秋の夕暮れ……というか、冬の始まり。
空が赤みがかった頃、今日も今日とて、オレは、いつもの会話を耳にしていた。
その会話は、決まって少女の声で始まる。
「探偵さん探偵さん。———ねぇ? 探偵さん。
———不思議を教えてくださいな」
四角い、六人がけのテーブル。
長辺に二人づつ、短辺に一人づつ、それぞれに座れるだけの大きさのテーブルに、現在は椅子が四つ。
長辺部分に四つ配置された椅子の一つに、小さな少女が一人、座っていた。
右隣に空の席を置いたその場所は、最近、彼女によく占領されている事が多くなった。
足をブラブラと、まるでブランコのように揺らしてリズムをとりながら、「探偵さん」と呼びかけている。
それは少女の目の前で突っ伏している、赤毛の男のことだった。
「探偵さん探偵さん、不思議を教えてくださいな」
少女の向かいで、机に伏している男の、さらに後ろ。項垂れる衛宮の背中を眺めながら、部屋の壁にもたれながら、オレはゆっくりと目を閉じた。
———聖杯大戦のことを考える。
死ぬつもりは毛頭無いが……とは言ってもオレは炉心になる訳で、つまり存在が溶けてしまう。
聖杯大戦が始まれば否応なくそうなると決めたのだから、衛宮の姿を見ていられるのも、そう長くはないかもしれないのだ。
だからきっと、これは終わりへのカウントダウンだ。
オレの望みは、そのほとんどが既に叶ってしまっている。
現状を維持し続ける、というのが極めて難しいこの現状で、オレの望みが叶っているこの状態は、そういくばくもないうちに崩壊するだろう。
その始まりの合図は、聖杯大戦の開幕戦。
目前に迫った、夢の終わりを認識しているオレにとって、この現状は、ずっと浸かっていたいと思える、ぬるま湯だった。
だからせめて、この目に焼き付ける事にしたのだ。
衛宮と過ごす日常を、聖杯大戦を目前に控えた———この僅かな、空白を。
◇ ◇ ◇
“いつもの会話”は、決まって少女の声で始まる。そして———いつも衛宮が負ける。
今回もまた、衛宮がテーブルから顔を上げた。
「あの……イオナさん? 何度も言うようで申し訳ないんだけど……。俺は探偵じゃないんだ。ユグドミレニアにアドバイザーとして雇われたってだけで———」
「でも、サクラは『探偵だ』って言っていたわ。私ちゃんと聞いたもの」
「あー、桜はだな……その、ダーニックに聞かれた時にだな。俺のことを『探偵だ』と言っただけで———」
「やっぱりっ! 探偵さんは“探偵”なのね!」
「えっと……その、あの……。そうです、はい」
そして衛宮が項垂れた。
今日も今日とて、舌戦は少女の完勝だった。突っ伏す衛宮の頭の向こうで、満面の笑みを浮かべる少女。
———これが、ここ最近、ずっと繰り広げられている光景だった。
少女が衛宮を“探偵”と呼び、衛宮が否定する。けれど、いつも少女に言い負かされる。
……というか、事ここに至っては、衛宮に勝ち目など無いことなんて、誰の目にも明らかだった。
衛宮が『探偵だ』と認めたことで、もともと良かった機嫌が天元突破した少女は、綻ばせた顔をそのままに、足をブラブラさせていた。
「今日も言い負かされたんですか? 先輩」
間桐桜が、後ろの部屋から登場した。
オレが背中を預けている壁は、その奥が台所になっていて、オレの左手に潜り扉がある。
その潜り扉を通ってきた間桐が、すっと会話に割り込んできた。
「でも、もうご飯できちゃいましたから———」
“ドンっ”と重い音を立てて、間桐が、持っていた両手鍋をテーブルに置く。
背中に手をやってピンク色のエプロンを解きながら、今夜のメニューを宣言していた。
「“ミチ”です。煮込んじゃいました」
「それ……」
オレは思わず、鍋の中を覗き込もうと壁から背中を引き剥がし、一歩、前に進んだ。
「唯の……煮込みハンバーグだろ?」
「“ミチ”ですっ。ちゃんと細長いんですから」
間桐は鍋を眺めるオレを睨むと、両腰に拳を当てて、こっちに一歩近づいて来る。
「両儀さんにはあげませんから、今日の夜ごはん。部屋の隅っこで丸まっててください」
「良いね、そうするよ」
そう言って、オレはまた定位置に戻る。
壁に背中を預けて……。
空色の着物を着ているオレは、その袖の中に手を入れて、腕を組んで静観の姿勢をとっている。
そんなオレに、衛宮が背中越しに声をかけてきた。
「……前にも言っただろ、両儀。ちゃんと食べないとダメだ。人間は、体が資本なんだから」
「そっちこそ、前に言ったろ? だから食べないって。
“それなり以上の動き”を出すためには、腸を動かす必要がある。それなのに、食べ物が入っててまともに動くか。
———だから食べない。
本調子を出すには、少なくとも三日の断食が必要なんだ」
オレが食べないのもまた、いつものことだ。
腕を組んで目を閉じて、衛宮たちの談笑に聴き入っていると、ついに衛宮が、件の少女に話題を振った。
「……なぁ、イオナ。お前の言う『教えてほしい不思議』っていうのは……もしかして。食事に左手を使ってないことと関係があるのか?」
「ええ、探偵さん。見せたかったの。不思議なことが起こっているの」
———イオネラ・エリヤ。
オレたちはイオナと呼んでいる。
ゆったりめのズボンとシャツを着たルーマニア人の少女は、前髪が顎にかかるくらいまである。日によって前髪で顔を隠したり隠さなかったりしているのだが……今日は“隠す日”であるらしかった。
青みがかったアッシュ色の髪の毛から覗く瞳が、ただ衛宮を見上げている。
衛宮の後ろにいるオレにも見えた。その瞳から、涙が流れ続けていることが。
それに、唇が紫色に変色している。先ほどから震えが止まらないようだった事も踏まえると、イオナには、“アレ”が起きているのだろう。
「探偵さん、ほら……」と言って、イオナは左手を持ち上げた。白いシャツの長袖を捲ると、見える。彼女の左腕は、緑色に変色していた。
———イオナは霊媒だ。
つまり、霊的な触媒。
彼女は、死者の感覚を自らに憑依させることのできる、特異体質だった。
その体質が発現する時、彼女の体には異変が起きる。その人間の“死に様”を擬似体験するときに、彼女の体は間違って、それと同じに変化する。
体験した感覚を、現実と混同してしまうのだ。
その変化は、顔に現れることも屡々あるから、そうなった場合は前髪で顔を隠してしまう。つまり前髪とは、イオナにとって防御壁だったりする訳だった。
「今日も不思議ね、探偵さん。
———私の今日の左手は、どんな不思議に繋がっているの?」
———だからこれは、断章だ。
ユグドミレニアに取り入ることが出来たオレたちが『聖杯大戦が始まるまでは自由にしていろ』と投げ込まれたトゥリファスの町の片隅で……。
これは、仮探偵衛宮と緑の左手。
少女が聴き、衛宮が答える。ただそれだけの物語だ。
◇ ◇ ◇
イオネラという少女にとって、“生と死”は曖昧なものらしい。
「そりゃ“そう”だ」と、返したことを覚えている。
彼女は生者にも死者にも会える。なら、“死んでいる人間”と“生きている人間”との間に、さしたる違いなどありはしない。
オレたちがミレニア城塞からこの町に入ってきたものだから、町民からは遠巻きにされていた。
———そんな中、ただ一人。オレたちに近づいてきたのが、彼女だったという訳だ。
オレにとっての印象は、笑顔だった。
初対面のときだ。彼女の名前を衛宮が聞き間違えて、『イオナ』と発音した時。今目の前にいるこの少女は「男の子みたいな名前で素敵だわ」と言って、オレたちに“イオナ呼び”を強要した。
———その時の彼女がとても嬉しそうに笑っていたものだから、オレには、その印象が今でも強い。
———“イオナ”という言葉、それは“ヨナ”の事だ。
旧約聖書に出てくる預言者ヨナ、つまり男だ。
初対面の男に、自分の名前を間違えられた時、この少女は嬉しそうに笑いながら、その呼び方で呼ぶように求めた。
それが、オレにとってのイオナの全てだ。
◇ ◇ ◇
「探偵さん。私ね、“死ぬ”ってどういう事か分からないの」
イオナは、左の袖をそっと捲りながら話を始めた。
テーブルの上に置かれた腕は、指の先が少し膨らんでいて、先端から緑色に染まっていた。
「私は敏感肌だから、こうやって死体になっちゃうんだけど……。でも、これって『まだ生きてた時の死体』だから。死んだ人の体になるんじゃなくて『死んだ人の、死ぬ直前の体』だから。だから私、死んだ後の人には会ったことはないの」
衛宮は口を開こうとして、中のものを飲み込んだように見えた。
一拍だけ時間をおいて、イオナの手を見ながら、フォークとナイフを皿に掛ける。
「———残留思念は、『その存在がまだ生きていた頃の想いが、今もまだ残留しているモノ』だもんな。
イオナの霊障は、死んだ後の人間に干渉できるものじゃないって事か」
「そうなの。今は死んでいる人の、まだ生きていた時の体」
イオナは右手で、変色した左手をそっと撫でた。
「ねぇ探偵さん、不思議を教えてくださいな。
この人はどうして死んだの? 何が原因で死んでしまったの?」
オレは衛宮の後ろから、灰色に輝く彼女の瞳を盗み見る。
その瞳は、少しだけ細まって衛宮を、見上げていた。
「……分かった。お前にとっては大事なものだもんな、その霊障と付き合っていくために。
———なら俺も、協力しよう」
◇ ◇ ◇
次の日、オレたちは町を歩き回った。
この町の人間は、少しでも魔術の香りがするものを排除しようと考えているらしい。
それはオレたちを除け者にするという意味ではなく、存在を無視するという意味だった。オレたちが近くにいても大人は普通に通り過ぎていくし、子供は遊ぶ。だけど、向こうから声をかけてくることはない。こちらから声をかけた時も、オレたちが一般人であるかのように振る舞った。
おそらくそれが、魔術師の標的にならないようにする為の、彼等なりの処世術なのだろう。
世間話にカモフラージュして情報を集めた結果、『どうもトゥリファスの外れで爆発事故が起きたらしい』ということを知った。
『その家の周りには誰も住まない』と彼等がいうからには———その人物は魔術師なのかもしれない、と当たりをつけたオレたちが向かうと、その辺りは、ミレニア城に繋がる城壁のすぐ近くだった。
イオナは、その、屋根が吹き飛んだ家を見てから、「ここなの?」と衛宮を目上げる。
対して衛宮は、「分からない」と即答した。
「分からない。———だけど、イオナの霊障が出た時間帯から考えると、ここを調べる価値はあると思う。昨日の夜に起きた異変は、この町ではこれだけだったからな」
オレの隣にいた間桐が、イオナの左手まで進み出る。衛宮と二人で、イオナを挟んで立つ形になった。
そんな間桐は、西洋漆喰の白い壁を見上げて言った。
「……やっぱり、この家を壊したのは魔術師なんでしょうか」
「その可能性はある。普通は爆発なんてしないもんな」
オレは、その三人を追い越した。
歩きながら、右手を体の後ろにまわす。着物姿のオレは、帯に挟んだナイフの柄に軽く触れつつ、瓦礫の山を一歩ずつ登る。
オレにはもう視えていたのだ。この瓦礫、その下に、生きている何物かが居るということが……。
“眼”を凝らして瓦礫の山を観察すると、いくつかのポイントで死の線が渦巻いているのが視える。“生きているモノ”に一番近い死の線の渦をナイフで突き刺して、その辺り一帯を崩壊させる。
———すると、ちょうど瓦礫の隙間から、一対の目がこちらを覗いた。
立ち込める土煙、崩れ落ちる瓦礫の音。
衛宮たちが駆け寄って来る頃には、オレと目が合ったその人間の姿が、見えるようになっていた。
後ろで、間桐が息を呑んだ。
衛宮とイオナはオレを追い越して、その存在の前にしゃがみ込む。
「———怪我はないか」と衛宮が聴いて、「腕はどう?」とイオナが言った。
過呼吸気味に言葉を詰まらせるその存在は、ポニーテールの茶髪の女。
白い軍服状のブレザーの中には黒いワイシャツ、緑のネクタイ。そして、赤い瞳。
———ユグドミレニアのホムンクルス。
そのホムンクルスは衛宮の手を取って立ち上がりながら、周りを見渡していた。そうやって、今の状況を飲み込んだのを見計らって、衛宮はホムンクルスに質問をした。
「昨日から今日にかけて何があったのか、俺たちに話してくれないか?」
「———貴方方は……何者ですか?」
「ああ、そうか……」
頭を掻いた衛宮は二歩三歩と後ろに下がった。そして、間桐の左から彼女を眺めた。
「名前は捨てちまったからな。……うん。ここでは、衛宮士郎と呼んでくれ。ユグドミレニアの戦略コンサルタント、という役職についてるんだ」
「ユグドミレニアの関係者でしたか」と呟いた彼女は、その腕に抱えていたモノを、もう一度抱きしめる。
彼女の胸に押しつけられたソレに注意を向けたオレたちは、確信した。この家こそがイオナの霊障の原因の現場で、目の前にいるホムンクルスは、重要な何かを知っている———と。
———それは、肘のあたりから先だけの、人間の左腕だ。
イオナがその左手を覗き込み、次いで衛宮を振り返る。
「探偵さん。この左手は緑じゃないわ。女の人の手も普通だし」
問われた衛宮も左手を見て、それからイオナに目を向ける。
「本当だ。……ならイオナ、自分の手を確認してみてくれないか?」
「あら?」
左手を見て、衛宮を見て、その瞳をキラキラさせた。
「元に戻ってるわ!」
それから、自分の体を検分しながら、イオナは逐一報告していた。
自分の左手が元の色に戻っていること、目から涙が流れ落ちなくなっていること。そういえば、体の震えも止まっていたこと。
楽しそうに衛宮に駆け寄るイオナの頭を撫でながら、衛宮はホムンクルスに笑いかける。
「あの、もし良かったら———一旦家に来ませんか?
急いで連絡しないといけない場所があるのなら、無理にとは言わない。だけど……状況を整理するためにも、一旦家に来ませんか?
俺たちも、貴女の話は、聞かないといけないみたいなんだ」
ホムンクルスは顎に手を当て、ポニーテールが少しだけ揺れる。
暫くして、彼女はオレたちに頷いた。
「———ええ。私も、知らなければならない事があるのです」
◇ ◇ ◇
オレたちの仮住まい。
イオナ曰く“仮探偵事務所”。
玄関から入ってすぐ、リビングにある四人掛けのテーブルに、オレ以外は皆座っていた。
リビングの壁にもたれて立つオレの目の前に衛宮の背中、その左手に間桐の背中。衛宮の向かいにイオナが座って、間桐の向かいがホムンクルスだ。
「私の名は“キミア”です」と、ホムンクルスは口にした。
「主からは、“キミア・ムジーク”の名を頂いておりました」
衛宮が反応したのが、オレの位置からでもはっきりと分かった。
キミアも、そんな衛宮を見咎めた。
「『ホムンクルスがなんと生意気な』と思われた事でしょう。私自身もそう思っておりますので、普段は口にしませんでした。
……ですが、私は知らねばならないのです。本当に、私が主を殺したのかを」
———キミアの主人“マールス・ムジーク”は、ムジーク家のスペアらしい。
つまり、ゴルド・ムジークの家が仮に途絶えた時は当主を任される家柄だ、という事だ。
「我が主、マールス様が、それほどに大切な立場であるにもかかわらず、聖杯大戦間近のこの時期にトゥリファスに居を構えている、という事実だけでもお解りかと思いますが———」
キミアは、先程から一度も放そうとしない血色の良い左腕を、胸に掻き抱いたその腕を、自分の右手でそっと撫でる。
「あまり……お家との関係は、良いとは言えないものでした」
キミアが製造される以前から、マールスは爪弾きだったらしい。
本来なら“水銀と硫黄と塩”からなる錬金術の体系を、“鉄を基軸にしたもの”として再構成するマールスのやり方を、嫌っていた者も多いとか。
「マールス様がユグドミレニアの外部協力者という役割を押しつけられたことにも、そういった確執が関係しておりますが。
ですが私が知りたいことは、また別にあるのです。
———昨日何が起きたのか、私は何も知らない。
気がついたのは、既に建物が倒壊した後のことでしたから……。
覚えていることはマールス様の安堵の顔と、部屋が爆炎に包まれる様子。そして全てが終わった後、緑に変色した左腕を私が抱きしめていた事……だけです」
キミアの説明に、間桐が「あれ?」と声を漏らした。
「キミアさん。それがどうして『キミアさんがマールスさんを殺したこと』になるんですか?」
キミアの視線が、衛宮から間桐に移る。
「ご親戚方に予言されていたのです。『いずれ私が、マールス様を殺すのだ』と。
先日トゥリファスに来られた———」
“ドンドンッ”と扉を叩く音で、部屋の中に緊張が走った。
キミアの話は途切れ、イオナはぴょんと立ち上がる。
イオナがテーブルを回ってこっちまで走ってくるのとすれ違い、オレはテーブルの向こうまで歩き、部屋の真ん中でナイフを構える。
……一息、二息。
扉が叩かれる。
ドンドンッ、ドンドンッ……と、拳で叩く音を聞きながら、部屋の人間に目配せをする。
衛宮がキミアの腕を引いてテーブルの向こう側まで引っ張って、間桐はイオナの肩に両手を置いて、衛宮の後ろに半分隠れる。
その後で、オレは扉を開け放つ。
ドアの向こうの人相を見た時、口から「……なんだよ」という言葉がこぼれ出た。
オレの言葉を受けて眉間のシワを深くしたその男は、「それはこちらのセリフだ」とだけ言葉を返した。
男の左腕がくぐっと上がる。人差し指でオレの眉間を指差した。
撫でつけられた金髪、肥え太った二段腹、ユグドミレニア式の白い軍服に、鼻の下にだけ付いた口髭。
ゴルド・ムジーク・ユグドミレニアが、オレに向かって口を開いた。
「ここに居ることは分かっている。マールスのホムンクルスを出せ、私はそいつに用があるのだ」
「……それはどういった用件なんだ?」
「なんの事はない、そいつがムジーク家の者を殺した。だから態々来てやったのだ。さっさと差しだせ、リョウギ。この忙しい時期に手間取らせるな」
「……なぁ」
オレは僅かに重心を引いて、ゴルドにかけていた圧を弱める。
「どうして『殺した』と断定できるんだ? 証拠があるなら見せて欲しいんだけど」
オレの言葉でゴルドの重心が上に上がった、肩に力が入ったのだ。
“ドンッ”と右足を一歩踏み出し、ゴルドは両手を握りしめた。
「うるさいッ! 私は忙しいのだ、とっとと渡さんかっ。
これから戦闘用ホムンクルスの調整をやらねばならんというのに、貴様らなんぞと話している時間などない事が判らんのか」
ゴルドは右手を伸ばしてドアの端を掴む。
「そこに居るのは分かっておるのだ、出てこいホムンクルスッ!
遺族のために、お前を目の前で殺さねばならんからな。———時間がない。
明日には、自家用ジェットが城塞に届く。それで出立せねばならんのだッ!」
ゴルドの目線が、一瞬だけ下を向いた。オレのナイフを見たのだろう。
踏み込めば切られると思ったからか、家の中には入ってこない。
暫く睨み合っていると、ついに、衛宮を伴ったキミアが出てきた。
彼女はオレを追い越して外に出る。それに続いた衛宮は、オレの右肩を叩きながら扉を抜けた。
———後は任せろ、両儀。少しだけ行ってくるから———
ドアが閉じて、静かになった。
扉から目を逸らしたオレは、部屋の隅に固まっている二人を見つけた。
「今、衛宮と何を話してたんだ? おまえら」
間桐がこっちに振り向いて、「えっと……」と言いながら顎に人差し指を添えている。
「先輩は『丸め込んでくる』って言ってました。イオナちゃんの体質のこともあるし……、キミアさんのためにも“何が起きたのか”は知っておきたいって。
だから、すぐに帰って来ると思います」
イオナが、トコトコとオレの所まで歩いてくる。
もう“涙”も“震え”も出ないからか、前髪をぴんで留めて目を出したイオナが「私たちね、知りたい事があるの」とオレを見上げた。
「探偵さんのこと、私たちも知りたいなって思ったの」
「『私たちも』ってことは間桐もか。……訊いたって何も変わらないぜ?」
目を向けた先から、紫色の眼が返ってくる。間桐は、“じっ”とオレを見つめていた。
「……訊かれたから答えるだけだ。良いことなんて何も無い、それでも?」
頷きが返ってきた。
「……いいよ分かった。それじゃあ、何が知りたいんだ」
さっきまでイオナが座っていた席に腰を下ろす。すると正面の椅子にイオナが、その左手側に間桐が座った。
「衛宮が帰ってくるまでなら———な」
イオナは左手の間桐を見る。その視線を受けた間桐は、少しだけ身を乗りだした。
「両儀さんが先輩を追いかけ回している理由を聴いたとき、両儀さんは言いましたよね? 『“先輩の考え方”がオレにとって天敵だからだ』って」
「言った。けど聴きたいのは衛宮の事だろ? 関係あるのか? それは」
「あります」
間桐は“ギュッ”と、自分の肩に力を入れた。オレからは見えないが、両膝の布を握り締めているのだろう。
「両儀さんが、わたしから“炉心の役割”を取った時に言ってたじゃないですか。『先輩の意見を変えたいのなら、先輩の見ている世界と同じに、未来に立つ必要があるんだ』って。それに『両儀さんは先輩と同じものが見える』ってことも聞きました。
———だから教えてください。『未来に立つ』ってどういう事ですか? 両儀さんには世界がどう見えているんですか?」
間桐が、オレの目を直接見る。
「“両儀さんの天敵の考え方”って、なんですか?」
◇ ◇ ◇
「———間桐、おまえは見たろ? オレの父親」
「はい。遠坂さんに変装してた人ですよね?」
「そう、アイツだ。オレはあの男の子供だった。世の親の常としてアイツもまた、“自分の知っている世界”の中でオレに教育を施した。
つまり、オレを優秀な投資家に仕立て上げようとした訳だ。
———そして、どうも成功したらしい」
あの男が、同じ投資家仲間……というか、同じ企業形態の会長仲間に『アレは傑作だよ』と言っているのを、いつだったか聞いた事があった。
その時は意味なんて解らなかったが……、今になって思えば、それはきっと『教育に成功した』という意味だったのだろう。
「あの男は、オレに全ての資料を渡した。アイツが行った投資、条件と選択とその結果、全ての資料だ。
そして十にも満たないうちから、莫大な金をオレに渡して投資をさせた」
間桐から目を逸らして、少し上向く。
———アイツがオレに求めたものは少なかった。
“毎日何度も投資をすること”、“投資をする前に結果を予想すること”、“投資を行った後で、その影響を受けた人間たちの生活を観察して、予想が当たったのかどうかの確認をすること”———の三つだけ。
「その三つを繰り返すことで、オレに投資結果を予想させた。
“金の動き”だけじゃない、“事業として成功したかどうか”だけじゃない。オレが投資することで、オレが金を貸すことで、相手の会社や家族はどういう風に変化するのかを、ただ推測させ続けた。
———だから、渡されたデータがおかしい事に、オレはすぐに気づくことになったんだ」
周りを見渡すと、間桐もイオナも真剣に聞いている。
「オレの身の上話なんて面白くないだろ」と口を挟めば、「わたしは先輩のことが知りたいんです。そのために必要なら、話してください」と返ってくる。
少しだけ天井を見て、それから戻して。もう一度、オレは自分の記憶を探った。
「オレに渡されたデータの中には、“失敗した投資データ”だけが無かったんだ。
だから、貰ったデータを全部時系列順に並べて、『歯抜けになっているデータの時間』を見つけてやろうと思った。……けど、オレの目論見は失敗した。
理由は簡単。『抜けているデータなんて無かった』という事が判ったからだ。
つまりあの男は、会社を立ち上げてからこっち、たったの一度も、投資で赤字になった事が無かったんだ」
———普通はあり得ないだろ? そんなこと———
投資というのは未来を読む、だからギャンブルのようなモノだ。
未来は決して確定しない。だから、どれだけ正確に株価を読んでも、失敗する時は失敗するものだ。
『全ての会社の株価の未来推移を正確に予測する』なんて出来ないし、どんなに良いアイデアを持って来たベンチャー企業であっても、コケる時はコケる。
———でも、あの男にはそれが無かった。
「あの男が金を貸した奴等はな———例外なく成功し、全ての投資で莫大なリターンを手にしていた」
「———あのね、シキ?」
オレの正面に座っているイオナが、左手をちょっと挙げている。
「シキのお父さんは未来が分かるの?」
「……多分な。十年以上あるデータにおいて失敗がゼロだぜ? そんなの、未来でも読めてないと説明がつかないだろ。
あの男には判ってたんだ。投資の結果も、自分に金を借りに来る……ベンチャー企業の趨勢も」
いつからだろうか。オレが、父親が投資しなかった人達の、“その後”を調べるようになったのは。
ただ気になった、というだけではなかった。あの男がどういう基準で投資対象を選んでいるのかが気になったのだ。最初は安全策をとっているのだと思っていた。……そう、思いたかった。
「調べた結果。あの男が切り捨てた人達の中に……誰一人として、事業を成功させた者はいなかった。
細々と食い繋いでいる奴はいたけど、事業として成功している者は皆無に等しかった。
それを知った時にふと思ったんだ。
———もう少し、どうにかならなかったのだろうか……と」
「……両儀さんは———」
間桐の声が、オレまで届いた。
「両儀さんは、その可哀想な人達を助けたかったんですか?」
「違うだろうな。助けたかった訳じゃない。ただその頃になると、自分の父がその人達に手を貸していたらどうなっていたかを、オレは正確に予測できてしまえていた」
オレが散々訓練してきた思考方は、『結論を出さない』というモノだった。
A社に金を貸した場合にどういう結果になるかを推測し、B社に金を貸した場合はどうなるかを推測し、C社の場合も推測して、その全てを頭に入れたまま、どれを選ぶかの結論を出さない。
そういう思考が染み付いてくると、いつの間にか、複数の未来を同時に推測する事ができるようになっていた。
「おまえらは———」と、目の前の二人に呼びかけた。
「『オレには世界がどう見えるか』って聴いたろ。これがその答えだ。
———オレには世界がダブって視える。特に、オレの影響力が大きかった頃はもっと凄かったぜ。
なにせ、自分の人差し指が一つ動くか動かないかで、“頭の中で推測した人々”の生き死にが、その都度確実に変わるんだ」
自分の眼を、右手の指でそっと触った。
「当時のオレには、金という莫大な影響力があった。父親の命令でそれを動かし続けていた。その結果を推測し続けることによってオレに与えられた視座、『複数存在する未来の結末を同時に演算すること』で、オレの目にはいつも、複数の結末がダブって視えていたんだ」
当時のオレにとって、金という影響力を使って、それに翻弄されるいくつもの会社の未来を推測していたオレにとって、結末とは大体が自殺や凋落だった。
オレの選択の結果、経営が悪化して夫婦仲が険悪になり、離婚し、首を吊る社長の姿を、何度演算したことだろうか。
「“殺人の定義”は『人が死ぬことを確定的なものと認識しながら認容している場合』だろ? だから、オレが殺した人数なんて、もう覚えてもいない程だ」
間桐は頷いた。
それから、少し乗り出すように顔が近づく。
「両儀さんはどうして、先輩のこと『天敵だ』って言ったんですか?」
「そのままの意味だよ、間桐。衛宮の考え方はオレにとって天敵なんだ。
アイツは、あり得ない可能性を排除する。そうすることで可能性をたった一つに限定するだろ。
だから、アイツの近くにいるうちは、あまり色々見なくてすむ」
「両儀さんの未来予測が効かなくなるから———それだけのために、こんな所まで付いて来たんですか?」
オレは息を吐きながら背もたれにもたれて、一度ゆっくり瞬きをした。
「それもある。けど、それだけじゃない。その問題は“直死の魔眼”になった時点である程度は楽になってたんだ。
この魔眼は死を固定して具現するから、死の線を前にしてなぞらなければ、逆説的に殺せない。
この魔眼になってから、予測の精度は格段に落ちた」
この場が静寂になったのを感じて、「衛宮のことだろ?」と話を逸す。
腹に力を入れて姿勢を正す。膝の上の布に指を奔らせると、一瞬、電車の音が聞こえた気がした。
「今までの話で大体判ったと思うけど、アイツの推理は未来の可能性にすら影響するんだ。
……でも、アイツは“未来視の魔眼”なんてモノを持っている訳じゃない。ただ考えているだけなんだ。
———そら、明らかにおかしいだろ? 考えただけで未来が限定されるだなんて」
右斜め前に座る間桐から、僅かな不安が漂ってきた。対してイオナは大きな目のまま、オレの正面で笑ってる。
もう一度、間桐の様子を伺った。お互いの目が交差する。
「それは……どういう意味ですか?」
「アイツの未来視は推理だってこと。……オレたちは、色んなモノから影響を受けながら生きているから。だから、オレたちの本質を推理できる男なら、今の状況からオレたちが打つ、その次の一手を確実に推理できる筈だ。それに影響された人間の次の行動もまた推理できるなら、その先だって……もっと」
「でもそれは———」
間桐は膝から手を離し、胸の前でギュッと握った。
「それは、両儀さんだって一緒ですよね?」
間桐の懇願に「まさか」と、笑ってみせる。
「一緒なものか。あの時のオレの考え方は『複数の結末を同時に予測する』で、衛宮のは『可能性をたった一つに限定する』だ。
聖杯大戦に乗り込んだってことは、既に未来も推理したんだ。推理して、衛宮は未来を測定したんだ」
「ねえねえ、シキ」
イオナはまたしても手を挙げる。
「探偵さんはどうやったの? だって、探偵さんには不思議な力は無いのでしょう?」
「無い。だけど、何も出来ないというのも違う。
……人間なんてのは、常に誰かの影響を受けながら生きている生き物だろ? だから『自分のどういう行動が相手にどんな影響を与えるか』っていうことさえ推理すれば、測定した未来の世界に現実を沿わせることも出来る」
未来を測定するために必要なもの、それは明確なビジョンとそこに至るまでの道筋だ。
未来のビジョンは衛宮が推理で導くとして、そこにたどり着くまでの道筋を、オレたちに正確になぞらせるためには……。
あまり分かってなさそうなイオナとは対照的な間桐を見る。そんな間桐の呼吸は、少しだけ浅くなっていた。
「つまりアイツの能力は、未来視というより———催眠や魅了に近い」
「…………でも先輩は———」
「別に、だからどうしろと言ってる訳じゃない。言ったろ? 『訊かれたから答えるだけだ』って。こんなの聞いたって、別に何も変わらないんだ」
オレの正面、純粋に笑うイオナの左で、間桐の口は開いている。
オレの耳に、表の通りの喧騒が、僅かに届いた。
「そろそろ衛宮も帰ってくる。だから、せいぜい笑っておけよ」
椅子を引いて立ち上がったオレに、間桐が咄嗟に言葉を放った。
「両儀さんッ! ……両儀さんは、先輩があんなにも帰りたがってる訳も、知ってるんですか?」
「———さあな」
入り口のドアノブに伸ばした手を途中で止めて、顔だけで間桐を振り返る。
「でもアイツは、“アルトリア様”のために自分の人生すら投げ出してるんだ。大方、恩義でも感じてるんだろう」
“己の人生すら捧げる程のモノ”となると、一体、どういうモノがあるだろうか。
———そういえば、と思い出す。
オレが衛宮に抱く感情も、どちらかというとそういう類か。
「その女の———未来だけは読み切れなかったんじゃないの? 衛宮にはさ」
◇ ◇ ◇
戻ってきた衛宮は、ゴルドとキミアを伴っていた。
間桐が紅茶を淹れようとするのをゴルドは断り、椅子にドカッと腰掛ける。
対面に座った衛宮の後ろに侍る間桐と、その影から覗くイオナ。
そのさらに後ろ、自分の定位置で腕を組んで佇むオレは、ゴルドの後ろに立つポニーテールの女を眺めた。
「いいかエミヤ、この私を一日も拘束するという事がどれほどの事か、しかと召使いにも言い聞かせておけ」
「それはちゃんと判ってる。明日、ゴルドさんが自家用ジェットで出発する時間までに納得できる答えが出なかった時は、“キミアさんが犯人”だということになる」
「そうだッ!」
ゴルドが口を開け、衛宮から視線をこっちに飛ばした。オレと間桐とを視界に納める。そして、指を差しながら念押ししてきた。
「ウチの抱える占い師が、“マールスの終わり”を予見したのだ。『マールスがホムンクルスを作ることで、彼から刻印が失われる。彼の血はそこで途絶えるだろう』とな。
そして、このホムンクルスは魔術刻印の刻まれたマールスの腕を抱えていたのだ」
ゴルドの手が下がる。テーブルの上で、握り拳が作られた。
「今回は私自身、腑に落ちんところがあった。だから特例で手を貸してやる」
それから振り返り、右肘を背もたれに乗せて、キミアに「話せ」と促した。
「ムジーク家の人間関係など、貴様の知らん所は補足してやる」
そうして、キミアは話しだす。
ゴルドの右隣に進み出て、両手を体の前で重ね、一礼してから口を開いた。
「昨日のことですから、まだ鮮明に覚えております。
あの時、私は———マールス様が吹き飛ぶ様をこの目で見たのでございます」
キミアの話に耳を傾けながらオレは、上向いて、ゆっくりと瞬きをするのだった。