「ありがとう、って言ってくれたんだ」
あの日、あっくんは泣いていた。ちょこんと繋いだ彼の手から私の手に、彼が内に秘めた慟哭が静かに伝わっていた。わたしにはそれしか出来なかったから、彼の手を静かにつまんでいた。
わたしがあっくんに想いを抱いたから、だからこそみかづき天文クラブは瓦解してしまった。両親を亡くし、引き取られた祖父の家でも居心地が良くなかった彼の人生にとって、みかづき天文クラブはどれだけ彼の救いになっていたのだろうか、想像に難くない。それほど大切だったものを、あっくんへの恋心というひかりの大事な気持ちをもまとめて、わたしは自分勝手な想いで壊してしまった。
わたしがあっくんに距離を取られることは当然だ。それはわたしがあっくんとひかりとに出来る唯一の贖罪だと思った。そう信じ自分を無理矢理納得させて、極力あっくんから離れてこの学生生活三年間を過ごしていた。廊下ですれ違えばわたしも、そして向こうも目をそらす。赤の他人以上、友達未満、そうただの親しくないクラスメート。そんな関係だった。しかしながら心のどこかでまだ自分の想いが叶うことを期待している自分もいて、時々わたしはあっくんのことを目で追っていた。そんな自分のワガママさに自分で嫌気が差していたりもした。
あっくんはあのとき限界だった。彼は床に臥せった祖父の看病をしながら、学園の受験勉強をしていた。彼は滅多に他の人に弱みを見せない人だ。みかづき天文クラブ時代に彼が泣いているところをわたしは見たことが無かった。ひかりの話によれば、壊れていたと思っていた両親の形見の望遠鏡で月を見たときに、ひかりの目の前で泣いたのが彼女がみた唯一の彼の涙らしい。そんな弱みを見せない彼でも満足に睡眠が取られていないのか、時々授業中に船を漕ぐようになった。
そしていよいよあっくんが学校を休んだ。担任の先生が話すには、「家庭の事情」とのことだった。やがて少し時間が経ってまた学校に出てきたあっくんは却って元気な様子で振る舞っていた。
「受験に備えて五角形の鉛筆を買ってこようかな」というクラスメートの軽口に、仮面を貼り付けたかのように笑うだけの彼を横目で見ていると、彼の元気が空元気であることはわたしには容易にわかった。このままではいけない、とわたしの中で抑えきれない焦燥感が沸騰して、いつの間にかわたしは贖罪や遠慮の気持ちをすっかり忘れ去っていた。
そしてわたしは「ただのクラスメート」のあっくんを放課後の教室に呼び出した。
西日が差し込む教室で、あっくんは少しだけ眩しそうに目を細めていた。
「祖父が、亡くなったんだ」
「うん」
ポツリとあっくんがこぼした。その訃報は予想出来ていたことだった。あっくんはわたしの眼をまっすぐ見て、そしてすぐに目線をそらして話を続けた。彼にあわせてわたしもあっくんから少し視線を外した。
「――だからもう最低限のものだけ持って親戚の家に居候させてもらっている」
「そっか」
わたしもその話がただのクラスメート相手なら、「大変だったね」と返事をするだろう。しかしながらわたしが彼を労っていいのかという考えが頭をよぎると、わたしは彼の言葉に首肯をすることしか出来なかった。みかづき天文クラブが瓦解してひかりと離れ離れになって、あっくんが大変だったこの三年間に意図的に彼から距離を取っていたこのわたしにそのような資格があるのだろうか。
「優しくしてくれているんだけど、座りが悪いっていうか」
「うん」
「悪い人たちじゃないのに。何だろうな。何でだろうな」
片手で頭を掻きながら喋るあっくんの声が少し震えていた。それに驚いてわたしは彼の方に視線を戻した。相変わらず窓の外に眼差しを向ける彼の目尻には、夕暮れの日差しに曝されて輝くものがあった。
「嫌われていると、思っていたんだ」
あっくんが何かをこらえるように眼を固く瞑った。なんとかしないと。彼の中で限界を超えて混ざり合って激しい熱を持った何かをどうにかしなければ、彼が壊れてしまう気がした。わたしは居ても立っても居られなかった。わたしに何が出来るか分からなかったけれども、自然とわたしの身体が動いていた。
わたしは彼の手をちょこんと取った。
あっくんがわたしを真っ直ぐに見た。そして今度は彼は下を向いて、絞り出すように言葉を紡いだ。
「最期に、ありがとうって、言ってくれたんだ」
わたしは無言で彼の手に触れていた。そうすることで彼の溢れ出しそうな何かをわたしに吐き出してくれるならば、それで良かった。
「違ったんだ。違ったんだって」
彼はわたしに泣き顔を見せないように、下を向いたままだった。
――どれくらいの時間が経っただろうか。教室に差し込んでいた西日は陰り、彼の目尻に輝いていたものは見えなくなった。日没とともに二月末のまだまだ冷たい外気が教室を覆っていた。いつの間にか彼の手の震えは止み、気温の冷たさに比して彼のぬくもりが繋いだ手を介して伝わってきていた。
「ごめん、遅くなった」
「ううん。話してくれてありがとう」
触れていた手が離れると、冷たい空気にあてられたせいかわたしは少し寒さを覚えて、正直なところ名残惜しいと思った。一方でこんなわたしでもあっくんの役に立てたのかと思うと、わたしの心に満たされるものがあった。憑き物が落ちたように晴れ晴れとしたあっくんは、やはり格好良い男の子だった。
「送っていくべきなのか、どうなのか……」
「いいよ、暁斗君の親戚のお家、遠いんでしょ」
悩んで首をかしげる彼に少し可愛らしさを見出してしまう。
だがわたしは首を横に振った。送り迎えの提案自体は大変魅力的だが、分別はつけなければならない。あくまでわたしは彼と結ばれる資格がない人間だ。一介のクラスメートでしかないことを思い出すんだ。自分だけそんなことをするのはひかりにも申し訳がたたない。
お互いに自分の荷物をもって教室を出た。学校近くのバス停まではどうやっても同じ帰り道になる。今更離れて学校の中を動くのはバツが悪く、彼と隣り合って歩みを進めた。
「……」
無言だった。今更何を話せばいいと言うのだろうか。
リノリウムの床に二人の足音だけが響いていた。あっくんの足音より、わたしの足音のほうが回数が多い。けれども二人で並んで歩けている。彼がいつもより歩幅を小さくして、まるで昔のようにわたしの歩く速度に合わせてくれていたことに気がついた。感謝の気持ちは、わたしの胸の中に仕舞っておくことにした。
「しまった」
「どうしたの」
下駄箱で外靴に履きかえようとしたその時、彼が声をあげた。
「数学の参考書を教室に忘れてきた。取りに戻るから先帰ってて」
そう言って彼はわたしを置いてもと来た道を走って戻っていった。学園の受験ももう出願が終わっている時期で、今は試験日に向けて勉強を重ねる時期だ。出願先だが彼は星野第一に出願したと聞いて、わたしは彼から逃げるために星野第一を避けて静泉女子を受けることにしていた。
はたと気がついた。家庭の事情でせわしなかった彼の勉強の進捗は大丈夫なのだろうか。授業中に寝てしまうくらいだから、彼は多分家でもほとんど時間を取れていないのだろう。一度気がついてしまうとそのことが心配になってしまう。幸いにしてわたしは勉強がそこそこ出来る。静泉女子は地域の有名な進学校だが、わたしの模試の判定では問題なく合格できる程度だ。そうであれば余裕のあるわたしが彼に勉強を教えてあげれば、彼の勉強の遅れを取り戻せるだろう。
自分の画期的な思いつきに自画自賛をしてしまう。すっかり暗くなった下駄箱のそばで彼が戻ってくるのをわたしは待つことにした。
「あれ、帰ってなかった。ごめん」
あっくんが歩いて戻ってきた。わたしははやる気持ちを抑えて聞いた。
「暁斗君、忙しいみたいだけど勉強の方は大丈夫なの」
彼はあー、とバツが悪そうに頭を掻いていた。相変わらずこうなると視線をそらす。これは彼の癖のようなものだった。
「いや、まあ……。正直、あんまり大丈夫じゃない」
「じゃあわたしがみようか」
わたしはずいっと一歩前に出て、待ってました、とばかりに畳み掛けた。
「いや、この時期だし俺のためだけに沙夜の時間を取るのも。でもなあ」
うーん、とうなりながらしばらく腕を組んで悩んでいたあっくんだったが、腹をくくったらしかった。彼は気をつけをして、わたしに一礼した。
「クラスメートにこんなことを頼むのは本当に申し訳ないんだけど、背に腹は代えられないので、よろしくお願いします」
「任せてください」
わたしは大きく頷いた。
帰り道のバス停までの道すがらで、今後の勉強場所などを相談した。すっかり忘れていたことだが、あくまでお互いただのクラスメートで、ついさっきまでむしろお互い避けていた同士だ。にもかかわらず勉強場所はお互いの家で、というのも変だろう。それはただの恋人関係に近いだろうし、それはひかりに対するわたしの矜持にも反することだった。
結局放課後学校に残って自分の席でそれぞれ必要な勉強をし、彼が分からないことが出てきたときにわたしのところに聞きに来る、というスタイルを取ることになった。あっくんのことになると色々なことが目に入らなくなる悪癖を再びやってしまったことを、わたしは密かに恥じ入るのだった。
「沙夜、今日は学校で勉強するんだ」
「うん、しばらくそうしようかなって。たまには環境を変えないとね」
「沙夜は勉強熱心で偉いなあ」
「ミキだって家に帰ったらちゃんと勉強するでしょ」
翌日の放課後、クラスの友人とそんな雑談をかわし、友人らは自分たちの帰路についた。学園受験直前であるからこそ、多くの学生は自発的に勉強している。学校の教室には暖房がないからか二月の末ではやや寒い。それを嫌ってかクラスのほとんどの学生は教室で勉強しようとはせずに、図書館や自宅に行く。結局教室に最後まで残っているのはあっくんとわたしだけになった。
春分くらいの陽はまだまだ早く沈む。放課後もう傾き始めた日差しは直射日光として教室に入ってくる。そんな中で早速二人だけの勉強会が始まった。とはいっても基本的に勉強をしているだけで、静かな空間だった。あっくんとわたしの席は三つほど離れていることもあり、話し声はあまりなくて、基本的に聞こえるのはシャープペンシルの音や紙をめくる音くらいなものだった。
「ふんふん」
わたしは静泉女子の社会科の過去問を解いていた。問題はこうだ。戦後首都移転が行われた国では多くが沿岸部の旧都から内陸部の新都へ移転しているがその経済的メリットについての考察問題だ。内陸と沿岸部との経済格差是正、あたりが答えになるのだろう。
「これで30字以内、っと」
解答用紙を埋め次の問題に取り掛かる。次は首都移転の地政学的なメリットの問だ。大方軍事的な理由とハリケーンとを書けばいいのだろう。
こうして社会科の一年分の問題を解き終わったあたりで、あっくんから声がかかった。
「沙夜、ちょっと教えてもらっていいですか」
「はいはーい」
わたしもキリが良い所だった。立ち上がってあっくんのところへ向かった。
彼は数学と格闘していた。図形問題のようだ。
「この問題なんだけど。この三角形の面積って出せるのかな」
「ふんふん」
円に内接する正十二角形の一辺の長さを出す問題だった。図形問題は説明が難しいものだ。
「頂角が30度の二等辺三角形を考えればいい、ということは大丈夫なんだもんね」
「おう」
「うーん。図形問題はだいたい、キレイな図を書いて、有名角を探す感じだよ。ちょっとノート借りるよ」
わたしはあっくんのノートに図を描き、彼に聞いた。
「で、有名角になりそうなのはどれだろう」
「この30度」
彼がノートの三角形のてっぺんを指した。
「正解。じゃあ30度を見たらやりたくなることないかな」
彼は少し上を向いて逡巡した。そしてハッとわたしの方を見た。
「イチ対ニ対ルートサン」
彼の視線がわたしを射抜いた。何年ぶりか、あっくんとばっちり目があってしまった。なんだか気恥ずかしくて、わたしの方からサッと視線を外してしまった。わたしの頬が熱くなっているのは差し込む西陽のせいにしておきたかった。
「正解。じゃあその直角三角形を作るとしたら、どうしようか」
「ここから反対側に線を下ろす」
そう言うと彼はわたしの書いた図形に線を一本足した。あっくんと共同で一つのノートを覗き込んでいるのだと思うと、勉強をしているはずなのに天体観望ノートを共同で作っていたときのことが頭によぎった。
今は違う、その時ではない。わたしはすぐに頭を振って、その思い出を端に置いて彼に問うた。
「さて。で、底辺を出したいわけだけど、どうしようか」
「面積が分かっていて、底辺を出したいなら、高さがわかればいい」
いい線をついていた。彼は頭の回転が早い。昔からそうだった。
「とすると、高さを表す線をまず書いてみれば良いと思うよ」
「ありがとう」
わたしは先程彼から受け取ったノートを彼が見やすい向きに置き直した。彼はそれを受け取ると、三角形を二分するような線を引いた。
「ああ、そういうことか」
彼は大きく頷いた。線を自分で引いただけで、このあとの方針が分かったようだ。
「助かった。流石教員志望。分かりやすかった」
彼の聞き捨てならない言葉に、今度はわたしがハッと彼を見てしまった。もうすでに陽は陰っていて、わたしには彼の表情はよく見えなかった。幼い頃に話した将来の夢に関する雑談を彼は覚えていたのだ。将来の夢はひかりは鉄道の運転手、わたしは学校の先生だった。数年前に一回話をしただけの「昔仲が良かっただけの他人の将来の夢」を彼が記銘していたことは、わたしの予想と異なっていた。完全に切れたと思っていた三人の縁が、微かに、本当に微かにでもまだ繋がっているように錯覚してしまえた。
「……そろそろ暗くなってきたし解散にしようか」
衝撃から立ち直るのに時間がかかったわたしは彼の言葉に生返事をすることしか出来なかった。
「ひかり、今日はお勉強の日」
「えー」
「えーじゃないです。あっくんを見なよ」
みかづき天文クラブで活動していた時代に時は遡る。初めての彼との勉強会の日の夜、わたしは一人で昔を思い出していた。
立ち上がってどこかに行こうとするひかりをわたしは引き止めた。しぶしぶという体で机に向かうひかりと対照的に彼は黙々と算数の問題集を進めていた。金星と火星とが近接するという天文イベントの観望のために掃除当番をサボったバツとして、みかづき天文クラブ全員で問題集を解く羽目になっているのだった。
「ぶーぶー」
「ぶーぶー言ってもダメです。明日以降気兼ねなく遊びたいでしょ」
ひとりごちるひかりを宥めて机に向かわせたわたしは、自分の課題に取り掛かろうと席に戻った。
「……わかんない」
黙々と問題を解く時間は25分で終わった。ひかりが匙を投げたからだ。
「あたしの将来の夢につるかめ算は要らないよ」
「そういえばひかりの夢ってなんなんだ」
ひかりはお手上げのポーズをした。問題集から顔をあげたあっくんがひかりの慟哭に乗っかった。実際のところわたしも少し気分転換をしたかったので、それに重ねた。
「確かにみんなの夢、なんだろう」
「あたしはね、お父さんの会社で働きたいな」
ひかりはお手上げのポーズからバンザイのポーズになっていた。
「確かお父さん、ここの鉄道会社だよね」
「そう、出発進行、ってキリッと決めるお父さん、カッコイイんだよね」
出発進行の掛け声に合わせて眼を輝かせながら前を指差すひかりだった。そんな彼女をわたしとあっくんとで目を細めて眺めていた。
そしてひかりの指が突然動き、その照準がわたしに向いた。
「沙夜の夢は」
「わわっ」
突然指をさされてわたしは驚いてしまった。というかひかりは何でピストルの手の形をしているのだろう。出発進行はピストルでは無いと思う。
「意味なんてないよ多分、ひかりだし」
ボソッと言うあっくんだが、何故わたしの気持ちが分かったのだろうか。
「で、沙夜の夢はなんなの」
「わたしは、学校の先生になりたいなって」
自分の夢を語るのは少し気恥ずかしかった。あっけからんとしているひかりが凄いと思えた。
「二人して頷いて、どうしたの」
「いやなんかはまり役だなって」
「えへへ、そうかな」
二人の首肯がシンクロしていた。全く同じ動きをする二人の様子はなんだか見ていて面白かった。そして自分の夢が自分に合っていそうだ、と言われると少し嬉しかった。
「だっていつもわたしに勉強させようとするじゃん」
「だっていつもひかりに勉強させてるじゃん」
ひかりとあっくんの声が再び重なった。二人の息はぴったりだった。わたしは笑いながらそれに返した。
「いやそれはさておいて、ひかりはもう少し勉強した方がいいと思うよ」
「ぶーぶー」
そしてまたひかりはひとりごちるのだった。
そんなひかりを脇において、わたしはあっくんに聞いた。
「あっくんの夢は、どうなの」
「あー」
彼は答えにくそうに片手で頭の後ろを掻いていた。ひかりが身を乗り出して会話に参加してきた。
「確かに。暁斗の夢、聞いたこと無いね」
彼がひかりとわたしから視線を外して、小声になる。
「将来の夢とか無くて、この三人でずっと星を見られたらいいなって」
言葉の最後のあたりは最早消え入るような声色だったが、ひかりもわたしも聞き漏らすことはなかった。恥ずかしがるあっくんに対して、自分の将来の夢を語ったとき以上の溌剌さでバンザイをするひかりとのコントラストが眩しかった。
「暁斗くんや、嬉しいことを言ってくれるじゃないの」
「うんうん、そうしたいね」
あっくんの方へ両手を伸ばすひかりと、それに何度も頷くわたしだった。本当に、心の底からそうなって欲しいと思っていたのに。
「で、沙夜先生」
ひかりは両手を伸ばした状態でくるりと回り、わたしの方に向き直った。今度の手の形は合掌だった。
「つるかめ算を教えて下さい。早くドリルを終わらせたいです」
「任されました」
わたしは彼女に頷き返した。
その後しばらくひかりは私のことを事あるごとに「沙夜先生」呼びしてきたのだった。
二週間しっかりと学校での勉強会を開き、あっくんの勉強はなんとか追いついた。自画自賛ながらもちろん自分の教えも大きかったと思うが、やはり彼自身の実力も大きかっただろう。学校勉強会のおかげで、彼とわたしとは廊下ですれ違っても目をそらすことなく、勉強の進捗を話すようになっていた。
近所の桜のつぼみが膨らむ頃、県立の入試が終わり、そして静泉女子の入試も終わった。たまに思ったのは静泉女子にわざと不合格になって最寄りの公立として滑り止めにしていた星野第一に進学すれば、あっくんと同じ学園に通えたのかもしれなかった。けれども流石にそれはお母さんに悪いだろうと思った。静泉女子の受験料を無駄にするだけの話ではなく、私立への進学を許してくれたお母さんの思いを踏みにじることと同値だからだった。全力で挑んだ静泉女子入試の手応えは盤石で、合格は間違いないだろうと確信していた。
学校は年度末ですでに休業期間中だった。あっくんの入試の様子が気になるところだが、登校日はもうしばらくないので、その結果を聞くことは叶わなかった。まだこの近辺だと明光学院の入試が残っているが、受験予定はないのでわたしの入試はもう終わっていた。受験でも助けて貰ったし、お母さんに日頃の感謝を込めてちょっとしたプレゼントを贈ろうかと思った。そんな日に限ってお母さんもわたしも寝坊をして、朝ごはんを食べずにお母さんが慌てて仕事に出かけた。昨日のお夕飯の残りを軽くつまんで、わたしは朝から買い物に行くことにした。
残念ながらこの近辺だと買い物先はさをとめ一択であった。あっくんにプレゼント出来たはついぞ無かったが、女子同士で回したバレンタインデーの日ですらここで買わざるを得なかったのだ。
「こんばんはー」
自動ドアがひとりでに開いた。コンビニエンスストアとなってキレイになったさをとめには店内にイートインスペースもあり、わたしはたまにここで勉強したりしていた。店のドアの前で門番をしているコタちゃんを眺めながらする勉強は癒やし効果が高く、大変勉強が捗るのだった。しかしながらどうやら今日はコタちゃんは店の前にはいないらしかった。
「いらっしゃい。ってあら沙夜ちゃんじゃないの」
「こんばんは、ってあっく……、暁斗くん」
さをとめのおばさんとあっくんとが向かい合ってイートインスペースに座っていた。あっくんは登校日ではないのにも関わらず、何故か制服姿だった。
「お二人でいったいどうしたんですか」
わたしの質問に対しておばさんが驚いて若干眼を開き、そしてあっくんの方を見た。
「宙見くん、沙夜ちゃんに言ってなかったのかい」
「言ってなかったって、どういうことですか」
「どうって、あ、いらっしゃいませー」
後ろで自動ドアが開き、他のお客さんが入ってきた。開いたドアからは三寒四温とは言うもののまだまだ冷たい三月の外気が入ってきて、わたしには少し肌寒かった。
おばさんはあっくんに身体を向けて聞いた。
「うーん。宙見くん、自分で言うかい。それとも黙っておくかい」
「いや別に隠すことじゃないんで、言いますよ」
椅子に腰掛けたあっくんがわたしの方を見ていた。彼とわたしとで視線が交差しても、もうお互い別に視線を外そうとはしなくなっていた。
「さをとめでバイトを始めようかと思って、その採用面接中」
「えっ、アルバイト……。ってそっか」
あまりの衝撃にわたしの被っていた帽子がずれた。そして確かに驚きはしたが彼の言葉はすぐに腑に落ちてしまった。昔から彼は責任感が強かった。彼は自分のせいで誰かに迷惑がかかることを良しとしない人だった。みかづき村にわたしが引っ越してきたときのガジラ対アルビレオ事件でも、彼はアルビレオの観望会を開催してくれたのだった。そんな彼の祖父が亡くなって、彼は親戚のお家にお世話になっていると聞いていた。親戚に迷惑をかけないように、という考えなのだろうと容易に想像がついた。
しかしながらそのような込み入った事情を聞くのは、あくまでも友達にしか許されないことだろうと思う。とすれば自然とわたしの返事は一つしかなくなってしまった。
「そっか、頑張ってね」
「おう、ありがとう」
「いつくらいから始めるの」
「夜のシフトだなあ。夕方から夜にかけて帰ってきた人たちで混むらしいから、基本平日そこでのヘルプ」
「……そっか。夜なんだ」
彼は穏やかな表情で返事をくれたが、わたしは胸がキュッと痛んでいた。夜にアルバイトをしているのであれば、その後の星見は到底難しいだろう。つまり彼はもう天文を本当に捨てて生きていくということなのだろう。わたしのせいで、わたしのワガママな想いのせいで、彼から大切なものを奪ってしまったことを改めて突きつけられているような気がした。彼の言葉に笑顔で返事が出来た自信は無かった。ずれた帽子のおかげでわたしの目元が隠れていることを祈るばかりであった。
「沙夜ちゃんなんか寂しそうだけど、まあいつでもこの若手店員に会いにくれば良いじゃないの」
「……はい、そうですね。そうさせてもらいますね」
あっくんの背中を叩くおばさんに対してわたしは頑張って平静を装った。あっくんにアルバイトをあらかじめ教えてもらえなかった嫉妬とか、そういう問題ではなかった。
寂寥感を抱えたままお母さんへのプレゼントを探すという気持ちにはどうしてもなれなかった。会話のつなぎに、先程店の前に居なかった看板犬のことを聞いてみることにした。
「ところで、コタちゃんは」
「コタロウ、コタロウなら朝ごはんを食べて店の裏で寝転がっているんじゃないかね」
「ありがとうございます」
わたしは一礼して店を出て、店の裏側へ回った。吹き付ける北風がわたしの体温を奪っていく気がした。コタちゃんは首輪で店の裏のポールに繋がれて反対向きに座っていた。と思ったらおもむろに起き出し、コタちゃんがこちらの方を振り返った。
「コタちゃーん」
わたしの声が届くより若干早く、コタちゃんはわたしに反応した。においで気がついたのだろうか。ワンワン、とわたしを認識したコタちゃんが飛びかかろうとしたが、首輪に阻まれて届かなかった。尻尾をぶんぶんと振っている様子は仔犬を朧気に思わせるものだったが、コタちゃんはもう立派に成犬だった。
飛びかかられて毛むくじゃらにされないために、首輪が届かないギリギリの距離でわたしはコタちゃんを撫でた。外の寒さと対照的に犬の体温が手を通して伝わってきた。
「よーしよしよし」
顎の下をくすぐるように撫でると、コタちゃんは尻尾を振る速度を上げて喜びを表現していた。仔犬だった頃から変わらない彼のお気に入りのじゃれ合いだった。コタちゃんの身体は大きくなり、あっくんはバイトを始めた。みんな変わっていくなかでわたしはこうして昔のようにコタちゃんをを撫でていた。そうわたしだけがずっと思い出の中に居るのだった。
「沙夜ちゃん、ちょっと手を貸してもらえるかい」
「はーい。バイバイ、コタちゃん」
ひとしきりコタちゃんを撫で回したあと、くぅーんとなくコタちゃんを置いて、わたしはさをとめのおばさんに呼ばれてお店に戻った。なんでもあっくんの店員としてのレジ打ち練習をやっておきたいらしかった。
「勉強も見てもらったのに、練習にも付き合わせちゃって悪いな」
「ううん、いいよ別に。どうせ学校もないから」
「ありがとうな」
レジ打ち、と一口にいってもたくさんあった。現金払い、携帯電話での支払い、クレジットカード、交通系カードなど支払手段だけでたくさんあるのにも関わらず、更に公共料金やネット通販のコンビニ払いもあった。レンジで温める食べ物はならば蓋のソースを外して、温かいものと冷たいものならば分けた袋に詰めて、など確かに一朝一夕では覚えられない仕事量だった。
「店員さん、豚まん一つくださいな」
「お支払いは」
「クレジットカードで」
あっくんがホットスナック売り場からテキパキと豚まんを取り出し、紙包みに詰めセロファンテープで封をした。わたしはそれを受け取り、クレジットカード代わりの学生証を彼に渡した。彼はそれをスキャンして、レジを通した。
「ありがとうございました」
「うん、いい感じね」
彼は一礼し、お客さんであるわたしを見送った。累計十パターン程度をこなしただろうか。そのタイミングでおばさんの合格が出た。
わたしは色々なパターンのお客さんとして振る舞い、あっくんがそれに対応し、おばさんがあっくんの対応を評価する、という図だった。
「それはそれとして豚まんくらいの値段でクレカ切られると、商売厳しいのよねえ」
おばさんの独り言が完全に愚痴であった。少額のクレジットカード支払いは確かにお断りと書いてあるお店も多く、やはりお店に迷惑なんだと納得したりもした。
「んじゃ今日はそろそろ終わりにしましょうか。沙夜ちゃん、お礼に好きなもの何個かあげるから自由に選んでいいわよ」
「あ、ありがとうございます」
「宙見くんも、疲れただろうから好きなの取っていいわよ」
「ありがとうございます」
先程合格が出たので、無事練習は終了したようだ。練習の賜物としてお菓子を貰っていいとのことだったのでせっかくだからと一番美味しそうなモンブランとレアチーズタルトをわたしは選んだ。あっくんは先程練習に使った豚まんをそのまま食べることにしたようだ。
「そこで食べてっちゃいな」
「ありがとうございます」
おばさんの言葉に甘えて、あっくんとわたしは少し前まで面接会場であったイートインスペースに移動した。自然とあっくんとわたしとで同じテーブルに、向かい合って座った。
「沙夜、付き合ってもらってありがとう」
「いいよ、わたしも面白かったから」
わたしは彼の方を見ながらパタパタと手を振った。実際確かにコンビニの店員さんのお仕事の幅広さは興味深かった。それ以上に何より新しい人生を歩もうとしているあっくんのサポートが出来るのであれば、それは昔のわたしの償いきれない罪を贖う貴重な機会であるような気がしていたからだった。
「食べよっか」
かぶりを振ってわたしは彼に声をかけた。目の前に美味しそうなモンブランがあるのだ。レアチーズタルトはお母さんへのお土産だ。
「いただきます」
二人で一緒に手を合わせて唱えた。ぐーっと自分のお腹が鳴った自覚があった。彼の方を一瞬見ると、彼は豚まんの包み紙を開けるのに夢中で、どうやらわたしの恥ずかしい音は聞かれていないようであった。
わたしもモンブラン攻略に取り掛かった。モンブランにフォークがすっと入り、一口分を簡単に取り分けることが出来た。黄色のスポンジの間にゴロっと栗が散りばめられ、その上に黄色のなめらかな栗餡が幾重にも重ねられていた。コンビニスイーツの進化にわたしは感心していた。
一口分のモンブランを頬張ると、まず栗の独特の香りが鼻を通り抜けた。次に軽めの生クリームが口に広がり、その上をほんのりとした甘みが通り抜けた。固形の栗を噛みしめると、軽いモンブランの中でしっとりとした歯ざわりがアクセントとして口を楽しませてくれた。
「うん、美味しいよ。コンビニスイーツも凄いよね」
「どれどれ、すごい栗の量だなあ」
わたしはあっくんにモンブランの断面を見せた。しげしげと彼はケーキを覗き込んでいた。
「ちょっと食べてみる。店員さんだといろいろ商品を食べておかないとお客さんに説明できないんじゃないの」
「じゃあお言葉に甘えて。沙夜、フォーク借りるよ」
あっ、とわたしが返事をする前に、あっくんがモンブランにわたしのフォークを入れた。それだと間接キスになってしまうのではないか、そんなわたしの危惧はどこ吹く風か。あっくんは一口分のモンブランを食べた。
「美味しい、けど俺には少し甘いな。サンキュ、豚まんちょっとつまむか」
モゴモゴ言いかけるわたしを尻目に、あっくんは豚まんをわたしの方に差し出した。さをとめの豚まんは食べ慣れているが、やはりジューシーで美味しいのだ。わたしにとっては一個では多すぎるが、一口もらえるならば朝ごはんも少なかったのもあって確かに嬉しい。けれどもあっくんが食べている途中のものだと考えると、准間接キスのようなものであって、やはりわたしは慌てることしか出来なかった。
「ほいよ」
彼は豚まんの自分が口をつけていない部分をちぎってわたしに渡した。勢いに負けてわたしはそれを受け取って、頬張った。彼のちぎる一口分はわたしには少し大きいが、それも昔からのことだった。
豚のさっぱりとした肉汁がじわりと溢れ、醤油とごま油の香りがほんのり漂った。
「うん、やっぱりさをとめの豚まんは美味しいね」
「だよなあ」
思い出の味に舌鼓をうち、おのおのが自分のおやつを食べ進めた。
「ごちそうさまでした」
食べ終わって二人で声を揃えて、手を合わせた。
「あ、沙夜。ゴミ貰う」
「ありがとう」
食べ終わったモンブランの包み紙を彼に渡し、彼は席を立ちゴミを捨てに行った。
「そうそう、沙夜には報告しておかないといけないと思うんだけど」
「うん、どうしたの」
手のゴミを捨てて戻ってきた彼は、わたしの正面で改めて言った。
「受験勉強の先生役、本当にありがとうございました。手応え的には星野第一受かると思う」
「わわ。いいよそんな。わたしがやりたくてやったことだし」
それは本当に、本当によかった。あっくんがわたしにお辞儀をしていたが、そんなことをされると却ってわたしが恐縮してしまうのだった。
「卒業、おめでとう。新しい人生のステップでも教え子たちに幸運があらんことを」
この一言を最後に、学校最後のホームルームが終わった。一斉にクラスメイトたちが席を立ち、教室は一瞬で喧しくなった。
「あ、あの、このあと校舎裏の樹の下に来てください」
一世一代の勇気を振り絞って男子に声をかけるクラスメイトの女の子がいた。きっとあの子は彼に告白をするのだろう。その女の子の友人たちが、彼女のことを目を細めて眺めていた。願わくは、望みが叶うことを。
「このあとどこ行こうか」
「モール行こうか」
一方で、別のところでは打ち上げの相談をしているクラスメイトたちもいた。
そんな青春を謳歌しているクラスメイトたちを尻目に、わたしはあっくんの方を見ていた。
「暁斗も遊びに行こうぜ」
「すまん、家の用事があって」
彼もお友達から打ち上げに誘われていたが、彼はそれを袖にしていた。そそくさと荷物をまとめ、そしてそのまま誰とも一緒にならずに彼は教室を出ていった。
教室を去るあっくんを見ていると、わたしは胸を掴まれるような心地になった。このままあっくんと離れてしまったら別々の進路に進むわたし達はもう二度と会うことがないように思えて仕方がなかった。教室のガヤ音が遠くなると同時に、自分の鼓動の音がやたらに大きく聞こえる気がした。
「沙夜もモール行く」
「ごめん、行けない。誘ってくれてありがとう」
せっかく誘ってくれた友人に謝りながら、あっくんを追いかけて自分も教室を出た。わたしは普段は走らない廊下を小走りで翔けた。卒業の日に居残りせずに帰宅する生徒は珍しいのだろうか。周りの教室から聞こえる浮ついたざわめき声とは対照的に廊下にはほとんど人はおらず、わたしがリノリウムの床を蹴る音だけが大きく聞こえた。
下駄箱で靴に履き替え、下の学年の子たちが部活動に励む校庭を通り抜け、校門のところでようやく彼に追いついた。
「はぁ、はぁ。暁斗くん」
「ん、わっ。沙夜、どうしたんだ」
わたしの声に振り向いたあっくんの眼が少し開いた。追いかけられるとは思っていなかったのだろう。
「ちょっとね」
二人で並んで帰路を歩み始めた。活気あふれる部活動の声は遠ざかり、二人の足音だけが聞こえていた。彼は歩幅を緩め、わたしと歩みを同じくしてくれていた。
慌てて飛び出してきたわたしは、彼にかける言葉を思いつくことが出来なかった。ようやく絞り出したフレーズは自分の口から出た言葉とは思えないくらいに、努めて明るい声色だった。
「お友達とどこかに行ったりしないの」
「うーん、まあ」
彼は歩きながら正面を向き、後ろ手で頭をかいた。そして彼はわたしの方をまっすぐに見た。いつかわたしの双瞳を覗き込んでくれたときのように。
「まあ、沙夜にならいいか」
「わたしになら、って」
今度はわたしが目を見開く番だった。それでもわたしは彼から視線を外すことはなかった。
「祖父が亡くなって、親戚の家に行く話をしただろ」
わたしは頷いた。今こうして二人で歩みを進めているきっかけだ。忘れるわけがなかった。
「親戚の都合で、引っ越しが出来るのが今日だけだったんだよね。だからこのあと色々荷物を移さないといけなくて」
「そっか」
世知辛いがどうしようもない理由だった。そして彼は自分の祖父の訃報をクラスメイトに話していなかった。当然今日の理由もクラスメイトに話せるわけがなかった。だからこそ卒業式というハレの日にも関わらず、こうして足音と話し声だけが聞こえる帰り道にいるのだ。
それは悲しすぎる理由だった。その悲しい理由をまた一人で胸にしまい込んで、彼は新しい門出に至るのだろうか。クラスメイトの中で唯一わたしだけが知っている彼の弱さ。罪を重ねたわたしだけれども、わたしだけだからこそ彼の弱みを他ならないわたしが受け止めるべきな気がした。わたしは自然と早足になり、くるりと180度進路を変え、彼と相対した。
当然、二人の歩みが止まった。
「わたしに、なにか手伝えることはある」
わたしの突然の申し出に対し、彼は鳩が豆鉄砲をくらったような様子を見せ、そして大笑いした。笑う彼の顔には傾き始めた太陽が燦々と照りつけていた。陰りは、なかった。
「いや、いいよ。どうせ居候の身分でそんなに大荷物にはならないし、流石に遠すぎる」
「でも」
「大丈夫。沙夜が知ってくれているだけで、充分だから」
顔の前でパタパタと彼は手を振った。そこまで言うのであれば、本当にきっと大丈夫なのだろう。
また再び二人で歩き始めた。今度は本当に他愛もない話をしながらだった。
「数学の問題とか、沙夜の教えてくれたことがバッチリでたもんな」
「4番だよね。あっくんに説明した有名角の三角形そのまんまだったよね」
「いやはや沙夜先生には頭が上がらないわ」
彼はわたしの方に合掌して、ナンマンダブ、ナンマンダブとお祈りしていた。残念ながらわたしに帰依しても極楽浄土は待っていない。それどころかもしかすると破滅の未来しかないかもしれないけれども、わたしを救ってくれた彼に頼られたら応えたいと思ってしまうのも罪なのだろうか。
「じゃあわたしはこっちだから」
「ああ、またさをとめで」
「またね」
お互いに手を振って、それぞれの帰路へと歩みをすすめる。今生の別れではなく、またさをとめで会える。またね、という言葉を言えることを、わたしはなにかに感謝せざるを得なかった。
四月になり、わたしたちはそれぞれの学園へ進学した。わたしは平日は毎朝さをとめでお昼ごはんを買って、駅前のバス停からバスに乗って通学していた。彼も大体同じ時間のようで、時々店内でばったり会っては数回立ち話をしたりした。彼は少し疲れていそうだったが、新生活で遠くから通学しているからさもありなんと思っていた。
新生活が始まって二週間位経った金曜日の朝、いつものようにさをとめで朝ごはんを買うためにレジに並んだ。静泉女子で新しく出来た友達とメッセージアプリで会話をするために、わたしはスマホを覗き込んでいた。だから気が付かなかった。
「次の方、どうぞ」
聞き覚えのある声が耳に入ってきたので、わたしは画面から顔を上げた。そこにはエプロンを着てレジの奥にあっくんが立っていた。
「あっく、暁斗くんっ。はわわっ」
脱力してスマホを落としそうになるのをすんでのところでこらえたが、代わりに片手に抱えていたパンを落としてしまった。
「はい、こちらですね」
レジから彼が出てきて、わたしが落としたパンを拾い上げてレジへ持っていった。わたしはレジ前へ移動した。彼はわたしが買う数個の商品のバーコードを読み込ませていった。
「びっくりしたよ。朝もバイトはじめたの」
「ああ、朝来られるようになったから」
親戚のお家からは二時間はかかるはずで、通勤通学のコアタイムのアルバイトに行くとすると何時にお家を出られればいいのだろうか。朝のアルバイトは現実的に不可能に思われた。
「遠いんじゃないの」
「あー、後で話すわ。明日でいいか。456円になります」
「わかった。はいお金これ」
次のお客さんがレジを待っている以上、レジ前で話し込むのは迷惑に他ならない。一旦話を打ち切って、わたしは彼から買った商品を受け取った。
「またお越しくださいませ」
彼の店員然とした言葉を背中に受けながら、わたしは店を後にした。その後来たメッセージには、「一人暮らしを始めたからその部屋に案内するわ」と書かれていた。
「ワンワン」
「よしよし、コタちゃんはいい子だね」
翌日、土曜日の昼、わたしは学園の日でもないのに制服を着込んでさをとめの前でコタちゃんを撫でていた。コタちゃんの尻尾の振りがいつもより強い印象だった。
「あっくんが、制服で来てくれ、って言うんだよね。あの店員さんが」
「ワウン」
コタちゃんがわたしをじっと見た後、わたしの手に鼻先をこすりつけてきた。しっとりとした肌触りを感じた。犬の鼻先はどうして湿っているのだろうか、湿っていることで匂いの感覚が鋭敏になるという噂を聞いたことがあるが、本当なのだろうか。
コタちゃんをもふもふしていると、やがてさをとめの自動ドアが開く音がした。
「お待たせ、すまん」
「いいよ、別に」
あの入店音とともにあっくんが店から出てきた。片手に中身が入ったさをとめのビニール袋を持っての登場だった。彼の午前中のバイト終了を待って、色々と事情を教えてくれる手はずになっていた。
「その荷物は」
「あとで見せるわ。沙夜も、その荷物は」
「わたしも、後で渡すね」
わたしの荷物は、お母さん特製のおでんだ。あっくんが一人暮らしを始めたらしいとお母さんに話したら、気合を入れて作ってくれたのだった。
「じゃあね、コタちゃん」
「くうん」
わたしはコタちゃんの頭に載せていた手を離した。四月中旬にもなると昼間は充分暖かくて、コートなしでも大丈夫な気候だった。コタちゃんもそろそろ換毛期だろうか、何本か白い毛が手についた。
「で、暁斗くん。どこに行くの」
「俺の学園」
駅前のロータリーにバスがちょうど来ていたので、それに二人で乗った。
土曜の昼の下りバスに乗客は多くないだろう、他のお客さんは居なかった。あっくんがまずバスに乗り込み、一目散に最後尾の四人がけの奥へ座った。わたしも彼を追いかけるのだが、隣に座っていいものか悩んだ。かと言ってわざと離れたところに座るのも変な話だろう。
「お客さん、座ってください」
どうしようかと思っていると、バスの運転手さんに声をかけられてしまった。結局彼の隣に腰掛けることにした。
あっくんの隣に座ったのは何年ぶりだろうか。勉強会のときに相対していたけれども、本当に真横に座ったのはみかづき天文クラブのとき以来かもしれなかった。流石男の子であって、彼はこの数年で大分身体が大きくなった。隣に並ぶと改めて彼とわたしとの体格の差が浮き彫りになった気がした。同じ位だった昔が懐かしく思えた。緊張で若干体がこわばってしまうので、わたしは早く本題に入ってしまうことにした。
「学園って、学園に住んでいるの」
「そのとおり」
思わず彼の方を二度見してしまった。
「どういうことなの」
「星野第一の天文部が廃部寸前で、唯一の天文部員である部長に、寝床として使っていいからって」
またわたしは彼の方を二度見する羽目になった。学園に住むなんて突拍子もないことではなくて、今度は別の理由で。
「て、天文部ってことは、ま、また星を見てるってこと」
わたしの声と、自分の握りしめた手が震えた。彼は天文を捨てた。わたしが捨てさせたようなものだった。あっくんには星を見続けて欲しかったのに。
だがその返事はわたしを奈落へ突き落とす答えだった。
「いや、見ない。もう辞めたからな」
「っ、そんな」
「俺にはそんなガラじゃなかったんだろうなって」
そう現実は甘くない、当然のことだった。
その後色々とあっくんの話を聞いた。やはり通学に時間がかかること、親戚のお家の居心地が悪いこと、早く自立するためにさをとめのバイトを増やしたいこと。それらで悩んでいた際に、望遠鏡を掃除していた星野第一の天文部部長さんを通りすがりに偶然見かけて、あっくんが声をかけたことがきっかけで天文部に勧誘されたらしかった。唯一の部員である部長さんは三年生で引退が近く、そうなると部員がいない部活はお取り潰しになってしまうだろう。むつらぼしの会、という近隣学園の天文部と活発に交流していて、伝統がある部活を自分の代で終わらせたくなかったとのことだった。天文知識があるのが幽霊でも部員として渡りに船だと、天体観望をしなくても部の備品は好きに使って良いという折り紙つきだった。もともと天文部は夜のフィールドワークが活発な部活動だから、サバイバル寄りにはなるが寝具や防寒具・調理器具には事欠かない部活だ。みかづき天文クラブで培った技術がこんなところで役に立ってしまうのだった。
そうこうしているうちにバスは星野第一に着き、わたしたちは天文部室に移動した。
「おじゃましまーす」
おかしな話だが、あっくんの新居である以上挨拶はかくあるべきだろう。望遠鏡や赤道儀など天文部らしい備品の合間にカップ麺や缶詰などが置いてあって、不思議な生活感のある部屋だった。
「ご飯とかどうしているの」
「さをとめでバイトしたあと期限が近いのを貰っている」
そう言って彼は片手に抱えたビニール袋に手を突っ込んだ。インスタント麺、おにぎり、缶詰、どれもこれも炭水化物でお世辞にも健康にいいとは言えなさそうだった。
「ダメだよそんなんじゃ。栄養が偏っちゃうよ」
「いいんだよ、たまにさをとめでご馳走になっているし」
「ダメだってば。はいこれ、一人暮らしおめでとうでお母さんからの差し入れ」
わたしは彼にタッパーを差し出した。
「おでーん」
ででーん。
星は見ないと言っても、彼が天文とまだ縁がある立場に居てくれるのは正直なところ嬉しかった。わたしの瞳を覗き込んで「アルビレオみたいだね」と言ってくれた彼の星への情熱がまだ残っているような気がしたからだった。
この無茶苦茶な学園生活が続けられなくなったときが、あっくんが本当に天文から離れてしまうときなのだろう。今度こそそうはさせない、そのためにあっくんが学園で生活することを支えることはわたしの義務と贖罪とそして希望だった。わたしは彼に時々食べ物を差し入れたり、溜まった洗濯物を時々わたしの家に持って返って洗ってあげることにした。
そんな生活を続けているうちに、わたしはいつからか「通い妻ちゃん」と呼ばれるようになったのだった。