身も心も荷物も無事。
けれども、ここがどこだか、何がどうなっているのか、わからないまま。
引き続き「強くてニューゲーム状態」で、新たな物語は始まります。
まずフィオレが覚えたのは違和感だった。
「……?」
普通に息ができる。
体自体は気だるく重くとも、何かに圧し掛かられている感じはない。
痛みこそあるものの、ここまではっきりした感覚があることこそ、違和感だった。
ゆっくりと眼を開けば、失っていたはずの視界は見慣れぬ風景を映している。
大災害に見舞われた街だろうか。
周囲一帯に広がるのは、廃墟じみた建物が連なる集落だった。
どんな災害に見舞われたのやら、目に付く建物のほとんどが薄汚れ、朽ちかけている。
湿った地面に刻まれている足跡や、遠くにいくつか天幕があることから、まったくの無人ではなさそうだ。
自分がそんな街の片隅、まるで身柄を隠されているかのように廃墟の隙間にいることを知って、フィオレはゆっくりと身を起こした。
「……」
死んだと思ったのが生きていて、しかも見慣れない場所にいる。
まさかこんな経験を二度もするとは思っていなかったが、自力で動けるのは初めてだ。
何から何まで状況は以前と酷似していたが、今回は「フィリア」に助けてもらえないだろう。
けして軽い負傷とは言えないが、それでもフィオレは動けるのだ。
見下ろせば、最後の記憶と同じ姿がある。手鏡を取り出して確認するも、汚れやら血糊やら、負傷まで記憶の通りだ。
「……うえっ」
あの後海水に浸かったのだろうか、被服が生乾きだった。血糊や体臭も関係しているだろうが、かなり臭う。
すぐ傍に転がっていた荷袋から、香水瓶を取り出した。
自分の鼻すら曲がりそうな悪臭を誤魔化し中身を確認するが、なくなっているものも増えているものもない。ないものといえば、スタンに託した紫電くらいか。寝ている間に追剥にあったわけではなさそうだ。
それがわかったところで、ここにいても仕方ない。まずは清潔な水場を求めて、フィオレは移動を始めた。
廃墟ばかりの建物が並んでいようと、人の営みがあるなら井戸のような、真水の給水所があるはずだ。
たとえ有料であっても、懐とて記憶が途切れる以前のままだ。
ダリルシェイドにあった噴水など、理想的なのだがと往来を歩く。
すると、行く手に対して妙に見覚えのある噴水があった。
廃墟じみた街並み同様、稼動もしていなければ妙に古臭い。そのため新鮮な清水こそ望めないが、地面の湿り具合からして一雨降ったのだろう。噴水のくぼみには透明な雨水がたゆたっている。
さっそく手拭いを取り出し、水を浸して顔を拭く。人目がないことをいいことに眼帯を外し、首元を緩めてかなり無防備な状態で可能な限り体を清めた。
実にさっぱりした気分になったところで、左手の甲にあるレンズを水に浸す。
「命よ、健やかであれ。安らかな癒しを、あるべき姿を」
♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──
低く奏でられた旋律は譜陣を展開し、淡い輝きがフィオレを包み込んだ。
ところが。
「……駄目か」
打ち身や擦り傷、そして放置すればフィオレの生存を再び危うくさせていたであろう左胸の穴こそ消えたものの、腕の傷だけが塞がらない。
怪我が多すぎて塞ぎきれないというのもあるが、今はこれ以上この肉体に治癒の力を働かせることができない、ということか。
絶え間ない鈍痛に眉をしかめ、ボレロとパレオを外して巻きつけ、可能な限り血止めをする。
治せない以上、これ以上の失血は食い止めたい。
天を仰げば、やはり空に浮かんでいるのは太陽や雲だけだ。その太陽は今や、一直線に傾いている最中だった。
だが、このままでいいはずがない。
とにかく何があったのか、ここはどこなのか。それを知るべく、フィオレはシルフィスティアに問いかけた。
が。
「!?」
屋外である限り、風は大気と共に常に存在している。
それだけに、語りかければすぐ反応を示したシルフィスティアからは、何の応答もなかった。
ただ、一陣の風が通り抜けていくばかりである。
その場に固まったまま、無意識に原因を究明しようとして……思いついた説がひとつ。
フィオレが死亡も同然の状態になったため、これまで結んできた守護者たちとの契約が自動的に破棄された。
だからもう、シルフィスティアとは愚か、他の守護者たちとも力を借りるどころか意志疎通もできない。
だが、死亡をもって契約が破棄されるならフィオレはあのまま、海の藻屑と化しているはずだ。
運よく海岸に打ち上げられていたならまだしも、潮騒も潮の香りもない陸地にいきなり移動しているはずがない。
無理やり理由をつけるなら、守護者以外の何者かが介入した、といったところか。
だが、そんな存在がはたして存在するものか。存在したところで、フィオレを助ける理由など……
持ちうる情報が圧倒的に不足している。
ただここで頭を抱えて唸っていても意味がないと気づいたフィオレが、大きく息を吐いたとき。
「!かっこ
背筋に奇妙なものが走った。
襟元を緩めて首筋をさらしているから、ではない。
吹きつける生温かい風のようなこの嫌な感覚の正体──実にはっきりした敵意、殺意だ。
それまで噴水のへりに腰かけていた体を立たせて、咄嗟に腰へ伸びる手を矯正して懐へ添える。そこに懐刀があるのは確認済みだ。
今の今まで、変わらず周囲に人気はない。
さりげなく眼帯を巻きつけて警戒を続けたフィオレは、見回したこの街並みが妙にダリルシェイドに似ている事に気付いた。
偶然か、それとも……
変わらぬ廃墟の連なる景色が一部、妙に歪んでいる。
眼の錯覚とも思えたこの現象は、徐々に肥大化した。
ひずみの先に発生したのは、闇色の放電をまとう漆黒の球体である。
球体はやがて薄れ、代わりに現れたのは一人の大男だった。
風になびく寒色の蓬髪、筋骨隆々とした大柄な体躯。戦士の手本であるかのような、精悍な印象。
その手には、どう見ても樹を切り倒す用途ではない物々しい斧が握られている。
彫りの深い顔立ちには一切の緩みなく、その瞳は間違いようもなくフィオレを映していた。否……睨んでいる、と称するが正しい目つきである。
剋目してその出現を見つめていたフィオレは、男の誰何を口にした。
「何奴……」
「──神の眼の騒乱期、隻眼の歌姫と謳われし
「いいえ違います」
まるで岩同士をこするような、実に重厚な声の問いに。フィオレは断固として否定した。
確かに隻眼の歌姫と呼ばれたことはあった。
公式文書には何度も、名乗ったものとはちょっぴり異なる単語を署名した。こちらは故意でなく、純粋に間違えただけだが。
だが、英雄と名のつく二つ名など存在しなかったはずだ。
自分に関する噂に頓着しなかったフィオレだが、それだけは断言できる。
「それで、あなたはどこのどちら様ですか」
「我が名はバルバトス・ゲーティア。英雄を狩る者だ」
「……そうですか」
英雄を狩る者ってなんぞ。
巨漢が自ら名乗った二つ名にあえて触れず、そのまま核心を促した。
突っ込みを入れたところで、取り合ってもらえないような気がする。
「私に一体、何の用事で?」
「唯一ソーディアンを持たず、神の眼を砕いたでもない者が英雄か……笑わせる」
「え」
神の眼が、砕かれた?
だから、守護者達との契約は無効と化し、接触できなくなった──
いやそもそも。もうフィオレが、生を受けた世界へ帰還することは……
不可能と、なったのか?
「偉業を成したでもなく英雄と呼ばれし貴様に、呼吸する資格などないわっ!」
困惑と動揺にただ立ち尽くすフィオレへ、巨漢──バルバトスが戦斧を振りかぶり、迫る。
その迫力と殺意を前に正気を取り戻したフィオレは、懐の短刀を手に取った。
当たれば真っ二つは避けられないだろう、大上段の一撃を見極め脇へと流す。
必殺の一撃をかわされたことにか、バルバトスは驚愕の表情を浮かべた。
間髪入れず側面に回り込み、膝裏を踏むようにして蹴る。
「てやっ」
「ぬう!?」
バシャーンッ!
盛大な水音を立てて噴水へ飛び込む巨漢に背を向け、フィオレは一目散に逃走を試みた。
早々にしばき倒せる相手ではないことだけは明らかだ。それに、ここが一応街中であることを忘れてはいけない。
角を曲がり、走る最中に短刀を仕舞う。
まずはこの街から出ようと、大通りを目指した。この辺りが街の中心部なのか、わずかだが人の姿が見受けられたからだ。
人の目さえあれば、あの男も無茶できまいと思ったのだが。
「むわてぇぇい!」
どうやら意味はないようだ。
ずぶぬれ、怒髪天をついて疾走する巨漢に、道行く人々は当然注目している。
こうなれば、仕方ない。
「きゃあぁぁッ──!」
高音の悲鳴を上げつつ、走るのはやめない。
人目があるからこそ効果のある技だが、悲鳴用の腹式呼吸も全力疾走も、今のフィオレには正直つらい。
人々の注目を様々な意味で集めつつ、ダリルシェイドであれば高級住宅街の区画であった場所を目指す。
途中、少しでも目立たぬようにと荷袋からキャスケットを取り出して深くかぶるも、格好が格好なせいかまるで効果がない。
幸い足の速さは勝っているようだが、あの体格だ。持久力は半端なく高いだろう。
少量とはいえ常の失血があるせいなのか、体力がどんどん減っていく。このままでは、確実に追いつかれる。
万事休す、と苦し紛れに周囲を見やった際、とある建物が眼に入った。
あれは──
「女性を追い回す、巨大な斧を持った変質者が現れたとの通報だ。行くぞ!」
切れた息を整えていると、その建物から同じような制服を身にまとう人々が現れる。
こちらに向かってくるのを見て、フィオレは咄嗟に姿を隠した。
「隊長! 前方に斧を所持した怪しい人物がおります!」
「まて、まずは話を聞こうではないか」
警邏隊か何かなのか。あっという間に武装した制服姿に囲まれ、バルバトスの姿が見えなくなる。
それをいいことに、フィオレは彼らが出てきた建物への侵入を果たした。
アタモニ神団の象徴が掲げられた建物は教会のような内装だったが、どうも彼ら警邏隊の詰め所か何かとして使われているらしい。
外観からして破損していなかった建物内に人の気配はなく、フィオレはそのまま歩みを続けた。
内装や備品は大幅に変わっているが、間違いない。
ここは、ダリルシェイド高級住宅地区に存在したジルクリスト邸だ。
つまり先ほどまでフィオレが走っていたのは、ダリルシェイドということになる。
セインガルド王都として栄華を極めていたダリルシェイドがいつの間にか荒廃していたこと。そして、神の眼が砕かれたというあの男の言葉。
これらがフィオレの中で整合されたのは、直後のことだった。
ともあれ、考えるのは生きてさえいればいつでもできる。まずは、あのわけのわからない追手を完全に振り切ることだ。
再び外に出れば、捕捉される危険性が高い。が、現在地がジルクリスト邸なら話は別だ。
偶然知った地下室の隠し扉。そこに繋がる地下水道の整備用通路を使えば、人知れずダリルシェイドから脱出できる。
そう目論んで地下室へと降りたフィオレだったが──そこでとある書物を一心不乱に読んでいた。
資料室として使っていたのか、地下室には大量の書物が保管されているのを見つけたのである。
興味本位で眼をやったのだが、そこに記載されていた史実の羅列を眼にして、次から次へと書物を眼にすることになっていた。
やがて、大体の資料に目を通し。知った史実を前にして、フィオレはただ息をつくしかできなかった。
「……こんなことって」
神の眼がグレバムの手に渡り、ソーディアンマスター達の手によって奪還されたこと。
しかしその直後、ヒューゴ・ジルクリストとその配下リオン・マグナスの手によって再び奪われたこと。
その結果と、最終的にどうなったのかを。
その詳細こそ、記述者の独断と偏見に溢れているため参考に値しないが。
本の内容から逆算して二十年近くの時が経過していることを知り、フィオレは呆然となった。
このダリルシェイドが荒廃した理由もわかったが、わかったからといってできることなど一切ない。
今は精々、自分が置かれている状況を更に詳しく知ることくらいか。
気を取り直して立ち上がろうとして。
耳に届いた異音に、フィオレは思わず物陰に隠れた。