大学時代の一幕。
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インターホンのボタンを押す。少しの間を置いて、部屋の中からパタパタと弾むような足音が聞こえた。応答する声はない。きっとモニターを確認して、返答する間も惜しんで玄関へと向かっているのだろう。留学から帰ってきてからひとり暮らしをしているうるかの家を訪れるときのいつもの流れ。足音が近づく度に逸る気持ちもいつもどおり。足音が止まるとチェーンを外す音がして、ドアが開かれると笑顔の彼女が目に飛び込んだ。
「おかえり、成幸!」
「お邪魔します」
「むー」
ただいま、と言わないことに唇を尖らせて抗議するうるかに曖昧な笑いで答えて家の中に入る。春も半ばを過ぎたとはいえ、日が落ちて少し肌寒い頃だったので暖かい室内は心地いい。ドアに鍵とチェーンを掛けて振り向くと、頬を膨らませているうるかの顔が目に入った。
「いい加減ただいまって言ってよー」
「就職するまで言わないって言ってるだろ? それより確認してからチェーン外せって」
「成幸じゃなかったらそうしてるってば。そんなことより婚約してるんだから別にいいじゃん。家賃だってもらってるしさー」
「家賃の3分の1にもなってないだろ。食費だよ」
何度も繰り返したやり取りだけれど、バイトしかできず自分の生活費すら満足に稼げていないのにただいまなんていうのは情けないような感じがして、就職するまでただいまとは言わないことに決めていた。無駄なプライドでなんのためにもなっていないとは思うけど、それでも甘えてしまうようで言いたくはなかった。
「食費っていってもこの半年、週の半分くらいしか来ないじゃん。泊まんないことも多いしさ」
「週の半分近く来てるんだからそりゃ出すよ」
「いやいや食費よりは全然多いってば」
「泊まることもあるからその分」
「……それ家賃じゃない?」
「…………宿泊費ってことで。それよりもう戻ってきてから半年くらい経つんだな」
「話しそらしたー」
言い負かされたので強引に話を変えた。うるかがジト目で睨んできているが、もう話を続ける気はなかったので気づかないふりをして部屋の中を進む。うるかは諦めたように「もー」と不満の声を上げながら着いてきた。
◆◆◆◆◆◆
うるかが留学を切り上げて日本に戻ってきたのは、オリンピックが終わったあとの秋のことだった。うるかはメダルが取れてひと区切りついたし、前からメダルを取れたら日本に帰ることに決めていたからと言っていた。当時は突然の帰国に喜ぶと同時に驚いたが、メダルを取れなかったらがっかりさせちゃうから言わなかったのだと言われて納得していた。
日本に戻ってからうるかはすぐにひとり暮らしを始めた。婚約をしていた俺は合鍵を預かって、週の半分近くはうるかの家に通う半同棲のような生活をしていた。
日本では音羽体育大学に通って水泳を続けていた。環境が変わって最初は苦労もあったようだけど、顔見知りの部員が多くいたこともあってすぐに溶け込めたようだ。今は留学中に教わったことを周りに伝えながら、次のオリンピックや世界水泳、国際水泳リーグを見据えて練習を積んでいる。
◆◆◆◆◆◆
うるかの用意してくれていた夕飯を食べ終え、片付けと歯磨きを済ませたあと、俺とうるかは最近のゼミであったことを話したり、うるかの水泳部の様子を聞いたりしながらまったりとした時間を過ごしていた。
「ふあぁ……結構遅くなっちったね。そろそろ寝る?」
「いや、うるかと一緒に見たいテレビあるから30分だけ寝るの待ってくれないか?」
「んー別にいいけど」
「ありがとう。お礼にマッサージするからソファーに寝てくれ」
「え? いーよ別に。成幸もバイトで疲れてるでしょ?」
「大丈夫。いつも美味い料理作ってくれてるしそのお礼も兼ねてさ」
「お礼っていっても、成幸のが速いときは成幸が作ってくれるしマッサージもよくしてくれてるじゃん。……まあでも、そう言ってくれるんならお願いしよっかな」
そう言ってうるかはソファーに横になった。うるかを跨ぐようにして体の両側に膝をつき、肩からマッサージを始める。凝っていた肩をほぐすように力を込めると、うるかは気持ちよさそうに息を吐いた。
「んふぅ……。成幸マッサージまた上手くなった?」
「たまに動画見て勉強してる。結構凝ってるな」
会話をしながらマッサージを続ける。うるかは「はぁ」とか「あー」とか気持ちよさそうな声を上げて満足そうにしている。顔を覗くと目をとろんとさせて眠たげにしていた。このままマッサージを続けて恋人の寝顔を見ていたい気持ちもあったが、時計を見るとちょうど番組の始まる時間になっていた。今じゃないと一緒に見られないと思い直して、マッサージを片手で続けながらリモコンでテレビを点ける。番組と同じタイトルの曲の特徴的なバイオリンの音が流れてきた。ちょうど始まったところのようだ。画面にはうるかの姿とサインが映し出されている。
気持ちよさそうに目を閉じ睡魔に負けそうになっていたうるかは、テレビに映し出された自分の姿を見ると弾かれたように顔を上げ、目を大きく見開いて叫んだ。
「うぇっ!? これ今日だったん!? ていうか言ってなかったのになんで知ってんの!?」
「友達からも家族からも言われたよ。こんな取材受けてたなんて知らなかったぞ」
「だ、だって成幸に見られんの恥ずかしいから隠そうと思って……」
うるかはバツが悪そうに目を逸らした。子供じみた言い訳をする様子に苦笑して、頭を撫でながらあまりキツくならないように文句を言う。
「全国ネットなんだから隠し通せるわけないだろ……。ちゃんとうるかから聞きたかったよ」
「ご、ごめん。……あれ、もしかして今日来たのってこれがあるから?」
「そうだよ。一緒に見たいと思って」
「死ぬほど恥ずかしいっていうか半分ゴーモンなんだけど」
「言わなかったお仕置きと思って我慢しろ。見てる間マッサージするからさ」
そう告げると「うぅー」と観念したような声を上げて大人しくなる。可愛いなと思いつつテレビは消さずにマッサージを続けた。
番組ではうるかの練習風景や日本に戻ってからのプライベート、今のコーチや前のコーチのインタビューなどが次々と映し出される。俺に対してはあまり見せないアスリートとしての姿でそつなく取材に対応するうるかは新鮮だった。誰も彼もうるかのことをべた褒めしていて、なんだか自分のことのように嬉しくなる。そんな番組に合わせてうるかを褒めたりからかったりすると、隣で顔を真っ赤にさせて恥ずかしがった。そんな姿が可愛いらしくて、一緒に見ることにしてよかったなと心から思った。
『なんで日本に戻ってきたのかですか? そうですね、200と400で金メダルを取れたのは一つのきっかけです。いえ、やり尽くしたというわけではないです。800では銀メダルでしたからスピードとスタミナの両立を始めまだまだ課題はあると思いますし、記録自体ももっと伸びしろはあると思ってます』
番組の終わりが近づいて、うるかがなぜ日本に戻ってきたのかのインタビューが始まっていた。落ち着いた受け答えが板についている。隣ではうるかが画面とは対照的に居心地が悪そうにもぞもぞとしていて、思わず顔がほころんだ。
『メダルを取ったら日本に戻ろうと決めてたんです。やり尽くしたわけではないんですが、自分の目標としては一つ結果を出せたので、次は日本に戻って自分の経験なんかを周りに伝えていきたいと思って』
この辺りの事情はうるかから聞いていた。ISL、国際水泳リーグができてチームというものを意識したのも大きかったらしい。うるかを見ると「あー」とか「うー」とか言いながら顔を抑えている。……何をしてるんだ?
『きっかけですか。そうですね……元々水泳は感覚でやっていたところが大きかったんです。だから教えるときも感覚的にしか伝えられなくて、ちょっと前まではそれでなんで伝わらないのかなーなんて思ってたくらいなんですよ』
苦笑いしながら答えるうるかを見て、高校生の頃にうるかから泳ぎを教わったときのことを思い出した。ドンとかビャーとか擬音ばっかりで何がなんだかわからなかったことを思い出して苦笑する。あれで水希には伝わっていたのだからもしかしたら俺よりうるかとの相性がいいのかもしれない。
『ただ、身内に教師を目指している人がいて。その人と話しているうちに教えるっていうことに興味を持つようになったんです。自分のことを見つめ直して、少しずつ感覚的なところを言葉にしていけるようになると、教えた相手も今までよりもっと喜んでくれるんですよね。それがあたしにとっても楽しくて……だから、その人と一緒にいたことがきっかけですね』
「え」
昔を思い出して少し上の空になっていたところでの、不意打ちのような言葉だった。俺がきっかけ?
「うるか、これって……」
「……うん、成幸のこと。恥ずかしくって言えなかったんだけど、成幸が教育のこと話してるの聞いてたらちゃんと人に教えるのってお互い幸せになれていいなって思ったんだよね。だからメダルが取れてひと区切りついたら、あたしも成幸を見習って周りに教えることも考えてみようかなって」
『もちろんあたしはプレーヤーですから教えるっていうと少し変なんですけど、ただ留学で得たことや国際大会の経験なんかは同世代の選手よりは豊富だと思うので、そういうところを同じ選手として、日本に戻って周りに伝えていくことで日本水泳界全体としてのレベルアップに貢献していけたらなって思いました』
自分の行動がうるかを変えていたなんて、考えたこともなかった。将来夢を叶えてうるかに並び立てるよう全力で勉強を頑張って、学生の今は世界で戦ううるかを少しでも支えようと思っていた。まだ夢を目指している途中の自分がうるかに見習われているということが夢のように嬉しくて、感極まって少し泣きそうになる。
『あ、いえ。その人は兄弟とかじゃなくて……身内っていうと気が早いんですけど』
「あ。ちょっ、ちょっとこれダメ!」
続く言葉を聞いて血相を変えたうるかが手を伸ばしてリモコンを取ろうとする。とっさに手を抑えてテレビを消そうとするのを阻止した。プライベートに近い質問で、アスリートとしての仮面が外れて一人の女性としての顔が出ているから、それが恥ずかしいのかななんて微笑ましく思っていると。
『その人は、婚約者なんです』
その言葉で時が固まったのを感じた。目の前で起こったことがまだ理解できていない。というか全国ネットで婚約発表をされているなんて考えたくなかった。
マッサージから抜け出ようと慌てていたうるかも動きを止めている。見ると運動をしたわけでもないのに大量の汗が流れている。これが冷や汗というやつかと半分止まった頭でどうでもいいことを考えていた。
テレビ局もこんなプライベートな発言カットしてくれよと思ったが、繊細なバイオリンの音色をバックにしてテレビに映る、うるかの幸せそうにはにかんだ笑顔は信じられないほどに可憐で、アスリートとしての姿にスポットを当てたあとに対照的なこの姿で締めくくることを決めたスタッフの判断を責めることはできないなと思い直した。
現実逃避をしていた思考をスマホの通知の音が呼び戻す。通知が途切れる気配はなく、数えるのも嫌になるくらい大量に届いていることが見なくてもわかった。
「おい」
「ご、ごめんね? これ撮ったときみんなに婚約のこと話しておめでとうって言われたあとだったから、つい浮かれたまま言っちゃってたの忘れてた……」
憤りを隠さずに声に出すと、しおらしくうるかが答えた。そういう問題ではないのだけど気持ちはわかる。婚約した喜びを誰かに言いたくて仕方がないのは自分も同じだった。うるかはそれがたまたまテレビの取材だっただけだ。
「まあ別に隠さなきゃいけないことでもないからいいけどさ」
「だ、だよね!」
ため息をついて諦めたように告げると、うるかは目を泳がせながらも満面の笑みで頷いた。さすがに誤魔化されないぞと思うけど、まあ、もう放送されてしまったのだから、あまり責めても仕方がない。別に隠す必要があるわけでもない。ただ明日から大学で質問攻めに遭うだけのことだ。ネットでも少し騒がれそうだけど、そっちは見なければいいだろう。
スマホを手に取ると案の定大量の通知が届いていた。お互いの家族や親しい友人には婚約のことを伝えていたのは不幸中の幸いというべきか。家族や彼女らが心配して送ってきたものには「大丈夫」と返信をして、婚約に驚いて送られてきたものは全部無視して電源を落とした。今日は対応する気持ちの余裕がないし、今送り返すよりは少し落ち着いてからのほうがいい。
「な、何したん?」
「心配してくれてたのには大丈夫って返して、あとは電源切った」
「そ、そっか。あ、じゃあ今度はバイトで疲れた成幸にあたしがマッサージを……」
「いや、いいよ。それより明日って練習あるか?」
「練習? 明日は休みだけど……」
それなら大丈夫だなと判断して、うるかの背中と膝の裏側に腕を回して持ち上げる。いわゆるお姫様抱っこの形だ。高校生の頃はすぐに限界が来てしまったけれど、今はいくらでもこのままでいられそうで、アスリートであるうるかに見劣りしないよう、少し鍛えた甲斐があったなとどうでもいいことを考える。突然持ち上げられたうるかは目を丸くしている。なんだか微笑ましくて思わず笑みがこぼれた。
「な、成幸?」
「隠すことじゃないけど周りに言うタイミングってあるだろ? だからちょっとお仕置き」
「わ、笑ってるけど顔が怖いってば。お仕置きって、えと、そっちはベッドなんだけど……」
「大体わかるだろ」
「そ、そろそろ眠いかなーって」
「寝たかったら寝てていいよ」
「無理に決まってんじゃん!? な、成幸。ケッコー怒ってる?」
「怒ってる」
短く言い放ってうるかをベッドに横たわらせる。頬を赤く染めながら「ごめんなさい」と言ううるかは卑怯なくらいに愛しくて、こればっかりはテレビでは映らない、自分にしか見られない姿だなと思う。明日は寝不足になるなと他人事のように考えながら、うるかの頬をそっと撫でた。