本編はこの話を入れてあと二話です。その後幕間みたいなのを数話予定。
九年ぶりに故郷のイングランドに戻った私は現在、領地の隅にある墓地にいた。
ここは我が家の始まりの場所。滅多に人の入り込まないこの森に、かつて地方豪族の一つに過ぎなかった先祖は住居を構えていたという。遠い昔の話だ。
そんな先祖代々の墓があるその場所で一番新しく綺麗な墓の前で跪き、手を組み旅立った父に向けて祈りを捧げる。
彼は病で斃れた。元々歳だったのでさほど驚きは無いが、身内の死というのはやはり辛い。
「───偉大なる我が父よ」
彼は私にこの世界での生き方を教えてくれた。
彼は私に父親として、愛情を注いでくれた。
そして私は、彼を一人の男として尊敬していた。
「───あなたは私の誇りです」
彼が時に厳しく、時に優しく私を育ててくれていなければ私は今頃フランスの地で死に絶えていただろう。そして彼の領主としての人生は民を愛し、愛されたものだった。
こんな世界だからこそそんな彼の生き方は尊く、私にとって美しかったのだ。
「───私は兄と手を取り合い、この地を守り抜きます」
彼は当主として“家を存続させる”という第一の仕事を、その人生を以てやり遂げた。幼少の頃より自分の人生を投げ捨て、文字通り全てを家族と領民に捧げた。
それは辛い道のりで、生半可な覚悟では成し遂げられなかっただろう。
「───ですから、ゆっくり休んで下さい。…今までありがとうございました」
私は手を解いて立ち上がり、体の前で十字を切った。
そしてその場から立ち去り、屋敷への道を戻る。
そこからの日々は家族と暮らす懐かしいものであると同時に、慌ただしくもあった。
生まれつき体の弱い兄はまだ若いものの、私がイングランドを出た時よりも容態が悪化しており、父ほどの歳までは生きられないだろうと予想できるほどだ。
そんな兄の補佐をしつつ、どうしても彼が床から起きられない日は私が代わりに政を行なった。
私が出て行ってからそれなりに年月は経ち、領内の状態は幾らか改善されているものの万全とは言い難い。
息をつく間もない慌ただしい日々であったが、そんな中にも幸福はある。
兄と彼の妻の間には男児が生まれた。健康的な赤子だ。
彼は将来家を継ぐことになるのだろう。
この家に生まれた以上父や先祖のように己の人生を民に捧げることになるのだろうが、そんな人生の中にも幸せがありますように、と願わずにはいられなかった。
そんな忙しい中にも幸せがある日々が終わったのは、私が領内に戻って二年が経過した時。
兄は病に体内から侵され、そして死んだ。彼が遺したのは多少問題の解決された領内と後継の赤子。
それから間も無く私は兄の後を継ぎ、当主の座についた。そして私は本格的に領内の改革に取り組むことになる。
人々が安心して暮らせるために私は働く。
不正に苦しむ者が生まれないために法を整え、治安を向上させた。
飢える者が生まれないために耕作地を広げ、作物の収穫量を増やすために試行錯誤した。
病が流行り、かつての悲劇が再発しないために衛生状態を改善した。
加えて、近いうちに起こる内戦から領内を守るために準備も進めていく。食糧、軍備、資金など多岐に渡るそれらを少しずつ蓄える。
私が当主になって一年経ち、二年経ち、三年経った。まだ領内の状態は全く十分ではない。
私が家を継いでからのこの三年間は殆ど休んでいないが、まだ全く足りないのだ。もっと私が努力し、働かなくてはならない。
部下からは『少しは休んだ方が良いのでは?』とも言われたが、そんな事をしている暇は無い。
私が当主になって十年経った。
毎年少しずつ、少しずつだが領内にも内戦を生き残れるだけの余裕が生まれるようになり、民への戦争被害を避けられる希望は生まれつつある。
兄の遺した甥も若くして死ぬ事なく無事この歳まで育った。賢く、そして優しい子だ。
この子は私の跡を継ぐ。
そのために教育を受けさせ、統治者に必要な知識を深めさせている。仕事に次ぐ仕事の日々でも、この子と交流する時間だけは毎日とっていた。
そのため関係は良好だ。この子との時間は楽しいし、私にとって癒しでもある。
死の間際に兄と交わした、この子を立派に育てあげるという約束。それを果たすために、私は日々この子と過ごしている。
「叔父上…まだ寝ないのですか?」
屋敷の者が皆寝静まった真夜中、私は自室で一人仕事をしていた。
蝋燭の灯りで机上を照らし、書類に筆を走らせる。皆と同じ時間に寝たのなど、もう何年前になるだろうか。
内戦の開始までもう時間は残されていない。そのため少しの時間すら惜しく、寝る時間を削り仕事に取り組んでいる。
そんな時、甥が自室を訪ねてきた。
「あぁ…もう少しだけするべき事があってな。お前こそどうしたのだ?こんな時間に」
しばしこの事について、様々な者から叱られる。『そんな生活をしていたら身体が壊れるぞ』と。
勿論そんなこと、百も承知だ。年々身体がボロボロになっていることは自分でも分かる。しかし、それは私が歩みを止める理由にはならない。
思い出すのは、かつてフランスで出会った少女と過ごした日々と、彼女の死に際。
彼女と過ごした日々は楽しかったし、充実していた。
記憶の中の少女の笑顔は眩しくて、希望に満ちている。あれほどの輝いた瞳の持ち主にはあれから会った事はない。
だからこそそんな少女の無惨な死に方は私の心を抉り、深い傷跡を残したのだろう。
あれ以来私の心にはどこか虚無感のようなものがあり、見える世界の色はどこかくすんでいるようだ。
私は大切な人を失うことがどうしようも無く怖く、動いていなければ落ち着かない。
「最近の叔父上は何処かおかしいです。まるで何かを恐れて逃げているような…仕事の鬼なのは昔から変わりませんが……」
────貴方には何が見えているのですか?
そう私に尋ねる甥。焦りは隠していたつもりなのだがな。身内の勘とも言うべきか、この子には気付かれていたらしい。
「───そう見えるか?」
「えぇ」
そう言って私を見るこの子の瞳には強い信念と、今は亡き兄の面影が感じられる。
(本当に…強い子に育ったな)
貴族家の跡取りという重圧に耐え、この子はこの歳まで育った。
同年代の子達よりも強い精神力を持っているこの子は才能溢れる若者だ。それは間違いない。少なくとも、私よりはずっと。
この子になら教えても良いだろう。
ブリテンを近い未来に襲う戦乱と、それに伴う我が家の消滅の可能性を。
私が甥にその事を話すとこの子は当初こそ驚いていたもののすぐに情報を整理し、瞳に理性を取り戻した。
本当に良く出来た子だ。私の甥でありながら感心してしまう。
ちなみに私は近い未来に起きる内戦の事を『あくまで私の予想だ』という注釈をつけても、信頼できる数名にしか話していない。
『未来を知っている』なんて口に出してしまえば、悪魔と契約している、と教会の連中から目を付けられかねないからだ。
そうでなくても軍備を進めていると王家に知られれば、反乱の意思があると見られるのは目に見えている。
「────そうですか、叔父上。そういう事でしたら多少の無理は目を瞑ります」
ですが、とこの子は付け足した。
「私にもその手伝いをさせて下さい。私も…貴方の見ている景色を見てみたい」
───数年後、イングランド勢力は大陸よりほぼ駆逐され、長く続いた戦争はフランスの勝利で終わった。
そしてその二年後、敗戦責任を巡りブリテンを二分する内戦が勃発する。
◆◇◆◇◆
かつてフランスで見た惨劇がブリテンでも各地で起こった。
軍隊が村や街を襲いそこから全てを奪うことも珍しくは無い。文字通り全てだ。そこに暮らす人々の命も、貯め込まれた物資も。
各地の貴族達はブリテン島の中での争いということで自らの土地を守るため、夥しい数の兵を動員し血を血で洗う戦争に突入していった。
それは私の領内も例外でなく、兵を掻き集めて軍隊を組織する。その規模は、かつてフランスに率いて行った時の比ではない。
私の軍では規律を定め、略奪や殺戮は許さなかった。そうなれば当然不満が出るものであるが、給与を他よりも多く払い酒をふんだんに振る舞うことでその意見を黙らせる。
幸運なことに、私が当主になったこの二十年で領内は豊かになり戦費の蓄えは十分であるが、それはその事実を嗅ぎつけた他の軍から狙われるということでもあった。事実、多くの兵が私たちの領内を目指して攻めて来ている。
私にブリテン全土を統治して平和をもたらす程の力は無い。これは紛れもない事実だ。
だがそれでも、出来るだけ多くの人々の暮らしは守りたい。それが私の使命であり、義務であるのだから。
私は兵を率いて戦場に出る。そこでは数えきれない程の多くの男の命が散っていった。
見知った者も、知らない顔の者も関係無く死んでいく。
私は大陸で兵を指揮し、それなりに名が売れた。私が指揮すれば戦場では負け無しなのだ、という噂も広まった。
部下達は私に仕える事を“誇り”だと言い戦場に向かう。
領民達は私がいれば大丈夫だと、安心するように子供や友に言い聞かせていた。
とある所に私に忠誠を誓った若い騎士がいた。
私と彼は、彼が五つの時からの付き合いであり、妻を娶らなかった私にとって子のような存在だ。
彼の家は没落した騎士の家であり、家族の将来を憂いていた彼の父親を私の家で雇ったため、彼にとって私は“恩人”なのだとか。
そんな彼は強く、優しい男だった。
ある日の戦場で彼は『今までの恩を戦果で返す』と言い、有志を募って敵軍に突撃して行った。私は止めようとしたものの、それは叶わない。
結局彼は戦場で、頭を砕かれて朽ちている姿で発見された。
戦場ではありふれた話であるものの、それらは私の精神を削っていく。少しずつ、少しずつ。
踏み越えた戦場の数が十を越した時には私の心は完全に擦り減り、食事が喉を通らない日も珍しくは無かった。
大陸にいた頃より積み重なった、心への負荷が私の許容を超したのだろう。
だが、私は狂えなかった。どんなに悲惨な状況を目撃しても精神崩壊には至らない。
恐らく、幼少の頃より人の死に触れていたことで“慣れた”のだろう。それは有り難かったが、同時に私は自分を呪った。
狂えてしまえばどれほど楽であっただろうか、と。
凄惨な戦争には似つかない、平穏な日々が私の領内の周りで珍しく続いていたある日。
私は屋敷で事務的な仕事に取り組んでいた。戦は無くとも、仕事は溜まる。
戦場に赴いていた期間が長かったせいでかなりの量が溜め込められているため一息つく暇もない。
最近、長時間の労働は体に障るようになって来ている。私はもう若くないのだ。
そんな中一つの知らせが届く。『行き場を失った人々が私たちの領内に避難をしたがっている』と。
私たちの領内は戦場で死んでいった部下達と、事前準備のおかげで今の所直接的な被害は出ていない。これは予想以上の成果だ。
だが他の土地もそうであるかといえばそうでは無い。
蹂躙の限りを尽くされた土地の話など幾らでも出てくるし、それに伴って難民も発生する。
彼らの末路は悲惨だ。男は傭兵になるか、自分で私兵集団を立ち上げるか。そして女は身体を売る。
そんな話をもう、飽きるほど聞いた。
先月、私達の領土から少し離れた土地が略奪の限りを尽くされたと報告が入った。
領主の軍は壊滅し、率いた本人とその家族は混乱の最中で殺された、とも。侵略者から守る者がいなくなったその土地の人々がどうなるかは、想像に容易い。
そして、その土地に住めなくなった人々が私たちの土地に逃げ込みたがっているという。
住処を破壊された彼らにとって、歩いたとしても運が良ければ何とかして辿り着ける距離にある私たちの土地は、希望の光に見えただろう。
しかし、問題はその数だ。話を聞き予想した限りでも数百かそこらでは済まないと分かった。確実にその数倍はいる。
私たちの領内に蓄えがあるとはいえ、急激に人口が増えれば支えきれずに数年で破綻するだろう。
彼ら全員を迎え入れるのは不可能だ。
────ならば、人数を制限するか
だが、その判断の基準はどう決める?そして、残された人々にはどう伝える?
もし家族が切り離されれば不満に持つ者が出るだろう。下手すれば実力行使に出られるかもしれない。
たとえ彼らの命を助けたとしても。人間とはそういう、理不尽なものなのだ。私は今まで生きてよく分かった。
どんなに考えても一番現実的なのは、彼らを見捨てる事ただ一つ。
そうすれば私たちの領内に損害は出ない。備蓄も食い潰さなくて済む。
私とてお人好しだけで生き残れるなど微塵も思っていない。もしそうだったのなら、私の部下は死ななかっただろう。
────彼らには悪いが、諦めてもらう
かなりの時間葛藤し、そう結論を出した。
私の決断で数え切れない程の人々が死ぬことになるのだが、そんな事は言っていられない現状だ。
とはいえ、無辜の人々を見殺しにすることは心にかなりくる。人間の命を切り捨てるのはやはり慣れない。
落ち着かせようと思い、私は仕事を中断して日課である教会での祈りに向かうことにした。
護衛を連れ、私は城下を歩く。行き交う人々の顔には笑顔があった。これらを守ることが私の人生に与えられた意味であり、重くのしかかる十字架でもある。
そして、教会で主に祈りを捧げたその帰り。
道端で転んだ男児の手当をしてやる少女の姿を見た。
金髪を靡かせ、痛みに顔を歪ませた男児に微笑んで接するその少女は、私の遠い記憶にあるかつての聖女を思い出させる。
ドンレミの村にいた時、あの少女はあんな風に、転んだ歳下の子供達を助けていたことを思い出す。
その時ふと脳裏に浮かぶのは、私がドンレミの村で過ごした最後の夜。
『私はね、困っている人に手を差し伸べられる、そんな人になりたいんだ!』
その言葉を彼女は若く、未来のある命を以って実行した。
もし彼女が私であったのならば、迷うこと無く避難民の命を救う事を選び取るだろう。ジャネットという少女はそういう人間だ。
そして、いつかの教会で過ごした夜のことも。
『あなたが正しいと思う事をし続ければ良いと思うよ』
私の正しいと思うことは、家族や領内の民を守るというただ一点。
それだけを考えていたはずなのに、見ず知らずの人間のために危険を冒す事を心の中で考えてしまっている。
それは、小を切り捨て大を生かすのが使命の統治者として勿論失格だ。
だが、どうしても引っ掛かる。見捨てると決めたはずなのに、後ろ髪を引かれる様な感覚がある。
「───ジャネット。君が今の私を見たら、どう思うだろうな」
そう、小さく呟いた。
「……?何か言いましたか?」
「いや、何でもない」
そのまま、私たちは屋敷への道を歩き続ける。
────あぁ、私にはやはり命を見捨てることは出来ない
多くの者は、私のこれから成す事を愚かだと思うだろう。実際そうであるし、自分でもそう思っている。
だが私はこれから助けを求めてくる人々の命を助ける道を選ぶ。勿論私は元々暮らしている領民に生活苦を強いるつもりも毛頭ない。
その夜、私は自室でとある書類を見る。それは数年前に大貴族“アニムスフィア家”から提案された、我が家の先祖代々の墓地の一帯を売り払ってはどうか、という内容のものだ。その対価として法外な額の値段が示されていた。
土地の値段としてはどうしても釣り合わない。
理由はその土地が彼らにとってもゆかりのある土地なので先祖を祀る施設を造りたいからだと言うが、それは嘘だと知っている。
アニムスフィアが貴族というのは表向きでしかなく、彼らの裏の顔は“魔術師”と呼ばれる連中だということを。
そしてあの場所の地下には特大の“霊脈”なるものが通っており、彼ら魔術師にとって喉から手が出るほど欲しいものであるということも。
私も長いこと貴族として仕事をしていれば手を出してはいけない“黒い事情”というものは把握している。
あの時は先祖代々の土地を手放すことを好ましく思っていなかったのと、とんでもなく胡散臭さを感じたので拒否したが、今は事情が変わった。
この書類に書かれている通りの金額が支払われれば、避難民を受け入れたとしても釣りは十分に来る。
そして多くの人々の命が救われるのだ。
そこには先祖の墓があり父も兄も眠っているが、私のやる事は決まった。
────もう死んだ人間達の誇りを取るか、今を生きている人間の人生を取るか
そんなもの決まっている。
私は筆をとり一枚の紙に文章を書き連ねた。魔術師───それも彼ら程ともなれば私の命など塵のように軽い。
これは出来ることならば取りたくなかった最後の手段だ。もし交渉で選択を誤れば待っているのは死のみだろう。危険な綱渡りだが、失敗は許されない。
「もし見ているのなら…見守っていてくれ、ジャネット」
部下の一人にそれを持たせ、アニムスフィアの領地まで届けさせる。
───これはなんて事のない取引だ
震える手を必死に押さえ、自分にそう言い聞かせた。
もし清い聖女がこの事を見れば『いけない事だ!』と言い出しそうだが、彼女は当然この場にはいない。
「さて、先方はどう出るか……」
そう言って私は窓から外を覗く。その日は見事な満月だった。
「───助けて下さり、ありがとうございます!」
私に頭を下げ、泣きながらそう言う女性に私は微笑み、声をかける。
「…この程度、何てことはありません。貴女方が無事で本当に良かった」
彼女の腕の中では赤子が眠っており、すやすやと寝息を立てている。
この日、多くの人間の命が救われた。
私は、切れかけていた綱を渡りきった。
───そして、私の背負う十字架も一段と重くなる
人々の暮らしの為に、私に失敗は許されない。
また一つ、命の重さに耐えきれなかった私の心にひびが入った。そのことは、決して表に出してはいけない。
私は顔に微笑みを張り付けたまま、彼女の話を聴いた。
読んで下さりありがとうございました。