「──んくー、っはぁ……疲れたなぁ……」
勉強は嫌いだ。
けれど、それでもテスト勉強はしておいたほうがいいだろう。そんな漠然とした理由から、いつも勉強することにしている。
オレは基本的に100点を目指して70点を取るタイプの人間だ。
勉強した問題がわからず、適当にやった問題をさっくりと解けてしまうタイプ。超天才肌と呼んでも差し支えないだろう。
そういう人間なので、正直な話をするとしないほうがいいのだろうが……けれど、オレがこれをしている理由とすれば一つ。
要するに、安心がほしいのだ。
人はいつだって安心を求めている。……らしい。
どこかでそんな話を聞いた。どこだったかは覚えていない。これまでの人生の、無数の物語の一つなのだろうとはあたりをつけている。
そりゃあそうだ。特にオレなんかは、他の人よりも臆病なのだ。
何をするにしても理論をまず立てて、それからでないと何もできない。
ぶっつけ本番でやろうとするとミスをする。
失敗したくない心理。そんなのが働いているのかもしれない。けれど正直に考えると、失敗するとかしないとかそういうのは言っていても意味がないのだろう。
それもひっくるめて『安心がほしい』なのだから。
ということで、テスト期間になるといつでもデスクに向かっている。
勉強は嫌いだ。単純に面白くはないから。
それでも、昔からそこそこはできた。
日本史なんかは教科書をぺらぺらと流し読みするだけでだいたいの内容を把握できたし、理科目については基本的に勉強をしないでも理解ができてしまう。
ケアレスミスで一問程度間違えてしまうことが常だが、それでも内容自体は完璧に入っている。
その他教科も同じくだ。
なんのためにこんなことをするのかわからない。
勉強は大事だ。それは知っている。けれど、それが将来何につながるのかというところにだけは想像が働かない。
──オレは。
オレは一体、どうしたらいいんだろう。
こんな生活が一生続くと思っている。
そしてそれから脱却することはできないと思っている。
諦観か、それとも……。転がした言葉の中には何もない。
空洞。それでしかない。
「──イエーイたっだいまー! パーフェクトお兄ちゃんが帰ってきたぞ愚弟どもー!!」
──だから、そんな声がよく響くのだろうか。
声の発生源をたどってリビングに降りると、そこには下のふたりをぶら下げた兄が立っていた。
「よーユキ。ようようようよう、よーう」
「いきなり何。うざい」
「今の反応、カノジョを思い出すなぁ……。どした? 女装でもしてた?」
「殺すぞ」
「おっ、いいね。それがオマエらしいよ」
と言って、兄はなぜか掛けているサングラスを下ろす。
赤色に染めた髪がやけに眩しい。落ち着きがない色だ。へばりついた弟がその髪を引っ張ると、兄は絶叫した。
「やめろ洞爺! ハゲ、ハゲる! オレの高貴な髪がハゲる!!」
「別に兄貴は高貴じゃなくね」
「辛辣だな!? おいユキ! オマエどんな教育してんの!?」
「オレに聞くなよ……母さんだろ」
「それもそうか」
それで真顔になるのだからあの母は一体なんなんだ。
ソファーに倒れ込むように座った兄が、洞爺を右、瑠璃を左腕にぶら下げて手を持ち上げる。
そしてカットインが入りそうな決め顔をしてから。
「やべぇこれ腕くっそつらい」
「じゃあオレ勉強するから」
「ユキー! オマエ! 兄を助けようとは思わないのか! 薄情者!!」
うるせぇよ。
階段を上がっていく。
「「あ」」
「……は?」
と、二階の廊下で両親と遭遇。
何故か映画泥棒のコスプレをした母と、何故か「うるせぇエビフライぶつけんぞ」とかかれた白い全身タイツを装備しエビフライを天高く抱えた父。
「……」
「「…………」」
ばたん。
「待て待て待てユキなんか反応しろや!」
「ソウダヨー。なんか褒めるとかあるじゃん?」
「オレテスト勉強するので……あの、帰ってもらえます?」
「敬語!?」
「うわーん息子によそよそしい態度とられたー」と言いながら去っていったのは父親だ。なんで母親よりあざとい反応なんだろう。
ため息一つ。
そしてオレは、再び教科書と向き合い始めた。
「……んー」
さっきから、妙に引っかかって仕方ない。
記憶をくすぐられている感覚。
何かを忘れているかのような。
思い出せ、と警鐘を鳴らしているかのような。
ルーズリーフを取り出して、ペンを筆箱から取り出す。
母親が「道具は良いの買え……買え……」と言っていつも購入するジウリスという少し値段の高いルーズリーフ。
その書き心地は素晴らしく、ついつい思考をまとめるために書くようになってしまった。
とりあえず、適当にペンを走らせて──。
「へぇ、イケメンじゃん。なんのキャラ?」
「ひゃぁ──!?」
びっくりした。
単純にびっくりしたのもそうだし、自分の反応にもびっくりした。
まさかこんな女子みたいな驚き方をしてしまうとは……。普通に恥ずかしかったので、紙で顔を隠す。
「なんだなんだいきなりいつの間に入ってきやがったくそあにき」
「そんな驚かなくてもいいじゃん……ていうか、それなんのキャラだよおいユキ、オイオイオイオイオイ」
「すごくうざい……」
咳払い一つ。紙を顔から離して、机の上に置く。
オレは別に絵が上手いというわけではないが、ルーズリーフに描かれていたのはまるでずーっと見てきたかのように細部まで鮮明な、一人の男のイラストだった。
髪は真っ白。サングラスをしていて、その奥にある目は蒼を携えている。服装はカジュアルに黒色で統一されたもの。シンプルな服装だが、堂々とした着こなしだ。イケメンは羨ましい。
見覚えは──ない。
ないが、どことなく引っかかるところがある。
「なんのキャラかは……知らん。適当に描いた」
「オリキャラ?」
「モデルはあるはずなんだけど……」
「わからない、と。なんだそれ」
「なんだろうなぁ」
まぁ、と続けて、兄貴は言う。
「わからないなら──思い出す必要もねぇだろ」
「……は?」
「は? ってなんだよ。辛辣すぎない?
オレ別に変なこと言ってねーよ。忘れたことはいつか思い出すだろ。それまで、変に考えず忘れたままにしといたほうがいいぜって話」
「なんで?」
「人間が一日に思案できることの幅は決まってる」
兄はよくわからないことから語りだした。
「ネガティブな人が他の人よりも無気力なのと同じだよ。
悩むことにすべてのエネルギーを使っているから、それ以上のことをするエネルギーが消えてしまう。つまり、思い出すために悩むことはそれだけ非効率的ってこと」
「……あのさぁ。それ、正論?」
「かもな」
こぼれた言葉は、無意識だった。
「オレ、正論嫌いなんだよね」
言ってから気づく。
心配から声をかけてくれた相手に対しての言い分じゃない。
やってしまった。訂正しようと言葉を紡ごうとして、詰まる。
「……そうか、そうか」
「……は?」
兄は笑っていた。
気分を害してもおかしくないのに、兄はそれでも笑っていたのだ。
意味がわからない。
意味がわからなかった。そんなオレの頭を、まるで最高に面白いショーでも見たかのように笑っている兄が撫でる。
「いや、ごめん。ちょっと──嬉しくてな」
「……嬉しい?」
「ユキが、嫌なことを嫌だって言えるようになったこと。
だってオマエ、いっつも嫌そうにしてても、それを全部呑み込むじゃんか。ガキの頃からずっとそうだ。もっと我儘になってもいいのにって、何回も思ってたよ」
「…………」
「……で。オマエはどうしたい? 忘れたそれを思い出したいのか、それとも忘れたままでいたいのか」
わからなくなった。
まるで、オレのことをずっと見てきたかのような言葉だった。
兄がそんなことを思っていたなんて、オレは全く知らない。
波風立てない生き方。
それが美徳だとされてきたのは、いつからだろう。
適当に生きるためには、適当に人と迎合していったほうが楽だ。
自分を押し通す必要はない。
そう思って、そうしてきた。
けれど。
「…………」
答えられなかった。
オレにはどうすればいいのか、どうしたいのか。
「おーい、兄貴!」
「──洞爺」
沈黙を切り裂いたのは、扉を開いて顔を見せる弟の声。
「モンハンしよーぜ! 三人でやるの、久しぶりだし!」
「おー、洞爺。ちょっとだけ大事な話してるからね、明日でもいい?」
「えー、明日かよー! あとでじゃ駄目なのー?」
「無茶言うなよ。明日ってだけでも結構な条件だぜ? そもそもユキはテスト期間なんだからあんまりゲームやってられないんだ」
「……むー、わかった」
そう言って、弟は引き下がる。
「じゃあ兄ちゃん! 兄貴! 明日やろうなー! 絶対だぞ!」
「……おう」
「ごめんなー」
ばたり、と扉が閉まる。
オレは、決断できずにいた。
──それはきっと、思い出してはいけないなにかだからだ。
2018年、10月31日。
あの日に何が起きたのかは、きっと……。
「何が怖い?」
兄の声だ。
これまでにないくらい、優しい声音だった。
普段ふざけた姿が嘘のような。そんな声。
「……わからない」
返答は、やっぱり簡単だった。
何が怖いのか、オレには何もわからない。漠然とした不安だけがつきまとっている。
それはきっと、すべてを思い出したときに……何かが終わってしまうという、恐怖からだ。
「昔話をしようか」
「……え?」
「オマエが産まれてきたときの頃の話だ」
兄は、そう言って笑った。
オレと兄は七歳差だ。
兄弟としてはかなり年の差が離れている。
というのも、兄とオレは血が繋がっていない。
兄が二歳のときに、父親のほうの嫁が亡くなった。事故死だったらしい。
そして父親と、まだ赤子の兄が残された。
そのあと、父親と母親が再婚する。
そういう関係性だ。
それでも家族としてやっていけたのは、きっと兄がオレを受け入れてくれたからだろう。
「まだガキの頃だったけどさ。すげー嬉しかった。
これからの人生にオマエがいるんだって思うと、すごくわくわくしたよ」
今オレが使っている勉強机に手をあてて。
「これはさ、オレが家から出ていくときのお下がりだよな。
そうなるって思ってたからさ、なるべく耐久性の高いいいヤツ買ったんだぜ。あげるってときに、あんまりいい顔しなかったけど」
「それは……ごめん。あのときは、荷物を載せ替えるのが嫌だった」
「そんな理由だったの?」
なーんだ、と兄は笑う。
少しだけ、申し訳ない気分になった。
「こっちの腕時計はバイトして買ったらオマエにいつの間にか渡ってたやつ。PSPもそうだな。高かったんだぞ、コノヤロー」
「……恨んでる?」
「全然。いや、正直言ったら少しはいらっとしたりもしたよ。でもそれ以上に、ちゃんと欲しいものがあったんだなってなって、よかった。誕生日プレゼントもお年玉もねだらなかったもんな」
「ほしいものは、もうあったし」
「オレはほしいものはいくらでも欲しいね。もらえるっていうのならいくつだって候補を出す」
きっと、これに関してはオレのほうが変わっているのだと思う。
本来は兄のほうが正しいあり方……かもしれない。
いいや、どっちが正しいとか、間違っているとか、そういうのではないのだろう。
どっちもどっちなのだ。
「──オマエの名前はさ。オレの案なんだぜ」
と、兄は言った。
これまで自分の名前の由来なんて、興味を持ったことがない。学校の授業で聞かれたときも、親に聞くのは気恥ずかしくて適当にでっちあげたのだったか。
だから、それは初めて知る事実だった。
「オレは、ガキのときにちょっとだけ他よりも奇特な経験をした。生みの親が死んだっていうな。
正直覚えてないけど、母さんが本当の母さんじゃないっていうので、少し戸惑った覚えもある」
「……うん」
「だから、オマエはそんなことがないように──幸運で、幸せなヤツでいてほしいなって。そういう意味だ」
──伊野幸人。
オレの名前。
子供らしく捻りのない、直球の中の直球なネーミング。
けれど、それはだからこそ、どこまでも思いが詰まっているような──そんな気がした。
「──オレ、思い出したい」
だから、決断する。
封じ込めた記憶の向こう側。そこにいったい何が待っているのか、知らないが。
それでも忘れちゃいけないことがある。
きっと、なくしちゃいけないものがある。
「わかった」
兄は、手を振った。
「大丈夫さ。オマエは間違えることはない」
だって、と続け。
「大事なものは──手放さなかったんだから」
気づけば、オレの手の中には、四つ折りのメモ用紙があった。
既視感。
メモをゆっくりと開いて、その中身を見る。
「……ははっ」
ついつい、笑ってしまった。
そうだ。そうだよな。
あいつはそういうことをする。それがたとえ、どんなに緊迫したことであろうとも。
だからこそ、あいつは──。
『──オマエ、結局何がしたかったの?』
頭を抱える。
すべて思い出した記憶。
その中に、爆弾があった。
それは決定的な亀裂。
選択を強いられる一つの終わり。
夢の終わりが、現実の始まり。
だからオレは選ばなければいけない。
夢か、現実か。
人生なんて適当に生きて、適当に死ぬものだと思っていた。
適当に大学に入って、適当に仕事に就く。
そういうものだと思っていた、量産型高校生のオレに──その選択はあまりにも重たすぎる。
「……はっ」
自嘲。
手の中にあるメモが、少しだけくしゃりと歪んだ。
「ふざけんな、馬鹿。オマエはホントに大馬鹿だ。天才なんかじゃねーよ、バーカ」
どうしたらいい。
どうしようか。
この馬鹿みたいなメモをいくら睨みつけても、結論は出ることはない。
記憶を取り戻した。
それで終わり──ではなかった。
それで終わると思っていたオレにとって、冷水を浴びせられたかのような、そんな。
ぐちゃぐちゃの頭で、からからの喉で、オレは言葉を零した。
亡者のような声だった。
「──浮かれた