〇月△日
この前は思いの外センチメンタルな文章になってしまったなあと思いながら、研究室に戻った。月の出る夜はどうしてもああいう、おしゃれっぽいことを書きたくなってしまう。あとは桜が咲いているとき。年を取ったなあ、と自分でも思うが、仕方がないことだ。どうしても涙腺は緩くなるのだから。
今日はじとじとと雨が降り続いている。講義を終え、研究室の椅子の背もたれを後ろに傾けた。最も楽な姿勢になる。研究者とは思えない姿勢だが、このように座ると丁度外の景色が見えるようになっているのだ。二つの塔が奥の方で風流にたたずんでいて、思わずため息をつく。美しい景色。エンジュ大学に着任してよかったことの一つだ。時々、焼けた塔が水を吸い込んでしなしなになるのではないかと心配になるが、実際にはそんなことは起こらない。明日も、これから先もそんなことはないだろう。
しかし、思い返せば私はその理由を何も知らない。昨日も大丈夫だったから今日も大丈夫だろう、と、ただ習慣的にそう思い込んでいるだけの話だ。明日何が起こるのかは誰にも分からない。焼けた塔が轟音を立てて崩れ落ちても本当は全くおかしくない。ジョウト全体が、それどころか全宇宙が一瞬にして虚無の内へ引きずり込まれても、全くおかしくはない。実際にそんなことは起こらないとは思うが。机にうず高く積み上げられた本の一冊を手に取り、じっくりと読むことにした。
壁が空いていればそこに本棚を置いてしまうのだが、それもすぐに埋まる。やがて壁一面が埋まる。学者は本を読まなくなったら終わりなのだ。こうして行き場の無くなった本は机に積まれることとなるが、机に置くならばよく読む本の方がよい。そういうわけで今は積まれた本を読み、積みなおし、また読むということを繰り返している。たまに本の塔を崩してしまい、その度に焼けた塔のことを思って、私は驚いている。宇宙に法則や秩序があるということも驚きだし、何よりこの宇宙があるということが、そして神話の記述と合致しそうな部分があるということは、とても驚くべきことだ。
このエッセイで記憶、感情、意思と表現されるものは、一般の人が共通に抱いているそれぞれの言葉へのイメージとは違うかもしれない。古代の人々と我々との間で、言葉の意味が変化している可能性があるからだ。それなら、そもそも精神とは何かという話から始めるべきだろう。精神。普段生きる中で、我々は何を感じているだろうか。
記憶というものがある。過去という概念を持つことができるのは、私たちが記憶を持っているからだ。いや、過去という概念を持っているから、記憶の存在が可能になる可能性もある。しかし、記憶と過去は分けることができない概念なのだということは、信頼してもよい。全身を駆け巡る感覚は、そのままでは記憶となることはできない。全身を駆け巡る感覚は「いまこのとき」においてのみ存在し、そして精神にもし「いまこのとき」しかないならば、それはもはや我々の知る「いまこのとき」という概念ではないのだ。我々にとっては、過去があるから今がある。私にはどうもそのように思われる。
さて、感覚が記憶となるために必要なものは何だろう。それは、同じことを言っているのだが、何を記憶するかと、記憶を可能にするための仕組みである。そしてその仕組みとは、私には空間と時間の二種であるように思われる。ディアルガとパルキアとの繋がりがここにある。
しばらく考えていると、机の隅でピコンと電子音が鳴った。研究室での思索は自由度が高いが、来客等に対応するために音に敏感になる節があって、そこは少し不便だ。スマートフォンに連絡が来ている。受信ボックスを見ると、予備審査会の日取りが決まった、土産はまだか、トレーナーズスクールへの出張講義が云々等のメッセージが溜まっていた。かなりの量で、古いものだと一時間前に届いている。音に敏感になるなどと書いたが実はそんなことないのかもしれない。そんなこんなで一つ一つ内容を確認していく(ただ、土産はまだか、の内容だけは確認しなかった。なんなら着信拒否しようかと思った)。
作業をこなしているうち、ガラルから先の対談のゲラが届く。電子書籍でも出るらしく、立派なことである。紙面ではどうなっているか分からないが、スマホロトムの液晶ではハゲかかった頭頂部がうまいこと隠れており、思いの外私も若く見える。カメラマンがうまいのだろうか。なんだか知的な雰囲気だが、本当ならこんなことをする必要はないのになあ、とも思う。大企業のまとめ役がこのような思いを持っているというのはガラルの皆に、つまり一般の人にこそ知らせるべきことだ。なのに、こんなインテリ向けを気取るのはどうなのだろう。
しかし、古くからの高度な文脈が潜んでいるのも確かであるため、メインターゲットはやはりインテリなのかなあ、と思い直す。我慢ならなくなったら後で分かりやすい本でも書けばよい。シキミさんにでも教わりに行く。シッポウシティに行くのもよい。
対談の内容はあまり変わっていないが、読み終わったときの私の感想はだいぶ変化した。今日の初めの方にも書いたことだが、明日、それどころか次の瞬間に宇宙が消滅してもおかしくはないのに、なぜ千年後の話ができるんだろう。そして、なぜ私はまじめにそんな質問に答えられたのだろう。しかしまあ、そんなことを本気で信じていては生きていけないよなあ、というのも事実。別に訂正などはしない。いや、本気で信じていてもよいのだが、そうであるならばなおさら、その思いは内に秘めておくべきだ。
世界が終わる根拠は全くないが、終わらない根拠ならば、頼りないものだが一つだけある。全知全能のアルセウス、その恩寵を思うのだ。ポケモンとの絆を思うのだ。そうだ、寝る前にはじまりの神話でも読み返すことにしよう。なんだか希望が湧いてきた。今夜はロトムに頼んで、「神話は世界を善くしているかもしれない」と呟いてもらうことにする。その内、アルケーの谷にも行ってみよう。
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