オリキャラ視点かつ、自己解釈マシマシなのでご容赦ください。
「先輩、少しお時間よろしいですか?」
後輩の間桐桜からそう声を掛けられたのは、今日も今日とて特に何の感慨もないまま業務を終えて、更衣室の自身のロッカーを開いた時だった。
愛想は良くても自分から何かに誘ったりすることのない桜に声を掛けられ私は驚いたが、掛けられた会話の内容はさらに私を驚かせた。
なんと彼女、結婚をするらしい。そしてそれに伴って、この職場を辞めるという旨の報告だった。
いわゆる寿退社というやつだ。
彼女はうちで働き始めてから目を掛けていた後輩だ。
決して要領がよいとは言えないが、何事にも懸命で、気立てがよく、ときたま笑顔を零せばその名の通りに花が咲くような愛らしさを持っていた。
そんな彼女が店を辞めてしまうという事はお店にとっては大きな損失ではあったが(その懸命さから、お客様からも評判が良かったのは言うまでもない)、彼女の人生の大きな転機を私は素直に祝福する気持ちになっていた。
仕事の同僚、先輩後輩を抜きにしたところで、私は間桐桜という一人の人間を気に入っていたのだ。
*
お互い制服から着替え、適当な喫茶店に入る。
「それで貴女みたいな美人のハートを射止めた果報者は、いったいどんな奴なのかしら?」
「そんな、いじわるな言い方しないでくださいよ」
私がからかうような物言いをすると、彼女は困ったように笑みを浮かべる。
彼女をからかって困らせることは、私の仕事中の数少ない癒しであった。こういったやり取りをする機会もなくなるのかと思うと、少しだけ彼女の旦那になる男が恨めしい。
私が手振りで話すように促すと、彼女は恥ずかしそうにぽつぽつと自分の身の上を語り始めた。
彼女の結婚相手というのは、高校時代のひとつ上の先輩らしい。彼女が1年生のころから付き合いはじめ、それから今までずっと交際を続けたという事だからもうずいぶんと長い付き合いになるはずだ。
「なんとまあ、ラブコメみたいなことってあるのねぇ」
思わずおばさんのような感想が出てきた私に、桜は赤面をより強くする。そんな様子に嗜虐芯がくすぐられる。
「その彼は、桜にやさしくしてくれるの?」
「はい、それはもう」
「かっこいいの?」
「もちろんです!」
桜を困らせるためにしたはずの質問だが、思ったよりもはっきりと力強い返事が返ってきて私は思わず鼻白んでしまう。
どうやら彼女の羞恥は、彼を誉めるときだけは姿を見せないらしい。なんとまあ、面白いくらいの浮かれっぷりである。
桜の彼への思いや愚痴(といっても、よく聞けば結局のろけの類なのだが)を聞きながら、時間は過ぎていく。
普段は見せない彼女の笑顔や、幸福な二人の生活を聞きながら、私は少しだけ空虚な思いが胸に訪れているのに気づいていた。
ああ、やめておけばよかったのに。傷口を自分でほじくるような真似をして。
そんな声が、自分の心の中に響く。
だけれど仕方がない。私はそれほどに桜という後輩のことを一人の人間として好いていたのだ。
「先輩、それ…」
「ん?」
先ほどまで自分の婚約者との話に夢中になっていた桜が、そこで突然何かに気づいたように私の胸元を指さした。
不審に思って視線を落とすと、私は自分の首からぶら下げているロケットペンダントを指でいじくりまわしていた。
どうやら、気づかぬ間に触っていたらしい。
「ああ、これ?」
見られたくないものを見つかってしまった。
私は若干の焦りを隠しながら、たいしたことないという風にロケットを桜に見せる。
「そのロケット、先輩いつも身に着けていますよね?」
「うん、まあね…これは…」
この時私は、詳しく話すかどうか迷った。
これは私にとって急所になる部分だ。一度話しだしたら、おそらく最後まで語ることになるだろう。
桜になら土産話代わりに話してもいいが、この話題は彼女の今後に影を差してしまうような気もした。
「これにはね、私の彼の写真が入ってるの」
だが私は、結局少し悩んだ末に話しだしてしまった。
この話を他人にするのは初めてだ。もしかしたら私は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
それともどうだろう、嬉しそうに自分の未来について語る彼女を怨めしく思う気持ちが全くなかったと、私は胸を張って言えるだろうか。
「彼とはね、一応結婚するところまで話はすすんでたんだけどね」
「進んでいたというと…続かなかったのですか?」
桜の窺うような言葉に、私はロケットをもてあそびながらううんと首を振る。
「失踪したの…彼は、数年前の新都集団失踪事件の被害者だから」
*
そのあと私たちは程なくして解散した。
桜が私の話を聞いた後、まともな会話が続かないほどに落ち込んでしまったからだ。
桜は人を思いやることのできる優しい子だ。おそらく、私と彼との関係を知らずに自分の結婚を楽しそうに話していたことに、申し訳なく感じたのだろう。
それであそこまで沈んでしまうのだから、本当に優しい子だ。恥じるべきは、彼女に話せばそうなると分かったうえで言葉にしてしまった私だというのに。
後悔がつのる。何も幸せそうにしている彼女に水を差す必要はなかったではないか。
私はおそらく、自分でも意識しないところで嫉んでいたのだろう。これからの未来を語る彼女に、過去にとらわれたままの私のことを教えてその足を引っ張ろうとしていたのかもしれない。
私は桜を一人の人間として好ましく思っている。それは揺るぎない本当の気持ちだ。
それでもあの一瞬、私は彼女のプラスに自分のマイナスをぶつけて帳消しにしてしまおうとしていたのだ。
つたない心の動きに、久々に羞恥と罪悪感で顔を埋めてしまい気持ちにかられる。思春期の少女でもあるまいに、みっともないったらありゃしない。
鬱々とした気持ちでアパートの階段を昇り、カギを開けて自室の部屋に入る。
そのまま、取るものも取り合えずベッドへダイブする。枕に顔をうずめて深呼吸をすると、疲れが急速に襲い掛かって脱力感が体を支配した。
この脱力感に身を任せればそのまま立てなくなってしまうことは重々承知しているが、今はどうしても自分を律する気分にはなれなかった。
枕から顔を上げれば、ベッドのそばに置いてある写真立てが目に入る。
締まりのない笑みを浮かべる彼と、その隣で噴き出すように笑う私。
笑ってみてよというといつも申し訳なさそうに破顔する彼の笑い方が、私は好きだった。
私と彼が結婚していたら、どんな生活を送っていただろう。そんな益体のない妄想を今まで何百回としてきた。何年か前までは明るい未来として。そして今は、取り返しのつかない過去として。
私にはもう叶わない思いを、桜は現実のものにしようとしている。そう思った時に、私の胸の中で動くこの気持ちは羨望か、嫉妬か、それさえも定かではない。
はぁと、一つ息を吐く。
なんにせよ、ここでうだうだと悩んでいても何も解決しない。幸い明日は休みだ。まずはシャワーを浴びてリラックスできる体勢になったら、お酒でも飲んで一人で感傷に浸ろう。
そう決めて体を起こしたとき、手元のスマホに通知が入った。
送り主はだれであろう、間桐桜本人であった。
要件を確認して、しばらく悩んだ後に了承の返事をする。どうやら今晩のお酒はお預けのようだ。
*
「相変わらず馬鹿みたいに長いわね、この階段」
「すみません先輩、付き合わせてしまって」
「ううん、いいの。私も最近顔を出せてなかったし、いい機会だった」
そう言葉を交わす私と桜の目の前には、うっそうと生い茂る林と、永遠に続くのではないかと錯覚する階段が並んでいる。
柳洞寺は山中奥深くに存在し、道も碌に整備されていないため長い階段を昇らなければならない。
いくら何でも不便すぎるだろうとも思うのだが、同時にその不便さこそが現代の早い時の流れの中で静謐さを保たせているのもまた事実だった。
振り向いて二・三歩後ろを歩く桜を見ると、多少気落ちしている風である以外、疲れた様子は見られなかった。
肩で息をしながら必死に階段を昇る私とはえらい違いだ。
「桜は柳洞寺にはよく来るの?」
「そう…ですね。私の亭主とここの住職さんが昔から仲が良いので、何かと用があるんです」
「なるほどね」
普段の仕事で見せる体力と忍耐の強さは、こういうところで養われていたのか。
『私も毎週彼のお墓参りに来ていた時は、もっと楽に昇ってたはずなんだけれどね』
舌の先まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。昨日の夜に桜から来た連絡とは、彼のお墓をお参りさせてほしいというものだったのだ。
通常新都の集団失踪事件の被害者たちは、現在も失踪という扱いになっている。しかし、一気に何十人という人間がいなくなり、それきり解決の目途が全く立たない怪事件である。 被害者の家族の中には、既に亡くなってしまったものとしてお墓を用意するところも少なくない。
そして、私の彼の家族もまた、そうしたうちのひとつであった。
彼が死んだ扱いになってしまうことに、拒否感が無かったわけではない。幸い彼の家族と私の関係は良好なので、私が意見を出したとて、そこで関係性が決裂することもなかっただろう。
しかし、あの人たちが私に彼の墓を建てようかと思うと切り出してきた時の彼らの疲れ切った顔が、私に反論の言葉を出すことを許さなかった。
悲しみとは、憤りとは、ただそれだけで人をここまで憔悴させてしまうのかと、そう思ってしまうほどに彼らの瞳は濁っていたのである。
人は悲しみを背負って生き続けることはできないのだと、その時思い知った。この家族が前を向いて生きるためには、今の焦燥感にも似た負の感情と決別するきっかけが必要だったのだ。
事実、彼のお墓が建った後の家族の顔つきは、ようやく肩の荷が降りたとでも言いたげな清々しいものであった。
むかし気まぐれに読んだ本に、人は自己防衛のために忘却という機能が備わっているのだと書いてあったことを思い出す。あの時の家族の様子は、まさにそれの体現であった。
あの家族は彼への未練を捨てて、正しい明日を手にしたのだ。
だというのに、私は彼に執着したままだ。いまだに彼の写真を収めたロケットを身に着けて、いつか彼がひょっこりと顔をみせるのではないかと、そんな幻想に囚われている。
この気持ちはいつまで続くのだろう。あの家族はとうに新たな明日へと進んでいるのに、私はまだ昨日にすがっている。
言葉少なに階段を昇っていると、どうにもつらつらとそんな感傷的なことを考えてしまう。
だが、その階段もようやく終わりを迎え、見覚えのある門構えが見えてきた。
「はあ、やっと着いた」
「お疲れ様です、先輩」
「桜もね」
お互いをねぎらいながら門をくぐると、たまたま通りすがったと見えるお坊さんが私たちにぺこりと頭を下げた。
「おはようございます、柳洞さん」
桜と私が挨拶を返すと美形な顔立ちをしたお坊さんは、そのまま通り過ぎることなく私たちに声を掛けてきた。
「おはよう、間桐…いや、これからは衛宮になるのだったな。それと…そちらの方はお久しぶりですね。今日もお顔を見せに?」
彼はこのお寺の住職の息子さんである、柳洞一成だ。私は一時期毎日のようにここに通っていたため顔なじみだが、この会話を見るに、桜の旦那さんの友人とは一成さんのことらしい。
一成さんは非常に整った顔つきをしている。学生のころにはさぞもてただろうが、桜もそれに負けず劣らずの美形である。
一成さんを友人に持ち、桜を嫁に迎える桜の旦那さんとは、いったいどれほどのイケメンだろうか。そんなくだらない事をぼんやりと思った。
「お二人は知り合いだったのですか?」
「はい、桜は私が勤めている職場の後輩なんです」
「ほう、間t…衛宮の」
「今日は私から先輩にお願いして、先輩の彼氏さんのお墓参りに」
「…そういうことでしたか」
桜の言葉に一成さんは合点がいったという風にうなずく。
「それにしても、間t…衛宮…桜くんでいいかな?
桜くんが自分から誰かを誘うとは珍しいですな。貴女をよほど信頼していると見える」
「え、そんな、確かに桜が誰かを誘っているところは見たことがありませんけど…」
私が予想外の評価のされ方に首を振ると、桜は逆にそうなんですよと首肯する。
「先輩には、私が仕事を始めた時から、ずっとよくしていただきましたから」
まっすぐにそんなことを言う桜に思わず頬が熱くなる。
先輩が後輩の面倒を見るのは当たり前のことだ。特に桜の場合とにかく拙いというか、不器用な一面があったため他の人よりも目を掛けていたのは確かだが、まさかそれほどに信頼を置かれているとは思っていなかった。
「おっと、そういえば」
私が恥じていると、一成が突然思い出したかのように声を挟み込んできた。
「そうでした。実は貴女に伝えておこうと思っていたことがありまして。つきましては多少プライベートな話になりますので、少しばかり二人だけにさせてもらってよろしいですか?」
「は、はあ」
突然何を言い出すのかこの人は。ほかの人であれば男性からこんな露骨な誘い出しをされれば警戒するところだが、一成さんは坊主という言葉が服を着て歩いているかと思うほど紳士的で誠実な方だ(あるいは、女性に興味がないと言い換えてもいい)。
そんな彼が二人だけになりたいというのであれば、真に第三者に聞かれたくない話があるのだろう。
桜もそれがわかっているのか、私と同じく面を食らったような顔をしながらわかりましたと承諾した。
「あいすまん。それでは、桜くんは先にお墓の方に行っているといい」
一成さんはそう言って墓の場所をおおまかに教えて、桜を先に墓参りに行かせた。かなり強引なやり口だ。生来うそを吐くのが下手なタイプなのだろう。
そうして私と一成さんは他の人に話を聞かれづらい境内裏に移動した。
「それでお話って」
私が話を促すと、一成さんはもったいぶった様子で切り出した。
「実はほかでもない桜くんの話です」
桜の、と口にだして応える。
半ば予想はしていたことだ。そうでなければわざわざ桜を離したりしないだろう。
「実は桜くんの兄、私と衛宮の友人であった男は、新都の集団失踪事件の最中に亡くなっているのです」
「えっ…」
衝撃の内容に言葉が詰まる。
「失踪事件被害者のうちの一人ではありません。あやつは明白に自宅の桜くんの部屋で、首の後ろを抉られるようにして殺害されていました。
発見時部屋が荒らされた形跡があったことから、警察の見立てでは当時の混乱に乗じた強盗殺人だろうということですが…失礼、女性に不躾にする話ではありませんでした」
「いえ…」
大丈夫ですとかろうじて言葉に出す。桜は元々家族の話をする方ではなかったが、実の兄がいたことなど一度も聞いたことが無かった。
ましてや、その兄がショッキングな亡くなり方をしていたなんて。
私がいままで桜に抱いていた後輩像が、ガラガラと崩れ落ちていくのを感じる。
「…それは本当に失踪事件に何も関係が無かったんですか?」
「少なくとも警察の見立てでは。しかし…これは私の私見なのですが、ことあの事件に関することとなると、桜くんと衛宮はまるで贖罪人のような面持ちになるのです。
事実、桜くんたちがああして墓参りに来ることは初めてではありません」
一成さんの淡々とした物言いは、私をさらに混乱へと追い込む。
桜が彼の墓参りに行きたいといったのは、私と彼のことを知らずに結婚報告をした負い目からではなかったのか。
そこまで思考を進めれば自然、考えはさらなる奥へと進んでいきそうになる。もしかして桜は…
慌てて首を振って邪念を払う。彼女がそんなことを出きる人間ではないことは私自身がよくわかっているはずだ。
「左様。世の中に正しいことは少ないですが、これだけは私も保証しましょう。桜くんと衛宮は決して人に危害を加えられるような人間ではありません」
「なら、どうして。どうして…それを私に話したんですか?」
一成さんとは知人と呼べるほどに交友があるわけではないが、少ない交流の中で彼が紳士的な人物であることは理解しているつもりだ。
そんな彼がなぜわざわざ桜を遠ざけてまで彼女のプライベートな秘密を、それも人によっては誤解を招くようなことを明かしたのだろう。
自然ときつく問い詰めるようになった私の質問に、しかし一成さんは臆することなく眼鏡を持ち上げて答える。
「それは桜くんが貴女に信頼を寄せているように見えたからです。桜くんが衛宮の周囲の人間以外に信頼を寄せることなど滅多にありません。
そんな貴女になら、このことを伝えても良いと判断しました」
「だからって、私にそれを言うメリットはないでしょう!?」
「あります。桜くんと貴女は、同じ過去に捉われているもの同士です」
「捉われている…?」
何を馬鹿なことを言うんだ。これから結婚しようという彼女が、私と違って幸福を形にしようと居ている彼女が、私と同じ過去に捉われている人間だと?
だとしたら私は、どれだけみじめだというのだ。一成さんの無責任な物言いにいら立ちが募ってくる。
「そうです。貴女と桜くんは非常に近いところにいる。だからこそ桜くんの姿は、貴女にとって大きな励みとなるでしょう」
一成さんはいけしゃあしゃあとそんなことを言う。
「ふざけないでください」
自然にぴしゃりとした物言いをしてしまう。しかし、もう口から出てきた言葉を止めることはできない。
「私と桜は違う人種です。それでも私は彼女の幸せを祝福すると決めたの。その邪魔をしないでください」
言うだけ言って、一成さんから背を向けて歩き出す。もう一成さんと話すことは無い。
「桜くんと対話をしてください。それが貴女にとって必要です」
私が彼に一瞥もせず歩いても、後ろからそんな声が聞こえてきた。
*
もやもやとした思いを抱えたまま、砂利道をつかつかと踏み鳴らす。
一成さんの言葉が脳裏に響く。
『桜と貴女は同じく過去に捉われている』
『貴女は桜と話し合うべきだ』
まったく馬鹿げている。彼のことを振り切ることが出来ずにまだその茂みから顔を出してくれることを期待している私と、高校の時から付き合っている素敵な彼氏と結婚しようとしている桜が同じだとしたらなんでこれほど差が生まれているのか。
桜の過去は理解した。
一成さんが嘘を吐く人ではないことも、彼のアドバイスが私を本当に慮っていることもわかっている。だがその気遣いは全くの見当違いだと言わざるを得ない。
きっと桜は、過去のしがらみをすべて捨てられたのだ。
桜とそのお兄さんがどういう関係かはわからない。桜が家族の話をしたがらない所を見るに、もしかしたら不仲だったのかもしれない。
だが、関係性がどうであっても、いま桜が前に進んでいることは変わらない。
桜はおそらくどこかのタイミングで、過去を忘れ、幸せになる未来を選んだに違いない。
あの、家族みたいに。
腹立ちまぎれにほぼ走るようにしていた私の足が、木の枝を踏みつけ、枝がバキリと音を立てて折れた。
その音に思わず冷静になる。
そうだ、私は桜を祝福すると決めたのだ。こんなイライラした状態で桜に顔見世は出来ないだろう。
その場で立ち止まって大きく深呼吸する。
大丈夫、私は平気。どんなことがあったって、桜を笑顔で送り出して見せる。
両頬をパチンと手ではたいて気持ちを入れなおして、再び桜が待っているだろう彼の墓へと歩き出した。
私が墓に着くと、桜は墓の前で静かに手を合わせているところだった。
私と一成さんはそれなりに長く話していた筈だが、桜は随分と長い間墓の前でこうしていたのだろうか。私の足音にも気づくことなく、必死な顔つきで墓の前で手を合わせている。
その姿はまるで、死者を弔うというよりは…心の中に浮かんだ考えを、頭を振ってかき消す。
「桜」
私が声を掛けると、私の声に気づいた桜がすくと立ち上がった。
『さ、帰ろうか』
桜にそう声を掛けようとしていた私は、顔を上げた桜の顔つきに言葉を呑んだ。
私は桜が昨日のように落ち込んでいるだろうと思って、励ますつもりだった。だが、顔を上げた桜の眼差しは、確かなゆるぎない決意に満ちていたのだ。
「先輩ごめんなさい。私、幸せになります」
彼女の言葉は凛とした張りの強さに満ちていて、覚悟を決めていたはずの私の心をあっさりと揺るがした。
どうして、そんなに力強い言葉が出てくるのか。
どうして、揺るぎない眼差しで私を見つめられるのか。
桜は、私と違って過去から逃げ出したんじゃなかったのか。
「…お兄さんのことは、もういいの?」
気づけばそんな言葉が口から出ていた。
桜の眼差しが大きく開く。今まで誰にも言ってなかったことを口にされて驚いたのだろう。
「一成さんとはそのことを話されたんですね」
桜は落ち着いた口調でこちらに語り掛けてくる。その穏やかさがますます私から余裕を奪った。
「お兄さんのことを全部忘れて、自分だけ幸せになるんだ」
震える唇で必死に言葉を吐き出す。こんなことを言えば、ここまで培ってきた関係を全部崩すことになる。
それでも、口にせざるを得なかった。
自分を守る為に、問い詰めずにはいられなかった。
「私が今でも彼のことを忘れられないのに、まだ過去に生きているのに、お兄さんがなくなった貴方だけ先に行くの?もうお兄さんの事なんて、あの事件の事なんてどうでもいい過去のことなんだ、貴女にとって」
ずるいと、言葉に出せず眦だけで桜にそう伝える。
腹立たしかった。桜の揺るがない目線が辛くて痛くて、なんとか桜の心を揺さぶってやらねば気が済まなかった。
しかし、桜の眼差しは少しも揺るがない。
「ごめんなさい。私にはそれしか言えません。過去の事は一つも忘れていません。私には全部忘れて逃げる事なんて、許されるはずもありません」
桜は私の目を見て真っ直ぐに話す。
その眼差しに見覚えがある。
鏡に映る私の眼差しとそっくりなのだ。
平気な様な振る舞いながら、瞳の奥に深い深い悲しみを湛えた眼差し。
───だと言うのに、ああ。
なぜ彼女はこんなにはっきりと口にできるのだろう。
「それでも私は、逃げない為に幸せになりたいんです」
桜の言葉に打ちのめされたように脱力して膝を着く。
桜は私と同じく過去に捉われて生きている。過去を忘れてのうのうと生きられたらどんなに良いだろうと思う気持ちと、そこから逃げる事なんて到底許されるわけが無いという気持ち。その二つを抱え込んで生きている。
それでも、桜は自分が幸せでありたいと口にした。
過去への思い、後悔も悲哀も全部背負ったまま、それでも前に進むと言った。
それはどれほど重く、覚悟のいる事だろうか。
その覚悟の強さに、私は耐えられなかった。
「ズルい」
気がつけば涙と共に言葉がポロリと溢れていた。
桜の幸せにではなく、桜が過去を背負ったまま前を向こうとする心の強さに、心の底からズルいと思った。
「ズルい、ズルいよぅ…桜だけ、そんなに強くて。全部背負いながら…」
私がみっともなくポロポロと涙を流していると、ふと温かく柔らかな感触に包まれた。
桜が、泣いている私を抱いてくれているのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい…でも、未練だって先輩の一部です。それを抱えて生きていく以上、荷物として受け入れて前に進むしかないんです」
桜の突き放すような言葉に、嗚咽をあげる。
「馬鹿っ、私、そんなに強く無いのよ」
「ごめんなさい…」
桜は私を抱きながら、譫言のように謝り続ける。
私はその桜の温もりと優しさに耐えられなくて、馬鹿みたいにその場で泣き続けた。
これから彼が居ない世界で生きていくことを初めて正面から見据えて、その寂しさに、その過酷さに、ただ悲しみの声をあげることしか出来なかった。
*
いい大人がその場でなりふり構わず泣いて、泣いて。やがて落ち着いた頃に、私は桜に支えられながら立ち上がった。
あられもない姿を見られるのは非常に気恥ずかしかったが、馬鹿みたいに声を上げて泣いたからだろうか。体はとても軽かった。
その後桜とはいつも通りに振る舞って、柳洞寺を降りて別れた。今なら何の気負いもなく、彼女の結婚を祝福出来る気がした。
桜は過去の荷物を背負いながら、それでも前に進まなくてはならないと言った。
私は多分一生彼のことを忘れられないだろう。この先も新しい男性を見つけようとも思わないし、そのことでいつかきっと後悔する日もあるかもしれない。
それでもそんな私自身を、私だけは憐れむのはやめようと決めた。
何かが解決したわけでもない。下手を打てば私は一生喪女のままかもしれない。
でもこれが、私なりの前を向く方法なのだ。
いくらか軽い足取りで河川敷を歩いていると、爽やかな風に煽られて頬に当たるものがあった。
手に取ってみれば、そこにあるのは色味の薄い桃色の花弁。まるでどこかの彼女の優しい笑みの様に、控えめな彩りであった。
なんだか少しおかしな気持ちになる。
結婚式に呼ばれたら、桜の心を射止めた彼とやらの御尊顔を眺めて、精々桜の事をからかってやろうと思った。
幾年たてども、待ち人来たらじ。
けれど、そんな私にも春は来る───。