灰色のセダンが、海岸線沿いの道路をひた走る。
あまりの車の少なさに、世界にはもうこの車だけしか残っていないんじゃなかって、そんな錯覚を覚える。
これが夏なら、あるいはもっと気分も高揚したかも知れないのに、私のそんな旅行気分を山眠る今の風が引き裂いて消した。
窓から見えるのは、重く分厚い曇天とそれを写したかのような鈍色の瀬戸内海。
この冬の寒さも、暗い空も、不気味なぐらいに静かな海も、通り過ぎる街灯も、みんなみんなが私を責め立てて来る。
黙っててくれ。 じゃあどうしろって言うんだ。 お前たちは責めるだけで、誰も助けてなんかくれやしないじゃないか。
……我のことながら、随分と遠くまで逃げたものだ。 今頃、私の親友たちはどうしているだろうか?
大わらわなのは目に浮かぶけれど、さっさと私の事なんか忘れて、普段通りに生きていて欲しいと願うばかりだ。
家を捨て、肩書を捨て、今を捨て……
捨てて、捨てて、たくさん捨てた。
残ったのは病に蝕まれたこの体と、自分で自分の人生に幕を引きたいと言う我儘に付き合ってもらった運転手だけ。
「しかし海なんて何年ぶりだ? 東京に海なんて無いし、酒飲むようになってからは市場とか酒場とかそっちのほうに行っちゃうしな」
目的地まであと10数キロと言ったところで、その運転手がボソリと語りかけた。
いや、東京湾があるし。 いやでも、普段ずっと渋谷や新宿に居たらそう思えるのも仕方ない……のかも?
「市場……美味しい、んですか?」
「滅茶苦茶旨いよ。 魚介はまた日本酒と合うんだこれが」
「はぇ~……」
彼の話す内容がいまいちピンと来なくて、思わず気の抜けたふうに返事を返してしまう。
何気ない雑談を交わし、私の知らないことを彼が楽しそうに話す。 私達の会話テンプレートの一つだ。
お酒、競馬、麻雀、漫画、クラブ。
思い出してみるとろくでも無いことしか教えてもらってない気もしたけれど、未知の世界の水先案内人はそれらをとても楽しそうに語ってくれた。
こうして話して、普段どおりの彼に安心感を覚える。
しかしてそれは麻酔のよう、いやこの場合は麻薬と言うのが適切なのかも知れない。 効き目が良過ぎて、自分が何をしようとしているのかさえ忘れてしまいそうだ。
それからもいくつか雑談を交えてから、運転手は少し間を置いて、まるで崖から崖へ飛び移る人のような声色で私に問いかけた。
「なぁ、聞いてなかった事なんだけどさ……なんで淡路島なんだ?」
「えっと、昔……何かで読んだんですよね」
「読んだ?」
「その……淡路島で、私と同じ事をする人が主人公のお話を」
「…………」
「それに、ああっと、淡路島には綺麗な水仙が咲いてるみたいで」
「……まぁ、最期ぐらい綺麗なもん見てぇか」
おそらく浮かんだであろういくつかの疑問を、無理やり飲み下して運転手は返事を返した。
横目に見る彼の顔は、酷い痛みに耐える苦悶に満ちたもので……いつか見た輝かしいそれとは全く違っていた。
私は彼にこんな顔をして欲しかった訳じゃない。 こんな顔を見たかった訳じゃない。
胸の奥がギュッと締め付けられる。 源で押し込めていた罪悪感と悲壮感が氾濫して、思考の海が大荒れになる。
分かっていたはずでしょう? 分かっていたつもりでしょう?
貴女のその選択がどういう事か。 それが貴女の周囲にどんな影響を与えるのか。
いいえ。 貴方は想像したつもり。 仮定に仮定を重ねて想像を積み上げて築き上げたお城は砂上の楼閣よりも脆いものよ。
自分の我儘で巻き込んだ彼がどうして此処にいるのか、置いていかれた友人が今何を思っているのか。
いいえ。 貴方は考えたふりをしただけ。 都合のいいように現実を歪めて、自分の望みを押し通そうとしただけ。
じゃあどうすれば良いの? 願望を実現するために行動することは悪いことなの? あの窓が開かない最上階でじっとしていろって言うの?
どうしたらどうすればどうやったら。
「1個さ」
頭が渦を巻いて呑まれ溺れそうになった私を、ピシャリと運転手が引き上げる。
「1個、ズルい事言っていい?」
「……なんですか?」
「俺さ、お前と一緒に酒飲んで見たかったんだよね。 実は」
「お酒……ですか」
「うん。 まぁ、最初は苦いだけしか感じられないかも知れないけどさ。 それ見て笑ったり、あれやこれや勧めたり、お前の好みの酒見つけたりさ」
何年かしたら成人だろ? と言ったこの人はとても楽しみそうで……
彼は前だけを見て、とても嬉しそうにいつかの未来をみてケタケタと笑う。
「だから今から呑み行かね? 俺の奢りで」
「えぇ!?」
もう出来ないんだな、と続くとばかり思っていた私の後頭部に、彼は予想外の一撃を喰らわせる。
あまりの突拍子もない言葉に、自分は思わず酸欠気味の鯉みたいに、マヌケにも口をパクパクと開閉を繰り返してしまう。
「ぇ、あ、いや……でも私未成年」
「田舎だしバレやしねーべ! 黙ってりゃ!」
「いやだって……私、死にに来たのにそんな……」
「別に今すぐ死にてぇとかそう言うの無いんだろ? だったら美味いもん食って、呑んで、酔って、腹の底から笑ってからにしようぜ」
「でも、いやだって……えぇ……」
「はい決定ぃ、この道走ってて次に見えた看板の店に行こう」
「ほぇぇ……」
「お、アレ飯屋の看板じゃね? 絶景レストランだってよ?」
それらしい反論を考えているうちにも車はグングンと進み、あっという間にその絶景レストランとやらに到着してしまった。
こんなんで良いのか私……
「予約していた伊藤です。 あと待ち合わせなんですけど、もう来てます?」
「いらっしゃってますよ? こちらの席になります」
なんだか思っていたのと全然違うと半ば頭を抱えている私を引っ張りながら、彼は手慣れたように受付を済ませる。
うわうわうわ、私ホントにお酒呑んじゃうの? 大丈夫? 未成年の飲酒って法律的にどんぐらい重かったっけ? いや待って、この場合私より彼の方が重い罪で裁かれないか? これから死ににいくやつが遺すもの前科ってどうなのよ?
「うーっす、賭けはお前らの勝ちな」
「…………え?」
「璃世!」
暖簾で仕切られた個室の中に居たのは、私のことを忘れて生きて欲しいと願った親友二人だった。
思わず伊藤さんの方を見ると、いたずらっぽく笑っていた。
「言ったろ、ズルいことするって」
「ズルいこと言うって言ってましたけど!」
「そうだっけ? まぁ大人はズルいんだよ。 ほれ、奥詰めてくれ、俺が入れねぇ」
「騙したんですか!?」
「いいや? 寄り道だよ寄り道」
「でも!」
「別に。 俺とお前は飯食って呑んで笑ったら出ていくよ。 話す奴が増えるだけだ」
席に押し込まれた私を尻目に、この人は流れるように「生2つ」と注文していた。 許せぬ。
つまり、伊藤さんはこう言っているのだ。
この場を得てもなお死にたがるようなら、予定通り連れてってやる、と。 いや、死ぬ前にちゃんと話ししとけ? もしかしたら、止めに来るやつがいるんだから死ぬな? どうしよう……分からなくなってきた……
「逃げ道、寄り道、死出の道。 どのみちここが現在地ってな」
「伊藤さんの持ち歌になぞらえてもカッコよくないですからね!?」
「俺は別にお前を否定しないけど、だからってそれはこいつらを否定する理由にはならないわな」
私の健気なツッコミをカカッと笑ってかわし、伊藤さんは親友たちの方に顎をしゃくった。
それにつられて私は対面の方に顔を向ける。 二人から投げられる視線が痛い。 私が話せるようになるまで待とうとしてるのか黙っていてくれるのが辛い。
そんないたたまれなさを覚えていると、折よくビールが運ばれてきた。
私はそれをひったくるように受け取ってゴクゴクと煽る。
舌の上で炭酸の刺激とよく聞かされていた苦味が這いずり回り、こんなもの飲まされるなんて罰ゲームなんじゃないかと思う一方で、今の私の心の内によく似ているとも思った。
「……ズルいです伊藤さん」
「だから言ったろ、ズルいって」
伊藤さんは心底美味しそうにビールを飲み干してからそう言った。