『 向日葵の 眼は洞然と 西方に 』 川端茅舎

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西方の向日葵

 休日だというのに雨上がりの夏の夜はひどく蒸し暑くて、呻くように何度も目が覚めている内に、いつの間にか日が登りはじめていた。汗で冷え込んだ体が煩わしくて、洗濯機にシャツを叩き込み、項垂れながらシャワーを浴びた。降りかかる水滴は暖かくても、どこかでぽっかりと空いた穴がプールみたいに満たされないあたり、どうやら冷え切っていたのは心の方らしい。烏の行水の如く浴室を出て、バスタオルを引ったくった。

 冷蔵庫で冷やされていた缶コーヒーは新聞のインクのような味がした。くどいほどに苦いだけで、店で飲むそれとは違って美味くもない。泣きたいときに限って涙が出ないような、そんなもどかしさだった。一気に呷って、尻目にカレンダーをチラリと見る。

 

 七月の初旬、某日。彼女の命日。その七回忌だった。

 

 病死だった。ありふれた死だった。

 けれども、それが正しい死かと問われると、認めがたい死だった。

 

 生来から病弱な女だった。子供の頃から風邪っぴきで、それが誕生日であっても夏風邪をこじらせることも珍しくなかった。高校の頃に付き合って、大学の途中から同棲するようになってからもそれは変わらなかった。だからそのうち、性質の悪い風邪から肺炎にまで発展して、入院しても病状が回復することなく、そのまま亡くなった。しばらくは医者を恨んだ。やがてそれも疲れ果ててあまり考えないようにすると、今度は彼女が正しく死ぬことができなかったこの世の不条理というものに頭を悩まされる羽目になった。

 

 太陽のような女だった。昼間の活発な陽光よりも、暮れ方の静謐な陽光を誰かに届けることが得意な女だった。そのくせ自分がどれだけ病で曇れども、隣にいる人間には笑っていてほしいなどと要求してくる強欲で傲慢で、それでいて不意に見せる笑顔がどれほど男にとって蠱惑的な凶器であったかなどかけらも理解していなかった、度し難いほど身勝手な女だった。

 

 そのような女だったから、病による苦痛にまみれた死ではなく、老いによる穏やかな死こそが彼女の正しい死であるべきだと、ずっと思っていた。

 

 今はもう、後の祭り。

 

 

 

 

♯♯♯

 

 

あの日、線香花火を見ていた

 

針一本落としても、なにかが崩れてしまいそうな灯火をずっと見ていた

 

その火が、夏の夜に消えるだなんて気付かないまま

 

あの日、ひとりでに溶けていくのをずっと願っていた

 

 

♯♯♯

 

 

 

 彼女の眠る霊園は小高い丘の上にあった。墓石にはもう彼女の家族が参っていたのか、もう花束が供えられていた。珠玉混淆な花々の中で、向日葵の花が一際目立っていた。

 詩人のような女だった。彼女は向日葵の花畑が好きだった。理由を聞くと、どんな時も太陽と見つめ合う一途なところ、なんて気取った言い方をして、毎年夏が来れば隣町にある向日葵の花畑がある大きな公園に行こうと誘っては、いつまでもその花畑を穏やかに眺めていて、僕はその横顔をずっと見ていた。

 

 今ではもう、一人で見に行くほうが多くなってしまった。彼女が亡くなってから、その面影を追うように。僕一人でやってきても、向日葵はいつも太陽を見つめていた。それをぼんやりと見ていると、いつしか、錐で胸を刺し貫かれるような気分になって、それが不快で仕方がないのに、僕は一人、何年も懲りずにその様を見続けていた。

 

 彼女の墓石を濡れたタオルで拭う。暑い日差しで熱された安山岩が冷えていくのを感じると、墓石からタオルを離した。やがて持ってきた線香数本に火をつけて供え、手を合わせながら、献花された向日葵を見る。花屋で向きを整えられたのか、太陽ではなく正面を向いていた。ずっとなにかを見つめる黄色い色彩の輪が、もう、十分だろう。いつまでもあいつの姿を追っても生き返りはしないのだ。そろそろ、けじめをつけるべきだ、と僕に迫っているような気がした。

 

 ——今年は、暮れ方にあの向日葵を見に行かない? 夕陽に照らされているのも、きっと綺麗だと思うの。

 

 不意に、あの亡くなる一ヶ月前の彼女の言葉を思い出した。予定していた日の前日に、風邪をひいて、そのまま亡くなったばかりに、終ぞ叶うことがなかったその約束は、どうしても彼女の亡骸を思い出してしまうから、僕は暮れ方にあの公園に行かないようにしていた。

 お前は今まで忘れたふりをして、見なければならないものを見ないようにしていた。本当にけじめをつけるならば、彼女の死と向き合い、そしてあの約束を果たすべきなのだ。向日葵は僕を見つめて責めていた。なんだかそれが癇に障って、わかってるよ。そんなこと。と僕はいつの間にか吐き捨てて立ち上がった。

 向日葵は、ずっと前を向いていた。

 

 

 

 

 

♯♯♯

 

 

抜け殻は黙して空を仰ぐ
 

 

群像劇が終わった後の毎日は空しかった
 

 

西に命が沈むたび、過去が問いかけてくる
 

 

どうして君はそこにいないのか

 

君はいま、どこにいるのか
 

 

そもそも住む世界が違うのに
 

 

 

♯♯♯

 

 

 

 

 

 公園についた頃には、夕焼けが始まり、空が朱と金に染まろうとしていた。日が登っていたときに訪れていたであろう人々は次々に帰路についているようだった。僕はその流れに逆らうように見知った道を歩く。歩道に灌木の茂みがある。庭園の小径らしく拵えた道がその植込みを縫っていた。芝生を縁どる散歩道はどこまでも続き、分かれ、そして増えていった。

 やがて辿り着いたそこは、一面の橙であった。朱と金の空から生まれ落ちた塗料がそのまま昼間は快活な黄色だった向日葵に塗られたようなのが、辺り一面に広がっていた。そこかしこに浮かぶ雲は赤く、紅く、朱く、黄昏は遠い果てまで続いている。秘密の花畑は煌めいていた。奇蹟のように美しい夕陽を、案の定向日葵は一斉に見つめていた。

 

 僕はようやく、彼女が見たかったものを初めてこの眼に映した。彼女が美しいと感じていたであろうその世界には、僕以外の誰もいなかった。

 気がつけば、僕は河川敷の堤防めいた小高い坂に座り込んでいた。誤解を恐れずに言えば、見惚れていた。向日葵ではなく、あの、静謐で、考える限り綺麗な粒子でできていて、硝子のように透き通ったあの夕陽に。光はまだそこかしこにあふれているのに、一番星と月がひっそりと浮かび、雲が刻々と姿を変えていた。木々の根元には暗闇が忍び込もうとしているが、その気配はまだ弱々しく、夜の訪れまでにはもうしばらく猶予がある、僕が一番好きな夕方だった。

 

 だがしばらくして僕は情けなくなった。空は奇麗だろう。けれどもこっちの気持ちは弾まないと来ている。黄昏はあんなにも綺麗で、僕はこんなにも見惚れている。

 

 だがそこに彼女はいないのだ。そればかりがこの光景に水を差すように、宝を見つけた者にナイフをつきつけるかのように、僕の心を揺すぶっていた。

 

 今朝飲んだ缶コーヒーのハズレみたいな味がぶり返してきたような気がした。流石に、これ以上いると、この美しい光景が穢されるように思えたので、僕は立ち上がり、背を向けて去ろうとすると、不意に、心臓を握られたような感覚に陥った。

 

「————帰るの?」

 

 いつの間にか、僕の隣に人影があった。忘れもしない、ウィスパーボイスに思わず振り返った。

 

 ——————。

 

 くせっ毛みたいなパーマで、眠たげでアンニュイなタレ目をこちらを見つめる姿は亡くなったはずの彼女だった。白いゆったりとしたブラウスにベージュのスキニーのラフな出立ちの彼女は、在りし日に二人で此処に来たときの姿と寸分違わない。けれども西日に背を照らされて、光が薄く透過しているその姿は、彼女が幽霊であると僕に確信させた。

 

 

 

 

♯♯♯

 

 

 

蜃気楼が揺らめいていた

 

 

♯♯♯

 

 

 何故ここにいるのか、とか、どうして今になって、とか、言いたいことはたくさんあった。それでも、確かなことは、僕は再び、この橙の世界に腰を下ろすことを余儀なくされたということだ。

 なんというか、そう、いっぱいいっぱいだった。思わず、はあ、とため息をついた。

 

「あら、ため息なんてついたら幸せが逃げるわよ?」からかうように彼女がくすくす笑う。

「……君ね」

 

 君が死んだ瞬間から幸せなんてとっくに逃げてる。そういう意味をこめてじろりと見る。すると彼女はばつが悪い顔を浮かべた。

 

「……誰かと付き合い始めても別に気にしないのに。本当に、一途な人」

「悪いかよ」

 

 いいえ?  と肩をすくめる彼女は、飄々とした態度を崩そうとはしなかった。けれども西日を見つめる向日葵をみて、ふう、とため息をついた。

 

「おい、幸せが逃げるって言ったのは君だろ」

「これは幸せを噛み締めてるの。どこかの誰かが熱烈に愛してくれるおかげでね」

 

 そういってにっこりと笑う彼女は太陽だった。呪いだ、と僕は思った。こいつがあまりにも愛おしいのは、この幽霊がこんな質の悪い呪いをかけたからだ。そう思わずにはいられなかった。ああもう、ちくしょう。くそったれ、好きだ。

 

 ————————。

 

 そうしてしばらくの間、僕らは何も言わずに花畑と夕陽を見ていた。段々と、薄紫にぼかした様な色になっていく空とともにいなくなっていく、橙の世界を噛み締めるように。チラリと、横を見る。あの時見ていた、穏やかに向日葵を見つめる彼女の横顔のままだった。

 

「…………。ごめんね」

「————え、」

 

 ぽつりと発した言葉に、何が、と尋ねると、彼女は「貴方を置いていったこと」と端的に言って、耳にかかった髪を触った。言い出しにくいことを話題に出すとき、よくする彼女の癖だった。

 

「私のことそんなに好きでいてくれてるのに、迷惑ばっかりかけて、結局今まで貴方を苦しませてる。だから」

「……迷惑だなんて思ってない。そりゃ、勝手に死なれたのは苦しかったし、辛かった。でも、君が謝ることじゃないだろ」

 

 人は、正しく死ぬべきだ。彼女は病弱を克服し、老いるまで健やかに生きるべきだった。でも、誰しも天寿を全うできるわけじゃない。彼女だってそうだ。だからって、正しく死ねなかったことを責めることなんてできるものか。

 

「うん。やっぱり、貴方はそう言うか。……でもね、さっきまで泣きそうになってたの見てたら、やっぱりそう思わずにはいられないわ」

「……じゃあ、僕が悪いだろ。君に勝手な罪悪感抱かせた、僕が悪い」

「いいえ、私の方が悪いわ」

「いや僕が————」

「私が————」

 

 

『…………』

『……………………っ』

 

 なんだか馬鹿らしくなって、ぷ、と風船が弾けるように、僕らは吹き出した。ああ、思えば君はそういうやつだった。自分は何かで曇れども、悪いのは自分だからどうか貴方は笑っていてくれなどと宣う愛くるしい人だった。

 ひとしきり二人で笑っている内に、もう夕焼けが、暗がりに飲み込まれていた。夜になると光がなくなる。この世界は、驚くほど従順に、夜に飲み込まれていく。腕時計の短針は七を指していた。

 

「ね、今更だけどさ。なんで私は向日葵が好きだったか、知ってる?」

 

 少し体を僕の方に寄せながら、彼女はそう尋ねた。

 

「…… どんな時も太陽と見つめ合う一途なところ、だろ」

「ふふ、そう。そういえばそんなこと言ってたわね。でもね、ちょっとだけ違う」

 

 ええ、と困惑を隠せない声音が思わず出た。彼女はそんな僕を見てくすりと笑った。まあ、あの時は恥ずかしくてちょっと誤魔化しただけなんだけどね、なんて話す彼女は、やっぱり恥ずかしそうだった。けれどその態度を振り払うと、あの時のように気取った顔を浮かべた。

 

「正解はね、貴方よ。貴方がこんなにも一途に私を好いてくれるのが、向日葵みたいだ、って思ったからなのよ」

「————君ね」

 

 そういうこと言われると心臓が止まってしまいそうになるだろう。

 そのまま君みたいに、死にたくなるだろう。

 

「あら、それは駄目よ。貴方はまだ死んじゃ駄目なの。貴方はこれから、前を向いて、幸福に生きなきゃ駄目なの。いつも笑っていなきゃ駄目なの」

 

 彼女は困った顔を浮かべて、僕をたしなめた。

 ……くそ、ずるいだろう。それは、あまりにも残酷じゃないか。

 僕はこのまま、君と一緒にいたいのに。一緒にいれたら、それでよかったのに。

 もう耐えきれそうになかった。

 

 太陽が沈めば、向日葵は下を向く。西方は死の象徴だ。太陽が沈んだ時、向日葵は哀しくて、悲しくて、下を向かずにはいられない。

 誰もいないことをいいことに、僕は彼女の白くうっすらとした身体を抱きしめて泣いた。冷たくて、煩わしくて、辛くて、嫌で、苦しいもので出来たものが眼から溢れて止まらなかった。

 その間彼女は優しい顔を浮かべて、僕に抱きしめられていてくれていた。

 

 

 

 

♯♯♯

 

 

それでも僕らは、共に今を生きられなかった
 

 

あれほど愛した世界はあまりにもあっさりと消えた
 

 

蜃気楼は掻き消えて、線香花火は空しく堕ちた
 

 

向日葵が恨めしい
 

 

太陽は登るのに、君の足跡は消えたままだから
 

 

 

♯♯♯

 

 

 溜め込んだものを全部吐き出して、掻き捨てて、最後には情けない僕だけが残った。彼女は終始、僕の身勝手な悲嘆を受け止めてくれた。僕はどうしようもなく強欲で傲慢だった。彼女に正しい死を求めながら、心の何処かで彼女にとって正しくない僕の死を望んでいたから。どうしようもない自己矛盾だった。

 そうして自己嫌悪を募らせていく内に、だんだんと、彼女の姿は蛍のように淡い光を伴って、薄くなろうとしていた。

 ……————ああ。

 別れの時がきた。

 淡い光の膜を纏った彼女は浅ましい僕の目をまっすぐ見つめて言った。

 

「うん。やっぱり貴方は生きるべきよ。貴方は私の分まで生きて、笑って、幸せで、そして穏やかに正しく死ぬの」

 

 彼女は残酷だ。それが僕にとってどれだけ過酷なことかわかった上でそんなことを言うのだから。

 

「正しく死ななかったら? あっちで会ったらすぐに振ることにするわ」

 

 しかも幽霊なのでこんな質の悪い呪いをかけてくるのだ。ああ、もう、くそ、でも好きだ。

 

「けど、そうね。正しく死ねたらあっちで結婚して、生まれ変わってもずうっと一緒にいましょうか」

 

 前言撤回。彼女はあまりにも天使だった。好き。愛しい。可愛い。覚えてろ、この太陽の擬人化め。

 

「ふふ、ええ、ずっと覚えているわ」

 

 僕らはお互いを抱きしめて、でもお互いの顔が見えるように額を合わせて、言っても言っても言い足りないくらいに愛を囁き続けた。まだ言葉を伝えられるうちに、とにかく何か言いたかったから。

 光が満ちていく。彼女の姿が消えていく。

 

「そういえば今まで貴方はたくさん私に一途な気持ちを込めてくれてたけど、私は恥ずかしくてちゃんと言えていなかったから。だからせめて、これだけは言わせてもらうわ。

 ————貴方のことを、心からお慕いしています。先に貴方を置いていった不束者ですが、これからも、来世でも、末永くよろしくお願いします」

 

 彼女は最後に、額を少し離しながら、ちょっと名残惜しげな顔をして、でもとびきりの笑顔を見せた。

 僕がそれに見惚れていると、ちゅっ、と唇に柔らかな感触。それが何かを理解する前に、ついに光で満ちて、目の前は真っ白になっていった。

 

 

 

♯♯♯

 

 

 

 

 

 

 

 

♯♯♯

 

 

 

 気がつけば腕時計の短針は真夜中を指していた。随分と眠っていたらしい。昨日の夜の雨の湿気は抜けていなくて、蒸し暑かったけれども、煩わしいほどではなかった。

 向日葵の花畑は眠っていた。いずれ訪れる夜明けを待っていた。捉え方の問題だろう。向日葵は太陽の死を嘆いているのではなく、太陽との一時的な別れの間眠っているだけに過ぎないのだ。

 座り込んで寝ていたせいで固まった足腰に顔を顰めつつ、僕は晴れた夜空の下帰路についた。

 

 

 今日は七夕。天の川が遠く青白く流れていた。

 

 

 

 

 

 



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