シュロの神話学的旅日記   作:加藤ブドウ糖液糖

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大体25万字を予定しています。エタる前提でお読みください!(誠実)


シンオウ神話学講義#001(前編)

 まずは自己紹介から始めます。私の名前はシュロ・トクジと言います。もともと考古学をやっていたのですが、大体四半世紀ほど前に上梓した論文がちょっと話題になりまして、色々個人的な問題等が重なって考古学の新しい部門というか、考古学と哲学の間くらいにある神話学、これはmythologyなんですけど、まあ意味論的考古学とでも呼べるような部門を創ることになりました。その時は、おれが学会に新風を巻き起こしてやるぜ、と自信満々だったのですが、まあ年をとるにつれ自分の未熟さが分かってくるんですね。でまあ、今はあちらこちらの学会に顔を出して、たまに口も出す。数理社会学も少しやってまして、多分私の思考にはそこも影響しています。論文は昔書いたものは考古学系で、発掘調査とかもしているんだけど、最近はずっと抽象的なものばかり書いています。だからまともな考古学を教えようとすると時代遅れになる部分もあるので、シラバスではシンオウ神話学講義ということになっています。

 

 初めに言い訳をしておきますと、普通の意味での考古学とか世界史とかの講義は、私にはできないわけです。やろうと思えばやれないこともないんだけど、もっといい先生がたくさんいるんですね。エンジュ大学の教授陣ともなると、同僚の私が言うのも変ですけど、学生の皆さんから見れば錚々たるメンツが集まっているので。だから一昔前の考古学なら話せるし、古代シンオウ史とかヒスイ史も研究に必要な部分は知っているんだけれども、私がやる意味はないわけです。リーグトレーナーに物理学を教えてって言っても意味がない。馬鹿馬鹿しいですね、そんなことは。

 という訳で、考古学とか歴史の授業を期待してきてくれた方には申し訳ないんですが、年代の測定方法であるとか、他地方の文明との交差とか、歴代の村長が成し遂げたこと、調査によって得られるような知識等は、残念ながらここではお話しすることができません。例えばキキョウ大学のスミレダイ先生や、アサギ技術大学のシダノ先生の授業に潜った方がいいかもしれません。

 では私が何をやるのかというと、われわれは何を考える生き物なのかというのを一緒に振り返りたいと思っています。なんで神話を調べると我々が何を考えているかわかるの、という疑問は、神話というのは我々が世界に対して与える説明の一形態なんですね。なんで世界はこうなのか。社会はこうなのか。今では科学という方法を手に入れているんですけども、じつは神話だってそれが正しいと言える根拠を検証できれば今でも科学的な一仮説とみなすことができる。まあ当時は科学がなかったので、神話が権威を持っていたんですね。これがこの世界の法則ですよ、と。

 たとえば、神をけなすと天罰が当たる、みたいな話が神話にあったとします。みんなはそれを信じているから、神をけなすなんて恐れ多くてできない。古代人にとってのこの命題は、現代で言うと水素がパンパンの風船に火をつけると爆発してしんでしまう、みたいなものだった。そんなことする人は滅多にいないんですよ。死んじゃうと言われてるんだから、命がけでそんなことやりたくない。科学ならちっちゃい風船で実験できますが、神話での相手は神です。基準がわからない、だから検証っていうのが全体的に封じ込まれる。科学は基準を測れる。これは再現性があるっていうのが前提なんですが、神を相手にするとやっぱり人格神なので、再現性があるかないかなんてわからない。これは物語化の弊害でもあります。

 ほかにも理由があって、人には認知バイアスというのが存在するんですね。おんなじ物を見ても、事前に与えられた情報が違うと全く違う解釈をする。バイオリンを弾いて高級レストランに行く映像を二人に見せます。ほかにもいろんな事やりますが、とりあえずはこの二つで。それで、一人には「この人はバイオリン弾きです」と伝え、もう一人に「この人は美食家です」と伝える。すると、バイオリン弾きだと思ってみてた人はバイオリンを弾くシーンが強く印象に残って、レストランのシーンは「あったねそんなの」という反応だった。もう一人は当然反応が逆になります。ですから、現代人がタイムスリップして神様の悪口を言う。それでちょっとひどい目にあったら、現代人はタイミングが悪いなあと思うぐらいでも、古代の人はそら言わんこっちゃないと感じる。何も起こらないとしたら現代人はほれ天罰なんか当たらないと思うけど、古代の人は事前に与えられた情報の中でしか、神話の枠組みでしか解釈できない。でもこんなのは当たり前なんですね。

 情報がたくさんある世の中で、私たちはいちいち全ての情報を確かめるわけにはいかない。だからよく見れば、検証せずに情報を受け入れるというのは古代から現代まであんまり変わらないんだ、構造は大して変わっていないんだと、私はそう思っています。言ってしまえば、検証できるのにしないという点では我々のほうがだめかもしれない。なので、古代の人々はどのようにして世界に説明を与えてきたかというのを振り返るのは、自分を客観的に見つめなおして、こういう観念にとらわれていたなあと思うきっかけにもなりえる。

 あとは、やっぱり古代の人も理論を物凄く考えてます。だから神の存在を前提とする部分は科学的に見ると間違っているかもしれないんだけれども、考えて考えて、もうこれしかない、っていう結論は我々が考え出すものと同じか、時々それより優れている場合がある。我々がこの水準で考えるというのはなかなかありません。科学より劣っているということがしばしばいわれますが、私にしてみると前提が違っているにすぎない。実験できない分極限まで考える。意外とこれが面白いんですよ。

 

 今回はシンオウ神話学講義ですが、他の神話や伝説ではだめなのか。ご存じかは分かりませんが、私の専門はシンオウ神話です。他の神話や伝説というとホウエン神話とかイッシュ建国伝説とかがありますね。

 結論から言うと他の神話や伝説だけ取り上げても十分講義はできます。ではなぜシンオウなのか。これは私の専門だからという答え方もできますが、実際の理由としては、今回の自分を、ポケモンと人間を見つめなおすという点において最も根源的な部分に言及できるのがシンオウ神話だからです。他の地方の伝説としては、例えばここだとホウオウが三匹のポケモンを蘇らせたとか、ルギアが羽ばたくと嵐が起こるだとかそういったことですね。舞踊と音楽とか、深い伝統があって今もこんなにむき出しの形で生きているのはこことホウエンのあそこぐらいだと思います。この伝説も掘り下げていけば、まあ合計で14回ぐらいは軽くできてしまうんですが、今はやらないんですね。今はやらないというのはその内やりたいということですけど、まず最初にやっておきたいのがシンオウ神話だった。

 これはシンオウ神話が概念に言及する神話だからですね。ジョウトとホウエンに伝わっているのは自然現象に言及する話です。ホウオウはどうかと言われると難しいんですけど置いといてください。カロスには生と死と調和という少しばかり概念に近いものも存在しますが、実際に起こっていることを見ると現象側の話ではないかと私は思います。これはシステム論というか、本当に草木が枯れたり、逆に花が咲いたりというのを記述しているにすぎない。その意味ではホウエン側である。より近いのはイッシュ伝説でしょうか? あれは社会契約の話ですよね。概念は人間が作り出したもので、その意味では自然の方が基礎的なレベルにあると言うこともできます。しかし、より人間的な神話はどちらでしょう。人間というのはポケモンに比べてはるかに弱い存在です。そういうやつらにとって神話ってなんなんでしょう? 考えたことがありますか?

 シンオウ地方というところは真ん中に大きな山があって、山の頂上に遺跡がある。自然豊かなところで、面積はかなり広いんだけど高い割合で森林が広がっている。環境的な共通点はあまりない。そういう地方の神話を学ぶという状況は、へんだと感じると思います。

 それは間違っていなくて、我々はへんなことをやってるんです。シンオウ神話における問いかけもこの地方に存在しなかったわけではありません。自分はなんでここにいるのか。世界っていうのは何なのか。自分って何なのか。すぐ思いつく答えに禅というものがあります。マダツボミの塔はそういう問いかけに応えるために建立されました。べつにシンオウ神話だけが特権的だというつもりはありません。様々な答え方があって、それは誰にでも考えられるものなんです。ただ、固有の考え方ではあると思います。シンオウは自然豊かな場所で、言うなればポケモンの大地です。そこで人間はどういう位置を占めているのか。人間本位の考え方ではない。正確に言えばなかったということで、時間がたつにつれ社会が強くなって、人間的な考え方が入ってきたりする。自然信仰と理性信仰が争っているような部分もあります。でも、つまり、我々は人間でめんどくさい社会を作っていてその中にポケモンがいるけど、神話は基本的にその逆をいっている。だから面白いんですね。そして私の専門がこれで、泥縄ではあるけどもこういう広範な授業をやる。

 自分が今ここにいて、どう生きているのか。単位のためにここにいるっていう答えもありますが、それは単位が取れちゃったら終わりですよね。単位をとるためにここにいて、進級するためにここにいて、卒業するためにここにいて、就職するため、高い収入を得るため、とやっていくと結局答えられない部分が出てくる。じゃあ、どういう考え方をすればいいのか。その目印の一つがシンオウ神話です。

 

 シンオウ神話にはどういうものがあるのか。一節引いてみましょう。

 "宇宙生まれる前/その者一人呼吸する"。

カッコいい。プレートから読み解くシンオウ神話の始まりにある記述ですが、宇宙生まれる前というのは人間には理解しがたい。だからこそ力を持つ描写です。けれどね、そんなの人間には認識しようがないですよ。この話は実際に書き手がみたことでしょうか? 違うよね。これは作り話なんです。明確に作り話で、事実ではない。もう少し慎重に言うと、たまたまこれが事実である場合もあるかもしれません。でも、これが事実だと認識しうる次元に、我々は立つことができない。つまり知的に誠実な書き方ではないわけです。宇宙の始まりを見たわけではないんだから。

 重要なのは、なぜこんなことを書かなければいけなかったのか、という点です。さっき誠実ではないと言いましたけど、考えてみれば我々にもわからないことはあります。数学における二十四の重要未解決問題であるとか。例えばそれを解こうとして、解決の糸口を見つけた、と思った人がいる。それは例え解決の糸口ではなかったとしても、誠実に考えていたわけですよね。これがどこで誠実でなくなるかというと、「これが解決の糸口です」と断言したとき。「これが解決の糸口になると自分は考えているけど、実際にどうかは分からないよ」、というのが誠実さです。だから言っておきますが、この講義も私がこう思っているというだけで、色々調べてはいますが結構その場の思い付きで話してもいるので、ところどころ間違っている可能性もあります。そこを指摘できる人は成績が上がりますね。

 でまあ話を戻しますけど、神話というのはずっと誠実でいられるわけではない。分からないことに対する説明として用意されているから、当然どうやったってわからないことに対しても無理やり答えなければいけない。「それっぽいけどなんか違うんじゃない?」という段階で推論を諦めなければいけないこともあります。社会的役割と理性的な欲望のせめぎ合いとしての神話があるんですね。シンオウ神話は言ってしまえばアマルガム、合金です。三種類の源流があって、それが土着の自然信仰、宇宙信仰、超越論的観念論ですね。自然信仰の皮を被った宇宙論と超越論的観念論がある。自然信仰は社会的役割の方が強いのですが、後者二つは社会的役割を突き抜けてそれ自体が勝手に駆動しやすい。「社会のために世界を説明する」のではなく、「世界を解き明かすために世界を説明する」という目的が優位なんですね。一般的には、勉強が楽しいから勉強する、というのがいい。べつに前者が悪いという訳ではありません。ただ、私は後者に強い魅力を感じる。ここの三つの源流と二つの区分はややこしいんですが、後半になれば慣れてくると思うので我慢してください。

 で、誠実という話に戻るついでに勉強の話をすると、皆さんは大学に入るまで長いこと勉強してきて、ハイ問題です、と出されてそれを解くということをずっと続けているんだけど、すると勉強っていうのは答えを出すことだっていう認識になってくる。これは怖いことです。答えを出さなきゃいけないとなると、我々はどこかで立ち止まる。立ち止まらなくていいところで。だから、神話を他山の石としてください。うまく立ち止まるためにも、まだ立ち止まらなくていいと安心するためにも、同じ性質を持つ文献にあたることは重要です。自覚的に行為することを知ってくれればうれしい。これは難しくて、私なんかはこの年になっても未だにできない(笑う)。ですから覚えて帰るだけでいいです。それで時々思い出してください。

 

 じゃあさっき引いた一節にもどります。 "宇宙生まれる前/その者一人呼吸する"。……(中編に続く)

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