〇月□日
ユンゲラーの処遇をどうすればよいかきいてみるため、しばらくヤマブキに留まることになっている。ヤマブキジムのジムトレーナー諸氏に育成に関するアドバイスをいただき、ついでにバトルの手ほどきもしてもらおうという算段であった。しかし、突然訪れたにも関わらず暖かく迎え入れてもらえたのはありがたいことだが、ワープパネルが眩しく光っており、なかなかどうしてめまいが収まらない。しかもサイキッカーの一人が、交換条件として儂の心を読んでみたいという。不思議なことだ。だがいつも通りにしていればよいらしいので、変だなぁとは思いつつも目を瞑り、椅子に座って考えに移った。
振り返ってみるに、先月はアローラにいたせいか非常に浮かれていた。しかも、浮かれていると自分では気づかずに!この前も"反省しないものは云々"と書いたばかりであるのにこのようなことになり、自分に対して言いようのない不満が募るばかりである。反省しなければ。ま儂は自分に文才がないことを痛感しており、常々自分に「ここまで生きてきたのだから、独自性と示唆に富むものが書けないわけがない。大学院にまで入った死に体の病人が今更悪人に怯むようなこともあってはならない」と言い聞かせている。それでありながらあの体たらくで、島の不良の言いつけを守ってしまうときた。しかし今更破ろうとも思えないから、益々不満は募る。観光ができなくともあの地方は人を良い気分にさせるのか、わざわざ携帯獣学部ではなく文学部に入った儂でもアローラの魔力には逆らえないらしい(これはもちろん冗談だが)。アロハシャツを着ていた日もある。さぞシュールな光景に映ったことだろう。
そもそも儂が当時人気絶頂だったタマムシ大学携帯獣学部ではなく文学部に進学したのは、ポケモンのことがまるで分らなかったからである。中でも『こんな強い力を持った生き物が人間の言うことを聞く』ということが――トレーナーの腕がいくら良かったとしても――不思議でしょうがなかった。ポケモンと人間が共生関係にあることこそ携帯獣学の要である。このことは学究を待つまでもなく、誰でも知っている。それは、一方で、最も確実な事のように思われるが、他方、能力の高いポケモンの生態にちょっと探りを入れると、もしかしたら瓦解するのではないかと思われるくらい儚げなものである。もし、ポケモンと心が通じなければ、どんなに世界は争いに満ち溢れることだろう。そして、争いに満ち溢れた世界を生き、『あの異次元の怪物を討て』という落雷のような盲目的意志の呼び声に貫かれていれば、
こうした感覚を持っていない人は、多分いくら頑張っても神話など書けないのではないか。こんなに至近距離で存在するポケモンの存在の仕方が摩訶不思議だからこそ、全てのポケモンや人間の存在を言葉を尽くして解明したくなるのである(こうした意味では、どんなに優れたポケモントレーナーも、携帯獣学の権威も、大企業のトップも、反社会的勢力も、神話を書くことや深く理解することはほぼ確実に不可能であって、その限りこの学問領域において儂が彼らに興味を抱くことはないであろう)。
神話の著者は科学者やトレーナーがそれを基盤にして、そこから活動を始める領域に留まり続け――あるいは引き戻される。すなわち、通常のトレーナーがパートナーと絆を育んでいるときに「なぜポケモンと心が通じるのか」と問い続け、科学者が歴史や分布を懸命に調べているときに「なぜ時間と空間はあるのか」と真剣に問うてしまうのである。ところでこうした態度は他の人々にとって理解しがたいものであるらしく、この問いには終わりがない、もしくは意味がない、と語る人が後を絶たなかったようだ。その傾向を探るに、こう主張する人は皆優れたトレーナーであるか、もしくは優秀な科学者、いわゆる才人であるらしい。すぐ近くにオーヌキくんというモデルがあるが、専門分野に特化した者は数多の壁を乗り越えてなお高い壁、誰も超えたことのない壁にぶつかっており、後ろを悠長に振り返っている暇などない、見えるのは己が乗り越えてきた壁のみである、という訳である。
とはいえ、そういった一生懸命な方々が批判に注げる労力は少なく、儂は神話の意義を疑ったことも、その程度で揺るぐような分野にしたつもりも(自信過剰かもしれないが)ない。神話学は現実的な学問であることをやめたわけではないが、キャタピーの一歩でもコイキングの一跳ねでも考えを進め、妥当な、できるだけ多くの人に納得してもらえるような結論を出そうという、理想的な学問でもある。「この謎はナンセンスだ」と言われれば、儂は「確かに、君にとってはナンセンスだろう。君は神話学の方法論を置き去りにしてしまっているし、努力もほとんどしていないようだから」と答えるだろう。
こんなことを書いたが、実は儂はこういった素直で一生懸命な方々が好きであり、ぜひその姿勢を貫いてほしいとさえ思っている。むしろ、なんでもすぐにある程度のところまでは分かってしまう、器用貧乏な方はニガテであるといえる。なぜなら、アカデミアで求められるのは高度な専門性であり、許されるのは器用万能のみだから。その点、トレーナーズスクールを出た後の器用貧乏を求めるような教育には些か問題があり、そのせいでロケット団やプラズマ団の主張に誘惑される若者が出てきて、まんまと復活宣言などされてしまうんですぞ、フレア団の云々が蔓延るんですぞ、と言いたいが、政治の話に足を踏み入れてしまいかねないため、やめておこう。
大学に入学してから、儂はシンオウ神話とケーシィに出会った。今から考えれば、奇跡のようなことだと思う。儂にバトルの才能が大してなかったから、たまたまボールも持ち合わせていなかったから、逆にケーシィと仲良くなれたのである。しばらく過ごすうちに、いつの間にか儂のポケモンだと思われており、ゲットの流れになった。テレポートの練習もこの時に始め、煩雑な手続きをして許可証まで取ったのに、飛ぶ教室を間違えた。その時に初めて出会ったのが「トバリのしんわ」である。そして、シンオウ神話にのめり込んでいった。余談だが、結果として儂は選択科目の単位をいくつか落とした。
さて、はじめて「トバリのしんわ」を聞いた時、実のところ儂は何も分からなかった。何も分からなかったから、何もかも分からなくなったから、神話を学びたかった。神話がどのようなものであるのか、当時の儂はほとんど知らなかった。だが、そこは何かおどろおどろしく不健康な世界、しかし『ポケモンがなぜ言うことを聞くのか』という問いに答えてくれそうな唯一の場所であるというような予感があった。実際ケーシィにテレポートを使ってもらえていたこと、なのに寝る前の四方山話に大した反応を示さないことなども拍車をかけていた。
最初の頃、文学部に入ったら心理学をやろう、と何となく決めていたのだ。『こんなに強いポケモンが弱っちい人間の言うことを聞く』という謎を解き明かせる可能性が最も高く見えたからだった。もちろん、心理学も崇高な学問である。しかし、トバリのしんわを聞いた後に、講義に出席しようとはどうしても思えず、しばらく落ち込んでいた。結局、こうして儂はタマムシ大学文学部の、文化史携帯獣文学科(携文、と呼ばれていた)を選んだ。
そして、儂は携文でまたもや落ち込むことになる。儂の場合、積極的に文化史携帯獣文学を学ぶというより、シンオウ神話に深く触れたいという動機の方が強いのだから、浅く広い授業にたちまち疲れてしまった。当時はシンオウ神話が専門の教授も在籍しておらず、こんなはずではなかったと思った。文学よりも、考古学や哲学、文化人類学の知識が必要だった。今思えば儂は神話のひとかけらも分かっていなかった。
丁度ここまで考えたところで、額に硬質の刺激が感じられた。目を開ければ、卵型に引き伸ばされた儂の顔が逆さに映っている。ユンゲラーに叩かれたのだと気づくまでに、数秒かかった。まだまだ考えも序盤で適当なものだったのだが、もうジムトレーナーの準備が整った、ということを意味していた。目線を外せば、相談の際に心を読みたいと言ってきたサイキッカーの青年が見える。心なしかやつれており、息も絶え絶えといった様子で、少し心配になった。儂の思考がそこまで変なものだったのだろうか。……もしかすると儂は天才なのか?
冗談はさておきヤマブキジムトレーナー諸氏との相談の結果だが、これはユンゲラーを進化させることに決まった。ここ最近物騒だからサイコパワーの出力を上げるに越したことはない、とのことだ。ケーシィは嫌というほど見たのにこの姿はもう見納めかと思い寂しくなったが、ユンゲラー自身はなかなか乗り気な様子。ポケモンセンターに戻る時に、「儂に協力できることがあれば、ぜひ言ってください」と伝えたら、皆さんに「今度は読心術以外になりそうです」と苦笑しながら言われた。明後日進化する予定だと教えられ、そわそわしながら歩く道路を歩くユンゲラーの姿を眺めながら、こいつもよく儂についてきたもんだなあ、とぼんやり思う。山吹色の夕日がスプーンに反射し、眩しく光っていた。
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