エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。   作:サボテニウム

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第20話

 

 

 

 

 鬼龍院月夜がセントテレジア孤児院へ居座って、三日が経った。

 

 あえて、居座ると言わせてもらおう。

 

 本人はあくまで警備のために滞在していると主張しているが、オレからすれば大した違いはない。

 

 朝、目を覚まして廊下へ出ればいる。

 

 食堂へ行けばいる。

 

 庭で洗濯物を干していても、井戸から水を汲んでいても、ふと顔を上げれば視界のどこかに立っている。

 

 監視というのは、もう少しこう、相手に気づかれないように行うものではなかっただろうか。

 

「月夜さん」

 

「なんだ」

 

「どうして私の後ろを歩いてるんですか?」

 

「警備だ」

 

「いまから厠へ行くだけですけど」

 

「そうか」

 

「……そこまでついてくるつもりですか?」

 

「行かない」

 

「よかった」

 

「俺をなんだと思ってる」

 

「初対面の女の子の手を突然つかんで、名前と年齢と母親のことを聞いてくる人」

 

「…………」

 

 月夜が黙った。

 

 反論できないらしい。

 

 廊下の途中で足を止めた月夜を残し、オレは厠へ向かう。

 

 ようやく一人になれた。

 

 そう思って角を曲がると、今度はアギトが壁に背をつけて立っていた。

 

「おはよう」

 

「おう」

 

「何してるの?」

 

「あいつがお前に変なことしねえか見張ってる」

 

「本人に聞こえる声で言わないでよ」

 

「別に聞かれてもいい」

 

 アギトは月夜へ挑むような目を向けた。

 

 月夜は少し離れた場所から、無言でこちらを見ている。

 

 何だ、この状況。

 

 監視されている監視対象を、別の人間が監視している。

 

「アギト」

 

「なんだよ」

 

「厠まで来るつもり?」

 

「行くわけねえだろ!」

 

「じゃあ、ここで待ってるの?」

 

「お前が戻ってくるまでな」

 

「それはそれで嫌なんだけど」

 

「なんでだよ!」

 

 そこへ、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。

 

 振り向くと、カイが歩いてくる。

 

「カイまでどうしたの?」

 

「二人がいなくなったから探しに来た」

 

「私たちを?」

 

「うん」

 

 カイはオレ、アギト、月夜の順に眺めた。

 

「何してるの?」

 

「あいつがリーシャの後をついてくるから、見張ってる」

 

 アギトが月夜を指さした。

 

「月夜さんを?」

 

「そうだよ!」

 

「じゃあ僕はアギトを見てる」

 

「なんでだよ!」

 

「何かしそうだから」

 

「何もしねえよ!」

 

 アギトが怒鳴る。

 

 カイは表情を変えなかった。

 

「もうしてる」

 

「何を⁉」

 

「朝から廊下で大声を出してる」

 

「お前のせいだろ!」

 

 オレは三人の顔を順番に見る。

 

 先頭に厠へ向かうオレ。

 

 その後ろで月夜を監視するアギト。

 

 さらにその後ろでアギトを見張るカイ。

 

 一番後ろから全員を警備している月夜。

 

 何だ、この列。

 

 遠足にしては目的地が悲しすぎる。

 

「みんな、ここで待ってて」

 

「分かった」

 

「おう」

 

「早くしろ」

 

「月夜さんだけ言い方がおかしくありません?」

 

「気のせいだ」

 

 気のせいではない。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「月夜さんには、しばらく孤児院の警備を手伝っていただきます」

 

 朝食の席で、シスタークロエがにこやかに宣言した。

 

 その本人はオレたちから少し離れた席に座り、例の穀物ごちゃ混ぜスープを黙々と口へ運んでいる。

 

「なんでこいつも一緒に飯食ってんだよ」

 

 アギトが不満そうに尋ねた。

 

「泊まっているからだ」

 

 月夜が答える。

 

「そういう意味じゃねえよ!」

 

「では、どういう意味だ」

 

「なんでずっとここにいるんだって聞いてんだ!」

 

「警備だ」

 

「さっきも聞いた!」

 

 月夜はパンを一口かじった。

 

 そして、眉間にわずかな皺を寄せる。

 

「……固いな」

 

 分かる。

 

 オレも最初に食べたときは、これが食料なのか建築資材なのか本気で迷った。

 

「嫌なら食うなよ」

 

 アギトが言う。

 

「食べ物を粗末にするな」

 

「文句言ったのはお前だろ!」

 

「事実を述べただけだ」

 

「なお悪いわ!」

 

「月夜さん」

 

 シスタークロエが、穏やかな笑顔を浮かべた。

 

「お食事がお口に合わなかったでしょうか?」

 

「いえ」

 

 月夜の返答は早かった。

 

「とても美味しいです」

 

「固いって言ってたぞ」

 

「アギト」

 

「なんだよ」

 

「子供は静かに食べろ」

 

「汚ねえぞ!」

 

 どうやら十三戦鬼でも、シスタークロエには逆らえないらしい。

 

 新たな弱点を発見した。

 

 記憶しておこう。

 

「警備だけでなく、壊れた柵や屋根の修理もお願いしてあります」

 

 シスタークロエが続けた。

 

 月夜が顔を上げる。

 

「聞いていませんが」

 

「いまお伝えしました」

 

「…………」

 

「よろしくお願いしますね」

 

「……分かりました」

 

 十三戦鬼を雑用係として使うとは、さすがはシスタークロエ。

 

 人間側の戦力序列はともかく、この孤児院内の序列だけなら間違いなく頂点にいる。

 

「働かないと追い出されるからね」

 

 カイが月夜へ言った。

 

「分かっている」

 

「なんでお前はこいつに助言してんだよ」

 

 アギトが横から口を挟む。

 

「住むところがなくなったら困ると思って」

 

「こいつには帰る家があるだろ!」

 

 カイは月夜を見る。

 

「あるんですか?」

 

「一応な」

 

「帰らないんですか?」

 

「いまは帰らない」

 

「そうですか」

 

 カイはそれだけ言うと、再びスープを飲み始めた。

 

 興味があるのかないのか分からない。

 

 ただ、月夜の方は、カイの質問にわずかに考え込んでいるようだった。

 

 家があっても帰りたくない。

 

 あるいは、帰っても家とは呼べない。

 

 鬼龍院家がどんな場所なのか、オレには詳しく分からない。

 

 分からないが、先日の旭との様子を見る限り、家族団欒という言葉からは相当遠そうである。

 

「リーシャ」

 

 月夜に名前を呼ばれる。

 

「な、何ですか?」

 

「また俺を見ていたな」

 

「見てません」

 

「目が合っている」

 

「偶然です」

 

「俺が動くたびに目も動いていた」

 

「妙な動きをするからです」

 

 以前、月夜がオレに使ったものと同じ理屈を返してやる。

 

 月夜はしばらく黙ったあと、パンをもう一口かじった。

 

「……固い」

 

「やっぱり嫌いなんじゃねえか!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 朝食を終えてからも、月夜の監視――ではなく、警備は続いた。

 

 オレが井戸へ水を汲みに行けば、月夜は壊れた柵を直すふりをしながらこちらを見ている。

 

 薪を取りに倉庫へ向かえば、先回りした月夜が屋根の穴を塞いでいる。

 

 庭の端へ雑草を捨てに行こうとすれば、今度はアギトまでついてくる。

 

 さらにカイもついてくる。

 

「三人とも」

 

「なんだ」

 

「何?」

 

「何だよ」

 

「仕事は?」

 

 オレが尋ねると、アギトは胸を張った。

 

「お前を守るのが仕事だ」

 

「そんな仕事はありません」

 

「俺が決めた」

 

「勝手に雇用を生み出さないで」

 

 カイは手に持っていた小さな籠を見せた。

 

「僕は洗濯物を運んでる」

 

 籠の中には靴下が一足だけ入っている。

 

「それ一個のために、ずっと私についてきたの?」

 

「急いでないから」

 

「仕事をする気がない人の言い訳だよ、それ」

 

「月夜さんも似たようなものだと思う」

 

 カイの視線が月夜へ移る。

 

 月夜は金槌を片手に、柵の前へ立っていた。

 

 ただし、先ほどから一度も釘を打っていない。

 

「警備中だ」

 

「柵を直しているんじゃなかったんですか?」

 

「警備をしながら直している」

 

「手が止まってますけど」

 

「お前が妙な動きをするからだ」

 

「私は雑草を捨てに来ただけです!」

 

「さっきから同じ場所を三回往復している」

 

「…………」

 

 気づかれていた。

 

 もちろん、意味もなく往復していたわけではない。

 

 月夜の視線がどの程度こちらを追ってくるか確認していたのだ。

 

 結果。

 

 かなり追ってくる。

 

 隠密行動は絶望的だった。

 

「リーシャ、どこか行きたいのか?」

 

 アギトが尋ねる。

 

「別に」

 

「じゃあ、なんでうろうろしてるんだよ」

 

「運動」

 

「雑草持って?」

 

「負荷をかけた方が効果的だから」

 

 我ながら苦しい。

 

 アギトは疑わしそうにオレを見る。

 

 カイもこちらを見ている。

 

 月夜は最初から信じていない顔だった。

 

「何ですか?」

 

「いや」

 

「言いたいことがあるなら言ってください」

 

「妙な運動だと思っただけだ」

 

「最先端なんです」

 

「そうか」

 

「そうです」

 

「では続けろ」

 

「見ないでください!」

 

「警備だ」

 

 ダメだ。

 

 どこへ行っても、この男がいる。

 

 以前なら、孤児院の仕事を終えたあとに適当な理由をつけて西トウキョウまで足を運べた。

 

 夜になれば、アギトが眠ったのを確認してから窓を抜け出すこともできた。

 

 だが、現在はどうだ。

 

 昼は月夜。

 

 夜もおそらく月夜。

 

 部屋には勝手に入ってくるカイ。

 

 廊下にはアギト。

 

 プライバシーという言葉が、この孤児院だけ先に滅んでいる。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 夜。

 

 就寝時間になり、自分の部屋へ戻ったオレは、扉の鍵をしっかりとかけた。

 

 これでよし。

 

 昨日は鍵をかけ忘れたせいで、目を覚ましたときにはカイが枕元に座っていた。

 

 同じ過ちは繰り返さない。

 

 窓が閉まっていることも確認する。

 

 ベッドの下。

 

 異常なし。

 

 衣装棚の中。

 

 異常なし。

 

 机の下。

 

 異常なし。

 

 念のためカーテンの裏も確認する。

 

 誰もいない。

 

「何してるの?」

 

「うわあっ⁉」

 

 背後から声がして、オレは飛び上がった。

 

 振り向く。

 

 カイがベッドに腰掛けていた。

 

「なんでいるの⁉」

 

「リーシャが戻ってくるのを待ってた」

 

「いつから⁉」

 

「鍵をかける前から」

 

「もっと怖いよ!」

 

 部屋の中をあれだけ確認したのに、なぜ気づかなかった。

 

 いや、カイが静かすぎるのだ。

 

 気配を消す技術だけなら、十三戦鬼より優秀かもしれない。

 

「用は何?」

 

「月夜さんのこと」

 

「月夜さんがどうしたの?」

 

「夜も起きてる」

 

 嫌な情報だった。

 

「どうして分かるの?」

 

「昨日の夜、廊下で会ったから」

 

「何時ごろ?」

 

「二時くらい」

 

「……カイは、その時間に何してたの?」

 

「リーシャが寝てるか確認しに行こうと思ってた」

 

「なんで毎晩確認するの⁉」

 

「月夜さんがいるから」

 

「月夜さんよりカイの方が怖くなってきたよ!」

 

 本人に悪気が一切ないのが、なおさら恐ろしい。

 

「それだけ伝えに来た」

 

 カイはベッドから降りた。

 

「今日はもう来ないから、安心していいよ」

 

「毎日来ていたことを前提にしないで!」

 

「明日は分からない」

 

「明日も来ないで!」

 

「考えておく」

 

「そこは分かったって言うところ!」

 

 カイは扉の前まで歩き、取っ手へ手をかける。

 

 鍵は内側から閉まったままだ。

 

「カイ」

 

「何?」

 

「どうやって出るの?」

 

「扉から」

 

「鍵は?」

 

「開ければいい」

 

「そうじゃなくて、どうやって入ったの?」

 

 カイは一度だけ瞬いた。

 

「普通に」

 

「普通の定義をあとで話し合おうね」

 

「分かった」

 

 おそらく分かっていない。

 

 カイを廊下へ追い出し、今度こそ鍵をかける。

 

 遠ざかっていく足音を聞きながら、オレは深く息を吐いた。

 

 とにかく月夜は、夜中の二時にも起きている。

 

 吸血鬼であるオレより、よほど夜行性ではないか。

 

 このままでは西トウキョウへ行くどころか、孤児院の庭から出ることすら難しい。

 

 もっとも、今夜すぐに出かける必要はない。

 

 ディアボロスの連中に会う約束をしているわけでもないし、バフォメットから緊急の連絡も届いていない。

 

 今日くらいは大人しく眠っても――。

 

 カツン。

 

 窓ガラスに、何かがぶつかった。

 

 オレは音のした方へ顔を向ける。

 

 カツン。

 

 もう一度。

 

 窓の外に、黒い影が張りついていた。

 

 掌ほどの大きさをした、蝿型の使い魔。

 

 以前、西トウキョウの廃ショッピングモールへ残してきたものだ。

 

 ディアボロスの周辺を見張らせ、何か異変があれば戻ってくるよう命じてある。

 

 今まで一度も、こちらへ帰ってきたことはない。

 

 オレは慌てて窓を開けた。

 

 使い魔が部屋へ飛び込む。

 

 いや、飛び込んだというより、転がり込んできた。

 

 片方の翅が焼け落ちている。

 

 背中には銀によるものらしい傷が走り、黒い体液が床へ落ちた。

 

「おい……」

 

 胸の奥がざわつく。

 

 オレは使い魔を両手ですくい上げた。

 

 後ろ脚に、小さく折り畳まれた紙が結びつけられている。

 

 紙を外し、開く。

 

 簡素な文字が並んでいた。

 

『リーシャへ。

 

 西側に人間が増えた。

 

 銀の杭を打って、道と建物を測ってる。

 

 三人捕まえた。地図を持ってた。

 

 妹たちは今夜、地下へ移す。

 

 こっちは私が片づける。

 

 来なくていい。

 

 ロウカ』

 

「…………」

 

 短い。

 

 あまりにも短い。

 

 状況の説明も、助けを求める言葉もない。

 

 何が起きているかだけを書き、あとは自分で片づけると宣言している。

 

 実にロウカらしい手紙だった。

 

 そして、実に大丈夫ではない人間――ではなく、吸血鬼が書く文章でもあった。

 

「来なくていい、ね」

 

 オレは小さく呟く。

 

 来る必要が本当にないのなら、わざわざ手紙など送らない。

 

 人間の斥候が西側の道や建物を測量している。

 

 銀の杭を打ち込み、地図を作っている。

 

 それは単なる見回りではない。

 

 大規模な部隊を送り込むための下準備だ。

 

 西トウキョウ掃討作戦。

 

 食糧不足に苦しむトウキョウエリアが、生存圏と農地を拡大するために実施した作戦。

 

 原作では、討魔師になったばかりのアギトが初陣を迎える事件だった。

 

 アギトが十六歳になってから起きるはずの出来事。

 

 まだ八年も先の未来。

 

 そのはずだった。

 

 だが、パリは原作より早く陥落した。

 

 ヨコハマから流れ込んだ難民によって、トウキョウエリアの食糧事情も悪化している。

 

 すでに歴史は、オレの知っている流れからずれ始めていた。

 

 人類側が西への進出を前倒しにしても、おかしくはない。

 

 斥候を三人捕らえたと書いてある。

 

 彼らが戻らなければ、討魔師たちは何が起きたと考える。

 

 吸血鬼に襲われた。

 

 西側には危険な吸血鬼の集団が潜んでいる。

 

 ならば調査ではなく、最初から討伐部隊を送る。

 

「片づけるって、何をするつもりだよ……」

 

 ロウカの顔が脳裏に浮かぶ。

 

 無表情のまま、とんでもないことを実行する少女。

 

 人間たちが通る道路をまとめて爆破するとか。

 

 橋を落として追い返すとか。

 

 捕らえた斥候を目立つ場所へ吊るし、警告に使うとか。

 

 どれも平然とやりかねない。

 

 そして、その全てが人類側の本格的な掃討を早める。

 

 ロウカは自分がどうなっても、妹たちだけは守ろうとするだろう。

 

 原作でもそうだった。

 

 幼い妹たちを逃がすため、たった一人で討魔師の部隊へ立ち向かった。

 

 最後にはアギトに首を刎ねられた。

 

 命乞いをしたのは、自分のためではない。

 

 妹たちだけは助けてほしいと、そう願った。

 

 それなのに、結局は妹たちも全員処刑される。

 

 何度思い出しても、胸糞の悪いイベントだ。

 

 まあ、まだ掃討作戦が始まると決まったわけではない。

 

 ただの測量かもしれない。

 

 西側へ道を作るつもりもなく、三人そろって趣味で地図を描いていただけという可能性も――。

 

 ないな。

 

 うん。

 

 ない。

 

 オレは手紙を握り締めた。

 

 ロウカは、ディアボロスの中でも使える吸血鬼だ。

 

 将来的にオレの配下へ加える可能性もある。

 

 ここで失えば、大きな戦力低下になる。

 

 妹たちだって、育てば貴重な戦力になるかもしれない。

 

 だから助ける。

 

 あくまで戦力の保全だ。

 

 ロウカと一緒に墓を掘ったからでもない。

 

 廃モールへ行けば、何も言わずに隣へ座るくらいの仲になったからでもない。

 

 家族を守ろうとしているやつを見殺しにするのが、少しだけ寝覚め悪いからでもない。

 

 合理的判断。

 

 すべては合理的判断である。

 

「……行くか」

 

 オレはベッドから立ち上がった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 黒っぽい上着へ着替え、最低限の荷物を小さな袋へ詰める。

 

 アギトからもらった赤い花の髪飾りは、目立つので枕元へ置いていくことにした。

 

 掛け布団の中には、丸めた毛布を入れておく。

 

 暗い部屋を外から覗いただけなら、オレが眠っているように見えるはずだ。

 

 完璧。

 

 前世ではブラック企業の社員だったオレだが、退勤時間を偽装する技術だけは身につかなかった。

 

 まさか異世界へ転生してから、寝ているふりの偽装工作を行うことになるとは。

 

 人生、何が役に立つか分からない。

 

 問題は月夜だ。

 

 カイの話では、夜中にも廊下を歩いている。

 

 扉から出れば、かなりの確率で見つかるだろう。

 

 ならば窓しかない。

 

 ここは二階だが、吸血鬼であるオレにとっては高さのうちに入らない。

 

 人間の子供らしく、壁の凹凸へ手足をかけて慎重に降りれば、能力を使わずとも外へ出られる。

 

 オレは静かに窓を開けた。

 

 冷たい夜風が部屋へ吹き込む。

 

 周囲を確認。

 

 誰もいない。

 

 月明かりは雲に隠れている。

 

 絶好の脱走日和だ。

 

 窓枠へ足をかけ、身体を外へ出す。

 

 壁へ指をかけ、音を立てないように降りていく。

 

 あと少し。

 

 地面まで、残り一メートル。

 

 オレは壁を蹴り、軽く飛び降りた。

 

 足音一つ立てず、地面へ着地する。

 

 成功。

 

 十三戦鬼といえど、さすがに窓から抜け出すとは思わなかったらしい。

 

 オレは心の中で勝利を確信し、顔を上げた。

 

「遅かったな」

 

「…………」

 

 壁際に、月夜が立っていた。

 

 黒い外套をまとい、腕を組んでいる。

 

 最初からそこにいたらしい。

 

「こんばんは」

 

「こんばんは」

 

「いい夜ですね」

 

「寒いな」

 

「それでは、私はこれで」

 

「待て」

 

 横を通り過ぎようとした肩を、月夜につかまれる。

 

 力は入っていない。

 

 それでも逃がす気がないことだけは伝わってきた。

 

「どこへ行く」

 

「夜風に当たりに」

 

「窓からか」

 

「玄関まで行くのが面倒だったので」

 

「靴を履いて、荷物まで持って?」

 

「最近の夜風は長時間浴びるものなんです」

 

「初めて聞いた」

 

「最先端なので」

 

「今日のお前は最先端が多いな」

 

 昼間の言い訳まで覚えていた。

 

 無駄に記憶力がいい。

 

「実は夢遊病なんです」

 

「会話が成立しているが」

 

「最近の夢遊病は高性能なんです」

 

「戻れ」

 

「横暴だ!」

 

「寝ているはずの八歳児が、夜中に窓から抜け出そうとしている。止めない方がおかしい」

 

「私には私の事情があります」

 

「話せ」

 

「言えません」

 

「なら戻れ」

 

「話が進まない!」

 

「進ませる気がない」

 

 何て正直な男だ。

 

 オレは月夜の手を振りほどこうとした。

 

 だが、人間の子供として不自然にならない程度の力ではびくともしない。

 

 本気を出せば簡単に外せる。

 

 月夜の腕ごと吹き飛ばすことだってできる。

 

 もちろん、そんなことをすればオレの正体も一緒に吹き飛ぶ。

 

「鬼龍院へ連れていく気はない」

 

 月夜が不意に言った。

 

「え?」

 

「先日の話を聞いて、不安になったんだろう」

 

「違います」

 

「そうか」

 

「信じるんですか?」

 

「違うと言うならな」

 

「じゃあ、通してください」

 

「それとこれとは別だ」

 

「どうしてそこだけ厳格なの⁉」

 

 やはり話が通じない。

 

 いや、変に問い詰めてこないだけ、まだましなのかもしれない。

 

 月夜はオレの袋へ視線を落とした。

 

「誰かに会いに行くのか」

 

「…………」

 

「図星か」

 

「知り合いが、少し困っているだけです」

 

 しまった。

 

 余計なことを言った。

 

 これでは墓穴を掘っている。

 

 ロウカと一緒に墓を掘った経験はあるが、自分から入る穴まで掘る必要はない。

 

「助けを求められたのか」

 

 月夜が尋ねる。

 

「いいえ」

 

「なら、なぜ行く」

 

「むしろ来るなって言われました」

 

「では戻れ」

 

「そういうわけにはいきません」

 

「相手が来るなと言っている」

 

「本当に大丈夫な人は、わざわざ来るななんて言わないんです」

 

「そうとは限らない」

 

「助けてって言わない人は、助けなくていいんですか?」

 

 口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。

 

 月夜は答えなかった。

 

 先ほどまでと同じ無表情。

 

 けれど、オレの肩に置かれた手から、わずかに力が抜ける。

 

 その目が一瞬だけ、オレではない誰かを見た気がした。

 

「助けを呼ばないやつほど」

 

 やがて月夜が、低い声で言った。

 

「手遅れになるまで黙っている」

 

「だったら――」

 

「だからこそ、八歳のお前一人に任せる話じゃない」

 

「私は一人でも――」

 

「行き先も、相手の名前も、何に困っているかも言えないんだろう」

 

「…………」

 

「それで夜中に子供を放す大人がいると思うか」

 

 正論だった。

 

 腹が立つほど正論だった。

 

「明日の朝、クロエに話せ」

 

「シスターには話せません」

 

「なぜだ」

 

「事情があります」

 

「俺にもクロエにも話せない事情か」

 

「はい」

 

「なら、なおさら行かせられない」

 

 月夜はオレの肩を離すと、孤児院を指さした。

 

「戻れ」

 

「嫌です」

 

「抱えて戻るぞ」

 

「それはもっと嫌です!」

 

「なら歩け」

 

 選択肢があるように見えて、実質一つしかない。

 

 オレは月夜を睨みながら、孤児院へ戻ることになった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「寝ろ」

 

 月夜はオレを部屋へ押し戻すと、扉の前に立った。

 

「もしかして、そこで見張るつもりですか?」

 

「ああ」

 

「女性の部屋の前へ朝まで立つなんて、変な噂が立ちますよ」

 

「相手は八歳だ」

 

「八歳にも評判があります」

 

「窓から逃げ出そうとした評判か」

 

「それは秘密にしてください」

 

「なら寝ろ」

 

「会話がつながってませんよ!」

 

 月夜は扉を閉めた。

 

 廊下へ出ようとすれば、すぐに止められる。

 

 窓から降りれば、今度は外で待っているかもしれない。

 

 念のため窓を少し開き、下を覗いてみる。

 

 誰もいない。

 

 いや。

 

 きっと見えない場所にいる。

 

 一度引っかかった罠へ、もう一度飛び込むほどオレも馬鹿ではない。

 

 扉へ耳をつける。

 

 廊下から月夜の気配がする。

 

 どうやら本当に朝までそこへ立つつもりらしい。

 

「暇なんですか?」

 

 扉越しに尋ねる。

 

「寝ろ」

 

「明日は柵の修理がありますよ」

 

「分かってる」

 

「寝不足になると、釘で指を打ちますよ」

 

「お前が寝れば俺も休める」

 

「私のせいみたいに言わないでください」

 

「お前のせいだ」

 

 返答が早い。

 

 オレは扉から離れ、ベッドへ腰を下ろした。

 

 どうする。

 

 力ずくで逃げるのは簡単だ。

 

 だが、月夜を傷つけず、吸血鬼だと悟られずに振り切らなければならない。

 

 外にはいない。

 

 廊下には月夜がいる。

 

 窓から出れば、おそらく気配で気づかれる。

 

 だったら、月夜の方から離れてもらえばいい。

 

 オレは床へ横たわる、傷ついた使い魔を見た。

 

 この個体を使うわけにはいかない。

 

 ここまで飛んできただけでも限界に近い。

 

 代わりに右手を開き、魔力をほんの少しだけ流す。

 

 手のひらの上に、黒い染みが浮かび上がった。

 

 染みは小さな粒へ分かれ、一匹、二匹と羽音を立てて飛び始める。

 

 数十匹の小さな蝿。

 

 扉の隙間から漏れ出さないよう、慎重に窓の外へ放つ。

 

 月夜が察知できるほどの魔力は使っていない。

 

 ただの虫にしか見えないはずだ。

 

 蝿の群れは建物の壁を伝い、庭の反対側へ回り込む。

 

 そこには、シスターたちが道具を保管している古い倉庫がある。

 

 昼間に確認した限り、屋根の一部が壊れ、外套や麻袋が乱雑に積まれていた。

 

 蝿たちは、一枚の黒い外套の内側へ潜り込む。

 

 布を内側から持ち上げ、頭と肩のような形を作る。

 

 人間へ見せかけるほど精巧なものではない。

 

 だが暗闇の中、遠目に一瞬だけ見せるなら十分だ。

 

 倉庫の戸を、内側から押す。

 

 ギィ、と古い蝶番が鳴った。

 

 黒い影が庭へ飛び出す。

 

 直後。

 

 扉の外にいた月夜の気配が変わった。

 

「…………」

 

 何かを察知したらしい。

 

 廊下を駆ける足音が遠ざかる。

 

 速い。

 

 普通の人間なら、その足音を聞いてから動いたのでは間に合わない。

 

 しかしオレは、普通の人間ではない。

 

「ごめん、月夜さん」

 

 小さく謝り、窓へ駆け寄る。

 

 今度は人間の子供らしく降りる必要はない。

 

 窓枠へ足をかけ、一息で庭へ飛び降りる。

 

 着地と同時に地面を蹴った。

 

 孤児院の外壁を越え、夜の林へ飛び込む。

 

 背後で、黒い外套を操っていた蝿の群れが四方へ散った。

 

 月夜なら、すぐに人間ではないと見破る。

 

 陽動に使えるのは、ほんの数秒。

 

 だが、その数秒で十分だった。

 

 木々の間を駆け抜ける。

 

 人間の目では追えない速度。

 

 踏み跡を残さず、枝を揺らさず、冷たい夜気を切り裂いて西へ向かう。

 

 人間の子供として脱走するのは失敗した。

 

 ならば、吸血鬼として脱走すればいい。

 

 悲報。

 

 死亡フラグ本人に見張られた結果、正体を隠すために正体の力を使うことになりました。

 

 

    ◇ ◇ ◇

 

 

 倉庫から飛び出した黒い影は、人間ではなかった。

 

 月夜が間合いを詰めた瞬間、外套の中から無数の虫があふれ出す。

 

 黒い群れは夜空へ散り、瞬く間に見えなくなった。

 

「使い魔……?」

 

 月夜は足元へ落ちた外套を見下ろした。

 

 野生の虫が偶然このような動きをするはずがない。

 

 誰かが操っている。

 

 そして、その誰かの目的は倉庫へ侵入することではなかった。

 

「まさか」

 

 月夜は踵を返した。

 

 孤児院の廊下へ戻り、リーシャの部屋の扉を開ける。

 

 ベッドの中には、丸められた毛布しかなかった。

 

 窓が開いている。

 

 冷たい風に揺られ、白いカーテンが静かにはためいていた。

 

「……やられた」

 

 月夜は窓から庭へ降りる。

 

 地面に足跡はない。

 

 窓の下から外壁まで、少女が走った痕跡すら残っていなかった。

 

 誰かがリーシャを連れ去ったのか。

 

 それとも、外で待っていた協力者が運んだのか。

 

 あの使い魔を操った者と、リーシャが助けようとしている相手は同一なのか。

 

 分からないことばかりだった。

 

 ただ一つ確かなのは、リーシャが自分の意思で外へ出たことだけだ。

 

 机の上には、赤い花の髪飾りが残されていた。

 

 普段の外出なら、置いていく理由はない。

 

 目立つ物を避けた。

 

 帰りが遅くなる可能性を考えた。

 

 最初から誰にも知られず、遠くへ行くつもりだったのだ。

 

 月夜は髪飾りを手に取った。

 

「八歳が、何を抱えてるんだよ」

 

 答える者はいない。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 夜が明ける前。

 

 月夜は孤児院の庭に残された、わずかな痕跡をたどっていた。

 

 人間の足跡はない。

 

 ただ、敷地の西端にある木の枝が一本だけ折れている。

 

 断面は新しい。

 

 枝の高さは、大人の胸元ほど。

 

 子供が地面を走ったのなら、触れる場所ではない。

 

 誰かに抱えられていたのか。

 

 あるいは――。

 

「月夜さん」

 

 背後から声がした。

 

 振り向くと、寝間着の上から外套を羽織ったシスタークロエが立っていた。

 

「リーシャちゃんが、いないのですね」

 

「ああ」

 

「連れ去られた形跡は?」

 

「ない。本人の意思で出た可能性が高い」

 

 クロエは目を伏せた。

 

 驚いてはいない。

 

 まるで、いつかこうなると知っていたような反応だった。

 

「何か知っているのか」

 

「リーシャちゃんは、ときどき一人で遠くを見る子でした」

 

「遠く?」

 

「自分が暮らしている場所ではない、どこかを気にしているように」

 

 クロエは西の空を見る。

 

 月夜もその視線を追った。

 

「西には何がある」

 

「旧西トウキョウ区域です。現在は聖域の外。人間の立ち入りが禁止されている場所です」

 

「他には」

 

「最近、討魔師の調査隊が派遣されています」

 

「調査隊?」

 

「生存圏拡大のための測量だと聞いています。ただ、数日前から戻っていない隊員がいるそうです」

 

 月夜の目が細くなる。

 

 夜中に、誰にも言えない相手を助けに行く。

 

 使い魔を操る何者かが、リーシャの脱出を手助けした。

 

 そして西では、人類側の調査隊が消息を絶っている。

 

 すべてが無関係だと考えるには、出来すぎていた。

 

「追う」

 

 月夜は短く告げた。

 

「月夜さん」

 

「何だ」

 

「リーシャちゃんを見つけても、まず話を聞いてあげてください」

 

「犯罪者を捕まえに行くわけじゃない」

 

「それなら、よかったです」

 

 クロエが微笑む。

 

 その笑顔が何を意味しているのか、月夜には分からなかった。

 

 月夜は孤児院へ戻り、自室に置いていた刀を腰へ差す。

 

 外套を羽織り、夜明け前の門をくぐった。

 

 空の端が、薄い青へ変わり始めている。

 

 リーシャが消えてから、すでに数時間。

 

 普通の八歳児なら、そう遠くまでは行けない。

 

 だが月夜には、なぜかその考えを信じることができなかった。

 

 幼い夕莉と同じ顔をした、身元の分からない少女。

 

 人に言えない秘密を抱え、誰かを助けるために夜の窓から抜け出した。

 

「助けを呼ばないやつほど、手遅れになるまで黙っている……か」

 

 昨夜、自分が口にした言葉を繰り返す。

 

 それはリーシャが助けようとしている相手だけに向けた言葉ではなかったのかもしれない。

 

 月夜は西へ向かって歩き出した。

 

 

 

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