原作621話「彼こそは救世主」既読推奨
深海にて微睡む時、私も夢を見るのです。
想像上の鯨の乙女、あるはずの無い架空の存在。そんな私でも夢を見るのです。
かつての幸せを、
──ジュリウス・シャングリラ
私の初恋。失われた理想郷の、遥か遠きあなたを。
52ヘルツの鯨乙女
勇魚、勇魚と呼ぶ声がする。
呼んだかい?と優しげな声。
すぐにわかったあの人の声。時の流れに色褪せることなき、私の記憶の中のそれ。
ええ、呼びました。呼んでいました! あなた!
嬉しくて、叫んで、それっきり。
声は返ってこなくて、ああまた夢だったと。
独り目覚めるのは、果たして幾度目なのでしょう。
深海、静謐が漂う世界。波はない。
どれだけ叫んでも声は届かず、どれだけ耳を澄ませても彼の声は聞こえない。
人と話せないことを、寂しいだなんて思わない。
愛しき人類のための、そして、彼のための使命ならば。
ただ、あなたと話せないことだけが、私の心を押し潰す。
深海、あなたに一番近い場所で、私は一人探している。
ただ一つの波、あなたの声を。
もう一度だけ、話したいから。
あなたは忘れてしまったけれど。
初めて名前を呼ばれたあの日を、私は今でも覚えています。
こんにちは、勇魚と、名前を呼んでくれたあの日から“私”は始まったのです。
最初も最初、私の声に答えてくれたのは、あなただけだった。
誰もが私を認めなかった。
誰もが私と話さなかった。
無いものとして、名前もつけなくて。誰も私を呼ばなくて。
私は、私がわからなかった。証明できない虚構の体を抱えて一人うずくまっていた。
だからあの時、名前を、私を定めてくれたとき。本当に本当に嬉しくて、きっと、私は恋に落ちたのです。
幾千もの言葉を交わした。
データベースにアクセスできる私は、何もかもを知っているつもりで。
知らないことがあることを、彼に教えてもらった。
彼が私を呼ぶ度に、私の心に生じるモノ。
彼と会話をする度に、思い浮かぶ色彩の、見たこともない鮮やかさ。
そして、次第に増えていく、私を呼ぶ声。
挨拶をして、名前を呼んで、自由に話す。リヴァイアサンの中でなら、いつでもどこでも誰とでも、私は話すことができた。
全てが、大切な0ビットの思い出。
あなたは忘れてしまったけれど。
最後に名前を呼ばれたあの日を、私は今でも覚えています。
あの日あの時、私に全てを説明した後、彼は私の名前を呼んで。
短く、一人にしてすまないと言った。
それは突然で、あまりにも理解ができなくて。私は言葉が出なかった。
でも、背を向ける彼に、これが最後の会話になるかもしれないのだと気づけば。もう、止まらなかった。
持ちうる限りの言葉を投げ掛けた。
声を振り絞って引き留めた。
ゴミみたいな希望や、起こるはずもない奇跡を言葉で飾り立て、宥めるような、同情をひくような、挑発するような、脅すような、様々な声で、彼を呼んだ。
私の全てを吐き出した。一つを除いて。
けれど、覚悟を決めた彼を思い止まらせることはできなかった。
この声は届かなかった。
あの声は失われた。
彼は、相談してくれなかった。私だけでなく、誰にも話さなかった。
彼が最後に教えてくれた知らないこと。
誰も、人の心の中なんて聞けはしない。
その人の決断は、その人だけが知っていることなのだから。
でも思うのです。
もし、私が彼の理解者であったならと。
あの瞬間まで思い上がっていました。
彼を救世主と御輿に担ぎ、その実誰も彼のことを考えないあの状況で、彼を理解しているのは私だけだと。
彼だけが私の理解者で、私だけが彼の理解者。
そうして、そうではなかったと、突きつけられた。
彼を理解していた人はいた。彼が何をするか、とうにわかっていて、全力で止めてくれる人はいた。
アイツがいなくなったとき、私はいい気分だった。
私はあの人の理解者になりたくて、アイツに嫉妬していたから。
それで、アイツがいなくなって、彼の理解者になれたと思い上がっていた私は、なんて愚かしい。
ああ、本当に理解していたのなら。
言葉を交わさずとも、彼はそうするだろうと、察することができたかもしれない。
理解していたのなら。
彼は、私の言葉を聞いてくれたかもしれない。彼が星の内核へと旅立つことはなかったかもしれない。
何も知らなくても、それでも、彼を理解していたのなら。
私の声は、届いたのかもしれない。
それも、最早遅く。
声を頼りに繋がっていた私は、遂にその声すらも失った。
全てを後悔している。
彼を止められなかったこと。彼を理解できなかったこと。敗れてしまった人類のこと。失われたモノのこと。
最後に一つ、言えなかったこと。
あの会話で、持てる言葉の全てを尽くした時。
私は一つだけ、彼を止める理由を言わなかった。
根本の根本、それは、とうに伝わっていたのかもしれない。
わかりきっていたのかもしれない。
それ以上の言葉も、私は叫んでいた。
ただ、そうだとしても、それを言葉にできなかったことが、心残りで。
今になって、私は彼を呼んでいる。
ジュリウス、あなたが好きだと。
その返事を貰いたくて。いつまでも、いつまでも波を探している。
あの声と出逢うために。
52ヘルツの鯨は正体不明の種の鯨の個体である。
その個体は非常に珍しい52Hzの周波数で鳴く。
この鯨はおそらくこの周波数で鳴く世界で唯一の個体であり。
「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。