割と結構色んなものを失っているものの、命までも落とさせるわけにはいきません。
二人の救出劇や、如何に。
まるで白昼夢を見たような感覚、そしてその余韻に一同が沈黙していた矢先のこと。
「ハロルド。先程の皮袋の中身は……」
「あーっ、うっさいわねえ。入るわよ!」
プシュンと音を立てて、扉が開閉する。
一同の注目を浴びたのは、いつの間にか部屋を後にしていたハロルドと、ディムロスだった。
「ハロルド。いつの間に……」
「細かいことをねちねちうっさい。あんなもの見せられて、平気でいられるわけないじゃない」
ぶすっとしたハロルドの顔色は、かなり悪い。
皮袋の中身……正確にはブレスレットが気になっているだろうディムロスを無視して、ハロルドは一同に書類を渡した。
「まあ、とりあえず。はいこれ」
「何これ?」
「スパイラルケイブへの地図と、雪上走行車θちゃんの操縦マニュアル。事態は一刻を争うんだから、使ってもらうわよ。フィオレはこれ見て運転できたんだから、できなかったらあんたらフィオレ以下よ!」
わかってやっているのだろうが、その激励にあまり効果は無い。約一名を除くなら。
「ハロルド、スパイラルケイブに行くつもりか! アトワイトの捜索は……」
「この子達をあそこに派遣するの。地上軍が勝利するため、どうしても必要な要素を取ってこいと命じただけ! なんか文句ある?」
詭弁だと食い下がるディムロスと口論を繰り広げつつ、ハロルドはさっさと行けとばかりに手を振っている。
もはや是非もない。書類を引っ掴んだジューダスを筆頭に、一同は言葉もなく部屋を飛び出した。
「待ちたまえ!」
「皮袋の中身だけどね。ぐちゃぐちゃになった人間の手首が入っていたわ」
追いかけようとしたディムロスの動きが止まる。
経緯を──もちろんいくつかの真実を抜いて構成されたハロルドの話を聞き、切れ長の瞳はこれ以上ないくらい見開かれた。
「嘘だと思うなら中身を確かめて、司令に確認するといいわ。フィオレのことだけは、確かな事実だから」
「……」
「さて、それはそれとしてね。新兵器のテストをしたいから、ちょっと付き合ってもらうわよ」
こと新兵器に……ソーディアンに関することで、中将といえども彼に拒否権はない。
生気のない蒼ざめた顔をしながらも、ハロルドはにんまりと笑ってみせた。
地上軍拠点よりスパイラルケイブへは徒歩で五日、強行軍で通常三日ほどの距離だ。
しかし一同はその距離を、ハロルド製雪上走行車両θによって半日ほどで到達している。
「ジューダス。ハロルドはあんなことを言ってたけど……」
「……僕は絶対あんな奴以下じゃない」
倉庫を目指して歩く最中も操縦マニュアルを読みこみ、ぶつくさ呟いていたジューダスが何の迷いもなく運転席へと乗り込む。
一同もまた、後部座席へ乗り込んだその時のこと。
「おい」
声と共に何かが運転席から投げ込まれた。
柄が緩やかな弧を描く一風変わった箒に、使い古された、しかし丁寧な修繕の痕がある耐水布製の荷袋──
「これってフィオレの……持ってきたのかい?」
「あいつに楽をさせるつもりはない。むざむざ捕まるような馬鹿でもな」
残されていた映像を見る限りどうしようもなかったように見えるが、ジューダスはそんな毒を吐いた。彼とてそれがわかっていなかったわけではない。
それが本音でないことを示すように、そしてもうひとつの理由で、彼はそのまま口を閉ざしてしまった。
雪上車θが起動される。
初めて運転するのだから仕方がないものの、搭乗者にとっての乗り心地は最悪の一言に尽きた。
「なんか、前にもこんなことがあったような……」
「忘れちまったのかよ。リアラとフィオレがアイグレッテに行っちまった時、説明もそこそこにイクシフォスラーに飛び乗って……」
「なんでこんなこと知ってるのかとか、どーでもよくなったのもあの頃からだね。あれだけフィオレのこと想ってるんだから、悪い奴なわけないって……」
そんなことがあったのかとリアラが驚くものの、ジューダスからの反応はない。ちらりと運転席を見やれば、彼はマニュアルを握りしめ、必死になって操縦桿を操っていた。
そして彼は、唐突に車両を止めたかと思うと、運転席から降りていく。
「ジューダス?」
「行くぞ。ぐずぐずするな」
言いながら後部座席の扉を開き、フィオレの持ち物をむんずと掴んでさっさと歩み去る。
彼が向かう先には、山脈の根元にぽっかりと口を開けた洞窟があった。その名に相応しく、大雑把だが緩やかな螺旋を描くように洞窟内を下る。
不思議なことに下へ進めば進むほど、洞窟内は仄明るくなっていった。
発光する苔は存在する。しかしあれは光を反射させる細胞を持っているからであって、光がない場所でその現象は起こらない。
「……水、いや波の音がするね」
「こんな地下深く?」
「鍾乳洞だからな。海と繋がっていてもおかしくない」
これ以上は必要ないと、ジューダスはフィオレの荷袋から勝手に拝借したらしいレンズ補充式のランタンを押し込んだ。
洞窟内は、静かだった。このような場所は魔物の巣窟と相場が決まっているのに、まるで気配がしない。
これよりバルバトスとの交戦は避けられないだろう一同にとっては好都合ではあったものの、一切魔物と遭遇しないのはやはり不気味だった。
やがてナナリーの言う通り他一同の耳にも潮騒が聞こえ始め、足場の下は海水と思われる水たまりがそこかしこで見え始める。
「フィオレがいたところに水なんかあったっけ?」
「干潮だったのかもしれないわ。あれから半日は経っているし……」
「カイル」
普段からそうなのに、更に口数の少なくなってしまったジューダスが突然口を開いた。
潮が満ちているのか、これより下層へ下る道は水没している。その、下層へ至る道の手前。多少開けた空間に。
ダイクロフトにて攫われた、アトワイト・エックスが囚われていた。
捕縛されているのか座りこんで身動きをせず、あらぬ方向を見つめている。
フィオレの姿も、バルバトスの姿もない。だが、彼女から情報を得られることだけは間違いなかった。
「アトワイトさん!」
彼女を救出するべく、一同が駆けつける。
その声と足音に気付いてだろう。アトワイトはくるりと振り返った。
整った顔立ちが驚愕に染まり、その喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
「ダメっ、来ないで!!」
一同に対して、あらん限りの制止を。
「えっ……!?」
その叫びに足を鈍らせたのが悪かったのか。そもそも駆け出したのが悪かったのか。突如として周囲より色濃い闇が発生する。
あれよあれよという間に、一同は薄闇に包み込まれた。
よくよく見れば足元の地面は見たこともない文様が描かれ、不規則に明滅している。
「これは、魔法障壁!」
驚くリアラにそれが何なのか、尋ねる余裕はない。しかし、薄闇のベールにしか見えないそれに触れればどうなるのか……試そうとする者はいなかった。
直後、アトワイトが座りこむそのすぐそばに、絶望の権化が発生する。
「ディムロスめ、臆したか……まあいい。貴様らが網にかかったのなら、それはそれで楽しめる」
「バルバトス……貴様っ!」
「フィオレ! このドスケベ、フィオレを離しな!」
現れたバルバトスは、まるで荷物のようにフィオレを抱えていた。身をよじって逃げようとしているものの、まるで子供扱いである。
「ああ。言い忘れていたが、その魔法障壁に触れるとタダではすまんぞ」
「くそっ! みんな、障壁から離れろ!」
ジューダスの指示に誰もが従うものの、障壁はじりじりと捕らえた獲物を追い詰めていく。
バルバトスはといえば、暴れるフィオレを抱きすくめるようにして、悠然とその光景を見せつけている。
「みな、まとめて殺してやる。それなら寂しくないだろう?」
「……」
じり、と更に障壁が狭まる。誰かがバランスを崩せば、一様に共倒れするほどの危うさだ。
「もう逃げ場はない。目の前で仲間が殺される気分はどうだ?」
「……」
「貴様のせいだ。こいつらも、さぞや貴様を怨むだろう」
ゆっくりと、本当にゆっくりと障壁は縮んでいく。バルバトスは嬲るように、フィオレへ囁きかけた。
ただその声量は囁きからは程遠く、一同は顔色を変えている。
「やめろ! 何を抜かすつもりだ、貴様っ!」
「今ならまだ間に合う。この俺に従え、絶対服従を誓え。首を縦に振れば連中の命だけは助けてやろう」
その際フィオレが、バルバトスでもなければアトワイトでもなく、一同すら見ずに明後日の方向を見ていたことに関係しているのか。
フィオレの返事は、これだった。
「ぬ、がっ!」
いつの間に握ったのか、そもそも何処に隠し持っていたのか。
首に巻きつく腕へ棒手裏剣を突き立て、怯んだ隙に振りほどこうとして。
「このっ!」
無事な腕が、がしりとフィオレの首を掴む。吊るされながら抵抗する素振りを見せたからか。
バルバトスは軽々とフィオレを投げ捨てた。
「っ!」
「フィオレ!」
幸か不幸か、その先に岸壁も鍾乳石もなく、フィオレはそのまま足場の階下──水没したそこへ、落下した。
盛大な水柱が発生する。
「ち……ぬかったわ。まあいい。後は貴様らの肉片でも見せてやれば」
「はあああっ!」
憎らしげに階下を見やったバルバトスが、閉じ込められた一同に視線を向けた瞬間。
裂帛の気合と共に放たれた火球を、バルバトスはかろうじて避けた。
「今のは……晶術!?」
「ってことは……」
「私じゃーないわよ?」
未だ障壁に閉じ込められた一同の元へ、ハロルドが駆けつける。
携えた杖であっちあっち、と指す先にいたのは──
「貴様の相手は私ではなかったのか、バルバトス!!」
法衣に似た意匠の軍服、ぴんと背筋の伸びた長身、青空よりも濃く、海の色より僅かに薄い長髪をたなびかせたその姿は本人だ。
その姿を認めたアトワイトはといえば、ただただ驚いている。この様子からして、心底から彼は来ないと思っていたのだろう。
「ディムロス……中将!?」
「ディムロス……!」
そしてバルバトスは、歪んだ笑みを浮かべていた。
ハロルドがその場にいることも、彼が携える新兵器の実験台にされることも、まるで意に介していない。
「新兵器の味、その身で確かめるがいい!」
「ソーディアンか……面白い。腑抜けにはちょうどいいハンデだ!」
戦斧が、幅広の剣が交錯し、火花を散らす。
しかし晶術を使いこなすバルバトスと、晶術の使用こそが真髄とさえ言えるソーディアンを持ったディムロスの戦いが、鋼同士の交錯のみに終わるわけもなく。
「フィアフルフレア!」
「破滅のグランヴァニッシュ!」
火焔が飛び、足場は爆裂するがどちらも決定打とはならない。二人の実力は拮抗している。
バルバトスがディムロスに気を取られている間に、ハロルドは一同のそばを離れて足場の縁へと立った。
「ハロルド……!?」
「ちょっと待ってなさいって。フィオレ! もうちょっと頑張って!」
聞き慣れた詠唱──治癒晶術のそれが高らかに響き、先程拾っていた紫水を投げる。
帽子がくくりつけられたそれを水面のフィオレが手にしたことを確認して、ハロルドは一同の元へと戻ってきた。
「さて、じゃあ次はこの魔法障壁とやらを……」
「ソルブライト! 歪な闇をかき消せ!」
差しこむ日の光とは明らかに異なる光球が階下より飛来する。直視を拒絶する眩い輝きは、一同を捕らえていた薄闇のベールをあっさりかき消した。
直後、フィオレが箒に擬態したままの紫水の上に立って、一同と同じ足場へと復帰する。
「……元気、そうね」
ハロルドの声を気にした様子もなく、フィオレは戦いの場へと眼を向けた。
「バルバトス、覚悟!」
「さっきはよくもやってくれたね! 倍返しにしてやるよ!」
リアラとハロルドはアトワイトの元へと向かい、残りの面々はディムロスと合流する。
二人の戦いはほぼ均衡を保っていた。しかし彼らの加勢によって、均衡は一気に破られるだろう。
だからこそ、フィオレは動かなかったのだろうか。
「さっきはあんな姑息な罠を使ったんだ。今更一対多数が卑怯とは言わねえよな?」
「ふっ……そうだな。一対多数ならば……な!」
ごしゃっ、と音を立てて、天井より何かが落下したような音が響く。
そこへ。
「!」
「あんたら動かなくていいわ。任せたわよ、フィオレ」
アトワイトの縄をほどいていたリアラ、そしてハロルドとアトワイト当人だけが、一同の背後での出来事を注視していた。
「あれって……」
「見たことない型だけど、ゴーレムみたいねえ。防衛機能高そうだから、無闇に攻撃すると自爆しちゃうかも」
ハロルドの見解を聞いていたのかどうなのか。すでに抜かれた紫水の切っ先はゴーレムの核を貫いている。
直後、ゴーレムは発光を伴う大爆発を引き起こした。
チカチカと兆候があったためか、そんなものに巻き込まれるフィオレではなく。
「か、回避したの? あんな近距離で!? 私はてっきり運動音痴だとばかり……」
「一応言っとくけど、あの子フィオリオじゃないからね? そんなわけでフィオレは無事。アテが外れちゃったわね、バルバトス」
隠しておいたゴーレムを使って、まだ企みがあったのだろう。
揶揄するハロルドにかまう様子もなく、バルバトスは鋭い舌打ちをした。
「またも、邪魔立てが入るか……!」
再び偽りの闇がわだかまる。漆黒の放電を伴うそれは、バルバトスを呑みこんで消えた。
ハロルド達が一行の元へと戻り、入れ替わるようにディムロスがアトワイトの元へと走る。
二人の再会に水を差さぬよう背を向けた一同は、フィオレの元へと向かった。
「よかったわ、フィオレ。思ったより元気そう……で……」
一番に駆け寄ったリアラが、その半ばで足を止める。
困っているような、なんと返事をしたものか悩んでいるように見えたから、だけではない。
「……あなた、本当にフィオレ?」
返事は無い。彼女は、無言で己の両手を突き出した。
その手は紫水を、両手で握っている。
「「「!?」」」
「やっぱり、なんかあるのね。でもそれ聞く前に」
絶句する一同に対して、フィオレは彼方へ視線をやっていた。その先にはやり取りを経て固く抱き合う二人がいる。
心得たように頷いたハロルドが、おもむろに二人へと歩み寄った。
「お~い、ディムロス! いちゃつくのはいいんだけど、先にソーディアン返して」
その声で我に返ったのか、二人は弾かれたようにパッと離れている。
どんな痴話ゲンカがあったのやら、ディムロスの片頬は僅かに腫れていた。
「いちゃついてなど……」
「もう、ハロルドったら」
「はいはい。わかったわかった」
頬の腫れとは別に、心持顔が赤らんだディムロスよりハロルドが一振りの剣──おそらくはソーディアン・ディムロスの雛型を受け取る。
まだ何も装飾が施されていない、ただ刀身の根元に張りつけられたレンズに損傷がないかを確認しつつ、ハロルドは二人の顔を交互に見た。
「二人とも、まずはラディスロウに戻って。まだやることがあるっしょ?」
「そうだな……まだやるべきことが残っているからな」
今後のことを思ってなのか、ディムロスもアトワイトも表情が引き締まる。
しかしそれは、続くハロルドの台詞によって儚く崩れた。
「ああ、定員オーバーだから二人は私達が来る時使ったプチθ使って。原動機付きの橇だから。アトワイト、しっかりディムロスに抱きついたほうがいいわよ」
「ハロルド!」
「あら、私は初めて搭乗するアトワイトに注意しただけよ? ひっくり返ってスカートめくれちゃったら、ディムロスが我慢できない……」
「……行くぞ、アトワイト」
反論したらしたで遊ばれるだけと悟ったディムロスが、彼女を連れてさっさと立ち去ろうとする。ところが。
「待って、ハロルド。あの子は……フィオリオにそっくりなあの子は」
「フィオレのことを言ってんなら、ディムロスが知ってるから。教えたげて」
「そうじゃなくて……」
「ま、その辺りに関しては後で話しましょ。まずは皆に顔見せてきなさいよ。ホラホラ」
押し出すような形で、二人は共に帰路につく。その間、フィオレだけは体ごとそっぽを向いてしまい、二人の姿を視界に収めようとしなかった。
二人がその場から去り、ハロルドが戻ってきて、ようやく振り返る。
その口が開いたかと思うと、少し遅れて声が聞こえた。
「一石二鳥、ですね。二人は去り、尚且つ二人きり」
「……まあ、あの二人もこれから大変でしょうしね。たまにはいいでしょ」
そんなことよりも、と言わんばかりのハロルドに、フィオレは応じるどころかそっぽを向いた。
迷いのない足取りで、先程自ら這いあがった足場の縁へ歩み寄る。
「……あんた、左手無事だったの?」
小石でも踏んづけたのかよろけてジューダスにぶつかり、軽く謝罪を告げて足場の縁へとしゃがみこむ。
「だったら、どんなによかったことか」
一同に背を向けたまま、フィオレはおもむろにレンズを取り出した。人差し指と親指に挟まれた、乳白色が沈殿しているそれを見て、ジューダスが懐をまさぐり真相を知る。
ぶつかったその時、神の瞳と指環を、包んでいた布ごとすられた。
実に手際が鮮やかなスリを罵るよりも前に、フィオレは何のためらいもなく身を投げた。
「あっ!」
「フィオレ!」
派手な水音は──聞こえない。
突然の奇行に仰天した一同が駆け寄るよりも早く、フィオレは姿を現した。
シルフィスティアの支配下にある紫水に身を預け、ポタポタと雫の滴る軍服だったものを身にまとい。
「……その様子。無事とは言い難いわね」
「それに関しては見ての通りですよ」
この場に到着したハロルドがイの一番に放った治癒晶術により、致命的な負傷は癒えている。
しかし、まとっていた軍服がかろうじて肌を隠している辺り、何があったのかは明白だった。
フィオレの両足が地に着いたその瞬間、膝が砕けてその場に座りこむ。
「フィオレ!」
「膝のお皿が割れているだけです。大したことじゃ、ありませんよ」
その様相に慌てて駆けより、体を支えてくれるリアラに対してフィオレは困ったように微笑んだ。最早何も言わず、レンズペンダントを手にして集中する少女によって生々しい傷が癒えていく。
ただし──失われたその部位が再生することは、なかった。
時折ひんやりとした風が吹く中、リアラが雫のような汗を浮かべはじめたことに気付いて、フィオレが制止する。
「リアラ。もう平気です。大分楽になりました」
「駄目よ。まだ腕が治っていないもの」
真剣な表情でだらんと垂れた袖を見つめ、少女はレンズペンダントを介して力を注いでいく。しかしその努力空しく、何の変化も訪れない。
「リアラ」
「……わたしだって、聖女ですもの。あの人より未熟だって、私、今まで沢山フィオレに助けられてきたわ。だから、今度は私が……!」
不意に体勢が崩されたことでリアラの集中が乱され、治癒する手が止まる。
膝立ちになったフィオレが、自分と同じように座っていた少女を抱きしめたのだ。
「もう充分です、その気持ちだけで。わかっています、自分の体のことだから」
ぴくりとも動かない左腕の代わり、無事な右腕がリアラの髪を撫ぜる。
ぎゅう、とそのまましがみつく少女が、自らの無力を嘆いて謝罪するのを、フィオレはその都度頷いては宥めた。
「……ごめんなさい……わたし、何もできなくて……」
「コラコラ! 泣きたいのはフィオレでしょ、何であんたが泣きだすのよ!」
つぶらな瞳から真珠のような涙が、大気に触れるよりも早くフィオレの肩口に染み込む。
切なく陰鬱な空気をブチ壊したのは、ハロルドだった。
「いいではありませんか。リアラは私の代わりに泣いてくれているんですから」
「はあ? 他人のリアラがなんであんたの感情を代替わりできるのよ」
「私にはもう、この事に関して流す涙も恨みごとのひとつも、吐き出す元気はありません」
おそらくわざとだろうハロルドの発言で、リアラの涙は早々に止まっている。
少女と身を離したフィオレは、それまで自分の足に巻きつけていた赤黒い包帯──元は軍服だったと思われるそれを、漆黒の短刀でざっくりと断ち切っていた。
無傷にしてしなやかな、無駄な脂肪など一切ついていない足を見てフィオレは快活に笑う。
「ほら、綺麗に治りました。これは少なくともあなたのおかげです」
「フィオレ……」
「さて、お次はこちらをどうにかしないと」
ちら、とフィオレが見やったのは、己の腕。
そのまま袖をまくり上げようとして、フィオレはぴたりと停止した。
袖の中に収まった腕のそこかしこに触れ、放心したように俯く。
「どうした?」
「ええと、いえ、別にどうも」
「どうもしないわけがないだろう。とにかく見せてみろ」
「あっ!」
慌てたように振り回した腕を、逆にジューダスが捕まえた。
その瞬間。
ぬちゃ、と嫌な音を立てて、ジューダスの手が泥を掴んだような感触を残す。
反射的に離したその場所は、手形の変な染みが残された。
「……!」
「洗ってきてください」
「そ、そんなもの、僕は気にしていな……!」
「それ、私の荷袋ですよね。左のポケットに確か貰い物の石鹸があったはず。腐敗臭は染み付くとしつこいんですよ」
荷袋を取り上げられ、やたらいい香りのする石鹸を押し付けられたジューダスはしぶしぶ水辺へ歩み去る。
荷袋を地面へ置き、包帯やらアルコール入りのボトルを取り出すフィオレに、ハロルドが近寄った。
「……腐敗、してるわけ?」
「治癒晶術に一切反応しないので、多分。きちんと確認するのはこれが初めてだから、確かなことは何とも」
「私なら大丈夫だから見せて。あんたらはあっちを向いてなさい。卒倒したかったら話は別だけど」
常人ならば持ち歩くことはおろか手に入りもしないだろうメスを取り出し、フィオレの許可を得て腕に張り付いている袖だけを切り裂いていく。
直後鋭く息を呑み、即座に鼻をつまんだ辺りハロルドの正直さがうかがえた。
「……あんた、こんなもんぶら下げてよくゴーレム瞬殺できたわね」
「正直な反応ありがとう。バルバトスに比べれば楽な相手でした」
「じゃあきっぱり言うわ。切断するっきゃないわよ、これ」
「覚悟はできています。ただ、腕を……」
ぼそぼそと交わされる内容は聞きとれない。しかし、事態が深刻なものであることは誰もが悟っていた。
やがて、手を洗って待機していたジューダスがハロルドに呼ばれる。何事かと歩み寄ったジューダスは、直後度肝を抜かれた。
先程までディムロスが持っていたソーディアンの試作品を持たされて。
「今、なんて」
「フィオレの腕を斬り落とすの。肘から先ね。私に剣の心得はないし、フィオレも片手じゃ難しいわ」
「……!」
「嫌ならカイルかロニに頼むわよ。二人が嫌だと言うなら、私がやる。とんでもなく汚い切り口になるでしょうけど……このままじゃ腕を失くすどころの騒ぎじゃないもの」
確かに、肉が腐って今にも滴り落ちそうな腕をいつまでもくっつけておくわけにはいかない。歯ぎしりすらしながら、ジューダスは試作品を持ち上げた。
二の腕を縛って圧迫したフィオレが、彼に背を向けたまま腕を水平に突き出す。
彼は渾身の力で刃を振り下ろした。
「──お疲れ様」
すでに感覚が死んでいたのか。呻き声ひとつ上げず、吹き出す鮮血を他人事のように見つめて、フィオレは淡々と処置していく。
そして、右肩に荷袋を担ぐと立ち上がった。言葉もなく投げつけられたジューダスのマントを受け取り、しばしの逡巡を経て羽織っている。
「こんなところまで御足労様でした。私が下手を打ったばかりに煩わせて、ごめんなさい」
「──ふん、まったく……「今回ばっかりは不可抗力ってやつさ。こっちも色々あったし、まずは拠点に戻ろうじゃないか!」
何かを言いかけたジューダスの脇に肘を入れ、彼を押しのけたナナリーがさらりと流す。
思わず暴力女め、と呟いた発言を、ロニはもちろん聞き逃さなかった。
「おおっ、久しぶりに意見があったな、ジューダス。どうだ? ここらでひとつ、暴力反対同盟でも……」
「あんたらがデリカシーのない態度をやめてくれれば、あたしも実力行使なんてしなくて済むんだけどねえ!」
やはりもちろん、彼の失言を聞き逃さないナナリーが鉄拳制裁を下さんと追いかけ回す。
すでに日常茶飯事となっていたその光景に、苦笑を浮かべかけたフィオレはふと、自分の足元を見た。
──歩き出しかけて数歩もいかない内に、歩みが偏っている。左腕が少なくなった分、平衡感覚が狂っているのだろうか。
それに気付いたカイルの言葉を聞いて、フィオレは思わず眉を歪めた。
「フィオレ、大丈夫? オレ、オンブしよっか?」
「……お気持ちだけありがたく頂きましょう」
格好が云々の問題ではない。どのような経緯であれ、左手……否、左腕を失ったのはフィオレ自身の責任なのだ。
失った部位の再生が望めない以上、この体に一刻も早く慣れなければいけない。
そうでなければ、心優しい仲間達によって何もできなくなるだろう。
フィオレ自身の望みを叶えることも、守護者達との約束を果たすことも。
「遠慮しなくていいのに……オレ、頼りない?」
「そんなことをしたらあなたの聖女を悲しませるでしょう」
カイルの申し出と、そんなことはないというリアラの反論を流して、紫水で壁との距離を測りながらまっすぐ歩く練習から始める。
しかしそんなことをしていたら、どうしても歩みが遅くなるのが自明の理で。
誰もそのことを指摘しない。フィオレとて逆の立場なら同じことをしただろう。わかっていても思うことはやめられない。
やがてフィオレよりも早く限界に達したらしいジューダスが、舌打ちを打ってくるりと振り返る。
「遅い! 僕が運んでやるから、その長物を誰かに預けろ」
「……その。あなたが運ぶというのは、私のことですか?」
「他に何がある。リハビリならもう少し安全な場所でやれ」
大変ごもっともな意見だが、ジューダスに運んでもらうのはカイル以上に抵抗があった。
気恥かしいとか格好がつかないとか、ましてや彼に借りを作りたくないとか、そんな問題ではない。
「今はちょっと──」
「うだうだ言い逃れするな、足手まといだ。こんな時くらい強がるんじゃない」
もとよりフィオレの否応など問題としていなかったジューダスが、まずは紫水を取り上げようと手を伸ばす。
当然離そうとしないフィオレの指を物理的に剥がそうとして。
「っ!」
ジューダスの手が触れる瞬間、フィオレは毒虫でも払うかのようにその手を振り払った。
あまつさえ、まるで間合いを取るように縮んだ距離を空けている。
「な──」
「外で待っています。ごゆっくりどうぞ」
抗議しかけたジューダスに羽織っていたマントを投げつけるように返し。フィオレは紫水に腰かけたかと思うと、そのまま飛び去ってしまった。
自分が悪いことなど、もちろんわかっている。今までにない勢いの拒絶も、半ば逆切れに近い形でその場から逃亡したことも。
ただあの瞬間も今も、ジューダスには謝ることはできない。理由を語れば間違いなく理解はしてもらえる。引き換えに彼らは気分を悪くして、これからもフィオレに気を遣い続けるのだ。
それは、受け入れられない。
救うことを諦めたから、せめて護りたいのに。
高みを目指しても目指しても、届かない。まだ足りない。もう到達することは、叶わないのだろうか。
「……あしでまとい、かあ」
枯れ果てたはずの泉から、塩辛いひと雫が縁を越えて、風にさらわれて散った。