捏造、改変、妄想あります。
濡れた石畳。満月が落ちてきそうな夜。雨が止むと共に現れた少女。
横たわる少女の純白の髪は泥に汚れ輝きを失っていく。長い髪の隙間から顔が見えた。人形のような顔立ちだ。未だ目は開かないが、胸は上下している。小さな体躯に、整えられた何もかも。確かに少女は先ほどまで大人の庇護下にいたはずだ。
なぜここに一人で? 一体何があったのか?
この煙るロンドンの街で、少女を見てそんなことを考える大人は、ここにはいない。誰も彼女を見つけない。助けない。それどころか猫すら通りかからない。
ふいに、伏されていたまつ毛が動く。瞼が開く。
秘められていた紫の瞳が月を捉えた。
少女が目を覚ます。
目が覚めると共に、少女はゆっくりと体を起こした。背中や髪がびしょ濡れになっている感覚が嫌に鬱陶しい。手を付くと水が跳ねた。石畳の窪みに溜まった、ほんのわずかな水でさえ、今の彼女の心には驚異である。
沁みるような寒さを最初に感じた。次に甘い雨跡の匂い。
少女の意識はだんだんとはっきりしていった。
視界は目の前の古びた屋敷をかろうじて捉える。不意にアァ……と響く何かの声。
「私の声……?」
ハッとし、口元に手を当てる。ああそうだ、私だ。この手は私の手だ。濡れているのは私の体だ。
頭が冴えていく。自分の輪郭を捉えていく。
それと同時に、恐ろしい事実が彼女を襲った。
ここは何処だろう?
頭を殴られたような衝撃に、たまらず少女は立ち上がる。早鐘を打つ心臓が、滑り流れていく血液が、彼女の足を動かした。
息が荒い。じっとしていられない。
彼女の足は、目の前の建物へと引き寄せられていく。
そこにはわずかに灯りが灯っていた。きっと人がいるのだろう。そう信じて彼女は重い体を叱咤し歩く。
一歩一歩、地を踏みしめるたびに色んなことを思い出した。
空にある丸は月だ。私の背中を濡らしているのは水だ。顔に付いている不快な物は泥だ。
鉄柵を開け、中庭を這い、屋敷の戸を叩く。あまりにも力無い音に、彼女は顔を歪め、力を込めて戸をもう一度叩いた。
一心不乱にドアを叩く。
叩くたびに、コンと音が響くたびに彼女の目からは涙が溢れた。
__________思い出せない。それだけは。私はどこから来たのだろう。ここはどこなのだろう。分からない。自分の名前すら______。
「……助けて……」
その言葉をきっかけに、少女の心の堰は決壊する。
半狂乱になりながら、少女はもはやドアを殴りつけているような様相だった。
「助けて! 助けてくださいっ、誰かっ、お願い! 誰か_________」
その瞬間、ドアが勢いよく開いた。
少女の体は後ろに倒れていく。反応が遅れたのだ。
だが、尻もちをついた痛みを少女が自覚することはなかった。
「こんな夜更けにどなたです!? 先程から騒がし_________あら、子供……?」
屋敷から出てきたのは、寝巻き姿の女性だった。眉間に皺の寄った顔は、少女を見たことでふっと緩んでいく。
大人だ。そうだ、大人とはこんな大きいものだった。
肩が自然に上下する。息を吸うのがやめられない。
助けてくれるだろうか。追い出されないだろうか。何を言えばいいのか。どうすれば_______。
混乱の中、女性が少女に手を伸ばした。
「どうしたの? こんなところで。びしょびしょじゃないの。悪かったね。怪我は?」
涙のせいでぼやける視界の中、少女は女性の手を取った。
「私っ、ああ……。わたし、は……」
少女の目はまた閉じられる。意識を失ったのだ。フッと倒れていく上半身を、女性はすんでのところで受け止める。
「ちょっと!? しっかりして。誰か! 誰か来てちょうだい!」
かくして少女はこの屋敷_______ウール孤児院にたどり着いたのだ。
誰もが見捨てた夜の淵。月だけがそれを知っていた。
「起きて」
音が頭に染み込んで、それを言葉だと理解する間も無く目が開いた。
少女が目を覚ましたのは、安っぽいベッドの上だった。廃病院で見るような、鉄でできた簡素なフレーム。しかし少女は久方ぶりのように感じる毛布の暖かさにぼんやりとしていた。
ベッドの傍にいたのは随分と顔立ちが綺麗な男の子だった。服のみすぼらしさをものともせず、輝くような面立ちだった。
少女が呆けて彼を見ていると、彼もなにも言わずそこを立ち去った。
幽霊かしら、あれはあの子の声かしら、などと思っていると入れ替わりに女性が入ってきた。
「起きたようね。私はミセス・コール。あなたは? 昨日のことは覚えてる?」
たった二つの質問に、少女は満足に答えられなかった。なにから答えればいいか分からない。少女は必死に言葉を絞り出す。
「わ……私、分からない……」
「……ゆっくりでいいのよ」
そう言われて、少女の強張りは少し解けた。
「な、名前……分からなくて、怖くて……お、覚えてなくて……。昨日のこと、も、よく分からない……」
ミセス・コールは面食らい、少しの間視線を彷徨わせたが、やがて大きなため息をついた。その様子にも少女は怯える。
「ああ……どうすればいいのかしら。本当に? なにも覚えてないの?」
「はい……あの、ここは……?」
「ここはウール孤児院です。本当になにも知らないのね」
それからミセス・コールはこめかみを押さえながら、ぼそぼそと何かを呟き悩んでいる様子だった。少女がかろうじて聞き取れたのは『警察』と『医者』という言葉。どちらの言葉もあまり耳馴染みがない。
しばらく、少女は壁や床を眺めていた。ゴミはないが古く見窄らしい。寂しげな場所だ。
ミセス・コールはたっぷり黙って、つぎはぎの毅然とした態度を取り、また口を開いた。
「はぁ、この服を着て。あなたが着ていたものは捨ててしまったの。泥汚れも酷かったし。それにしても、ずいぶん上等なものだったわ」
彼女は灰色のチュニックを差し出した。そうして初めて、少女は自分が半裸であることに気がついたが、羞恥心はなかった。もう一杯一杯で、事実を脳の表面で受け止めるのが精一杯なのだ。
「警察と、病院に行きます。立てるのなら早く準備をしてちょうだい」
少女はその言葉にただ従った。袖を通したチュニックは少しごわついていた。
「……なにも分からないなんて!」
警察と医者に行った帰り道。ミセス・コールは憤慨し、少女はその様子に肩を跳ねさせた。
結論から言えば、全くの無駄足としか言いようがなかった。警察はその珍しい容姿を手がかりに捜査してみる、としか言わなかったし、医者も曖昧で不確定なことしか言わなかった。
医者が言うには、とりあえず少女は健康で、命に別状はないこと。記憶を失った原因は不明だが何かの拍子に取り戻す可能性があること。発育の状態から十歳未満、七歳程度だと推測できること。伝えられたのはその三つだった。
それが分かってもなにになるのか。ミセス・コールはそう言いかけたが、少女の手前それはやめておいた。
何もかもに怯えるような少女に、これ以上なにを言えると言うのだろう?
暮なずむ道。夕日が未だに強く二人を照りつける。
「孤児院に帰ったら……」
「……?」
「名前を、名前をつけてあげましょう。不便ですからね」
こうして少女はウール孤児院預かりとなる。
燃える夕日。何かを咎めているような、厳しい日の光だった。
少女改め、ライラ・オルコットが孤児院にやってきて1ヶ月が経った。
ライラがようやく、自分の名前をつっかえずに言えるようになった頃のことだ。
少し痩せ、腰まであった純白の髪は耳あたりまで短くなっていた。珍しい髪色だからと、切って売ってしまったのだ。
彼女はすっかり、孤児院の一員になっていた。
彼女の生来の性格か、記憶が失われたからか、はたまた環境がそうさせたのか、兎にも角にも原因は分からないが彼女はひどい人見知りだった。お陰で孤児院にはあまり馴染めていないのだ。白い髪、紫の目という珍しい容姿も相まってのことだった。
そんなライラは、とある一人の少年との出会いを果たす。
「あ、あの、トム……。トム・リドル……で合ってるかな。私、ライラ・オルコット。よろ、よろしくね」
「ああ、うん。僕がトム・リドル。合ってるよ。よろしくね、ライラ。同い年かもしれないって、そう聞いてるよ」
ライラがトムと会ったのはこれが初めてではなかった。ウール孤児院に初めて来た時のこと。ベッドの傍らに立っていた顔の綺麗な男の子、それがトムだった。
ライラはすぐトムに懐いた。何故ならトムはライラが話し終わるのを待っていてくれる。つっかえても辛抱強く聞き直してくれる。言いたいことをちゃんと分かってくれる。
彼と話す時だけは、ライラはあまりおどおどせずに話すことができた。
きっと彼は孤児院の誰よりも綺麗で賢いのだろう。ライラはそう思った。だって誰も彼には逆らわないのだ。遠巻きに見て、おずおずとトムの様子を伺うだけの子が多いのだ。
そんなトムと仲良くしていればライラは安全だった。
ふとある時、ライラはトムといると懐かしい感覚が湧き起こってくることに気がついた。何故だろう、ライラがそう思ってすぐに聞ける相手はトムのみだ。
「あのね、トムといるとなんでか懐かしいの」
「へぇ。不思議だな。なんでだろう。失った記憶がそうさせてるのかな」
「そうなのかも。どこかで会ったこと、あるのかな」
「さぁ……。僕は生まれた時からここにいるから、預けられる前ってことはないし……。君に会ったことを忘れる方が珍しいだろう」
「そう……だよね」
ライラの期待はあっさり崩れた。決して信じていたわけではないけれど、万が一、もしかしたら……そんな気持ちがどうしても湧き上がってしまう。
落ち込む心を振り払って、ふと、トムが言った言葉に注意を向けた。そしてそれをあまり考えず口にしてしまったのは、ライラがトムを信頼している証だろう。
「生まれた時から……ってどういう意味? 預けられたんじゃないの?」
「言ったことなかったか。母が僕をここで産んで死んだんだ。ミセス・コールに教えてもらった。夜中に飛び込んできて、しばらくしたら僕が生まれた。死ぬ間際、名前だけを僕に残したんだ」
トムはなんでもないように言っていたが、ライラはそれに大きな衝撃を受けた。本当の父や母が死んでいる、ということを考えもしなかったのだ。
なんて悲しいことだろう。ライラはそう思った瞬間に、果たして自分はどうだろうか、という疑問が浮かんだ。
トムのように、自分も親の顔を忘れてしまっている。顔も名前も、居所も知らない父や母が死んでも、死んでいても自分は悲しめるだろうか?
想像の範囲では悲しかった。でも_______。
……悲しくても、悲しくなくても。その時、トムと同じような感情を持てていたらそれでいい。
ライラはそれだけ考えて、あとは心の奥に仕舞い込んだ。
トムとライラの仲は、年齢を重ねることにどんどん深まっていった。ただの友達ではない。孤児院にいるからこそ成り立つ、疑似兄妹のような仲の良さだった。少なくとも、ライラはトムを兄妹のように思っていた。
二人をそこまで結びつけたのは、年齢が同じ(ライラがもしあの時七歳であれば)だからでも、共に孤児院にいたからでもない。
二人だけの『秘密の力』があったからだ。
ライラがその力に初めて気がついたのは、孤児院に来て初めての遠足の時だった。
ウール孤児院では一年に一度、孤児と職員たち全員で外出する機会を作る。その時は海岸沿いにある草原だった。潮風や波のせいで、草原が途中で断ち切られたようになっている光景は圧巻のものだった。
若い草と潮風が混じった匂いは、孤児院にはないものだ。
トムはいつのまにか崖の方へ行っていて、ライラは一人でその景色を満喫していた。
さあ、帰ろうと子供達が集まり始めた時、誰かが「エイミーとデニス、あとトムがいない」そう言った。
その瞬間、周りの子供達の顔から表情が抜け落ちたのを、ライラは克明に覚えている。
結局、三人は海辺の洞窟で遊んでいたらしい。
ただし『恐ろしい何か』が起こったらしく、エイミーとデニスは少しおかしくなって戻ってきた。
トムも、少しだけ傷を負っていた。
「トム……! どうしたの? 何があったの?」
ライラは慌てて、トムに駆け寄った。他の子や職員たちはエイミーやデニスにかかりきりで、トムを案じたのはライラのみだった。
トムは首を振るばかりで、何も教えてはくれない。
「いえ……言いたくないなら、いいの。きっとそれくらい恐ろしい事だったのね。……トム、手のひらに傷が……」
「……なんて事ないさ」
心配のあまりライラはトムの手を取り、傷を見つめた。手のひらを横断するようにできた切り傷。ライラは自分のことのように心を痛め、そして傷が治りますように、そう祈った。
そう、
その瞬間、小さく光が灯った。
小さく、昼の日の下では掻き消えてしまいそうなほどの淡い光。それはトムの傷を撫で、瞬くうちに治してしまった。ピタリと肉と肉がひっつき合い、流れ出た血がその間を埋め、もはや跡も残らない。
ライラははじめ、その現象を神の思し召しだと咄嗟に思った。自分のやったことだとは露にも思わなかったのだ。
彼女はその時の、トムの顔を忘れないだろう。恍惚とした______決して驚愕の念はない、執着の視線。
「……ライラも使えたのか……!」
「トム……? 一体なんのこと?」
「その力だ。君が、やったんだ。この傷は君が治した! 僕と一緒だ……!」
にわかには信じがたかった。
しかし、トムと一緒なら_______半信半疑のまま、ライラはその力を受け入れた。
その執着は、決して自分には向けられていないと______自分の力に向けられているのだと、ライラは知っていた。
結局のところ、ライラはトムの同胞だったと言って差し支えないだろう。
その『秘密の力』は二人の絆を強固に結びつけた。
二人は秘密を解明するべく、密かに研究を重ねた。
物を浮かす、動物としゃべる、花を咲かす、傷を治す……研究と称した鍛錬を重ねれば、二人ができることがどんどん増えていく。
孤児院の子達は知らない。大人にも扱えない。二人だけの『秘密の力』。それによってトムと繋がっていることがライラにとっては、この上ない幸福だった。
普通の兄妹は、血によって繋がっているものだ。ならば私たちは、この『秘密の力』で繋がれた兄妹なのだろう。馬鹿げていると思いながらも、ライラはそれをトムにすら言うことなく、密かに、密かにそう信じていた。
家族が欲しかったのだ。
そんな二人は、もう少しで十一歳になる。
十一歳の夏が来る。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
暗い夏。ウール孤児院に1人の男がやってきた。
男の名は、アルバス・ダンブルドア。
ダンブルドアは濃い紫のビロードに、派手なカットの背広を着ていた。その摩訶不思議でチグハグな格好に、周りの人は皆視線を浴びせる。しかし、ダンブルドアはその視線に気づかないのか、悠々と歩きウール孤児院への鉄柵を開ける。
このご時世、孤児を引き取るような酔狂者はいない。ダンブルドアも孤児を迎える気などさらさら無かった。
彼はウール孤児院の扉を叩く。すぐに若い女性がそれに応じた。彼女は珍しい物好き、噂好きで孤児の中で評判の女性だった。
そんな彼女もダンブルドアの異様な格好に気付き、すぐさま野次馬根性を引っ込めた。観察するような視線はすぐに警戒心を露わにした眼へと変わる。
「こんにちは。アルバス・ダンブルドアと申します。ここの院長ですかな?」
「ああ……。あー、ミセス・コール!!」
彼女が大声で屋内の方へと叫ぶ。かすかにミセス・コールが応える声が聞こえた。
「入んな。すぐ来る」
ダンブルドアは怪しまれながらも迎え入れられた。
やはり孤児院内に汚れやゴミはないが、見窄らしく寂しい様はライラがここに来た時から変わっていない。ダンブルドアも同じような感想を抱いた。
つかつかと、ああ考えることが多すぎる、といった様子でミセス・コールは現れた。
そして彼女もダンブルドアの格好に驚いたが、一つ咳払いをして姿勢を正し、何事もなかったかのようにダンブルドアと目を合わせる。
「こんにちは。アルバス・ダンブルドアと申します。ここに伺ったのは、手紙にも書いたように、トム・リドルとライラ・オルコットの将来の話をするためです」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
怪しい男。ミセス・コールがダンブルドアに抱いた第一印象はそれだった。
こんなご時世、孤児の将来を考える人なんてそれこそ奇跡のようなものだ。少なからずも期待を抱き、いざ会ってみればチグハグな格好に鳶色の長い髭。どうにも纏う空気の匂いが、只者ではないと告げる。そして何よりも、彼のキラキラした瞳は見る者全てを素直にしてしまいそうだった。
ミセス・コールは、彼が持ってきたトム・リドルとライラ・オルコットの進学の話に、とっくのとうに納得していた。見せられた書類は完璧なものだったからだ。
その安心感からか、ジンを開けてしまったのは失敗だったかもしれない。
「トムは口ではやってないなんて言いましたけどね_________」
ミセス・コールが特に目を付けていたのはトムの方だった。
ああ、トムも同じだ______この男と一緒だ。纏う空気が違うのだ。まるで別世界のように。
そして、ある日突然現れた、天使のような女の子も。きっと。
「ああ、あと……ライラ。やけにトムとは仲が良くて、よく間をとりなそうとしてくれていました。私と、トムの。きっとあの子、私がトムを怪しんでるって知ってたんでしょうね。自分が怪しまれてることにも気づきながら。いい子ですよ。ええ、ええ……きっと」
ミセス・コールはライラをそう評す。彼女らには心の距離がありながらも、妙に的確だった。
ミセス・コールは複雑な______トムだけならこんな感情を抱かなかっただろう_______心境の中、ダンブルドアに全て押し付けるように話しきって、ジンも飲み干した。
情けなくも、あの子たちの事を少なからず恐れている。今、どうしようもなくホッとしている。
「さ、ライラとトムのところへ案内いたしますわ」
一歩踏み出したその足が、憑き物が落ちたように妙に軽かったのが癪に触った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
コンコンと、突然トムの部屋にノックの音が響いた。
これにはトムですら驚いた。普段、積極的に自分の部屋に入ってくるものなどいないからだ。
そしてこの部屋にはライラもいた。二人はいつも隠れて『秘密の力』を研究している。みんなが怯えて立ち入らないトムの部屋は好都合だったのだ。
ライラは
トムが返事をしてドアを開けると、ミセス・コールと見知らぬ男性がそこにいた。地味な職員の服、お揃いの灰色のチュニックを着た孤児達に慣れていたライラは、男性の濃い紫のビロードを見てなんだか久しぶりに色彩というものを思い出した気がした。
つまりは、ライラはダンブルドアに注目しきりだった。
「トム、お客様ですよ。ライラも呼んで_______あら、いたのね。ちょうどよかった。こちら、ダンバートンさん、失礼、ダンダーボアさん。2人に話が……本人からにしましょうか」
ライラはダンブルドアに注目しながらも、やはり人見知りは直らない。ダンブルドアが一歩踏み入るたびに後退り、やがてトムの背中に隠れた。
トムがベッドに腰掛ければ、隣にピッタリついて出来るだけ自分の身を隠そうとする。ついには俯いて視線を切ってしまった。
「こんにちは。トム、ライラ」
ダンブルドアは握手を求めて手を差し出す。トムは躊躇なくその手を取ったが、ライラは指先で少し触れただけで手を引っ込めてしまった。無礼は承知だったが、体がビクつくばかりでいうことを聞かない。
彼はライラの無礼に意を介さず、小さな木椅子に腰掛けて二人の瞳をじっと見た。そして優しく語りかける。
「私はダンブルドア教授だ」
「_______
トムの態度は刺々しいものだった。ライラは怯えきり、トムは警戒心を露わにする。二人の態度は散々だったが、それでもダンブルドアは優しい雰囲気を忘れなかった。
「それは、医者という意味ですか? もしそうなら_______大方あの人が診察するように頼んだんでしょうけど、僕もライラも、悪いところは何一つない。僕らは病院なんか行かない!」
ライラは何も言わず、ただダンブルドアとトムの様子を交互に見る。するとダンブルドアの青い瞳とライラの紫の瞳がかち合った。だが、ライラはすぐに目を伏せる。何故だか怖く感じてしまうのだ。
「いや、いや……。違ってそういうことではない。私は学校にいる教授だ」
「嘘だ_______真実を言え!」
トムの厳しい口調に、ライラは思わず目を閉じる。ライラは知っていた。トムがこういった命令をすると_______『秘密の力』を使って命令するとみんな言うことを聞いてしまうのだ。トムはもっぱらそれを家事の押し付けに使っていた。便利なのだろうけどライラにとっては恐ろしかった。
その力を使うのをやめて、なんて言えなかった。
とかく、これで真実がわかるはずだ。ライラはどこか安堵していた。
「……私は教授だ。ホグワーツという学校のね」
トムのショックが空気を通して伝わってくるようだった。
ライラはどうしていいか分からなかった。今まで、トムの命令を聞かなかった人なんていなかった。本当なのかもしれない。本当にこの人は学校にいる先生なのかもしれない。そんな期待がライラの中に芽生えた。
「信じない……。嘘だ! いや______でも、そんな……」
「信じてほしい。私は精神病院から来たのではない。もし君が信じてくれるのなら、ホグワーツという学校について話して聞かせてあげよう。もちろん、嘘などつかない」
しっかり、一言一言をダンブルドアはトムに言い聞かせた。まるで獣を手懐けているようだ。そして最後に彼はライラに、パチリと一つウィンクをしてみせた。興味や期待を見透かされていたのだ。
なんだか恥ずかしくてたまらない。ライラは顔を赤くした。トムもライラのその様子を見て観念したようだ。
ダンブルドアは姿勢を直し、またゆっくりと話をし始めた。
「ホグワーツは特別な力を持った者のための学校だ」
二人は目を見開いた。心当たりがあるからだ。誰にも話したことはない。二人だけで共有していた『秘密の力』。
聞き間違えじゃないかと、前のめりになる。
「君たちのような、魔法使いに門戸が開かれている。_______ホグワーツ魔法魔術学校。君たちが行く学校の名前だ」
一つでも物音が立てば、全てが瓦解してしまうような、そんな静寂だった。息遣いですら憚られる気がした。
ライラはトムを見た。トムはダンブルドアを見ていた。嘘をついていないか観察していたのだ。
そしてライラとトムの目があった。
トムが頷く。
「_______魔法?」
言葉を口にしても、何も崩れやしなかった。変わらなかった。ただただベッドに座っていられた。
「そうだとも」
「私たちが______すぐ花を咲かせられるのも、物を浮かせるのも、傷を治すのも……全部? 全部、魔法?」
「もうそんなことまでできるのか! 二人は優秀なようだ」
ダンブルドアは笑ってみせた。トムは咄嗟に言葉が出ないようで、手を組み額に当て、まるで祈るような格好で息をつく。
「ああ……知っていた_______特別だって_______知っていたけれど……」
ライラはチラリと隙間からトムの表情を覗き見た。見えてしまったと言う方が正しいかもしれない。
決して喜びではない。恍惚とした表情。今、トムは何もかもを忘れ確信のようなものをひたすらに味わっている。綺麗な顔が恍惚に染まるのは何故だか恐ろしかった。
ライラはトムから目を離し、ダンブルドアに向きなおった。この瞬間だけは人見知りを忘れたように、言葉がするすると出ていく。
「教授も魔法使いなんですか?」
ダンブルドアは大仰に頷く。
『秘密の力』が二人だけのものではないことに、ライラは少し寂しさを覚えていた。しかし、仲間がいるというのは嬉しいものだ。
「もっと別の魔法もあるんですか? 複雑なものも? 私たちが知ってるのとは別の、高度なものも?」
質問が止まらなかった。いつものライラからは考えられないほどに口数が多い。
「もちろんだとも。君たちは今まで学校では教えない、もしくは許されない方法で学んできたが、ホグワーツに行けば正しく、効率良い魔法の使い方を学べるだろう」
その時のライラは、孤児院に来てから一番幸せだと感じていたし、それは傍目から見てもそうだった。トムですら見たことのないような、華やぐ笑み。そこにいたのは年相応の笑顔を浮かべた11歳の少女だった。
トムはそんなライラの表情から目を離し、囁いた。
「証拠を……力を、示して」
ダンブルドアはまた頷き、杖を取り出した。
視線が杖の先に集中する。ダンブルドアは二人が十分に注目しているのを見て、ゆっくり、視線を誘導するように杖を振った。
杖を振った先は、トムの部屋にある、洋箪笥だった。
箪笥が瞬く間に燃え上がる。
「ひどい!」
ライラの叫び声が上がった。トムはダンブルドアに飛びかかる。
時間にして一瞬のことだった。ダンブルドアはすぐ火を消した。焦付きもなく、箪笥は元からあったように佇んでいる。
ライラは一瞬、白昼夢でも見たのではないかと思った。箪笥は燃えていたのに、何も変わっていない。部屋が燃えてもない。ただ息が荒くなっていく音がライラの耳につく。
「トム」
ハッとして、ライラはダンブルドアを見た。トムは震え、怒りで顔が赤くなっている。
「トム、君はいけないことをした。わかってるね?」
ライラはダンブルドアの言うことが一つもわからなかった。
洋箪笥がいつのまにか、カタカタと揺れている。
「君は優秀だ。優秀だが、ホグワーツは盗人を受け入れない。ここと同じように、ホグワーツでも盗みは厳禁だ。『君が持つべきでないもの』がそこにあるようだね」
洋箪笥の揺れは激しさを増していく。ライラは立ち上がって洋箪笥から離れた。何かが住み着いているような揺れだったからだ。
「取り出したまえ」
ダンブルドアが命令する。トムは怯えた顔で躊躇った。『秘密の力』______魔法を使っていない、ただの言葉。しかし、有無を言わせぬ圧があった。
トムはガタガタと揺れる洋箪笥の戸を開け、中から小さな箱を取り出した。真に揺れていたのはその小さな箱だったのだ。トムが手に取ることにより、揺れもおさまっていく。
箱の中身を、ライラは垣間見た。見覚えのあるものがいくつかある。
「箱を開けなさい」
「はい」
生気のない声だった。箱の中身がベッドの上にぶちまけられる。ライラはそれを見てもなお、信じられなかった。
垣間見た中身。見間違いだと信じていた。
人から見たらガラクタ同然の、宝物。孤児達の心の支え。それを無くしたと言って泣く子を幾度もライラは見ていた。
古びたハーモニカ。ヒビの入ったビードロ。缶抜き。トムではない_______他の子達にとって大事なものばかりだ。
突きつけられた現実に、ライラはクラクラする頭を押さえるので精一杯だった。
「謝って、返しなさい。いいね? 君が、ホグワーツに行きたいのならだがね」
「……返します」
「よろしい。そしてホグワーツに来るのなら、私を『先生』や『教授』と呼ぶように」
「はい。先生」
淡々とした声だ。だからこそパニックになっていても頭に響く。ライラは一杯一杯で、もう二人には黙っていてほしい心地だった。
トムは一つ一つ箱に丁寧に入れ直し、ベッドの上に放置する。洋箪笥にはもう隠さない、と言う意思表示だろう。
「あー、先生」
「何かな?」
「魔法使いは、普通、杖を使うものなのですか?」
トムは杖を指差し、そう言った。ライラはついに呆然とし、呆気に取られる。自分にとってはショックでたまらないのに、罪を犯したことを暴かれるなんて自分にとっては酷く耐え難いのに、目の前では無かったことのように会話が続くのだ。
「来るべき時が来れば。ホグワーツでは杖を使い、魔法を制御する方法を学ぶ。いいかい、もう一度言うが君たちは学校では教えることのないやり方で魔法を学んできた。その力に溺れるものは多い。ホグワーツではそんな生徒を退学処分にすることは容易いし、魔法省は______我々の世界の政府のようなものだ_______罰を与えることができる。こちらの世界にも法律はある。従わなければいけないのはわかるね?」
「はい。先生」
トムの顔に温度はなかった。先ほどまで怒りに染まっていた表情も抜け落ち、ただダンブルドアの言うことに従っている。
ライラも返事をしなければならないと思ったが、喉が張り付き声が出なかった。
「先生、僕にはお金がありません」
やっとライラの意識が戻ってきた。一旦考えるのはやめて、二人がそうするように、この先の話を聞こうと思ったのだ。
孤児院にいてお金を貯めれる孤児など少ない。貯められても少額だ。
「その点は心配ない。二人には特別な援助が出るだろう。そう言った資金があるが、無限ではない。いくつかの教科書を古本で済ます必要があるだろう_____」
そう言いながら、ダンブルドアは二つの巾着袋を取り出し、それぞれ二人に与えた。ずっしりと重い袋。鼻につく皮の香り。開けてみれば、ギラギラと光る分厚い金貨がこれでもかと入っていた。
ライラの手から二の腕にかけてゾッと鳥肌が立ち、袋を取り落としそうになる。
一方トムは未だ無感情だった。
「どこで買えるんですか?」
「ダイアゴン横丁で」
聞いたことのない場所だった。
「私が付き添うことになっている。ここに必要なもののリストがあるから、探すのを手伝おう」
リストには全く不思議な言葉ばかり並んでいる。それに聞いたことのない地名。魔法の息づく世界。不安だったライラの心は少し緩みを見せた。
「いえ、僕は______僕たちには付き添いは要りません。二人で行きます」
そのトムの言葉にライラはまた驚愕した。しかし依然、緊張しきりで声が出ない。
「いつもロンドンを歩いているし、場所さえ教えてくれれば。そのダイアゴン横丁とやらはどこ________にあるんです? 先生」
忘れていた、と言う風につけられた敬称。しかしダンブルドアが怒る様子は見せない。
トムも異様だが、ダンブルドアも異様だ。ライラは知っていた。孤児が少しでも失敗すれば烈火の如く怒る大人がほとんどなのを。しかし彼は全く喋らないライラにも、冷たい態度のトムにも怒ることがない。怒鳴ることもない。
しかもトムが付き添いを断ったことに、反論を唱えなかった。
ダンブルドアがますます不思議に思えてくる。
ライラがダンブルドアを眺めていると、また目があった。今度は目を逸らせなかった。
「ライラ。君は大丈夫かね」
「ぁ______は、はい。トムが、そう言うなら……」
口も喉も乾きっぱなしで、掠れた声が出た。もう人見知りが戻ってきたようだ。そう答えるだけで声が震えた。
「そうか。場所を教えよう。よく聞くように」
ダンブルドアは魔法界への入り口として『漏れ鍋』というパブの場所を二人にはっきり教えた。そして先ほど見せた教材のリストが入った封筒も、二人それぞれに与える。
「マグルには_____魔法を使えない者のことだ_____見えないだろうが、君たちには見えるはず。店に入ったら、バーテンのトムを訪ねなさい。案内してくれるだろう。図らずも、君と同じ名だ。覚えやすいだろう」
ダンブルドアは意外だっただろうが、ライラはその言葉にトムは嫌がるだろうと分かっていた。
トムは『特別』が好きで『平凡』が大嫌いなのだ。
「おや、『トム』という名前が嫌いかな?」
「平凡だ」
簡潔でこれ以上ない答えだった。
ふと、トムが顔を上げて堪えきれなかったというふうに呟いた。
「僕の父は魔法使いでしたか? みんなが教えてくれた。僕と同じ名の父は______」
久々にトムの顔に表情が戻ってきたようだった。少し懇願するような表情でダンブルドアを見ている。ライラはそれをただ見ていた。
「すまないが私にはわからない」
ダンブルドアは優しい声でそう告げた。
トムは俯き、また呟いた。
「……母さんは魔法使いのはずがない。使えたなら……こんなにあっけなく死ななかっただろう」
トムは自分に言い聞かせているのだ。ライラの気持ちはますます沈んでいく。
『私の父、もしくは母……ファーストネームどころかファミリーネームすらわかりませんが______ご存知ありませんか?』
そんなことを聞くなんて馬鹿げていると知っているからだ。
「父さんの方だ。絶対に。それで、必要なものを揃えたら、いつホグワーツに行けばいいんですか?」
「封筒の中の羊皮紙。二枚目に細かいことは書いている。九月一日。キングズクロス駅にて汽車が出発する手筈になっている。チケットもその中だ」
トムは頷いたが、ライラはダンブルドアの話を聞くので精一杯だった。
伝えることはこれで全てのようだ。ダンブルドアは立ち上がり、また手を差し出す。
トムはそれを握り返し、最後にまた尋ねた。
「僕は蛇と喋ることができる。向こうが話しかけてきたんだ______。魔法使いにとってこれは普通なの?」
トムはきっと答えをもう知っていただろう。ライラにそれができないのを知っていたはずだからだ。
一瞬、ダンブルドアは躊躇した。
「……稀ではある」
その時、ライラには分かった。そこに教師ではない______ただの大人の、ダンブルドアがいることを。生徒に対する態度ではない、興味と警戒を含ませた表情をしたことを。
二人の目が合う。束の間の静寂の後、握手が解かれる。
次はライラの番だった。
「ライラ、何か質問あるかな?」
手を握りながら、ダンブルドアはそう聞いた。もちろん、いくらかあったが、それを言葉にまとめられる気がしなかった。それに、握手という行為が恐ろしくて仕方がなかった。
「い、いえ……」
「そうか。では______またホグワーツで会おう」
手は離れ、ダンブルドアは部屋を出て行く。ライラは何故だかその背中を追いたくなったが、グッと堪える。
嵐のように、何もかもが変わって世界がひっくり返った気がしたのに、ダンブルドアが来る前の部屋と出て行った後の部屋はなんら変わりがない。
また静寂が訪れる。静かな空気が身に刺さる気がして仕方がなかった。
逃げたかった。
「トム、あの……私、部屋に戻る……。また、明日ね」
あの小さな箱を見るのが嫌でたまらない。だからライラは走ってトムの部屋を出た。そして自室に滑り込む。
もう少ししたら夕飯だ。貴重なご飯なのに、喉を通る気がしない。
食べるために。明日も今日と同じく平和でいられるように。明日も、トムと過ごせるように。
少しずつ、ライラは心に蓋をしていく。失望、猜疑心、安堵、不安……。いろんなものが渦巻いている。
いいことがあった。でも良いことばかりじゃなかった。そうだ。今日はそんな一日だ。なんだ、普通じゃないか。
そうしてライラは、トムに対する疑いに蓋をした。
分かっている。友情を失いたくないだけだと。兄妹だとと思っていた人に失望したくないだけだと________。
でも、それでも。どうか白昼夢ではありませんように。
残ったのはそれだけだった。
その日の夜。ライラは夢を見た。
『やっと気づいたね』
しゃがれた声の見も知らぬ人がそう告げるだけの夢だった。
あと三日も経てば忘れるような、そんな夢だった。
拙いですが楽しんでくれたらと思います。
2021.04.18
全編書き直しのため、修正更新いたしました。
大筋は変わっておらず、展開も話の切れ目もそのままです。
読んでくださった方々ありがとうございました。また楽しんでいただけたらと思います。