領域・
その領域について、オレは何も知らない。
梓はその正体をわかっているようだが、オレはもうそれすら思いつくことはない。
意識が曖昧。
……いや、もう無理だ。それどころじゃない。
考える余裕もない。
ただわかるのは、彼女が言ったことがホントなら……オレはきっと、もうすぐ死ぬのだろう。
「……あークソっっっ、頭回んないよ! ほんとに厄介な呪霊……!!」
舌打ちが聞こえてくるようだ。
それでも、意識を途切れさせないためなのか、彼女は声を振り絞るようにして術式の考察を並べる。
「最初から二体の呪霊だったんだ……! それが重なり合ってて、死んだときに分裂する……。
「生ながら、火車にとられし女の事」がベース。だから二人いるし、身長は2.5mだし、術式は三にきっと関連する」
そのうえで攻撃してくる大火に、梓はふらふらになりながら回避を続ける。
どうやらオレのほうは放っておいても死ぬと思われたようだ。
不味いと思っているが、体は動かない。そして頭もだ。
もうなにをしたらいいのかわからない。
胸に走る鈍痛。体が歪んで、何かが削れていく感覚。これが寿命だろうか。
違うのかな。
考えるたびに、頭に鈍痛。喉は焼けたように痛い。お腹はもうなくなったんじゃないかってほどだ。
「三秒じゃなかった。三時間でもないだろう。ましてや三日なんて、特級呪霊がそんなことを許すわけがない。
だから三分。三分で少しずつ『あの世』に連れて行かれる術式が、この領域のキモ……!」
ああ、だから。
この痛みは魂の痛みなのだろうか。
きりきりと痛む。血が溢れる。穴は空いたら戻らない。
「げほっ、ぐゅっ、あぁぁ喉痛いなぁ! ったく!」
彼女も体をボロボロに焦がし、喉を焼かれ、血で咳き込みながらも戦っている。
オレには何ができるだろうか。──何もできない。
「せっかくできた後輩……こんなところでなくしてたまるかって……!!」
彼女にはもう呪力もないだろう。
手のうちようがない。
詰みだ。
きりきりと。
痛みが強くなってきた。
いや、これは喪失感だ。
何を喪っている?
「……しっかり、しろ、オレ……」
天才だろう。
それが取り柄なんだろう。
ここで動けなくて、どうするんだ。
しっかりしろ、伊野幸人。お前のせいで五条祈は死んでしまうぞ。
……少しだけ、考える余裕ができてきた。
この状態で戦えるなんて、梓はすごい。
オレには絶対無理だ。
けど、オレには考える頭がある。
「『あの世』……つまりは地獄に送る術式ってことかな……それはなにを? 体ごと? どうやって?
体ごと引っ張っていくなら、時間制限はないんじゃ……ってことは……今干渉されてるのは、魂とか……意識とか」
この考察は間違ってないだろう。
けれど、考えるたびに対策がわからない。
だって人間、魂っていうものを自覚できないんだから。
対策ができるとしたら──それで、二人生き残る道があるとしたら。
これ以外にはない。
領域展開。
呪術の深奥。呪術戦の頂点。
相手が領域を展開しているのだから、対策するにはそれ以外にない。
でも、無理だ。
そもそもやり方がわからない。どうすればいいのかも。
そしてもしできたとして、洗練の浅い領域ならば確実に押し負ける。
つまり、生半可な領域ならば、きっとそのまま死ぬ。
使えば呪力は底を尽きるだろう。それ以外にも問題はある。
無下限の領域──『
これは、六眼を持たないオレが発動することは難しい。
無限を知覚できないオレが無限で領域を満たそうとしても、おそらく脳の処理に負担がかかりすぎて──おそらく死ぬ。
一分。
魂の損傷が激しくなってきた。
削られていくのは心。
「──あれ」
幻覚か。
気のせいか。
今、オレは、この感覚と似たものを思い出したような──。
『──領域 展開』
目に浮かんできたのは、見覚えのない情景。
五条悟に掴まれ、その側から見上げている景色。
無量空処。その影響に、オレはおかげで置かれなかった。
だからこそ一人だけ見ることができた。その印の形も、その領域がどんなものかも。
──無理だ。
できるわけがない。
そんなの人間技じゃない。
そもそも、やったところでオレは死ぬ。やってもやらなくても関係なく死ぬ。
ここでその選択を切るより、天命を待ったほうがよくないか?
ポケットの中の紙を、取り出した。
悟から渡された紙。
中に何が書かれているかなんて、わからない。
けれど、それを握りしめた。
「──梓!」
「──」
声に反応し、彼女はオレのほうへと駆けてくる。
美少女の超ちっこい体を持ち上げ、そして一瞬で大火から離れる。
「オレから離れないでね」
「うん!」
紙を親指で撫でる。
震えそうになる体を気力で押さえつけ、既にズタボロな喉から血を零しながら。
できるかわからない。
でも、オレは領域を見たことがある。
あるのなら、どうすればいいかなんて──わかるだろう。
だって、オレは天才だ。
天才で完璧で強くて賢くてえらくてかわいくて、とにもかくにもありとあらゆる分野で世紀の美少女なのだから。
展開された領域が、
領域のせめぎあいは、かくしてオレのほうに軍配が上がった。
──それがたった、2秒限りの展開でも。
領域展開。
その呪力消費以上に、自分の脳で知覚できないほどの処理を行ったことが原因での脳の崩壊。
しかし……それでも、オレはよくやった。
最後の希望だけは守り抜いたのだから。
「龍流崩天」
それは卓越した技術が生み出す絶壊。
無量空所の影響下、完全に棒立ちになった相手に放たれた中綿梓の一撃が──その心臓を、貫き穿つ。
そしてそれだけに留まらず、爪が首と体を分かち、
上半身と下半身が断割され、
そこから更に縦に両断される。
そして、帳はやっと晴れたのだった。
「──あのさ。今回に限っては僕もありえないでしょって思うんだよね」
「そりゃあそうだ。術士歴一ヶ月の子供にこんな重い任務を任せるなんてありえない。
それがいくら強くても──な」
「上の連中かな。彼女と僕の教え子を殺して嫌がらせはいラッキーってか? ──ふざけんじゃねぇ」
「五条家の可能性もある。彼女は家族を呪殺した忌み子だろう? そんな相手がのうのうと生きているのが、耐えられない人間だっているんじゃないか?」
「そういう連中は僕が『結婚』の手段を取ることで潰した。六眼持ちと特異体質の彼女。その子供への期待は反対意見を黙殺して余りある。
だから可能性があるとしたら上じゃない?」
「なるほど。──彼女自身が反転術式を無意識に回してるおかげでなんとか間に合った。脳への後遺症がいつまで残っているのかはわからないが、少なくとも一命は取り留めたぞ」
「ん、グッジョブ硝子」
「誰に言ってんのさ。──って、五条あんた。彼女に対しては本気だったんだな」
「……まぁね。恋愛とかじゃないと思うけど」
ベッドに横たわっている五条祈。
その脳みそは、無限を処理しようとした負荷で
情報を処理しきるまでいつまで掛かるのかは不明だが──それでも、彼女は生きている。
それに安堵を覚えることに、五条悟は安堵を覚えていた。
「あ、センセ。いのちゃんはどうでした?」
「生きてるって」
「ほんと!? ……よかった……」
入ってきたのは、松葉杖をついた着包み少女。
彼女は、近くにあった椅子を引っ張ってきてから彼女をじっと眺める。
「あ、センセ。私、呪術師続けるの難しいらしいんだ」
「…………」
「今回の件で後遺症が残ってしまった。それも肉体ならばまた違うが、彼女の場合は魂にだ。
反転術式では治せない」
「……そうか」
「あ、でもね。結界術を覚えたら『窓』のほうにはなれそうだから、これからそっちにシフトするつもりだよ」
と、準一級術士は告げる。
術士不足が著しい現代。
彼女が抜ける穴はどれほどになるのか。
そして、彼女も。
五条は、目覚めない少女を見た。
今日もこうしている間に術士はどこかで死んでいる。
永遠にも続くように思えるマラソンゲーム。
その果てにあるのが──
「うん、頑張って! わからないことがあったら伊地知に聞けばいいから!」
そうふざけて、湧いた疑問は洗い流した。
「そういえばさ、いのちゃんが持ってるこの紙、センセからの手紙なんだよね? なんて書いたの? ラブレター?」
「別にそんな大層なものじゃないさ」
そう。
こんなふうに握りしめて離さないでいるようなものではない。
そんな価値なんてない。
むしろ怒って捨てるのが当然なくらいの、ただのちょっとしたいたずらでしかないのだから。
少女が去って、一人になった病室。
五条悟は彼女の頭に触れてささやく。
「早く起きてよ。そのときまでこれはお預け」
彼の手に握られているのは、彼女の手の中にある四つ折りのメモ用紙のような簡素なものじゃない。
しっかり封筒に入った、ちゃんとした手紙だ。
「渡せることを祈ってる」
ぴりりりりり、と間の抜けた目覚ましの音がする。
叩いて止めると「お……おは……よう……」とまるでゾンビのような声が朝を告げた。朝から気分が悪くなる。
電池を変えればいい話だが、それはそれとして面倒くさい。
だからオレは電池を変えないことにしている。
「あーねむ……って今日日曜かよぉ!? なんで早起きしちまったんだよ……」
と、思ったがニチアサが見れるのでいいとしよう。
オレが部屋から出ると、わらわらと出てきた弟と妹。
なぜだか久しぶりに見たような気がする二人だった。
その感覚が奇妙で、一瞬面食らう。
「おはよー! 兄貴!」
「おはおは……ねむ」
「おー。おはよう、
「おはよう! とーう!」
まだまだ幼いのに洞爺ってなかなかスゴイ名前だよな、と思いつつ。
オレは二人を追って一階へと降りるのだった。