シュロの神話学的旅日記   作:加藤ブドウ糖液糖

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20.『トバリのしんわ』/ヤマブキにて

〇月×日

 

 シルフカンパニーを訪れ、護身用のボールを買った。タマムシ大学に在籍していた当時の社長の失敗作から着想を得たものらしく、捕獲こそ不可能だが、どんな野生のポケモンでも5秒以上はボールの中に閉じ込めることが可能という優れモノである。現在は受注生産だが、私も若いころは大変に重宝したし、今も時々使っている。シンオウに行くので、かなり買い込んだ。無論、キッサキ神殿に行くためである。ずいぶん昔に契約書を書いたので、自由に出入りすることができる。死んでも自己責任なのが玉に瑕だが、こんな情勢なので命もあまり惜しくない。

 

 なぜポケモンが人間の言うことを聞くのかについては、様々な基礎付けが試みられてきた。その形態はモンスターボールの工学的システムや、革命的論文であった"預かりボックス内プロセッシングユニットとしての携帯獣論理"を経て、ヴィジュアルデザイン学におけるジムバッジ論に至るまで実に多様であるが、そのどれも人間を特権的・絶対的・統一的な存在と見なさないという共通項を有しており、実際には明らかな非対称性があるにもかかわらず――故にプラズマ団は可能だったのだが――あくまでも人間とポケモンは対等であるという姿勢を崩していない。そして、シンオウ神話も、どうやら同意見のようである。

 『ひとと けっこんした ポケモンがいた /ポケモンと けっこんした ひとがいた /むかしは ひとも ポケモンも /おなじだったから ふつうのことだった』(シンオウ昔話 その3)という文章がある。初めに言えるのは、これが書かれた時点で既に人とポケモンは同じではなかったということである。ポケモンと結婚した人間がいたというのはそれはそれで興味深い記述であるとはいえ、今回はヒトもポケモンも同じだったという点に注目することにしよう。人間とポケモンは同じだった、という主張の意味するところとはなんであろうか、と問うてみると、そこには古代のポケモンに対する態度の変化が見えてくる。

 トバリの神話は、簡単に言えば「人が剣を持ってポケモンを殺し、加えてその死を軽んじた。いつしかポケモンは人間の前に姿を現さなくなり、人間はそれに反省し剣を捨てポケモンと和解した」ということになる。ここでも裏を読む必要がある。トバリの神話が書かれる以前、人間はポケモンと戦っていた、対等に対立していたわけである。さて、ポケモンと対立するというのは凄まじいことのように思える。加えて、それを可能にした剣とは何なのか。文字通りに剣と解すべきか――だとするならば、製鉄、火山、ヒードラン信仰の理由にも説明がつく。なぜならばポケモンに対抗する力を与える存在であるから――それともヒスイ伝承の言うように、ポケモンに対抗する何か別様の力を考えるべきか。同様に失われた力であるとの関連性をどのように考えればよいのか。未だ謎は尽きない。

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