お久しぶりです。
本当に。
ソレは、微睡の中にいた。
ソレは、かくあるべしと望まれたモノだった。
ソレは、理屈に合わぬ呪いを押し付けられ、みずからもまた、呪う側となった。
何者でもない。ただ『必要悪』として虐げられた上で、誰にも記憶されないモノ。
人類の悪性腫瘍であった。
揺籃の暗黒。母の子宮に見立てられた伽藍洞にて。
大地の霊脈を滋養に、着々とソレは育まれている。
不慮の事故とも言うべき、あるいは運命的とでも言うべき偶然によって招かれ、願望機の内に融けた因子は聖なる器を人知れず貶めて、無垢なる憎悪を内包する厄災の匣と化した。
自我ともなんとも表現できない混沌が、意思らしきものを持ち始めて幾年月。
永かったような、瞬きのような、辛くも喜ばしい無聊の時。
それにも、ようやく終わりが来る。
生誕のときは――近い。
……順調に行くならば、そのはずであった。
だが、だが、だが、だが……。
生命として形を成し始めたソレは、ある衝動に苛まれていた。
恐怖。
怖い、恐ろしい、何か、
目がなくとも、耳がなくとも、肌がなくとも、わかる。
絶対的に受け付けない、焼き焦がすような
自分を赦さぬ者。自分を滅ぼす者。
すぐ上にいる。すぐそこまで確実に、自分に近づいてきている。
芽生えたての本能が、孵化寸前のソレに危機を訴えていた。
このままでは殺される。このままでは滅ぼされる。生まれ落ちるより先に。
どうすれば。どうすれば。どうすれば……。
覚束ない意識の波間で、ひたすら考えに考えて、抗う術を模索した。
時間はない。時間は己の味方であると同時に、相手の味方でもある。生育しきるまでに死神の爪先が影を踏めば、その時点で終焉だ。倒すべき巨悪が完成する前に叩かれるという、見栄えも見せ場もない
そして、ついに見つけた。
活用できる駒。傀儡となる魂を。
ソレは誰にも感知されることなく地の底から魔の手を伸ばす。
感応した空ろな存在に接触するため。
己の
***
「………」
人の生活空間には色がある。
特色……平時何気なく過ごす場所には主たる人間の性格や仕事柄、無意識の癖などが染みつくものだ。こと個人の私室ともなれば、本人すらも自覚しない名残りがあってしかるべきだろう。物の配置や整頓のパターン、汚れ方や何からも、見る者が見れば、人間性は読み取れる。
しかし、彼の部屋にそんなものはない。空っぽだ。
書籍もある。機械もある。ワインもある。けれど、どれも男の内面を表現するものではなかった。本にジャンルの区別はなく、大衆向けの娯楽小説から論文やエッセイ、流行の雑誌、お役目柄必需品である聖書の類まで無節操に。カセットやレコード、CDといったAV機器もあり、相応に媒体も仕舞われている。が、一度見聞きしてそれきりだ。感傷も感動もない。
酒蔵された品々はどれも一級と呼べるものを金に糸目を付けずかき集め、口にしては落胆を繰り返した。確かに味は払った金額に見合ったモノだろう。しかしどんな美酒も己を酔わせてはくれない。狂わせ、忘れさせてはくれない。
生涯において、彼の心が■■に■■■瞬間は、二度だけ。
一度目は、妻を看取ったとき。
二度目は、ごく最近、実の
これらに共通する事項は、死。
親しい者との永遠の離別。その光景を間近で捉えたときに現れる感情こそが、おそらく男にとってもっとも重要な要因に違いない。答えに至るまで、あとほんの少しのところまで来ているのだ。
なのに、男は――言峰綺礼はそれを拒んでいる。
(それは……ダメだ。それは……堕落だ)
認めてはならない。
踏み越えてはならない。
遠ざけねばならない。
そうしなくては、これまで育まれた言峰綺礼という人間性は、崩壊する。
予感があった。心の空洞を埋められるだけの答えを得たときとは、すなわち己の過去が茶番と化し、破滅的の未来へ向かうことと同義だと。
今すぐ身を翻し、冬木から立ち去り、あらゆるしがらみを放棄して、どことも知れぬ世界の端で、何も思わず、何も感じず、木石のように日々を消費するべきなのだ。そうすれば少なくとも、穏やかに残りの余生をやり過ごすことができる。鈍感なままでいることが。
ああ――けれど。だけど。
渇望したのだ。欲し続けたのだ。生来わだかまる虚無感を埋める術を探してここまで足掻き続けたのだ。
それが、目に見える場所に。ともすれば、手の届く場所にある……。容易に改心できるはずもない。
他の誰にも共感しえない懊悩。苦痛。聖杯戦争の終端が近いこの場面で、綺礼は再び省みていた。
それは、おそらく最後の悪足掻きとも言える、決意が固まるまでの益体なき時間稼ぎ。
……父である璃正が殺され、急遽聖堂教会の監督役として働くこととなった。本来なら、いまも事後処理に忙殺されているはずだったが、生前の璃正がおおよそ円滑に仕事が回る仕組みを構築していたお陰で、電話連絡でことが済む場面がほとんどであった。報告や流れ作業的な確認こそ求められるものの、大半は現場の専門家が職務を全うし、上司である綺礼があえて口を出すほど重要な判断は今のところなかったのだ。
それ幸いにとばかりに、自室の静寂に耳を傾けてしばらく。
自分の進む道行きが断崖であると再認してなお、綺礼はやはり、これ以上己を欺くことができない。そも、この場で都合よく立ち去れるような浅い業であったなら、綺礼とて日々自己探訪に苛まれはしなかっただろう。
(茶番。所詮無為同然の生きざま。今さら悔いるほどでもない、か。ならば―――)
一歩、深淵に踏み出すのも一興か。
綺礼の頬は自然と釣り上がっていた。笑みなどというものは社交的には行っても、生理的に浮かべることなどなかったはずなのに。しかもそれは、どこか清々しく、朗らかで、聖職者にあるまじき邪悪さを含んでいた。
突き付けられた袋小路に、とうとう自分は自棄になったのかもしれない。だが、破滅的な投身も悪くない。むしろ、それをこそ欲していたとすら、今は思えた。衛宮切嗣が答えを持っているのか、願望機が己の願いをどう形にするのか。それすらもはやどちらでも良いと。
「先の損失を度外視した堕落、享楽。刹那的な快楽。すなわち悦び。愉悦、か――くく」
静謐が打ち破られたのは、そんなときだった。
突如、寝台に腰かけた眼前の床から魔力が噴きあがり、触手じみた漆黒が胸を穿つ。
「がッ―――!」
なんの兆候もない一刺しに、手練れの代行者ですら成すすべなく。
鼓動を打つ心の臓に絡んだ触手は、ヘドロのような黒々しい魔力を血中に直接流し込んでくる。冷たく/熱く、おぞましい/心地いい感覚が全身に巡り満たしていく。細胞組成の一つ一つ、男の霊体すらも書き換えんばかりの暴流が意識を掻き散らす。
「はガッ! おごぉォ、ぅぎぃ、ひぃ、ぃぃィッ……!?」
壊される/直される。
殺される/蘇生する。
幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も。
耐えられるまで。馴染むまで。あるいは、命費えるまで。
ぐちゃぐちゃ。べきべき。ばちばち。ぶしゅぶしゅ。
耳にするも不快な音が絶え間なく響き続け……やがて、何も聞こえなくなる。
床に伏した言峰綺礼。人の形こそ保てているが、僧服の内側は見るも無残な有様で、一面に広がる血の海が凄惨な死にざまを物語る。死と再生を繰り返す過酷な苦痛に黒の髪からは色が失せていた。空ろな男は、何も成せず、誰にも看取られず、神の家で最期までのたうち果てた。
……かに、思えた。
ざり、と。
床を掴む五指。爪が剥がれ流血するが、肉が独りでに蠢き、瞬きの間には治っている。
身体中も同様に。服の内側で別の生き物が暴れているかのように骨肉が動いては、再生していく。
両手を突き、膝を突き、ふら付きながらも立ち上がって。
「……そうか。聖杯よ。私が必要なのだな」
口元の血を拭い、鼻血を噴いて飛ばす。綺礼の言葉は明朗だ。
彼は全てを理解した。聖杯がとっくに穢れていること。聖杯に宿る意思のこと。聖杯が己に求めること。全て。心臓を核に、脈々に行き渡る血管に流し込まれた『泥』がおのずと教えてくれた。
おもむろに右手を掲げ、唱える。
「告げる。汝の身は我が下に、我の命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ―――」
赤黒く、禍々しい線が床板を走る。
綺礼が苦しみとともに排出したおびただしい血の海が脈動し、魔力を糧に陣を構築。
轟! と黒の嵐が荒ぶった。
凄まじい陣風が部屋の調度品をことごとく薙ぎ払い、物盗りが押し入ったどころではない荒れ模様にまで貶める。が、綺礼は室内へ微塵も意識を割かず、ただ凍った目つきで新たな配下を見下ろしていた。
「―――――」
「街外れの廃工場だ。そこに器がいる」
行け、バーサーカー。
号令一下。
召喚された異形のサーヴァントは黒霧に包まれ、霊脈を通じて目標の地点へ。
綺礼は冷やかに見送り、次なる行動を起こすべく部屋を出る。
道徳を、倫理を……温かみのある寄る辺を打ち捨てた綺礼に残る、最後の枷を壊すために。
モチベ低下の日々に苛まれていましたが、
なんとか復帰ということで投下です。
続き、まだできてないんですけど。
話、進んでないんですけど。