書き上げたぜ。
ガタンッ。
そう、音がした。
その音に反応して、あたしも一樹も、音がした屋上へつながる階段を見上げて______気が付くとあたしは恐怖でへたり込んでしまっていた。生臭いにおいがする。おそらく漏らしてしまったのだろうが、そんなことも気にすることができなかった。
見上げると、そこには「悪魔」がいた。
真っ黒い雨合羽に、大きな刃物を片手に携えた「悪魔」。雨合羽には、もはや黒色……いや、どす黒いとしか言い表せないほどに何かの液体が付着していて、雨合羽のフードの奥にギラギラと瞳が怪しく輝いている。
どう考えてもやばい。なんでこんな雨の日に、屋上から侵入できるのか。普通、屋上まで登ろうとも考えないし、登ろうと試みても雨で鉄のパイプや柵は滑り、コンクリートの外壁も凸凹なんてほぼない。上ることはほぼ不可能だ。
そんな、常人には実行不可能なことと思えるようなことをしてまで学内に侵入した、見た目と格好からしてどう考えてもまともに見えない存在に、あたしは心底恐怖した。
「……どうやら人間みたいだけれど、とっくにまともじゃなくなっているみたいだね」
一樹が言う。あたしにとっても「悪魔」にしか見えないほど、あの人はまともには見えなかった。
「……そういうお前はどうだ。こんな世界でやけにまともだな……」
「早く気が付いた方がいい……こんな世界でまともでいられる……そんなお前も、とっくに狂っているぞ……」
「悪魔」は言うだけ言うと、「……では、すべていただいていくぞ」と言い、屋上につながる階段から飛び降りながら、あたしたちに襲い掛かってきた。あたしは動けない。腰が抜けて、粗相もしてしまって。粗相と湿気でじっとりとして気持ち悪い感触のなか、へたり込んで動けない。
だけれども、あいつは違った。
「それにしても、
「悪魔」の手首を十字に組んだ手で受けることで鉈による攻撃を止めた一樹の、その言葉に「悪魔」がピクリと反応する。
「……奴らへの
「負けるわけにはいかない理由が増えたね……!」
手首を弾き、「悪魔」の懐に蹴りを叩き込む。一樹はそれでいったん距離をとった。「悪魔」も距離を取られる。蹴られた衝撃で、武装らしきものがパラパラと体中から落とされている。
「発煙筒に、火打石……彼らを火で燃やして倒していたのかい」
「火も囮だ」
落としたものに気も向けず、「悪魔」はそのまま一樹に襲い掛かる。あたしは動けない。動けないまま、ただ2人が争うさまを見ているしかなかった。片方は鉈を、片方はカッターナイフを振り回し、虚空に鈍い銀色の光をきらめかせながら、彼らは命を奪い合っていた。
*
少年一樹は、いつかは、こうなってしまうのではと思っていた。武装した者どもが暴れまわっていることをリバーシティ・トロンで知ってからというものの、荒くれものに警戒していたつもりだった。
だが、甘かった。
まさか学校の壁を上り、屋上から入ってくるとは思いもしなかった。
相手は手練れだ。食料と道具と女を奪うために、片腕を失った状態で屋上にまで登り、かつ片腕で両腕が健在の自分と渡り合っている。
(……強い……!)
カッターナイフをできる限り鉈とはぶつけ合わせないようにして戦う。カッターナイフは折れやすい。切れ味はあるのだが、すぐに欠けるし曲がる。武器としては欠陥品もいいところだ。さすがは文房具。鉈とは比べ物にならない貧弱さ。
さらに、自分の背後には守るべき相棒がいる。へたり込んで、今にも壊れそうな様子だ。
圧倒的に不利対面。さてどうするか。
普通であれば、数の有利で押しつぶすのだが、胡桃は腰が抜けて発狂寸前、一樹は、今の状態の胡桃をあてにしたくなかった。つまり、彼は一人の少女を守りながら戦うほかない。
さらに言うならば、相手は殺す気であるが、こちらにまだその覚悟がないということだろうか。相手を殺してでも生きるということを、一樹は未だ覚悟できずにいた。その覚悟の差は、一樹にためらいという形で現れ、一樹は相手が大きな隙をさらしても下手な攻撃が出来なかった。
……幼馴染を守るという覚悟をしてはいた。しかし、一樹は、それとは別にもうひとつ、覚悟をしておかなければならなかったのだ。リバーシティ・トロンで、シーフの存在を知ってから、一樹は「この先、人を相手にするかもしれない。だから、幼馴染を生かすために、人を殺してでも生き残らないといけない」という、そんな覚悟を、だ。
いきなり覚悟をしろと言われても、ついこの間までただの学生だった彼にはできるわけがない。しかし、今、それをしなければ死んでしまう。
「……迷っているな。それが、隙になるとも知らずに」
気が付けば、一樹は切られていた。清潔とは思えない、マチェットの如き大きさをした鉈で。左腕をざっくりと。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。血が大げさなくらい流れて、一樹の意識がチカチカと明滅する。彼の後ろで、甲高い叫び声が上がっている。
______死んでしまう。
一樹は、そう思った。今すぐ、というわけではないだろうが、それでもいずれ出血多量……いや、それよりも。彼は、清潔ではない鉈で切られたのだ。もしかしたら、「かれら」を切っているかもしれない鉈で。もしかしたら、「かれら」になってしまって、そのまま近くにいる悪魔ともども、幼馴染を______
(それは、嫌だな)
自分のせいで、幼馴染が。そう考える。
もう、一樹は迷わなかった。
気が付けば、相手の腕を蹴り上げて鉈を奪っていた。
首のない悪魔の体から、間欠泉の如く血が流れだしている。
(……もう、きれいなままじゃいられないな……)
血の流れすぎだろうか。それとも、ウイルスが傷口から侵入したのだろうか。ずきずきと痛む頭を押さえながら、血の海に一樹は沈んでいった。
「______!」
半狂乱の、幼馴染を残して。