吸血姫ヴァンピレスの一人称で物語は進行し、彼女は虚無の軍勢に属する闇帝オプス・キュリテに惹かれていきます。
この作品におけるオプス・キュリテは、虚無の軍勢の故郷における最長老であり、万物を消滅させる狂眼「インフェルノ・アイズ」の使い手であることから、神々からも恐れられている帝であり、最凶の龍帝とされている……という設定となっています。
また、蛇凰神バァラルは他の虚神とは根底から異なる存在であり、バァラルを制御する役目も担っているとしています。
魔界も反逆者も関係ない。
情けを知らない血の女王。
助けを請う者にすら、永遠の眠りを与える。
私と哀れな二人の男女を乗せた馬車は夜の山道を奔っている。車輪の軋む音が一際強く発せられる度にその二人は怯え、お互いを慰め合おうとした。私はこの救われない二人に、間もなく彼女のところに辿り着く、心配はいらないと言ってやった。
沈黙を守っている御者は関心のない顔を装い、幽鬼と化した二頭の馬を鞭で打ち走らせている。この馬に苦痛という感覚があるか私は知らないが、生きていた頃の習慣でのみ自分を打つ鞭に反応し、目的も持たずに前へと走っているだけなのだと思う。
夜の獣たちの気配が周囲から感じられたが、彼らには私たちに害を及ぼす気は無いらしく、警戒の眼差しでこちらを眺め、己の無力さを知り尽くしているかの如く抑揚のない、呻くような鳴き声を響かせる。
この声を聞いただけで、無力な男女は一々竦み上がり、私に向かって、「ナージャ様のお屋敷はまだですか」と尋ねた。私は同じ文句をただ繰り返した。
空気が変わった。
御者が指示を出すまでも無く、幽鬼の馬はその脚をぴたりと止めた。御者は振り向きもせず、黙って霧に覆い隠された前方へ顔を向けている。
私は着いたと言い、先に馬車を降りた。二人も恐る恐る馬車を降りる。皆が降りると、役目を終えた御者は馬車を旋回させ、もと来た道を奔り去った。
近付くと前の霧が徐々に薄れていき、大きくおぼろげな屋敷がその姿を現した。私は二人の前に立ち、付いてくるように手振りで合図すると、ゆっくりと歩き出した。二人の足音が私の後を追う。
屋敷のノッカーを叩いたが、しばらく待っても返事はない。後ろの二人は、来客が来たというのに召使すら出てこないことに、漸く不信感を覚えたらしく、そわそわし始めた。
私は、ナージャは留守らしいと告げると、戸を開いた。鍵が掛かっていないことが意外であったのであろう、男女は続けざまにあっと声を漏らした。
私と他の二人が屋敷の中に入ると、瞬時に霧が立ち込め、視界が薄暗い灰色がかった色に沈んでいった。私は霧の中を進み、卓の上に置いてある短剣を手に取った。それと同時に卓は消え失せ、本来の姿である幽魔となり、飛び去った。
私は短剣を振るった。すると、私を怖れる幽魔たちが我先にと逃げていき、霧が晴れた。そうして、この場所の本来の情景が映し出された。
生き物のコアの輝きを吸い取る命を吸う沼。それがここの本来の姿。可哀そうな二人は何が起こったのか理解できないらしく、茫然と立ちすくんでいる。私の手にした短剣に気が付いた男が言った。
「あ、あなたはナージャ様のご親友ではなかったのですか……」
私は言ってやる。
「そうよ」
男は咄嗟に腰の長剣を引きぬくと、切っ先をこちらに向けた。街の貴族が欲しがり、無魔にしようとしたほどの者だから、腕に覚えはあるのだろう。男は今にも斬りかかってきそうな勢いだった。
私は手にした短剣で、そっと自分の頬を傷つけた。男が喚き、女だけが私の真意を知り、悲鳴を上げた。私は頬を流れる自分の血を吸うと、ゆっくりと本当の眼を開けた。
「真紅の瞳……血の女王」
女が言った。
その言葉を聞いた男が剣を振り上げ、私に斬りかかってきた。私はそれをかわし、短剣を一閃した。男は首筋に傷を残し、その場に倒れた。
「幽魔たち。来なさい」
沼の中から燐光が漂い出し、男の首筋に吸いついた。悲鳴を上げた男の血の臭いに誘われ、無数の形のない幽魔たちが集まってきた。
女が男を助けてくれるよう私に懇願する。私はその女と幽魔に喰われつつある男の為に笑ってやり、言った。
「私はあなたたちを救ってあげるの。あなたもそれを望んでいたのでしょう」
幽魔に喰われている男が断末魔の声を上げる。それを聞いた女は私へ必死になって懇願する。私は短剣を構え、女の方へと近付いた。
「あなたたちが望んだものは他者に縛られぬ、二人だけの愛だった筈。今、こうしてかりそめの肉の中で生きている限り、それは叶わないでしょう。だから、私が可哀そうなあなたたちをその柵のなかから救いだしてあげるの。あなたたちは幽魔として生きるのよ」
私は短剣を振り上げた。
不可思議な感覚。命を吸う沼を歩いている私は、心地良い疲労感の他に、何かとても懐かしいような存在を感じた。誰かがこちらを探っている。
「あなたはだあれ。私が怖くないの」
私がそう言うと、相手はその存在をはっきりと現してくれた。
「醜き小娘よ。儂はもっと恐ろしいものをいくらでも知っているのだ」
私はその相手を正面から見た。色を失った双眼をこちらに向けている四つの翼を持つ龍。岩石のような皮膚が仄かな紫色のオーラを纏っていた。
「あなたはシェイロン……ではないのね」
私がそう言うと、紫龍の双眼に微かな変化が見られた。
「ほう、シェイロンを知っているのか。シェイロンは儂の友人だ。まだ生きていたとはな」
「あなた、ずっと私を見ていたのね」
「そうだ、醜き小娘。儂はお前の行いをずっと前から見ていた」
「あなたは私のことを本当に醜いと思っているのね」
「取るに足らぬ己の欲望に忠実なる者と思っている。それは醜い者だ」
「私を醜いと言ったのはあなたが二人目だわ。一人目はシェイロンだった。他の皆はわたしのことを怖れるか、私の気をひこうとしているばかりで一度だってそんなことは言わなかった。母でさえね」
「醜い……が、儂は興味がある」
「何に」
私は敢えてそう尋ねた。紫龍はすぐに答えてくれた。
「お前にだ」
龍は何故この場所にいたのか、その目的を何も教えてはくれなかったわ。ただ、オプス・キュリテと名乗ったのみ。私も自分のことをヴァンピレス、とだけ言った。それきり龍とは別れた。
でも、私が龍と再会するのは、これからすぐのことだったの。