アキくんとデンジくんが夜食を食べる話です。

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チェンソーマンの二次創作です。時系列的にはレゼ編の直後です。
日常エピソードなので戦闘、暴力描写、流血などはありません。


『真夜中の玉子』

【1】

 

 初めはタバコでやろうとした。

 その晩、早川アキは夕食の支度を済ませるとデンジとパワーに、外で煙草を喫む、と言って部屋から出た。

 アパートの庭地に出ると、煙草を銜えて火を点けた。

 それから、服の下に隠していたハードカバーのノートを取り出した。

 しげしげと表紙を眺め、煙草を深く吸い込む。赤々と輝かせた先端を、ハードカバーの硬い表紙の角に押しつけた。

 赤い穂先が食い込んで、角を黒々と焦がす——そこでおしまいだった。

 それ以上は燃え広がらず、紙の焦げた臭いと薄く細い煙が立ち昇るだけだった。

 煙草を再び唇に差し込んで、しばらく考えた。

 裏表紙を掴んで持ち上げる。ばらりとページが広がり、重力で垂れ下がった。

 持ち上げたノートの表紙の角に、ライターで火を点けた。

 ごく細い火が表紙を焦がし、イヤな臭いが鼻を刺す。しかし、構わず火を押しつける硬い紙にライターの火が牙のように食い込み、血が滴るかわりに黒い煙が幾条も立ち昇った。細い煙が次第に太くなり、唐突に火勢が強まった。

 燃え上がった火の眩さが、アキの手を反射的に動かしていた。

 地面にノートを叩きつける。手を火が襲うが、構わず何度も叩きつける。

 火が消えた。ほっ、と息をつく。だしぬけに窓の開く音。

 

「アキ、何をしておる」

 

 パワーだ。二階の窓の縁に上体を預けて、見下ろしている。

 

「…………さてはひとりでウマいものを独り占めに」

「タバコだって言ったろ」

「つまらんのお……そうじゃ、ワシの本はどこじゃ?」

「しらん」

「ぬうう……さてはデンジのヤツめ。盗みおったな」

「…………飯食ったのか? 早く風呂に入れ」

「ふん。覗くなよ」

 

 ピシャリと、パワーが窓が閉じた。

 アキは安堵の息をつき……そんな反応をしたことに溜息をついた。

 忙しさにかまけてすっかり忘れていたノートを見つけて引っ張り出してきたのはパワーだった。本当に余計なことをしてくれた。

 アキは最後に深くタバコを吸い、足元に吸い殻を落として、爪先で踏みにじった。ノートブックを——レシピ帳をしげしげと眺める。

 

 結局、表紙の角がひどく焦げただけだった。

 

 

【2】

 

 その晩、アキと姫野はいつもの宅飲みをしていた。いつものとおり簡単なつまみを作り、いつものとおりに姫野が次々に酒を空けていき、いつものように絡んでくる——前に、唐突に姫野が居住まいを正した。

 

「今日はアキくんに渡したいものがあります」

 

 真剣な口調——アキは崩していた足を思わず正座にした。

 だが姫野は、卓上に立ち並んだ空き缶を薙ぎ払って落とし——全部姫野が空けた缶だ——ひどく酔っていることにアキは気づいた。

 

「どうかお納めください」

 

 片付けられた卓の上に、姫野が包装されたものを置いた。

 ポケットに入るほどの大きさの長方形で、ほどほどに厚みがある。

 

「………………」

 

 持ち上げると思っていたより軽かった。姫野の顔とプレゼントを見比べて、丁寧に包装紙のテープを剥がした。

 

「………………これは」

 

 中身はハードカバーの本だった。表紙にはカバーがなく、あざやかな青一色の表紙にはタイトルもない。真ん中から開くと、何も書かれていない。

 パラパラとめくって確かめる。中身はすべて白紙だった。

 

「……ノートですか?」

 

 姫野がうなずいた。

 

「そう、そして私からお願いがあります」

「イヤです」

「そこはせめて聞いてから断ろうか!」

 

 姫野は両手を合わせて顔の横に寄せると、小首を傾げた。子供がするようないかにもなお願いのポーズだ。

 

「姫野先輩は後輩のアキくんのご飯のレシピを知りたいんだにゃー」

「………………」

「いつも美味しいごはん作ってくれるのは嬉しいけど、どうやって作るのか知りたいんだにゃー」

「………………」

「だから、そこにレシピを書いて私にくれると嬉しいんだにゃー」

「………………」

「…………なんか言ってくれない?」

「イヤです」

「あ、断るんだ。やっぱりにゃーはこの歳だとイタい?」

「聞いてから断れって言ったじゃないですか」

「えぇ~」

 

 べったりとテーブルに頬を押しつける姫野をよそに、アキは新しい缶を開ける。冷えた酒を空ける間も、姫野は顔を伏せたままだ。

 二つ目の缶を開ける前に、アキは言った。

 

「別にいいじゃないですか。姫野先輩がレシピ知らなくても」

「…………」

「姫野先輩が好きなもの、いつでも作りますよ」

 

 姫野は顔を上げた。アキは笑顔を期待したが、姫野は憂鬱な顔だった。

 

「…………そのいつでもだって、いつまでもってわけじゃないでしょ」

 

 卓に顎を引っかける子供じみた格好をとると、不平そうな口調で言った。

 

「アキくん、民間のデビルハンターになるのイヤだっていうし……公安で仕事してたら、いつかアキくんもごはん作れなくなるかもじゃない——」

 

 そこでパッと姫野が顔を跳ねあげた。

 

「そ、その……大怪我とか……したりして、ね?」

 

 慌てて姫野は打ち消したが……彼女の言いたいところは解かる。

 公安のデビルハンターの死亡率は高い。いつでも、なんて言えるのは楽観的だ。姫野が仕事では真面目なわりに享楽的に振舞うのも、公安の仕事の先の見えなさ故だ。思いつきを言い出してアキを振り回すのも、不安感を打ち消すためだ。

 だが、これは少し違う——アキは、ノートを手に取った。

 

 青一色の表紙は触れるとざらざらしていた。よく見えないがかすかな紋様が刻まれている。角度をずらして、眼を凝らすと——中心には涙滴、その下には王冠の形、それらを取り巻くようにいくつも同心円が刻まれていた。

 落ちた滴とそこから拡がる波紋——青い表紙を水面に見立てているのだ。

 それに気づいた瞬間、アキとノートの間に離れがたい磁力が生じた。

 

「先輩、これ貰いますよ」

「…………ホント?」

「レシピを書くだけでいいんですね」

「うん!」

 

 姫野はやっと笑った。

 そのあとは酒を飲みながら、姫野がノートに書いてほしい、という料理をリストしていった。飲みながら書いたので文字はくねり、うねり、終いには何を書いているか判らなくなった。

 憶えているのは最後に二人で床に寝転がっていたこと。茹でダコのように真っ赤になった姫野の顔だった。

 

「これでアキくんのご飯がいつでも食べられる~」

 

 いま思えば幸せな日だった。

 最高の日じゃないが、それでもいい日だった。

 

【3】

 

 その日は天使と二人で街の巡回していた。

 なにも起こらない凪の一日で、すれ違う人々はみな幸せそうだ。

 こんな日は公安の黒スーツに身を固めていると、自分が不吉な兆しそのものになった気持ちだ。

 

「ねえ」と、天使。

「なんだ」

「顔色悪くない?」

「そうか?」

 

 軽く流して、歩き続ける。

 確かに調子はよくない。今日も朝食も支度はしたが、喉を通らなかったのでパワーにやって、コーヒーだけで済ませた。

 しばらく二人で歩いていたが、不意に天使が袖を引っ張る。

 

「どうした」

「どうしたって……巡回路はこっちだよ」

 

 アキはあたりを見渡した。天使の言うとおりだ。アキはタイの結び目に軽く触れて直すふりをすると、天使の指す方向に進んだ。

 

「君さ、体調が悪いなら——」

「平気だ」

「そう」

 

 一歩踏み出すことに、身体が揺れる。舗装された路面を歩いているのに、泥土の上を歩くように踏み込みがきかない。

 気づくと視線が地面に落ちるので、かぶりを振って、顔を上げた。

 また袖を引かれた。道を間違えたのだと思い、天使が示す方向に振り向いた。そこには目にも鮮やかな黄色と赤の看板があった——ファストフード店だ。

 

「おなかすいた」と、天使。

「…………仕事中だ」

「僕は君より朝が早かったんだ」

 

 天使はポケットに手をつっこみ、素っ気ない表情でアキを見上げている。

 しかし、その眼には意地を張る子供のような、譲らない意志があった。

 アキは肩をすくめると、二人で店に入った。

 天使はバーガーを端から端まで注文し、チキンとポテトを三つずつ頼んだ。ドリンクは最大のサイズを二つも頼んだ。

 アキはSサイズのコーヒーだけだ。二人並んで席に着くと、天使が言った。

 

「食べないの?」

「俺はお前より朝が遅い……朝飯も遅かったんだ」

 

 やり返された天使は唇を尖らせた。

 それでも、山盛りのポテトとチキンをひとつ、アキの方に押しやってくる。

 

「コーヒーだけだと、胃に悪いよ」

「…………」

 

 アキは面倒くさげな手つきで、ポテトをひとつ摘まんだ。口の中に放りこんでから一気にコーヒーを飲み干す。

 

「ごちそうさま」

 

 天使は呆れ顔になった。

 アキは無視して、ジャケットのポケットを探り、表紙の焦げたノートを引っ張り出した。書き込みで色の変わったページをめくり、記録したレシピを確かめていく。

 

「それ」

 

 横に座っていた天使が覗きこんできた。

 

「それさ、なに? この間も眺めてたけど、レシピ書いてあるの?」

「…………おまえ、料理が解るのか?」

「解からなくても判るって。丁寧に書いてあるし」

 

 天使はドリンクを飲みながら、肩を寄せる格好でレシピを眺めている。

 

「…………そんなに気になるのか」

 

 アキはノートを天使に押しつけた。

 

「読みたいなら読めよ」

「ん」

 

 天使は手を拭うと、丁寧な手つきでノートブックを手に取った。

 ページを一枚一枚じっくりと眺め、読み終えるとゆったりとめくる。

 

「…………なんか小じゃれた居酒屋みたいな料理ばっかだね」

「そういうのが好きだったんだ」

 

 最初は姫野の希望した料理ばかりで、飲みのあてになる簡単なものばかりだ。少し見栄えがいいものを選んだ。

 

「だんだんと野菜使ったメニュー増えてない?」

「…………野菜も摂らないとな」

 

 さすがにバランスが悪い、とアキが選んだレシピも書いていった。

 姫野は料理が出来るが、彼女の作るものは豪快なものが多く、味も濃かったので、正直アキは心配していた。

 天使がさらにページを手繰っていく。

 三分の一ほどに達したところで、手が停まった。

 

「ここで終わり?」

 

 そう、そこで終わりだった。いや、終わってしまった。

 

「書く意味がなくなった」

 

 書きかけて途絶えたページ——そこで姫野が死んでしまったのだ。

 

「ふーん…………はい」

 

 ノートを受け取ると、ポケットにしまう。

 

「続きは書かないの?」

 

 アキは答えず、曖昧にうなずいた。

 天使はもくもくとバーガーを食べていた。チキン、ポテトとひと通り食べると、一つ余ったバーガーをアキの前に置いた。

 

「お腹いっぱいになった」

「……持ち帰りの袋をもらえよ」

「味は悪くないよ。君が持ち帰れば」

「冷めたら不味い」

 

 再び天使の眼に、意固地な子供の色が宿った。

 黙って見つめ合っていたが、天使が飲みかけていた二つ目のドリンクに手を伸ばした。

 

「こっちをもらう。喉なら乾いてる」

 

 巡回に戻った。

 天使は最後のバーガーを齧り、アキはドリンクを啜りながら、二人で見回りを続けた。

 

 

【4】

 

「アキくんはさ、どこで料理を覚えたの」

「母さんからです」

「へえ……」

 

 姫野は一瞬吐胸を突かれた顔をした。彼女は母が早くに亡くなったのを知っている。だから、努めて明るく、アキは言った。

 

「母は料理が上手かったんです。教えるのも好きで、俺に教えてくれて——」

「へえ~。そうなるとノートのレシピは——」

 

 姫野が眩しい笑顔で言った。

 

「アキくんの、お母さんのものでもあるんだね」

 

 瞼の裏に稲妻が閃いた。

 慌てて跳ね起きる。周囲を見渡し、自分の寝室にいることを確かめた。

 枕元の時計の針は、丑三つ時を示していた。

 荒く短い呼吸をゆっくりと鎮めて、ブランケットを被った。

 しかし、汗を吸ったブランケットはじっとりと重く、圧迫感を覚えるだけだった。

 ブランケットを蹴り落とす。ベッドサイドを手で探り、寝る前に眺めていたノートを手に取った。

 常夜灯をつけて、ノートを開く。

 姫野の言うとおりだった。

 ここに記したレシピは、母から受け継いだものも多い。

 アキの母はいつも弟のタイヨウのことを気にかけていた。すぐに体調を崩すタイヨウのことで頭がいっぱいで、アキのことは二の次になりがちだった。

 だが、料理の時は別だった。

 最初、アキは料理に興味があったわけではなかった。

 母の手伝いをするという名目で、キッチンで働いている母を独占したかったのだ。おそらく、母もそのことを見越していたのだろう。母も簡単な手伝いをやらせてくれたのだが、次第に料理を教えてくれるようになった。

 包丁の使い方と火の取り扱いから始まり、まずは野菜を刻ませてくれた。それから火にかけた鍋の番を任された。そしてある朝、母がこういった。

 

「今日の朝ごはんはアキに作ってもらおうかしら」

 

 母は目玉焼きの焼き方を教えてくれた。

 アキのすることを母は黙って見ていた。アキは緊張しながら、教えられたとおりにやってみた。

 出来た目玉焼きは白身の縁が黒く焦げ、黄身の破れたひどい代物だったが、父も母もうまいと言って食べてくれた。

 

「兄ちゃんだけズルい!」

 

 そう言いながら目玉焼きにかぶりつくタイヨウの顔を見たとき、アキは食卓で母が見せる笑顔の意味を理解した。

 家族がいなくなっても、アキは料理を続けた。

 公安に勤めてデビルハンターになっても、出来る限り食事は自分で作った。独り暮らしで過酷な悪魔狩りを続けていると、すべて投げ出したい気持ちになるときがあった。同業の連中は外食で済ませる者たちも多かったが、アキはそうしなかった。自分ひとりを食べさせる食事はむなしいが、それでもアキは食事を作り、抵抗し続けた。

 悪魔を追って狩って殺すだけの生活の中で、自分の手でなにかを作ることはいくらかマシに思えたからだ。

 アキはそうやって生きてきた。

 だが、そうやって永らえた命は、あと二年も残っていない。

 後悔はない。いつか銃の悪魔を狩るために——そしてなにより姫野たちのために、呪いの悪魔の力を借りたのだ。後悔はない。

 しかしそれでも考えてしまうのは――このノートはいったいなんなのかということだ。

 姫野も死に、自分もいずれ死に、誰も受け継ぐ人間はいないこのノートは。

 姫野に遺すはずだったノートは姫野が先に逝ってしまったことで、結局アキの手に残ってしまった。

 姫野が亡くなってから、ずいぶんと感傷的なことをしていたことに気づいた。感傷的なだけならまだいい。愚かしく楽観的だった。

 このノートが役に立つのは、アキが姫野より先に死んだときだけだ。

 アキが死に、姫野は公安を引退する。しかし、このノートが遺される。姫野はこのレシピで料理を作り、今はいないアキを悼む。

 もしかしたらデビルハンターを辞めて、このレシピの料理を食べさせる飲み屋でも開くかもしれない。

 陳腐な話だ。でも最悪の物語ではない。

 最悪の物語というのは、もう未来がないアキが、受け継ぐ相手もいないノートを抱えていることだ。燃やして灰にして、死んだ姫野の元に送れたなら、お話としても格好がついたかもしれない。

 だけど結局燃やせなかった。

 このノートは……姫野のプレゼントでもあるのだ。

 

「俺のしたことは——」

 

 アキは唇を噛んで堪えた。

 無駄。

 その言葉を一度口にすれば、せきとめていたものが一気に溢れ出してしまう――――

 

 だしぬけに響いたドアの音が、アキの思考を断ち切った。

 アキは顔を上げて耳を澄ませた。廊下を歩いてく音。キッチンから水音、続けてカチカチというコンロに火を点ける音。

 不思議に思ったアキは寝室から出て、キッチンに向かった。

 キッチンには二つの備えられた蛍光灯が一つだけ点けられていた。ダイニングのライトが点いていないので薄暗い。

 

「デンジ……?」

「おー、アキ。起きてたのか」

 

 デンジは背を丸めて火にかけたヤカンを眺めていた。

 その眼はどろりと淀んで、いつもの能天気さがない。

 デンジはまじまじとアキの顔を眺めると、小首を傾げた。

 

「アキ、調子悪いのか?」

「…………どうしてだ」

「ひでェツラだぜ。死にそうな顔だ」

 

 デンジはマグカップを取り出して、先に用意していた自分のものと並べた。

 

「おまえもコーヒー飲めよ」

「……この時間からか? 眠れなくなるぞ」

「最近ずっと寝れねーよ。ヘンな夢も見るしよ」

 

 ぎゅるぎゅるとデンジの腹が鳴り、アキは怪訝な顔をした。

 

「おまえも飯食ってないのか?」

「食ったよ。ほとんどパワーが、だけどな」

「………………」

「おまえもパワーにほとんど横取りされてたじゃねーか。気にしてなかったけど」

 

 アキは、今日の夕食のこともろくに覚えていないのに気づいた。デンジが食べていないことにも気づかなかった。

 ヤカンを見下ろしているデンジの顔は、ひどく虚ろだった。

 銀色のヤカンに照り返す青い火に照らされて、おどろおどろしい幽霊のように見えた。

 アキは反射的に動いた。

 デンジの横に割り込んでコンロの火を消すと、ヤカンをどかす。

 

「……なんだアキ。コーヒー飲まねえのか?」

「おまえがそんな死にそうなツラしてるのは、ろくに食ってないし、ろくに寝てないからだ」

「…………あ~?」

 

 キッチンの照明をすべて点け、ダイニングの照明を点けてから、フライパンを引っ張り出してコンロに置く。

 

「俺も食う。おまえも食え」

 

 

 

 アキは冷蔵庫から卵を二つ取り出し、それから少し考えてベーコンも取り出した。次いで野菜室からキャベツを取り出す。

 

「丼と小皿を出してくれ」

 

 指示してもデンジがぼーっと立っているので、肩をつついて促す。

 皿を取り出させている間に、フライパンに油を引いて、厚めにスライスされたベーコンを広げた。薄い油に温められて、ベーコンからゆるゆると脂が溶けだしてくる。

 

「これでいいかあ?」

 

 デンジから底の浅い小皿を受け取る。シンクの縁で卵の殻にヒビを入れると、小皿の中に卵を割り入れた。もう一個の卵をデンジに手渡す。

 

「やってみろ」

「生で食うのか?」

「ちがう……卵を割って、この皿の中に入れろ」

 

 デンジはアキを真似て、シンクの縁に卵を叩きつけた。

 ぐしゃりと手の中で潰れる。デンジとアキは顔を見合わせた。

 

「…………」

「デンジ、もう一回だ」

 

 アキは、手にこびりついた黄身を舐めているデンジに卵を渡した。

 新しい卵を、デンジは両手で丁寧に持った。

 

「軽くぶつけてヒビを入れろ。入れたら、ヒビの入った反対側に両手の親指を当てて、ヒビから殻を二つに開く感じで割れ」

 

 デンジはうなずくと、今度はシンクの縁に卵をこつんとぶつけた。ヒビ一つ入れるのに、百回はぶつけないといけない力の入れ方だった。

 アキはベーコンの様子を見た。厚めのベーコンは、自分の吐いた脂の中に浸り、ジュウジュウと焼ける音を立てている。ひっくり返すと、ピンク色の肉がうっすらときつね色の焦げ目がついて、香ばしい匂いがした。

 

「で、出来たぞ……」

 

 振り返るとデンジが小皿に二つ目の卵を入れていた。

 

「よくやった。まな板を出しといてくれ」

 

 丼に飯を盛った。デンジの分は大盛り、アキの分は小盛だ。フライパンから直接、デンジの丼にベーコンを載せた。フライパンの中に卵を静かに入れる。

 ベーコンから溶け出した脂の中に卵が滑り込む。火が通った白身が透明から白に速やかに変わる。

 アキはコンロの火を強火にすると、目玉焼きの様子を見る。

 デンジもアキの横で、フライパンを覗きこむ。

 

「ちゃんと焼いてくれよな、俺が割った卵だからよ」

「俺が失敗すると思うか?」

「あぁ? ……あぁ~」

 

 デンジは納得した。アキは薄く笑うと、デンジと位置を入れ替える。

 

「そんなに心配なら、自分で面倒を見ろ」

「…………マジか?」

 

 思いのほか素直に、デンジは目玉焼きの監視を始めた。

 

「白身の縁が茶色くなってきたら教えろ。黄身は半熟にするからな」

「おう」

 

 目玉焼きが出来る前に、アキは丸のキャベツから一番甘い上の葉の部分を切り分けて、刻んでいく。千切りにするために包丁を振るっていると、アキは頭の中が晴れていくのを覚えた。

 デンジは目玉焼きの監視に熱心だった。顔を寄せすぎて、フライパンから爆ぜた水分が跳ね返りそうなので、アキはデンジの頭を後ろから引いてやらなくてはいけなかった。

 

「……これでいいかァ?」

 

 アキは、デンジが指したフライパンを見てうなずいた。

 フライ返しでくっついた目玉焼きを二つに割ると、刻んだキャベツの上に載せる。

 

「丼に蓋をしろ」

 

 アキの指示にデンジが唇を尖らせた。

 

「ハァ~? すぐ食うのに?」

「少しキャベツを蒸らす」

 

 不満げなデンジを無視して、アキは丼に蓋を被せた。

 デンジに食卓の方へと運ばせ、その間に調味料を用意した。

 

「遅ェーよ」

 

 丼を前にして唇を尖らせるデンジにソースのボトルと箸を渡した。

 

「いただきます」

 

 アキが手を合わせている間に、デンジは丼の蓋をとった。

 デンジの丼から湯気が立ち上り、目玉焼きの香ばしい匂いがした。

 

「ウマそーだな」

 

 デンジはソースを黄身の上に垂らした。鮮やかな黄色の黄身が箸で破られて、トロリと零れる。火が通り切っていない半熟の白身と混じり、そのまま刻んだキャベツと軽く混ぜられた。

 細く切ったキャベツはご飯と熱々の目玉焼きに蒸されて、鮮やかな緑色になっていた。黄身とソースにまみれたキャベツをデンジは口に運ぶ。パリパリとキャベツを噛みしめる。それから、キャベツをご飯を一緒にして口に運ぶ。混ぜ合わせたキャベツと米粒の食感の違いを楽しんでいるようだ。

 キャベツの下に隠れていたベーコンを引っ張り出した。焦がし気味にしてあるので、火が通った脂身の部分は透明になり、食欲をそそる匂いが立ち上っている。

 デンジが口を大きく開けて、ベーコンにかぶりつく。分厚いベーコンを口いっぱいに噛みしめて、その歯ごたえと脂身の甘味を堪能しているようだ。

 もくもくと肉を噛みしめているデンジは、不意にアキに言った。

 

「やらねーからな。このベーコンは俺んだ」

「こんな夜中にベーコンなんか食ったら胸焼けする」

「これはワシのじゃ~」

「パワーの真似はやめろ。パワーが伝染るぞ」

 

 へ、とデンジは鼻先で笑った。

 まだ表情から憂いが消え去ったわけではない。しかし、少しはマシな顔になった。

 

「俺よォ……」

 

 デンジが言った。

 

「自分がタマゴの割り方も知らねえなんて知らなかったな」

「俺も最初は知らなかった」

「こーいうのってどこで教えてもらうんだ? 学校?」

「……そういうやつもいる。俺は母親からだ」

「ふーん……親父は出来上がってるもんを買ってくるだけで、料理とかしなかったからよ。学校かあ。行けばよかったな……」

「…………今からでも行けるぞ」

「……そうなのか?」

「夜間学校もあるからな。公安の仕事もしながらだとキツいが——」

「試験とかあるんだろ」

「そりゃな」

「…………やっぱいいや」

 

 デンジが丼の飯をかっ込んだ。

 

「俺のこと学校も行ってねえってヘンだって言ったやつがいたんだよ。そーなのかもしれねー、とちょっと思ってさ」

「例の爆弾女か?」

「…………そうだ」

 

 苦いものを噛みしめる顔になったデンジは、忌々しそうにベーコンを噛み千切った。

 

「…………あいつと出会ってから寝れなくなっちまった。マキマさんのこと考えるときもドキドキしたけど、レゼのこと考えるとマキマさんのドキドキと一緒になって、しかも毎日楽しくて、眠るのがもったいない感じだった」

 

 もくもくとベーコンを咀嚼し、一気に飲みこむ。

 

「いまはあいつがどっかに消えちまったことを考えると寝れねー」

「…………」

「なんかさあ、女って好き勝手やってるよな。言いたいこと言って、やりたいことやって。ズリぃよ」

 

 ポツリと出た言葉に、アキは思わず笑った。デンジが顔をしかめる。

 

「なんかおかしいか」

「いや。おまえも言うようになったと思ってな。だけど、勘違いするなよ」

 

 アキは自分の丼の蓋を開いた。

 

「女は勝手に見えるかもしれないが、好き勝手にやれてる女なんか居ないよ」

 

 丼から立ち上る湯気の中に、一瞬アキは姫野の顔を見た。

 姫野も傍から見れば手前勝手なことを言って、あのノートを押しつけた。だけど、それをアキは責めない。誰にも責めさせない。仮に勝手だとしても……好き勝手なことの一つもやれないなら、何のために生まれてきたんだ。

 

「うぅ~~~ん」

 

 デンジは考えこんでいる。渋い顔でやっと言葉を絞り出した。

 

「パワーは? パワーは超好き勝手やってるぞ」

「パワーはパワーだろ」

「…………そうだな」

 

 アキは目玉焼きの黄身の上に、別に用意しておいたカットしたバターを載せた。黄身の熱でバターが溶けたところに、醬油をかける。溶けたバターと醤油が混じる。黄身を箸で破り、掻き混ぜていく。

 醤油とバターの香りが入り混じり、食欲を刺激する。我知らずアキの喉が鳴った。

 

「……ず、ズリぃ」

 

 デンジがアキの丼に身を乗り出した。

 

「醤油とバターってポテトチップスのうまいヤツと同じじゃん……黄身も混ぜてるから絶対ェーうまいやつじゃん……」

「お前のにはベーコンを入れておいてやったろ」

「肉もバターもどっちも欲しいよ!」

「じゃあ、自分でとってこいよ」

 

 デンジはあわててキッチンに移動する————、と。

 

「…………デンジぃ……ウヌはなにをしておるぅ~」

「げえ! パワー!」

「…………ウマいものの匂いがする……」

「し、しらねーよ。アキが食ってんだ」

 

 アキは背後を無視して目玉焼き丼を口に運んだ。

 バターの濃厚な味と醤油と黄身が混じり、無心で米をかっ込みたくなる味がした。ザクザクとした歯ごたえの甘いキャベツが快い。

 

「……ズ~ル~い~、ワシもウマいものを食いたいぞ……」

「だああッ、パワー! よりにもよってそんなとこ噛むな! テメぇさてはまだ寝てんな! 吸うな、血を吸うな!」

「にゃー」

「ニャーコも噛むな!」

 

 騒がしい二人と一匹の声と目玉焼き丼の味は、母が教えてくれたことを思い出させてくれた。

 

【5】

 

 ナユタがパンだけでいいと言ったのに、デンジはわざわざフライパンを引っ張り出した。

 

「パンもうめーけど、タンパク質が足りねーんだよ」

 

 デンジは油をフライパンの底に注ぐと、卵を片手で割ると、フライパンの上に直接落とした。油に浸った卵、白身の縁がチリチリと弾けて褐色に縁どられる。目玉焼きを作りながら、千切りにしたキャベツをトーストしたパンの上に少し乗せた。

 黄身とその周囲に火が回らないうちにフライ返しで目玉焼きを掬う。

 トーストの上に目玉焼きをそっと乗せると、薄く切ったバターを黄身の上に置いた。それから、少しだけ醤油を垂らす。

 

「食ってみろ」

 

 ナユタは眉をしかめた。

 おずおずと、水平を保つように気をつけながらトーストを持ち上げて、トーストにかぶりつく。

 まだ火が通りきっていない半熟の白身がトロリと流れ、新鮮なキャベツの食感がシャキシャキとして甘くて気持ちいい

 かぶりつく口が黄身に達した。

 濃厚な黄身とバター、醤油の塩味が混じって、一気に味が濃くて難しくなる。もっとよくわかりたいので、もくもくと食べていると、いつの間にかなくなってしまった。

 

「どうだ、ウメーだろ」

 

 ナユタはうなずいた。デンジは誇らしげに鼻をこすり、傍らに置いてあった青い表紙の本を手に取った。

 

「ほかにもウマいもんはたくさんあるからな。食パンだけじゃねーぞ」

 

 誇らしげにデンジは本の表紙を叩いた。ナユタは表紙の角を指さす。

 

「焦げてる」

「ああ、これくれたやつが焦がしちまったんだよ。中は大丈夫だ」

 

 デンジがパラパラとページをめくって見せてくれた。そこにはいろいろなレシピが書かれていた。

 

「燃えなくてよかったぜ。おかげでウマい飯が食えるからな」

 

 ナユタは眼を凝らして本の表紙を見た。

 青い表紙の中心に、水滴と王冠のような模様、そしてそこから拡がっていく幾重もの輪の模様があった。

 落ちた水滴から、拡がっていく波紋。

 波紋は本の表面を超えて、どこまでも拡がっていこうとしていた。



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