エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。 作:サボテニウム
西トウキョウの廃ショッピングモールが見えてきたころには、東の空がうっすらと白み始めていた。
朝靄の向こうに、崩れかけた巨大な建物の輪郭が浮かんでいる。
人間だったころなら、孤児院からここまで走った時点で三回くらい死んでいたと思う。
いや、一回死んだらそこで終わりなのだが。
そこはまあ、気分の話というやつだ。
「……ずいぶん物々しくなってるな」
以前は見張りが一人立っているだけだった正面入口に、今は土嚢と廃材を積み上げた障害物が築かれている。
割れた自動扉。
崩れた屋上。
向かいの雑居ビル。
道路脇に積み重なった瓦礫。
一見すると誰もいない。
だが、こちらをうかがう複数の視線を感じる。
オレが入口へ近づくと、暗がりの中で赤い瞳が一斉に開いた。
「待って。私だよ」
両手を上げて声をかける。
さすがに、味方だと思っている連中から奇襲されるのは勘弁してほしい。
未来の配下候補に殺される第六真祖。
字面が間抜けすぎて、死んでも死にきれない。
「リーシャ」
頭上から平坦な声が降ってきた。
見上げる。
二階部分の割れた窓枠に、灰色の狼耳を生やした少女が腰掛けていた。
ロウカだ。
彼女は窓枠を蹴ると、軽々と地面へ飛び降りた。ほとんど音も立てず、オレの目の前へ着地する。
「来なくていいって書いた」
「読んだから来たんだけど」
「文章が伝わってない」
「伝わったうえで無視したの」
「そう」
ロウカは一度だけ頷いた。
怒っているのか、呆れているのか、それとも本当に何とも思っていないのか。
相変わらず表情だけでは分からない。
ただ、その右手には血の付いた短剣が握られていた。
「怪我したの?」
「私の血じゃない」
「そういう意味で安心したかったわけじゃないんだけど」
「三人とも生きてる」
何の三人かは聞くまでもない。
手紙に書かれていた、人類側の調査員だ。
「ナオトは?」
「殺すって言ってる」
「うん。予想どおり」
「お母さんは反対してる」
「ロウカは?」
「まだ決めてない」
ロウカが踵を返す。
「見た方が早い」
その背中を追い、オレは廃モールの中へ入った。
◇ ◇ ◇
捕らえられた三人の人間は、地下の搬入倉庫にいた。
両手を後ろで縛られ、冷たい床へ座らされている。
一人は四十歳くらいの、無精髭を生やした大柄な男。
もう一人は眼鏡をかけた痩せた男。
最後の一人は二十歳前後だろうか。三人の中では一番若い。
服装は討魔師の正式な戦闘装束ではない。
厚手の防寒着の上から簡素な防具を着込み、腰には測量器具らしき道具がいくつも下がっていた。
武器も護身用と思われる短い銀剣が一本ずつ。
本格的な討伐部隊ではない。
やはり、西側の道路や地下施設を調べるために送られた先遣調査員なのだろう。
倉庫の壁際にはナオトが立っていた。
少し離れた木箱には、ロウカの母親が腰を下ろしている。
以前見たときより、腹部の膨らみがはっきりとしていた。もうすぐロウカがお姉ちゃんになると、彼女が笑って話していたことを思い出す。
母親は片手を腹部へ添えながら、ナオトを困ったように見つめていた。
「こいつらが戻れば、次に来るのは調査隊じゃ済まねえ」
ナオトが言った。
オレを見る目には、相変わらず隠す気のない敵意が浮かんでいる。
「誰がこいつを呼んだ」
「私」
ロウカが答えた。
「呼んでないけど、手紙は送った」
「それを呼んだって言うんだよ!」
「来なくていいって書いた」
「来なくていい相手に手紙を送るな!」
「異変があったら知らせろって、リーシャに言われてたから」
「だったら先に俺へ言え!」
「ナオトに言うと、全部殺すから」
「殺すべきだろうが!」
ナオトが床を蹴った。
捕虜の三人が揃って身をこわばらせる。
「こいつらは俺たちの場所を見た。道も、人数も、入口の位置もだ。生かして帰したら、次は何十人って討魔師を連れてくる!」
「殺しても来るよ」
オレが口を挟む。
ナオトの視線がこちらへ向いた。
「何だと?」
「三人とも戻らなかったら、人類側はどう考えると思う?」
「知るか」
「三人揃って事故で消えたとは思わない。吸血鬼に捕まった。殺された。西側には組織的な吸血鬼の集団がいる。そう判断する」
「だったら、来たやつらも殺す」
「その次は?」
「それもだ」
「その次の次は?」
「何が言いてえ」
「ずっと勝ち続けられるの?」
ナオトが口を閉ざす。
「トウキョウエリアには何万人もの人間がいる。討魔師だっている。ここにいるディアボロスは何人?」
「人数の話をするんじゃねえ」
「するべきだよ。戦争なんだから」
もちろん、オレが言えたことではない。
ヨコハマエリアを滅ぼしたときのオレは、戦力差も損害もろくに考えず、第六真祖の軍勢を引き連れて真正面から聖域をぶち壊した。
力こそパワー。
脳筋にもほどがある。
もっとも、当時のオレには今の意識がなかったわけだが。
オレだけどオレじゃない。
便利な言葉である。
「じゃあ、どうしろってんだ」
ナオトが吐き捨てた。
「逃げる」
「ここを捨てろってのか?」
「そう」
「ふざけんな!」
ナオトがオレへ詰め寄る。
すぐにロウカが一歩前へ出て、兄の進路を塞いだ。
「どけ、ロウカ」
「リーシャに触らないで」
「お前はこいつの味方か!」
「今は」
「今はって何だ!」
「ナオトより、まともなことを言ってる」
「てめえ……!」
「二人とも」
ロウカの母親が穏やかな声を出した。
「喧嘩をしている場合ではないでしょう?」
「母さんは黙ってろ」
「そういう言い方をしないの」
「今は家族会議じゃねえんだよ!」
「だからこそでしょう」
ナオトは言い返そうとしたが、結局、苛立たしげに舌打ちをしただけだった。
母親には弱いらしい。
オレはナオトとロウカの間へ身体を滑り込ませた。
「ヨコハマへ抜ける地下通路があるって、前に言ってなかった?」
以前ここへ来た際、ロウカから聞いたことがある。
旧西トウキョウ区域の地下には、戦争前に作られた連絡路がいくつも残っている。
その一つが川底を通り、旧ヨコハマ方面へつながっているらしい。
地上を移動するより目立たず、人類側の銀の結界にも触れにくい。
ヨコハマは現在、曲がりなりにもオレの支配領域だ。
バフォメットへ連絡すれば、ディアボロスの連中を一時的に匿うことはできる。
ナオトたちが第六真祖を嫌っていることは知っている。
だが、全滅するよりはましだろう。
「ある」
ロウカが答えた。
「お父さんが見つけた道。ずっと使ってないけど」
「だったら確認しよう。通れるなら、そこから全員を逃がす。捕虜も連れていく」
「人間まで連れていくのかよ」
ナオトが噛みつく。
「ここで殺すよりはいい。途中で目隠しをして、次の居場所を知られない場所で解放すればいい」
「こいつらは口で俺たちのことを話すだろうが!」
「存在そのものはもう知られてる。今必要なのは、新しい居場所を知られないこと。それから、ここにいる全員を死なせないこと」
「どうして人間まで助ける」
「三人を生きて帰せば、人類側がすぐに総攻撃を仕掛ける理由を一つ減らせる」
「それだけか?」
「それだけ」
即答する。
もちろん、嘘だ。
いや、完全な嘘ではない。
人類側の攻撃を遅らせるためというのも本当だ。
ただ、目の前にいる人間を殺す理由がないというだけでもある。
困ったことに、最近のオレは人間を数字として割り切れなくなってきた。
孤児院でアギトやカイと暮らしたせいだろうか。
人間にも名前がある。
帰る場所がある。
待っている家族がいる。
そんな当たり前のことを知ってしまった。
実によろしくない。
ラスボスとしての適性が、日々着実に下がっている気がする。
「地下通路を確認する」
ロウカが言った。
「私が案内する」
「おい、勝手に決めるな!」
「ナオトは捕虜を見てて」
「俺がリーダーだぞ!」
「だからお願いしてる」
「その言い方で頼まれた気がしねえ!」
ロウカは兄の抗議を無視して歩き出した。
「リーシャ、こっち」
「う、うん」
何だかんだで、ナオトよりロウカの方が集団を動かしている気がする。
原作で群れを率いていた片鱗というやつだろうか。
いや、感心している場合ではない。
このまま原作どおりに進めば、ロウカはまだ生まれてもいない家族を守るため、たった一人で討魔師と戦い、アギトに殺される。
そうならないために来た。
あくまで戦力保全のためである。
大事なことなので、何度でも言っておこう。
◇ ◇ ◇
地下通路の入口は、廃モールのさらに下にあった。
地下二階の食料庫。
奥に積まれていた棚を二人で退かすと、錆びついた鉄扉が現れる。
扉の中央には、狼の爪で引っかいたような三本の傷が残っていた。
「お父さんの印」
ロウカが指先で傷跡をなぞる。
「迷わないようにつけた」
「お父さんは、この先へ何度も行ったの?」
「何回か。人間に見つからない道を探してた」
「それで、今は行方不明なんだっけ」
「うん」
ロウカの返事は短い。
それ以上は何も言わなかった。
父親が生きているとも言わない。
死んでいるとも言わない。
分からないものを、分からないまま抱えている。
カイと少し似ていると思った。
「開ける」
ロウカが取っ手へ手をかける。
錆びついた扉は、耳障りな音を立てながら、少しずつ奥へ開いた。
中から湿った空気が流れてくる。
オレたちはランタンを手に、細い階段を下りた。
壁も天井もコンクリートで固められている。
ところどころに古い配管と、黒ずんだ術式線が走っていた。
戦争前、人類側が利用していた設備なのだろう。
「この先をずっと行けば、川の下に出る」
ロウカが言う。
「どれくらいかかる?」
「前にお父さんと歩いたときは、半日」
「子供に歩かせる距離じゃないな」
「私は六歳だった」
「もっとダメじゃん」
「途中から背負ってもらった」
「急にかわいい思い出を差し込まないで」
「何で?」
「何でもない」
ロウカは首を傾げた。
そのまま薄暗い通路を進む。
十分ほど歩いたところで、前方から水音が聞こえてきた。
嫌な予感がする。
ランタンを高く掲げた。
「……うわ」
通路は途中で途切れていた。
天井から崩れ落ちた大量の土砂とコンクリートが、道を完全に塞いでいる。
隙間から地下水が流れ込み、足元には濁った水が溜まっていた。
崩落は最近起きたものではない。
瓦礫の表面には苔が生え、一部は土と一体化している。
「通れないね」
「うん」
ロウカは瓦礫へ近づき、手を当てた。
狼耳を立て、向こう側の音を探るように目を閉じる。
「奥まで埋まってる」
「掘るとしたら?」
「何日もかかる。たぶん、もっと」
「そんな時間はないか」
「ないと思う」
ヨコハマへ逃がす案は、開始から十五分で終了した。
頼むから世界よ。
もう少しオレに優しくしてくれないだろうか。
死亡フラグを抜こうとするたび、別の死亡フラグが地面から生えてくる。
雑草よりたくましい。
「ほかの道は?」
「西」
「やっぱり、さらに西か……」
人類の支配域から離れるという意味では正しい。
だが、西へ行くほど食料も安全な寝床も減る。
健康な吸血鬼だけなら、まだ何とかなるかもしれない。
問題はロウカの母親だ。
あの腹の大きさでは、もう出産も近い。長い距離を、それも追手から逃れながら移動させていい身体ではない。
急がなければ追いつかれる。
だが、急がせれば母子が危ない。
何だこの無理ゲー。
「戻ろう」
オレは踵を返した。
「動けるうちに、西へ逃げる準備を始める。捕虜も連れていく」
「ナオトは反対する」
「知ってる」
「たぶん怒鳴る」
「それも知ってる」
「殴るかもしれない」
「それはロウカが止めて」
「分かった」
頼もしい。
兄への対処方法として正しいかどうかは別として。
◇ ◇ ◇
地下の搬入倉庫へ戻ると、ナオトは本当に怒鳴った。
「ふざけんな! 誰が逃げるか!」
予想どおりすぎて、逆に安心感すらある。
「通路は崩れてた。ヨコハマへは行けない」
「だったらここで戦う!」
「さらに西へ逃げる」
「ここは親父が作った場所だぞ!」
「だから何?」
「何だと……?」
「お父さんが作ったのは、建物じゃない」
ロウカが言った。
「私たちが生きられる場所を作った。ここに残って全員死んだら、何も残らない」
ナオトの顔が歪む。
「お前まで、こいつの言うことを聞くのか」
「リーシャが正しいと思う」
「第六真祖の眷属かもしれねえやつだぞ!」
「違うって言ってる」
「信じられるか!」
「私は信じる」
迷いのない返答だった。
何ということだ。
将来配下にする可能性があるとは考えていたが、いつの間にか信頼度がかなり上がっている。
ありがたい。
ありがたいのだが、胃が痛い。
オレ、本物の第六真祖なんだよなあ。
「お前ら……」
「話はあと」
ロウカが倉庫の奥へ視線を向けた。
「一人、さっきから動きがおかしい」
「え?」
見る。
捕虜の中で一番若い男が、身体をわずかに傾けていた。
後ろ手に縛られているため、最初は姿勢を直そうとしているだけに見えた。
だが違う。
片方の靴を床へ押しつけ、中に隠していた何かを取り出そうとしている。
「止めて!」
オレが声を上げる。
若い男の足元から、細い銀色の棒が転がり出た。
親指ほどの大きさ。
表面には細かな術式が刻まれている。
人類側の救難信号具だ。
「動くな!」
ナオトが短剣を抜く。
若い男は床へ倒れ込むようにして、銀の棒を手に取った。
「来るな!」
「それを捨てて! 危害は加えない!」
「信じられるか!」
男が叫ぶ。
「お前らは、俺たちを殺すつもりだろ!」
「殺さない!」
「さっきから殺すって言ってるじゃないか!」
オレはナオトを見る。
ナオトが気まずそうに口を閉じた。
うん。
これは反論できない。
「俺には帰る場所がある!」
男の首元から、古びた銅色のペンダントがこぼれた。
片翼の鳥が彫られている。
反対側に、もう一枚を重ねるような形だった。
「妹が待ってるんだ!」
男は銀の棒を床へ叩きつけた。
甲高い音が響く。
銀色の光が倉庫いっぱいに広がった。
「っ……!」
皮膚が焼ける。
オレだけではない。
ロウカとナオトも顔をしかめ、周囲にいた吸血鬼たちが一斉に後退した。
救難信号具から放出された銀のマナが、床の下へ吸い込まれていく。
その瞬間。
倉庫の壁に埋め込まれていた古い術式線が、一斉に青白く光った。
「何、これ……」
この廃モールは、人類が支配していた時代の建物だ。
吸血鬼の襲撃へ備え、地下施設全体に銀の防衛術式が張り巡らされていたのだろう。
長い年月と戦闘によって壊れ、機能を停止していた。
そこへ救難信号具から、高濃度の銀のマナが流れ込んだ。
壊れた術式回路が、無理やり目を覚ましたのだ。
バチッ、と乾いた音がした。
床の亀裂から、銀色の火花が噴き出す。
「全員、伏せて!」
次の瞬間、地下全体が大きく揺れた。
天井から砂埃が落ちる。
古い支柱へ、青白い亀裂が走った。
まずい。
「逃げろ!」
ナオトが叫ぶ。
支柱が折れた。
頭上の天井が崩れ落ちる。
考えるより先に身体が動いた。
オレは近くにいたロウカを突き飛ばし、その奥にいた母親へ飛び込んだ。
母親は咄嗟に腹部を両腕で抱え、身を丸めている。
オレは彼女の前に立ち、両腕を広げた。
落下してきた巨大な瓦礫を受け止める。
「リーシャ!」
「お母さんを連れて逃げて!」
人間の子供ではあり得ない重量が、両腕へ食い込んだ。
骨が軋む。
足元の床がひび割れる。
真祖の力を解放すれば、こんなものは簡単に弾き飛ばせる。
だが、ここには人間がいる。
追ってきた月夜が近くにいる可能性もある。
大きな魔力を使えば、正体を隠せなくなる。
――くそ。
今はそんなことを考えている場合か。
「母さん!」
ナオトが駆け寄り、母親の腕をつかむ。
ロウカも反対側から身体を支えた。
二人が母親を崩落範囲の外へ運び出す。
「こっちだ!」
捕虜の若い男が叫んだ。
彼のすぐ横でも、天井が崩れている。
眼鏡の男は足を瓦礫に挟まれ、動けない。
無精髭の男が、必死に助け起こそうとしていた。
若い男は立ち上がると、二人の背中を崩落範囲の外へ突き飛ばした。
「お前も離れて!」
オレが叫ぶ。
男がこちらを見る。
一瞬だけ目が合った。
恐怖で歪んだ、ごく普通の人間の顔だった。
その上から、巨大なコンクリート片が落ちた。
「――っ!」
鈍い音がした。
男の身体が、瓦礫の下へ消える。
地下施設を揺らしていた振動が、ようやく止まった。
砂埃だけが、白い煙のように倉庫を漂っている。
「お母さんは?」
「無事」
ロウカが答える。
母親は床へ座り込み、腹部を庇うように両腕で抱えていた。
青ざめてはいるが、目立った外傷はない。
ナオトが母親の前へしゃがみ込み、何度も様子を確かめている。
「痛むか?」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ。この子も、きっと大丈夫」
母親が腹部を撫でる。
ナオトはようやく小さく息を吐いた。
生き残った捕虜二人も無事だった。
一人を除いて。
「どいて!」
オレは瓦礫の山へ駆け寄った。
床に残った銀の術式線が、まだ青白く明滅している。
近づくだけで皮膚が焼け、白い煙が上がった。
それでも手を伸ばす。
瓦礫をどかす。
一つ。
二つ。
三つ。
「リーシャ、手が」
「平気!」
ロウカの声を振り切る。
ようやく、若い男の上半身が見えた。
胸から下が、大きなコンクリート片に押し潰されている。
口元から血が流れていた。
まだ息はある。
「今、出すから」
「……何で」
「喋らないで」
「吸血鬼、なのに……」
「私は人間だから」
自分でも、何を言っているのか分からない。
いや、人間の姿をしているのだから、嘘ではない。
たぶん。
オレはコンクリート片へ手をかける。
持ち上げようとした瞬間、男が苦しそうに息を吐いた。
「やめろ……」
「でも」
「もう、分かる」
「分からないよ。黙ってて」
「妹に……」
男の指が、胸元のペンダントへ触れる。
片翼の鳥。
鎖が途中で切れ、血に濡れていた。
「帰るって、言ったんだ……」
「自分で帰って言えばいいでしょ」
「それ……」
男は、生き残った無精髭の男へ視線を向ける。
無精髭の男が、瓦礫のそばへ膝をついた。
「分かった」
震える声で答える。
「俺が渡す。必ず、妹さんに渡す」
「……頼む」
若い男の手から力が抜けた。
ペンダントが床へ落ちる。
「待って」
返事はない。
「ねえ」
男の胸は、もう動いていなかった。
倉庫の中が静まり返る。
誰も、何を言えばいいのか分からないのだろう。
ナオトが救難信号具の残骸を蹴った。
「馬鹿が」
吐き捨てる。
「自分でやったんだ。俺たちのせいじゃねえ」
「ナオト」
ロウカが兄を見る。
「何だよ」
「私たちが捕まえなかったら、使わなかった」
「こいつらが勝手に俺たちの場所へ入ってきたんだろうが!」
「人間は道を測ってただけ」
「俺たちを殺しに来る道だ!」
「まだ分からない」
「分かるだろ!」
「二人とも、やめなさい」
母親の声が、二人の間へ落ちた。
先ほどまでの穏やかさは残っている。
それでも、拒めない強さがあった。
「今、誰のせいかを決めても、その人は生き返らないでしょう」
ナオトが顔を背ける。
ロウカも何も言わなかった。
どちらも間違っていない。
どちらも正しいとは言い切れない。
人間側がここへ来なければ、この男は死ななかった。
ディアボロスが捕らえなければ、救難信号具を使う必要もなかった。
ナオトが殺すと言わなければ、もう少しこちらを信じたかもしれない。
オレがもっと早く来ていれば。
最初から、全員を逃がす方法を知っていれば。
そのどれも、死んだ人間を生き返らせてはくれない。
ヨコハマのときとは違う。
オレが命令して殺したわけではない。
オレが手を下したわけでもない。
それでも、目の前で死んだ。
助けようとして、間に合わなかった。
「信号は?」
オレは尋ねた。
生き残った眼鏡の男が、壊れた銀の棒を見る。
「……途中までは発信されたはずだ」
「場所も?」
「おそらく」
最悪だ。
三人の調査員が行方不明になっただけではない。
救難信号が吸血鬼の拠点から発せられ、途中で途切れた。
人類側は迷わない。
ここに捕虜がいると判断する。
救出部隊を送る。
それだけで済まなければ、制圧部隊も来る。
「どれくらいで来る?」
「分からない」
無精髭の男が答えた。
「近くに巡回部隊がいれば、数時間。すでにこちらへ向かっている部隊がいるなら、もっと早い」
「数時間……」
地下通路は塞がっている。
ヨコハマへは逃げられない。
捕虜は一人死んだ。
救難信号はこちらの位置を知らせた。
状況は、オレが来る前より確実に悪くなっている。
いや。
少なくとも、生きている者はまだいる。
ロウカ。
ナオト。
ロウカの母親。
その腹の中にいる、まだ生まれていない子供。
ディアボロスの仲間たち。
残った二人の捕虜。
今からでも、逃がすことはできる。
「西へ行く」
オレは立ち上がった。
焼けただれた両手が、しゅうしゅうと音を立てながら治っていく。
誰かに見られる前に、袖の中へ隠した。
「全員で、さらに西へ逃げる」
「俺は行かねえ」
ナオトが言った。
「またその話?」
「ここを捨てるくらいなら戦う」
「戦ったら、お母さんも死ぬよ」
オレは母親の腹部へ視線を向けた。
「お腹の子も」
「死なせねえ」
「どうやって?」
「俺が守る!」
「一人で?」
「そうだ!」
ナオトは迷わなかった。
本気でできると思っている。
父親がいなくなってから、そうやって家族を守ってきたのだろう。
だから自分が残れば、何とかなると信じている。
ロウカと同じだ。
来なくていい。
私が片づける。
この兄妹は、どうして自分だけを守るべき家族の数へ入れないのだろう。
「ダメ」
ロウカが言った。
「みんなで逃げる」
「お前は母さんを連れていけ」
「ナオトも来て」
「その身体で母さんを走らせられるかよ。誰かが残って時間を稼がなきゃ、すぐに追いつかれる」
「まだ来てない」
「すぐ来る!」
「なら、来てから考える」
「来てからじゃ間に合わねえんだよ!」
二人の声が倉庫へ響く。
床には、一人の人間が死んでいる。
その手が届かなかった場所に、片翼のペンダントが落ちていた。
無精髭の男が、それを拾い上げる。
血を袖で拭い、強く握り締めた。
いつか、もう片方の翼を持つ誰かのところへ届くのだろう。
そしてその誰かは、兄がここでどう死んだと教えられるのだろうか。
吸血鬼に殺された。
おそらく、それだけだ。
完全な嘘ではない。
だが、本当のことでもない。
そのとき。
ロウカの狼耳が、ぴくりと動いた。
彼女は口を閉ざし、東の方角へ顔を向ける。
「どうしたの?」
「音がする」
ロウカは目を細めた。
「何の音?」
「足音」
倉庫の誰も動いていない。
オレにはまだ聞こえない。
だが、ロウカには届いている。
「何人?」
「分からない」
ロウカの耳が、もう一度動く。
「たくさん」
救難信号へ応えた人類が、もう動き始めている。
原作では、八年後に起きるはずだった。
西トウキョウ掃討作戦。
今、こちらへ近づいているものが、それと同じ事件なのかは分からない。
規模も。
目的も。
誰が来るのかも。
ただ一つだけ分かる。
歴史を変えたからといって、救える命が増えるとは限らない。
原作では語られなかった誰かが、もう死んだ。
そして、これは始まりにすぎなかった。