「やべぇ単語帳忘れた」
突然隣から独り言が聞こえる。
俺はこの声の主を知っている。
おそらく、内面的ではなく、
表面的な意味で。
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昨日、ただの学生であり、
一人の人間である町田という
生き物は、生物の脳構造的に
必要不可欠な、「忘れる」という
行為と、相反する「思い出す」
という行為を僅かな時間差で
行った。
平たく言えば、帰宅しようと
したところ、教室に体操服を
置いてきてしまったことを
思い出したのだ。
最悪。脳裏に浮かんだのはその
二文字。
少しの間迷ったが、取りに戻る
ことにした。
どうせ時間はそうかからない。
言葉が出なかった。
出せなかった。
教室にあったのが、自分の
無能さを見せつけてくる不愉快な
布切れだったならどれほど
良かっただろうか。
そこにあったのは、むしろ他人の
心の闇をひしひしと感じさせる
虚無であった。
体操服がなかったのだ。
町田はロッカーを探し、自分が
使用済みの衣類を一晩寝かせる、
などという愚行を行おうと
していなかったことを確認した。
町田は机の中をあさり、教師の
叱責がまだ心に留まっている
ことを確認した。
町田は部室を荒らし、自分が
たちの悪いいたずらの標的に
されていないことを認めた。
部員たちは自分と一緒に部活を
した後、先に帰ったのを見た。
では何故ここにないのか。
考えられるのは一つだけだった。
クラスメイト。
故意であるとは言い切れない。
間違ってもって帰る奴がいないと
言い切れないから。
故意ではないとも言い切れない。
このクラスのやつらが、全員
純粋で素直なやつだと
言い切れないから。
...なんなら故意である可能性の
方が高い。
「教師に言うのはまずい」
町田は考える。
これは犯人が故意ではなかった
場合に気の毒だと思ったから
ではない。
自分の管理のずさんさを
とがめられるのが嫌だった
からだ。
とりあえず、帰ろう。
明日になれば、きっとすべて
わかる。
これは希望的観測だった。
決して根拠など無いが、そう
祈るしかない。
家に帰り、すっかり忘れて寝床に
つく。明日はすぐやってくる。
学校にきた町田はすっかり昨日の
ことなど忘れていた。
...机の上の体操服は、そんな
自分の無能さを日をまたいで
突きつけてきたのだった。
「おい町田忘れとったん?これ。」
日上だ。
お前が犯人なのか?喉まで
出かかった苛立ちを飲み込み、
替わりに無難な言葉を繕い、
吐き出す。
「あ、忘れとった!」
隣で田中が笑う。
「机の上にあるのに
忘れんなよw」
いや、机の上には無かった。
どうして?
混乱した思いを整えるために
即興の嘘で誤魔化す。
「いや帰る途中で気付いたけどー、
取りに帰るん面倒くさかったけん
取りに帰らんかった。」
「いやさっき忘れとったー
言うたやんw」
張りぼてのように薄い嘘は
簡単に貫かれた。
愛想笑いをし、会話を絶つ。
考えさせてくれ。
笑わないでくれ。
どうしてこんな目にあう。
どうして服を隠された。
どうして俺が笑われる。
どうして、日上に、田中
笑われる。
どうして、こんな早くに田中が
いる?
いつも来るのは遅いのに、
どうして今日は早い?
頭の隅の小さな違和感は、
墨のように黒く、広く
頭全体に広がっていく。
犯人は田中ではないのか。
俺を笑うためにやったのか。
俺が田中にそうさせたのか。
問いたい。ちらりと横を見る。
もう体操服のことは
どうでもいいと言わんばかりに
カバンをあさる田中。
「やべぇ単語帳無いわ」
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この男は何を考えているのか。
胡散臭く笑っていたその顔に、
昨日までは見えていなかった
陰がみえた。
理不尽かもしれないが、今一番
言いたいことを 一番聞きたい
こととはかけ離れたことを 町田は口にする。
何てことはない、いつも
そうやってきたではないか。
「お、お黙り!」
言うことに困った時、自分の
気持ちを抑えるときは、
この言葉を投げつけることが
一番何も考えなくていいのだ。
作者は豆腐メンタルなのでどうかご容赦ください