書き手:K.ラフィングドッグ
この度、シュロ・トクジ氏の論文集がようやく刊行された。遅いくらいだと思う。このところ連載しているエッセイのお陰で彼をエッセイストと認識している方は多いかもしれないが、本書はあの飄々としながらも親しみやすいエッセイとは毛色が全く異なっている。難しいのだ。そのまま挑めば火傷するであろう本書は、しかし、圧倒的に面白い。各論文の頭に本人による目的と論証のあらまし、当時の振り返りが付されているのも親切だ。
「私は天才ではなく、本書の論文は乗り越えられるべきものだ」。そうシュロ氏は言う。確かに今見れば間違いが証明されたものも多い。にもかかわらず、この論文集からいまだ汲み尽くせないほどの可能性を感じるのはなぜだろうか?
奇才の知られざる思考の痕を、皆様もぜひ辿っていただきたい。
『アルケーの亀裂―人間中心主義について』
歴史を尊重すること。本論文において語られるそれは、即ち、心による――闘争による――人間とポケモンの相互理解を表す。たとえば、現在我々が歴史について語る場合、ポケモンと人間が共に歩み始めた後の社会の変動を思い浮かべる。我々がバトルについて語る場合、リーグトレーナーの華々しい活躍や現代的に洗練された緻密な読み合いや駆け引きを考える。しかし、もし古代の人間が歴史について語るなら、人間とポケモンによって構成されている社会の変動についてではなく、おそらくは人間による人間のための社会と、その外部のポケモンとの衝突について思い浮かべるだろう。人間とポケモンのあらゆる声を――希望に満ちた声、白熱する対決の声などだけでなく、血生臭い争いの声、憂わしげな声、誤解と蹂躙の声――が聞こえていた社会を。バトルについても同様である。今もワイルドエリアなど耳を澄ませば微かに聞こえてくる声。この論文で著者が繰り返し剔抉を試みる歴史とは、静態論的な既に作られた社会の歴史ではない。社会がまさに作られている最中の生成論的な歴史、ポケモンとの共生以前について、傷つけ合いながらも、いかにして人間とポケモンは共生関係を築いたかについてである。
『普遍=コーポレーション』
なぜモンスターボールは大企業が製造権を独占しているのか?その理由はもちろん特許であるが、大企業の独占というイメージは陰謀論や不平等にも結びつく。この論文において著者は特許以外の観点、すなわち倫理という視点からモンスターボールの問題について考察/擁護している。著者の主張は、もし特許が存在せずとも、いずれ大企業がモンスターボール生産を引き受けることになっただろう、というものであった。なぜなら、モンスターボールは普遍的であり、かつ生死に関わる物だから。そこには品質の差が存在してはならない。もしモンスターボール開発が分散的になれば、実力的に差は無かったはずなのに、なぜ彼は恵まれ、私は恵まれないのか――モンスターボールの品質の差だ、という論理が生まれる。モンスターボールは今やあらゆる人間にとって必須といっても過言ではない。それゆえ、責めを受けやすい道具でもあるだろう。人間とポケモンの生命に責任を負う企業は、必然的にその責任を果たすための大きさが、機械制大工業が求められるのではないだろうか? それこそが、普遍=コーポレーションの意味であろう。ガンテツ氏は自分が認めたものにしかボールを作らない。その理由もまた、責任という観点から捉えられるかもしれないと著者は言う。古代から現代にいたるまでのモンスターボールの歴史を辿る、刺激的な論文である。
『不可視の雲――レックウザ試論』
レックウザとは何なのか?レックウザとは何だったのか?レックウザとは、果たして何でありえたのだろうか? 記号論にも通じる若き日のシュロ氏が成し遂げた古文書の解読と、そこから展開される異端思想の敷衍は、この論文集の中でも最も独創的な達成と呼んで差し支えなかろう。ホウエンの神話においてグラードンは燃え盛り揺らぐ陸の象徴であって、カイオーガは荒れ狂う海の象徴であった。二匹は地殻変動により激変する地球環境の中で、それぞれ陸と海の争いを担い、人々に畏怖を覚えさせた。そして、長い間続く争いを調停するのがレックウザである。しかし、レックウザとは何なのか?海が荒れ、大地が裂ける。陸と海との争いの永続性は、既に多くの人々の知るところとなった。この論によれば、レックウザとはそこに秩序を齎すものである。争いは疲労と交渉によって終わりを告げるが、自然は疲労を知らず、神もまた疲労を知らない。この異端の主張は、こうである。"グラードンとカイオーガは、人格神ではない"。自然の化身であるならば、自然に説得が通じないように、あの二匹にも説得は通じないだろう、と。言い換えればポケモン性の否定である。古代のポケモンの定義は、もちろん今とは違う。ある地方でイシツブテはポケモンではなく、かと思えば風のざわめきがポケモンとして扱われていた地域がある。異端の記録は核心に進む。レックウザはポケモンであるか?その結論は否であった。その理屈はこうである。空からの視座は地球で何が起ころうとも宇宙は不変であることを人々に悟らせる。争いを調停する、という解釈を拒むのだ。事実が変化するのではない。解釈が変化し、争いは最早認識されない、ということである。ホエルオーとミズゴロウを比べるかのごとく、人々は地球に起きていることもまた、宇宙に比べればちっぽけなことだ、と悟る。その意味でレックウザは、天空を超えて、宇宙と秩序を象徴する。
しかし、この異端の説はやはりホウエンの人々には受け入れられなかった。明日の糧に苦しむ人間がいる中では、言葉よりもパンを求めるべきであろう。こうして異端の説は消滅し、暗号化されていた古文書にのみ痕跡を残すこととなった。もしホウエンの人々がこの異端の説に耳を傾けていれば、そのスケールがシンオウ神話に並ぶ可能性もまた開けていたであろう。しかし、そうはならなかった。
『割れた鏡、青白い仮面の神』
この論文を読んだ人間は、皆が口を揃えてシュロ・トクジ氏の最高傑作だと言う。シンオウ神話の全貌を切り取る本書は、その静謐で思慮深い筆致と重厚な内容からそれ自体が一つの神話のようにも思える。本書において、シュロ氏は一貫して考古学者であるよりも思想家であり哲学者であった。私の仕事は書評だが、これに関しては門外漢が軽々とモノを言うことが許されないような一種の迫力がある。序盤に少し触れて終わることにしたい。
神話とは何かと問うためには、我々が何を語っているかを反省せねばならない。著者はこの論文によって物語の三つの階層を提示する。世界成立、社会成立、社会制度内成立である。世界成立とは、文字通り世界の成り立ちを語る物語である。著者によれば、我々は基本的にこの物語を神話と呼んでいる。一方社会成立であるが、これは今の社会がどのように成立したかを語る物語である。これは伝説という位置を与えられる。そして社会制度内成立は、既存の社会制度の中でどのような出来事が起こったかの物語である。著者はこれに民話の名を与え、かつこれを社会制度超越とも呼ぶ。
続いて、著者は神話の分析に入る。ホウエン神話が自然をポケモンに模したのに対し、シンオウ神話は概念をポケモンに模す。プレートに関しても触れられる。プレートに刻まれた文章について著者は興味深いことを記している。それは即ち多元宇宙論であるが、これは鼎談にも収められているので興味がある方はそちらを参照されたい。
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