった。
「私には及ばぬが、それでもリオウは上級の妖だ。その小物たちの言っていたことが本当だとすると、噂の大妖とやらは相当な力の持ち主だな。止めとけ、夏目。お前が首を突っ込んで何とかなる話じゃない」
その後、我に返った夏目はすぐさま家まで走って帰り、斑に事情を説明した。しかし、彼は首を横に振って夏目を止める。斑は妖だが、割と現実主義者だ。危険だと分かっている所に夏目が向かうことを良しとはしなかった。
「それでも、何とかしないといけないんだ。黒ニャンコは…リオウは人を愛していた。もしも、その大妖が人を襲うような奴だったら、配下にさせられたリオウは誰よりも辛い思いをしてしまう。俺はそんなことになって欲しくないんだ…!」
リオウは人を愛した妖だった。昔、リオウが人の子どもに化けて家畜を襲いに行った際に、狐用のトラバサミに掛かってしまったことがあったという。しかし、そんな罠に掛かり動けなくなったリオウを助けたのは1人の猟師の男だった。恐らく、助けた彼はリオウのことを普通の子どもだと思ったのだろう。だが、助けられたリオウはその人間のことを忘れられなかった。
その後、リオウは何度も人に化けて猟師の男に会いに行った。妖と人が友になったのである。もしかすると、その頃には男もリオウが人ではないと感づいていたのかもしれない。しかし、それでも男はリオウと友で在り続けた。夏には縁側で共にスイカを食べ、正月には男の家族に餅を貰って一緒に食べるほどの仲だった。
だが、ある日。リオウは祓い屋に家畜を襲う悪しき妖として黒い招き猫の依代*2に封印されてしまう。長い封印だったがそれを夏目が偶然解いてしまうやいなや、リオウはすぐに友人の男に会いに行った。だが、男は既に天寿を全うしていた。妖にとって人間の一生は短すぎたのだ。
結局、リオウは部下の妖たちを纏め直し、『私はもう人里には下りてこない。そして私が居る限りはこの森の妖に人を襲わせない』と夏目に約束して住家だった森へと帰っていった。それは未だに人を愛するが故の言葉だと、彼の記憶を見た夏目はすぐに分かった。分かってしまったのだ。
そんな過去を持つリオウを、夏目は無視することなど出来なかった。
「ゴメン、ニャンコ先生。俺はリオウに会ってくる。あの山の森に行ってくる」
「この阿呆め!それがどれほど危険なことか分かっておるのか!」
斑は何度も止めた。しかし、夏目は諦めない。夏目は他人とは一歩引いて接する性格だが、同時に情が厚く、人にも妖にも強く感情移入してしまうことがある一面も持っていた。優しい、優しすぎるくらい純粋な心を持っており、それが危うささえも感じさせてしまう少年だった。
「大妖に一呑みにされても知らんからな!お前が喰われれば友人帳は私の物だぞ!」
斑がプイッとそっぽを向きながら言う。『友人帳』。それは夏目の祖母、夏目レイコが唯一遺した一冊の冊子だった。
今は亡き夏目の祖母、レイコも妖を見ていたという。強力な妖力を持っていた彼女は多くの妖をイビリ負かして、自分の子分になった証として紙に名を書かせ集めた。持つ者に名を呼ばれれば決して逆らえない契約書の束、それが夏目レイコの『友人帳』。夏目は遺品としてそれを受け継いでいた。そして、亡くなったレイコの代わりに、彼女と同じくらいの妖力を持つ夏目が名前を奪われた無数の妖たちに名前を返しているところだった。
しかし、この友人帳を欲する妖は多い。なにせ、これさえあれば名前が載っている妖たちを自由自在に使役できるからだ。その為、友人帳を欲して奪いにやってくる妖も多く、夏目はよく襲われる日々を送っていた。
そして、それは夏目の用心棒をしている斑も同様だった。彼も、元は友人帳を奪おうとした妖の1人だったのである。だが、紆余曲折を経て夏目と斑は約束を交わした。『夏目が途中で命を落としたら、友人帳を譲る。それまでは斑が力を貸してやり見届ける』という約束を。
故に、夏目がさっさと死ねば、斑にとってはありがたい話でもあるはずだ。しっかりと忠告もしているのだから約束にも反していない。しかし、彼の表情に嬉しさは無く、浮かんでいた感情は憤りだった。何故なら、この斑もまた情深き者の1人。彼はもう夏目に情が移ってしまっていたのだ。
「ああ、友人帳は置いて行くから、もしもの時は…よろしく頼むよ、ニャンコ先生」
「ぐぬぬ…レイコの傍若無人なワガママっぷりが、こういう変なところに遺伝しておる…!」
斑の脅しにも意に介さず、むしろ夏目は彼に友人帳を託した。そして夏目は夕食を食べ終えると夜を待ち、藤原夫妻が寝静まったところを見計らうと外に出かけようとする。口先だけではなく、彼は本当に1人でリオウの元へ行こうとしていた。
「…はぁ、全く仕方あるまい。待て、夏目。私も一緒に行ってやる。念の為、友人帳は肌身離さず持っていろ。留守にしている間に、その大妖とやらに盗まれたら本末転倒だからな」
「先生…」
そんな夏目の様子を見ては、流石の斑も最後は折れるしかなかった。彼は大きな溜息を吐きながら、預けられた友人帳を夏目に突き返す。だが、その呆れたような声色の裏には、夏目を心配する思いが確かに宿っていた。
「リオウとその一派を降したとすると、奴本人は大妖に警戒されて接触は難しいかもしれん。夏目、まずは
「ありがとう、ニャンコ先生!行こう!」
やはり斑は頼もしい。闇雲にリオウを探そうとしていた夏目に、道を示してみせた。紅峰とは、右目に蝶の仮面を付けた人型の女妖だ。リオウの配下であり、斑の古い知り合い。そして、夏目とも顔見知りの妖だった。
まずは彼女から探すべきだという斑の意見を夏目は受け入れて、2人は夜を駆けていくのであった。