甘ったるい紫煙の臭いが、くちゃくちゃになったベッドのシーツに染み込んでいる。
微かに香る鉄の匂いは、昨晩の惨状を、思い出させるようだった。
◇
「ああ、娼館のヒナコちゃんだろ、知ってるよ。可哀想に、ヤクザもんに脚ぃズタズタにされてからは客が寄り付かねえらしいじゃねえか。どうも、誰も指名できんように睨み効かされとるんだとか。」
2人の男が、ビール片手に世間話に興じていた。
ここの酒場は料理が不味いからか、酔いが深まるまで料理には誰も手を出さず、他人の不幸を肴に安い酒を流し込む。
「どれもこれも、あの、なんだっけか、『姐御』とかいうのがここら仕切り始めたせいだよ。ほら、ヒナコちゃんがそいつの相手をするのを断ったからさ。」
と、別の酔っ払いが大きなビールジョッキを握りしめて会話に割り込む。
こっちは随分と酔いが回っているようで、顔を真っ赤に染め上げている。
「へえ、初めて聞いたよ。いやあ、ヒナコちゃん、顔の火傷跡を抜きにせんでも、えらいべっぴんさんだし、愛嬌もあった!病気がちな妹の為に、身を粉にして働いてるんだってよ。泣けるじゃねえか。わしもヒナコちゃんともう一回会いたかったなあ!」
「聞いた話によるとよ、その『姐御』ってやつがヒナコちゃんを家に監禁してるらしいぜ。店に出てこないのはそのためだとか。」
2人は何か言いかけたが、ごくり、ごくりと喉を鳴らして安酒を流し込み、男たちは話題を飲み込んだ。
彼らには家族が居て、仕事があって、こうして酒も飲める。
それらを壊さないためにも、彼らの話題は別のものに逸れていくのだった。
◇
喉の乾きと、膝から下に感じる、プレス機に掛けられているような、骨を圧迫されている痛み。
ヒナコが目覚めて、真っ先に感じたのはそれだった。
次に感じたのは指先の麻痺で、その次に、鈍器で頭を殴られたかのような違和感。
ヒナコは恐る恐る、ゆっくりと瞼を開き、周りを見渡した。
木製の壁にフローリング、磨り硝子が外からの光を取り込んでいた。
ここは室内だ、と。確認するように、脳内で反芻する。
そして、娼館の小部屋(休憩室とでも言うべきか)では無いことも分かった。
やけに高そうな、赤紫によく似た色の絨毯が敷かれ、座らされている椅子のクッションはどんなベッドよりもふかふか。
彼女の働いている娼館の小部屋は、年長の女郎がそこいらで拾ってきたクズ板を、管理人が自ら釘を打ち、仕上げたもので、座り心地は最悪、クッションは薄い布1枚という有様だった。
それでも、娼館の女たちはこぞってそこに座っていた。
何があるという訳でもない小部屋の、座り心地の悪い椅子に座っていたのだ。
まるで、自分の居場所はそこにしかない、とでも言うように。
帰らなくては、と、ヒナコは思った。
ヒナコの居場所はその椅子とは別にある。
ドブ川の近くに建てられた集合住宅の2階、風が吹くとドブの臭いが漂ってくる、そんな部屋で、ヒナコの妹は、姉の帰りを勉強でもして帰りを待っているのだろう。
痛みと、蘇らぬ直近の記憶によって混濁したヒナコの頭に、何度も妹の、自分を呼ぶ声が聴こえてきていた。
母に顔を殴られ、父がヒナコの右目を焼けたフライパンで殴った時から、ヒナコは妹を守り、2人で生きていくと決めたのだ。
立ち上がろうと、足に力を込める。
しかし、上手く立ち上がることは出来ない。
底なしの流砂に足を取られたかのように、体をもぞもぞと動かし、もがくことしか、ヒナコは出来なかった。
それでもなんとか立ち上がろうと腰を前に倒し、しっかりと歯を食いしばって脚に力を込める。
ふと、ヒナコの視線が足元に移る。
本当に地面があるのか、少し不安になったのだ。
無い。
ない。
無いのだ。
確かにさっきまで力を込めていた、確かにさっきまで痛みを感じていたはずの、脚がないのだ。
清潔な、白い包帯が巻かれた膝から下には、何もくっついていない。
ヒナコは、思わず絶叫した。
枯れた喉が張り裂けんばかりの絶叫は、小鳥が首を絞められた時の鳴き声によく似ていた。
首を絞めている人間以外の誰にも届かず、草木を揺らす事も無い、ただ、何かを喪った、喪おうとしている叫び。
ヒナコの頬には涙の一滴すら流れず、眼を充血させるのみだったが、混乱していた記憶は、整合性を取り戻しつつあった。
一週間前、または8日前。
そこにヒナコの意識は飛んでいた。
ヒナコの働く娼館に、ある日、変わった客が訪れたところから、それは始まった。
変わった客、というのも、様々な要因があって、「変わった客」になっていたのだが、兎に角変わっていた。
まず、第一に、その客(出迎えにきた男には「姐御」と呼ばれていた)は女性だった。
今までにも女性の客は数人ほど訪れていたが、それらの客は女郎達をまさぐったり、まさぐられたりだとか、しっとりとした関係を求めていた。
女郎たちにとって、女性客とはそういうものだったし、慣れていた。
しかし、その客は、女郎をベッドに組み倒して拘束したりだとか、やや暴力的なプレイを強要していたのだ。
不運にも、ヒナコは被害にあった2人目だった。
1人目の被害者は、拘束されてちょっと意地悪をしていただけだったらしいが、ヒナコはどうもその客に気に入られたのか、組み伏せられ、脚をナイフでズタズタにされてしまった。
ヒナコが言うことを聞かなかったから、とその客はボヤいた。
床は血塗れになり、スプラッター映画のワンシーンとでも言わんばかりだったようだ。
第二に、これはヒナコたちがその客を追い返したり、横暴に反撃出来ない理由なのだが、その客は、この娼館のある街一帯を支配するヤクザの、実質的な支配者だったからだ。
これは当然、女郎たちにも見覚えがあり、どうにも逆らう事は出来なかった。
この女性がヤクザの支配者、そしてこの裏町の実権を握っている理由は噂にも流れないが、顔と実力、そして権力の強さは皆が知っていた。
そんなことで、この女性客は「変わった客」ということで娼館の内でも話題になり、どうやって女郎たちをあの客から守るか、ということが積極的に話し合われていた。
しかし、幾ら話し合おうとも、具体的な解決案は一切浮かばず、結局の所、ヒナコの脚がズタズタにされ、床を血塗れにされても誰もなにも文句を言うことが出来なかったのだ。
さて、ヒナコの脚が包帯で真っ白に、そしてその包帯が赤く滲んでから、凡そ5日程が経った頃だった。
この数日間、自分に客が一切付かなかったのを、「火傷跡跡を見られたから」とか、「背が高い女はみんな好みじゃない」と、自分の容姿のせいにするヒナコと、少なくともそうではない、と必死に否定する女郎たちの言い争いに割り込むように、小部屋に取り付けられている桐製の扉は軋み、大きな音を立てて開かれた。
見惚れるほど美しい茶髪を三つ編みにして束ね、背の方に流している、一見、少女のようにも見える透明感を持つ女性は、
「こんにちは、ヒナコちゃん連れてくね。」
とだけ言って、ズカズカと部屋に入り込んで来る。
忘れようも無いだろう、例の「姐御」だ。
ピカピカに磨かれた黒い皮のブーツで床を鳴らし、女郎たちが呆気に取られている間に、白いシャツの胸ぐらを掴み、脚に力の入らないヒナコを無理やり引きずって行く。
体格の差は一目瞭然、にも関わらず、ヒナコは抵抗もズルズルと引きずられて行く。
ヒナコが呟いた助けを呼ぶ声に反応し、はっと気がついた、赤毛の女郎が、連れて行かれまいとヒナコの手を握る。
と、「姐御」は左の手で、白いスーツの懐をまさぐり、時代遅れのリボルバー拳銃を取り出した。
赤毛の女郎は少し怯んだものの、どうせ撃ちはしないだろう、とタカをくくり、手を離さずにいた。
かちり、ぱん。
と、鈍くも軽い音が室内に鳴り響いた。
同時に室内に星が瞬き、次の瞬間には赤毛の女郎の頭は血をひり出し、床に倒れた。
硝煙と、血の匂い。女郎たちの絶叫がこだまして、小部屋は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
そうして、ヒナコは「姐御」の家へと連れていかれた。