呪鬼は滅びる時に卵を残す。
生まれることのない卵。
霊力の籠った霧が闇の中を漂う。夜空に灯る魔性の月と星の光が霧にかき混ぜられ、おぼろげな沼の姿を映し出している。
ハンプダンプが私の頬を紫色の翼でくすぐった。人懐っこいハンプダンプの丸くすべすべした上部を撫でてやる。そうすると、ハンプダンプはハタハタと翼を動かして反応する。
ハンプダンプが何を考えているのかは分からなかったが、少なくとも私はこうしていると何だかほっとする。ハンプダンプだって悪い気はしていないのだろうと思う。
「可愛い子。あなたたちだけが、この世の中で美しいものだわ」
ハンプダンプがもう一匹飛んできて、私の周りをくるくると飛び回った。手を振って招き寄せると、そのハンプダンプもつられて近寄ってきた。
「いつまでも可愛らしい卵のまま。皆がこうなれば良いのに」
命を吸う沼に毎晩訪れることは私の日課である。夜になると、ここには卵たちが自然と集まってくる。おそらくは生みの親であるかつて生きていた呪鬼の体を懐かしんでここにやってくるのだろう。
そろそろ本格的にハンプダンプたちが集まってくる時刻であり、徐々に周囲のハンプダンプの数も増えてきた。私は朽木に腰を下ろしたまま、ハンプダンプが新しく一匹現れる度にその数を数える。ここに集まってくるハンプダンプの数は私がここに葬ってきた貴族の数だ。数える度に、これまで共に過ごしたことのある貴族たちの記憶が、一つ一つ私の脳裏をかすめる。
彼らは皆心身ともに醜く、それでも一様に私のことを求めた。私は彼らのことが嫌いだったが、今ここに居る卵たちのことを愛している。彼らの汚れた肉体に閉じ込められていた、清純な部分だけがこうして顕現しているのだ。
「やはりここにいたのかい」
声がしたが、私は振り向かないで膝の上でじっとしているハンプダンプを撫でていた。
「せっかくあたしの妹にすがって都から逃げてきた客人を、手に掛けてしまうとはね。つくづくいけすかない女だよ、あんたは」
面倒な相手ではあったが、母の立場もあるので無視するわけにはいかなかった。私は彼女に向かって言う。
「王に媚びを売っている一方で、妹の魔女が王に背くのを手伝っているあなたには言われたくないわね」
「へえ。あたしの不忠を問おうと言うのかい。ご立派なことだねえ」
「別に私はあなたがどこで何をしていようと構わないわ。私には関係がないもの。用が無いならさっさと帰って頂戴」
「用ならあるさ」
彼女は飛び回るハンプダンプを払いのけながらこちらに近付いてくると、私の顔を覗き込んだ。
「ヴァンピレス。あんたは見たんだろう。何かこの世ならざる存在を」
彼女が言う存在が何を指すのか、直ぐに分かった。でも、素直に答えてやるのは何だか癪だった。
「何のことかしら。あなたの言うこと、私には分からないわ」
「あんたには、この世ならざる者の臭いが僅かだが残っているんだ。この魔界軍師ヘルミアを前にして嘘は許されないよ。ヴァンピレス、たとえお前でもね」
ヘルミアの双眼が鋭く光る。蛇后妃メドゥーサ譲りの蛇の眼。私は身の危険を感じた。気に入らない相手だが、この相手を怒らせるのは危険だ。
「……分かった。言うわよ。だからそんなに凄まないでよ」
私がそう言うと、ヘルミアは蛇眼を収め、幾分温和な表情を取り繕ってから言った。
「それはどんなものだったのさ」
「龍だったわ。紫色の、大きな龍。ただそれだけよ」
「龍……」
龍と呟くヘルミアの表情が若干曇る。どうやら彼女にとってことは重大らしい。こうなるとなおさら関わりたくなかった。
「もういいでしょう。私はこの子たちと静かに過ごしたいの」
「……そうだね。それを聞いてはじっとしている訳にはいかなくなった。早くこのことを王に……いや、それよりも先に母上に伝えなければ」
不意にヘルミアの姿が消え去った。彼女の母……蛇后妃メドゥーサのもとへ向かったのだろう。ヘルミアが払いのけたハンプダンプがすぐにこちらへ戻ってくる。私はほっとした。
あの龍は何者だったのだろう、私は今になってそれが気になり出した。龍は昨日の夜になって初めてその姿を現したが、私のことをいつも見ていてくれた気がする。それも私の本当の姿を。
もう一度、あの龍に会いたいな……。私はハンプダンプたちと戯れながらぼんやりとそんなことを考えていた。
「それは本当にお前の望みかな。多くの者は本来の姿を隠すことを望むものだがな」
そう、龍はいつも見ていてくれる。私が望めばすぐに応える。
「私は自分に嘘をついて生きている連中が嫌いなの。あなたは違うと言うのかしら」
沼の上にゆっくりと実体化していった姿は、あの時見たものとは違う、小さな黒い竜であった。
「どうだろうな。儂自身、儂が何を望んでこの世界を訪れたのか真に理解してはいないのだから」
「自分のことすらよく分かっていないのね。でも、それなら私も大差ないのかもしれない」
「そうだな……。それ故、儂は真実を知る為にこの世界に現れた。それは儂自身のことであり、この世界のことであり、儂の故郷のことであり……ヴァンピレスよ、お前のことでもあるのかもしれぬ」
そう言うと、黒竜は舞い上がり、私の側に下り立った。
「お前がそう望むなら、儂はこの姿でお前の傍にいよう。それが儂にとってもこの世界の実情を知る手掛かりを得る手段となり得る」
黒竜は周囲のハンプダンプたちよりも幾分か大きいという程度のものだが、色を失った双眼はあの紫龍と同じだった。
「あなたのことをヘルミアが探していたわ。あなたには人に見つかっては困る事情でもあるのではないかしら」
黒竜は微かに尾を振るい、白い瞳でじっと私を見据える。
「まあな。だが、この姿はお前の眼にしか映ってはいない。この場のハンプダンプたちは儂の存在を僅かではあるが感じ取っているらしいがね。蛇族に存在を気取られたのは儂の注意不足だったようだ」
「そう。じゃあ、気をつけないとね」
車輪の軋む音が近付いて来た。私は膝の上のハンプダンプをそっと退かせるとゆっくりと立ち上がった。首のない二頭の馬に引かれた馬車が、霊力をかき回しながら近付いて来た。
「姫様、お迎えにあがりました」
貴族の召使の不死者である御者が恭しく礼をした。
「もう来たの。もっとゆっくりしていたいわ」
「これ以上ここにいられては危険ですよ。幽魔に冥界へ引き込まれたりしては一大事でございます。お母上も心配しておられます」
「そう。なら仕方ないわね」
私はハンプダンプたちに別れを告げ、馬車に乗り込んだ。御者が鞭を振るうと幽鬼の馬は再び奔り出す。名残惜しそうにしているハンプダンプたちを残して、馬車は沼から離れていった。
馬車の中には私の他には誰の姿もなく、内部には何ものの気配も感じられない。私は思わず口に出さずにはいられなかった。
「オプス・キュリテ。そこにいるのでしょう。私の前に姿を現して頂戴」
すると、空間に黒いもやもやした物体が出現し、黒い竜の形となった。
「やはり、お前は姿を視認できぬと落ち着かない性分らしいな」
オプス・キュリテは牙をむき出しにして黒い息を吹いた。どうやら笑っているらしかった。
「既に分かっていることでしょう。あなたからは私の姿が見られるのに、私からはあなたの姿が見られないなんて、落ち着かないわ」
「ああ。そうだな、ヴァンピレス。」
私はオプス・キュリテの態度に悪い気はしなかった。何だか憎めない茶目っけのようなものも感じられる。
馬車は山村に入り込んだ。シェイロンよりも大分温和な印象の龍とともに、母の待つ城に近付いているのだ。そう思うと、私は何だかほっとした。それにちょっぴり嬉しい。今までおぼろげに感じるだけだった存在が、今はこうして私の傍にいると確信できるからだ。
やがて星に照らされた古城の影が前方に見えてきた。