彼女は由伸という年上の男とそこそこ親しい関係だが、二人は恋人関係か否かは神のみぞ知る。
熱を持って吹き抜ける風は、初夏の訪れを告げている。陽も真南に向かっている。
「ねえ見て洋子! 昨日話題のパンケーキ食べに行って来たよ♪」
机を挟んで向かい合わせに座る彼女が賑やかな声でスマホの写真を開く。彼女にかかれば夏の訪れも形無しだ。
少し前に昼休みのチャイムが鳴ったばかりの高校の教室。クラスメートたちが連れ立ってランチに出掛けるいつもの光景の中、写真を見せてきた彼女、沙月とはよくお昼を一緒に食べていた。
「とろける口当たりが柔らかくてふわふわでさ~。しかもメープルシロップ掛け放題だったんだよ!」
沙月の声が幸せそうなトーンに変わる。目の前に置かれたスマホには確かに、はみ出さんばかりに皿に乗ったパンケーキが写っている。
去年のクラス替えの日にも、最初にこんなテンションで声を掛けてきてくれたのは人懐っこく、人見知りしない彼女の方からだった。
歳のわりに落ち着いていると言われることが多い洋子と一見タイプが違う彼女だけど、初めから不思議とウマも合っていた。
「美味しそう! 沙月、こないだもお洒落なカフェに行ってたよね」
「あ、これでしょ、雑誌で紹介されたラテを飲みに行ったんだ。こっちもなかなか映えるんだよね」
彼女はアルバムを遡り、今度はミルクにホイップ状のコーヒーがたっぷり乗った、なんだかフォトジェニックなラテの写真を見せる。
甘いものが大好きで息をするようにカフェ巡りに出かける沙月は、よくこうやって様々な話題のスイーツの写真を撮りに行っていた。彼女が開くアルバムはいつも美味しそうなスイーツの写真に溢れている。
「洋子もスマホ持ってれば、この時現地からすぐ飯テロ画像送りつけたのになー」
屈託も無く笑って言うと、沙月はふと真面目な顔つきになって尋ねた。
「ねえ、洋子はスマホってまだ持たないの? 何でも調べられて便利だし、連絡も取りやすいし、映えるもの見つけた時にもすぐ写真撮って送れるし」
「うーん、でも私は流行りのスイーツとかお洒落ランチとかにもあんまり行くことないし、普段は見せたいと思うものも特にないし」
「そっかぁ。……でもさあ、何かシェアしたい物が無くても、何かシェアしたいと思う人ならいるんじゃない?」
「……シェアしたいと、思う人?」
「そうそう、何でもないような事こそ伝えたくなる人。たいした事じゃ無くてもいいんだよ。ほらなんだっけ、洋子がなかなか会えない彼氏の由伸くんとかさ」
「違うってば!」
大袈裟に手を振っていると、沙月のスマホが通知音と共に震え出した。
「あっ!」
「え、どうしたの?」
驚いて急に大声を上げた沙月の顔を思わず覗き込む。
「放課後にカフェでデートしようって。彼氏から」
素直な彼女は、分かりやすいくらい顔がにやけていた。
「良かったじゃん」
思わず苦笑すると、それからは別のクラスにいる沙月の彼氏についてののろけが始まった。……なんだかほっとしたような気持ちで、洋子は沙月の話に相槌を打っていた。
スマホを持つ一番のメリットはきっと、こんなふうにどこにいても、いつでもすぐに相手と連絡を取れることだ。嬉しそうに彼氏に返事する彼女を見ながら、やっぱりどこか少しだけ、それを羨ましいと思っている気持ちに気付く。
(今まで、スマホなんて無くても平気だったのに。)
シェアしたい物が無くても、シェアしたいと思う人ならと聞き、洋子はある人を思い浮かべる。
気が向いた時に、他愛もない、何でもないような事を伝えたいと思う人。……それなら確かに、洋子にも今はいる。
のろける親友の熱にあてられたせいかもしれないけれど、彼女の手に握られたスマホを、少しだけ憧れの混じった眩しい気持ちで見つめていた。
「まず薄くて軽いのがいいよ! ポッケに入れた時邪魔にならないのってなにげに大事だから」
そう言いながら彩さんが真剣なまなざしでタブレットのページをめくる。彩さんは、洋子のお隣に住んでいる年上のお姉さんで、昔から良くしてもらっていた。
「あと、バッテリーの持ちが良くて、メモリは多い方が後々絶対便利だよ」
先日のそんなきっかけの後、彩さんに相談を持ち掛けた途端に話はとんとん拍子に進んだ。早速彼女はタブレットからカタログを見つけてくると、まるで自分のことのように真剣にあれこれと選んでいる。
「あの、彩さん」
「ん、なに?」
「ほんとに私、スマホ持ってもいいんでしょうか」
「今さら何言ってんの。お金のことなら、ご両親に口添えするから大丈夫だって」
「でも、今までだって、無くても何とかなってたし、要望がかなわなかったら」
まだ躊躇い気味の洋子に改めて彩さんが向き直った。
「これからはいつでも連絡取れると安心でしょ?」
「確かに……」
「私だって、これからはもっと洋子ちゃんのこと気軽に誘えるようになるし!……何より、いつでも由伸くんと連絡取れるようになるんだよ」
そこまで言ったあと、彩さんは顎に指を添えてふと考え込んだ。
「あ、でも……洋子ちゃんの場合は、逆効果かなぁ……」
「え?」
「いや、なんでもない!」
彩さんは意味深に微笑むと、ダメ押しのように耳元で囁いた。
「秘密のやりとりって、いいもんだよ」
まだ多少迷いもあったものの、彩さんからのそんな強い後押しが、結局決め手になったのだった。
初めてのスマホを持ったことをとりあえず身近な人たちに連絡すると、彩さんからはさっそくゆるいキャラがハートマークを出して踊っているイラスト(スタンプ)が送られてきた。沙月をはじめ学校で仲良しの友達やバイト先の同僚など、とりあえず新しい連絡先を知らせた人たちからも次々と返事が届く。
また震えたスマホをポケットから取り出すと、一番待っていた人からメッセージが来た。
『洋子さんスマホ持ったんだ!』
その文字列を何度も読み返す。楽しみに思うのと同時に、不思議と少しどきどきもしていた。普段由伸と会って話す時とはどこか違う、でも胸が温かくなるような、感じたことがない気持ちだった。
『バイトがんばって』
洋子はいろいろ考えたけどそれだけを書いて、由伸に送る。夜が来るのを楽しみに思いながら。洋子はなんだか新しい宝物を手に入れたような気持ちで眺めていた。
外で降り続く小雨が、街灯の光に照らされている。洋子はさっきから幾度と無くポケットから取り出してはそわそわと画面を確認していた。諦めて眠ろうかと思い始めた頃、待ちわびていた振動と共に画面に由伸の名前が映る。
弾かれるようにとっさに電話を取ると、どこか久しぶりにも感じる由伸の声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「ごめん洋子さん。今まだ、大丈夫?」
「うん。……ちょっとだけ待ってて」
洋子は音を立てないよう忍び足で台所を抜け、そっと玄関の扉を開ける。表に出ると夜遅い時間帯のせいもあって、辺りにもう人の気配はない。なんと無く思い立ってそのまま鍵を掛けると、狭い路地を歩き出した。
「バイト、忙しかったの?」
「うん、残業があったのと、どうしても明日提出しなきゃいけないレポートも重なってて」
「ふふ、お疲れさま」
耳に届く由伸の声を聞きながら、近くの公園へと向かう。夜に舞う細かい雨がしっとりと肌に触れた。歩きながらパーカーのフードを目深に被る。でも風が生温いせいか寒さは感じなかった。
「なんだか不思議かも。離れてるのに、由伸の声が聞こえてくる」
「便利だよね、スマホって。洋子さんも持ったって聞いて、正直嬉しかった。……こうやって喋れるようになったから」
この電話をずっと待っていたからか、由伸の声が触れる耳元は特に温かく感じた。
夜風に紛れ、耳から伝わってくる不思議な温かさ。それは実際の体温とは違うけれど、まるで傍にあるように近い、彼の声と息遣い。
電話越しに感じられる彼の存在と、確かにそこにいてくれる安心感。何でもないことだって、いつでも分かち合えるという嬉しさ。離れていても、当たり前に彼の声が聞ける幸せ。
そんな喜びと耳から伝わる優しさを感じながら、そっと目を閉じた。これまでの生活に不便は感じなかったが、初めて、特に用事が無くても連絡を取りたいって、ただ声が聞きたいって、そう思う人が出来たと洋子は思う。
由伸とはいろんな話をした。たとえば学校の友人のことや、バイト先で起こったことや、その他諸々。
喋っても話題は尽き無くて、時間を忘れるほど楽しくて、でもその時間が楽しいほど、同時に言いようのないもどかしさも募っていくのを感じていた。
だけど誤魔化そうとしてもやっぱり自分に嘘はつけない。初めは声を聞けただけで確かに嬉しかったけれど、だんだん、由伸の顔を見て直接伝えたいと思うようになっていた。
「ねえ由伸。……電話で話すのもいいけど、今度は、直接会いたい」
ぽつりと、そう伝えてみる。少しの沈黙の後で、由伸の優しい声が聞こえた。
「うん、もちろん。俺もちょうど今、そう言おうと思ってたんだ」
電話越しに笑った私にきっと彼は気付いていない。でも由伸も同じように思っていてくれたことが素直に嬉しかった。胸を温める次の小さな約束をそっと握りしめた。
「ずいぶんと夜、遅くなっちゃったね。由伸はもう眠くなった?」
坂道の上で、暗い夜の海を背にガードレールにもたれかかる。さすがに少しだけ肌に触れる風も冷たくなってきた気がする。
「……いや、かえって眠れなくなったかも」
「えっ?」
「あっ、ううん、なんでもない。洋子さんこそ、そろそろ眠らないときっと明日も早いよね。まだ家の前にいるの?」
「ううん、今ね、公園の方に来てる。じゃあ、そろそろ」
「だめだよ洋子さん!」
スピーカー越しに聞こえる由伸の声が急に大きくなった。
「え、なに? どうしたの?」
「一人ってことだろ?」
「ふふ、由伸って心配性♪」
「洋子さんこそ、もうちょっと自覚持ってほしい」
電話の向こうの声がため息をついた。でもあと少しだけでも、この時間を引き延ばしていたいから。まだおやすみは言いたくない洋子だった。
あの夜電話で約束をした待ち合わせの日まで洋子は指折り数えるようにして待っていた今日も結局、待ち合わせ場所には洋子の方が早めに着いた。
同じように周りで佇んでいた人たちは誰かと出会い、次々とその場を離れていく。洋子は不安になり、深いため息をつく。
これまでもお互い普段から忙しく、タイミングが行き違う時もあった。でも履歴を残せば由伸は必ず電話をかけ直してくれていたし、メッセージの返事が来ないことはなかった。
洋子は、スマホがある生活に慣れてしまったのかもしれない。
だから知らなかったのだ。繋がらない電話が、こんなにも切ないものだなんて。当たり前のように連絡が取れていたから、スマホが無かった頃、どうやって過ごしていたのか、もう思い出せなかった。
いつでも連絡できて、望めばいつでも声が聞けて、だから返事が来ない、それだけで存在さえも揺らぐように心許ない気持ちになる。鳴らない電話がどうしようも無く心細くて寂しくなる。
「由伸、どうしたんだろ」
胸の中に抑えておけず、思わず口からそう零れた。もしも何か事故とか、あるいは事件にでも巻き込まれていたら。由伸の身に何かあったのかもしれない。でも連絡もつかない今、ここを離れて入れ違いにでもなったら……。募っていく不安を抱え、でもどうすることも出来ずにしゃがみ込んで洋子は膝に顔を伏せた。
──洋子……!
その時だった。どこか遠い場所から響いてくるような声に、名前を呼ばれた気がした。
間違えるはずのない由伸の声にはっとして顔を上げる。でもいくら辺りを見渡しても彼の姿はそこになかった。
耳から聞こえたというよりも、直接心の中に呼び掛けられたみたいだった。目には見えないどこか遠くから私に叫んだような声。でもそれは間違い無く由伸の声であり、私の名前だった。
(由伸がいる。それも、きっとすぐ近くに。)
理由はない。でもそんな自信ははっきりと確信に変わり、立ち上がった。由伸の姿を探して、角を曲がったところで、向こうから近付いて来る小さな人影を見つけた。その影もまっすぐにこちらを目指して走ってくる。
「洋子さん!」
やがて私の目の前で立ち止まった彼は、まだ大きく肩で息をしたまま口を切った。
「洋子さん、ほんとにごめん。今日に限ってスマホを忘れてきて、すごい遅れたのに、連絡も出来ないままで」
由伸は顔の前で両手を合わせると肩を落とした。
「洋子さんはずっと待っててくれてたのに……」
「良かった」
「……え」
「由伸が無事でいてくれて良かった……。それだけで、十分」
「洋子さん……」
由伸はよほど不安だったのか、大袈裟無くらい深い息を吐いて胸を撫でおろすとようやく笑顔を見せた。
「ありがとう、心配までかけちゃってごめん。……でも、どうして俺の場所が分かったの?」
さっき胸の中に響いた彼の声を思い出しながら洋子はくすりと笑う。
「分かるよ。だって、君が呼ぶ声が聞こえたからね」
「……確かに俺、いまずっと洋子さんのことを考えながら走ってきたけど」
まだどこか不思議そうな由伸にくるりと向き合った。
「それよりも、ねえ行こう、由伸」
そうして、空いていた由伸の手を握って歩き出す。
スマホを持ってからは確かに連絡を取りやすくなったし、以前よりも、由伸を身近に感じることが出来るようになった。
片方の手をパーカーのポケットに突っ込んで歩き出した背中越しに、由伸とともに夜風が運んで来た匂いがした。
いかがだったでしょうか。