エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。 作:サボテニウム
「たくさん」
ロウカの短い言葉で、倉庫の空気が変わった。
人類側の部隊が近づいている。
それも、捕虜を連れ戻すだけの人数ではないらしい。
「どっちから?」
「東」
「距離は?」
「まだ遠い。でも、近づいてる」
正確な距離までは分からないらしい。
だが、狼の聴覚が捉えたということは、すでにのんびり話し合っている時間はない。
オレは倉庫の中を見回した。
ロウカ。
ナオト。
身重の母親。
ディアボロスの吸血鬼たち。
生き残った二人の調査員。
そして、床へ横たわる一人の死体。
全員を逃がす。
口で言うのは簡単だが、問題しかない。
健康な吸血鬼だけなら、地上へ出たあと散開させればいい。
だが、ロウカの母親を走らせるわけにはいかない。捕虜の眼鏡の男も、先ほどの崩落で足を痛めている。
しかも、人類側は東から来る。
逃げるのは西。
目的地は不明。
食料も足りない。
素晴らしい。
どうやら神様は、オレに難易度調整という概念を教える気がないらしい。
「ロウカ」
「うん」
「動ける人を二つに分けて。食料と水を運ぶ人。それから、お母さんを運ぶ担架を作る人」
「分かった」
「持っていくのは最低限でいい。重いものは捨てる」
「ここにある物は、父さんが集めた物だぞ」
ナオトが睨んでくる。
「持って逃げて、全員追いつかれたら意味がないよ」
「だから俺が残るって言ってんだろ!」
「その話はあと」
「勝手に終わらせるな!」
「時間がないの!」
オレが声を張ると、ナオトが一瞬だけ黙った。
その隙にロウカが周囲へ指示を出す。
「食べ物と水を集めて。毛布は二枚だけ。棚の板を外して、お母さんを運ぶものを作る」
「おい、ロウカ!」
「早くして」
「俺がリーダーだぞ!」
「なら、もっと大きな声で同じことを言って」
「てめえ……!」
何だかんだ言いながら、周囲の吸血鬼たちは動き始めた。
ロウカの指示に従って。
ナオトの立場については、今は深く考えないでおこう。
「あなたたちは立てますか?」
オレは生き残った調査員二人の前へしゃがんだ。
無精髭の男が、隣に座る眼鏡の男を見る。
「俺は平気だ。こいつは足をやられてる」
「折れてはいない」
眼鏡の男が答えた。
「歩ける。ただ、走るのは無理だ」
「分かりました」
オレは二人の後ろへ回り、拘束していた縄へ手をかける。
「何してやがる!」
ナオトの怒声が飛んできた。
「縄を解いてる」
「見りゃ分かる! 何で解くんだって聞いてんだ!」
「逃がすから」
「こいつらだけ東へ戻す気か!?」
「そうだよ」
「正気か!」
縄を引きちぎるほどの力を使わないよう、結び目を指で解いていく。
今ここで人間離れした怪力を見せる必要はない。
ただでさえ、さっきはやらかしたばかりなのだ。
巨大な瓦礫を両腕で支える八歳児。
うん。
どう考えても、人間の挙動ではない。
幸い、崩落時は砂埃がひどかった。
捕虜たちからは、オレが瓦礫の下に入ったことくらいしか見えていないはずだ。
たぶん。
そうであってくれ。
「救難信号が出た以上、この人たちを殺しても何も隠せない」
「俺たちのことを喋るだろうが!」
「喋ってもらうんだよ」
「何?」
縄が解ける。
無精髭の男は自由になった両手を擦りながら、訝しそうにオレを見た。
「東から来る部隊に会ったら、二人が生きていることを伝えてください」
「……それだけか?」
「ここには戦うつもりのない人がいることも」
ナオトが鼻で笑った。
「誰が戦うつもりはねえって?」
「少なくとも、お母さんは戦えない」
ナオトの顔から笑みが消える。
「お腹の子も」
「それを人間が気にすると思うか?」
「思わないかもしれない」
ナオトの問いに、オレは正直に答えた。
「でも、あなたたちが伝えなかったら、絶対に伝わらない」
無精髭の男は何も言わなかった。
手の中には、死んだ若者のペンダントが握られている。
「俺たちが戻ったところで、部隊が止まるとは限らんぞ」
「止めてくれなくていいです」
「何?」
「少しだけ遅らせてください」
オレは頼む。
「捕虜を助けるために急いでいるなら、もう助ける必要はないと分かれば、確認する時間くらいはできる。十分でも、二十分でもいい」
「その間に逃げるつもりか」
「はい」
「俺たちに、吸血鬼を逃がす手伝いをしろと?」
「あなたたちを殺さなかった吸血鬼を、少しだけ見逃してほしいと言っています」
「殺すって言ってたやつもいるがな」
無精髭の男がナオトを見る。
ナオトは目を逸らさなかった。
「俺は今でも殺すべきだと思ってる」
「正直で結構」
男が乾いた笑いを漏らす。
「けど、俺たちを助けようとした吸血鬼もいた」
ロウカを見る。
次に、オレへ視線を移す。
「いや……お嬢ちゃんが吸血鬼かどうかは知らんが」
心臓が跳ねた。
顔には出さない。
「私は人間です」
「そうか」
男はそれ以上追及しなかった。
信じたわけではないだろう。
だが、今は互いの正体を確認している場合ではなかった。
「死んだ仲間も連れて帰りたい」
「分かりました」
「待て」
ナオトが遮る。
「死体まで運んでやる気かよ」
「ここに残したら、戦闘に巻き込まれる」
「知るか」
「お兄さんの家族が待ってる」
「俺たちには関係ねえ」
「なら、ナオトは自分のお父さんがどこで死んでいても、帰ってこなくていいの?」
ナオトの表情が固まった。
しまった。
言ってから気づく。
これは、さすがに言い方が悪かった。
「……ごめん」
「謝るくらいなら言うな」
「うん」
「でも運ぶ」
「話を聞け!」
そうしている間にも、ロウカたちは着々と準備を進めていた。
棚から外した二枚の板へ毛布を巻きつけ、簡易的な担架を作っている。
母親は自分で歩けると言い張っていたが、ロウカとナオトの双方から止められていた。
兄妹は普段あれだけ喧嘩しているくせに、母親のことになると意見が一致するらしい。
死んだ若者の身体も、別の板へ乗せる。
無精髭の男と、比較的怪我の軽い吸血鬼が一人ずつ端を持った。
奇妙な光景だった。
人間の死体を、人間と吸血鬼が一緒に運んでいる。
その数時間前まで、互いに敵だと考えていた者同士が。
感動的な場面と言いたいところだが、実際には双方とも相手から目を離していない。
いつ裏切られても対応できるように。
うん。
現実なんて、そんなものだ。
「リーシャ」
ロウカが近づいてくる。
手には細長く裂いた布を持っていた。
「手、出して」
「もう平気だよ」
「嘘」
「本当に」
「見せて」
有無を言わせない声だった。
オレは仕方なく、袖の中から両手を出す。
銀の術式で焼かれた皮膚は、すでに再生を始めている。
それでも手のひらから指先にかけて、赤黒い火傷の跡が残っていた。
完全に治してしまえば、それはそれで人間ではないと疑われる。
自然治癒に見える速度へ抑えておいた方がいい。
真祖なのに、自分の治癒力へ手加減しなければならない。
何とも贅沢な悩みである。
ロウカはオレの両手へ布を巻き始めた。
「痛い?」
「少しだけ」
「さっきは平気って言った」
「心配させたくなかったから」
「心配するかどうかは、私が決める」
「……はい」
何だろう。
言っていることが少しカイに似ている。
オレの周りには、こういう正論で逃げ道を塞いでくるガキしかいないのだろうか。
「きつくない?」
「大丈夫」
「今のは信じる」
「判断基準が分からない」
ロウカが布の端を結ぶ。
そのとき。
地上から、何かが倒れる音が聞こえた。
ロウカとナオトが同時に入口を見る。
周囲の吸血鬼たちも動きを止めた。
「もう来た?」
オレが尋ねる。
「違う」
ロウカが耳を澄ませる。
「一人」
一人?
人類側の部隊とは別だろうか。
足音がする。
ゆっくりと。
隠すつもりもなく、地下へ続く階段を下りてくる。
カツン。
カツン。
硬い靴底が、コンクリートを叩く。
聞き覚えのある歩き方だった。
いや。
そんなはずはない。
ここは孤児院からどれだけ離れていると思っている。
普通の人間が、オレを追ってこんな短時間で到着できるわけ――。
「見つけた」
階段の上から声がした。
終わった。
人生が。
いや、一度終わっているので、正確には二度目の人生が終わった。
薄暗い階段から、一人の男が姿を現す。
黒い外套。
腰に差した刀。
その下に覗くのは、通常の討魔師へ支給されるものとは明らかに造りの異なる鎧装だった。
十三戦鬼にのみ着用を許された専用鎧装。
吸血鬼側にも、人類最高戦力の証として知られている装備だ。
鬼龍院月夜。
オレを見つけた月夜は、安心した顔もしなければ、怒鳴りもしなかった。
ただ、倉庫の中を静かに見回した。
吸血鬼たち。
拘束を解かれた人間。
運び出されようとしている死体。
崩れた天井。
焼け焦げた床。
最後に、オレを見る。
「何をしている」
「これはですね」
何から説明すればいいのだろう。
友達から手紙が来たので、監視役を虫で騙して脱走し、人類側の捕虜を助けようとしたら、銀の救難信号具によって古い防衛設備が暴走して一人死にました。
よし。
完璧だ。
一つも弁解になっていない。
「逃がしています」
結局、一番短い答えを選んだ。
月夜の視線が、二人の調査員へ移る。
「誰をだ」
「全員です」
月夜の眉が、わずかに動いた。
オレの後ろで、ナオトが短剣を構える。
だが、その切っ先は僅かに震えていた。
ナオトの視線は月夜の顔ではなく、外套の下に覗く鎧装へ釘付けになっている。
「……十三戦鬼」
押し殺した声だった。
月夜の視線が、ナオトへ向いた。
殺気はない。
だが、それだけでナオトの身体が強張った。
鎧装を見ただけで正体を察したのなら、同時に力の差も理解しているのだろう。
「武器を下ろせ」
「嫌だと言ったら?」
「その腕ごと下ろす」
「……やってみろよ」
ナオトが一歩前へ出る。
ロウカが兄の服をつかんだ。
「ナオト、ダメ」
「離せ」
「勝てない」
「やってみなきゃ分かんねえだろ!」
「分かる」
即答だった。
頼むから、この兄妹はもう少し相手の心を気遣ってほしい。
ただ、ロウカの判断は正しい。
今のナオトが月夜と戦えば、一撃で終わる。
ゲームの設定上でも、十三戦鬼は上級吸血鬼を単独で倒せる化け物たちなのだ。
対するナオトは、名前と立ち絵はあるが、戦闘能力について特筆されていない一般吸血鬼。
レア度で言えば、最高レアと強化前の配布キャラくらい違う。
「月夜さん」
オレは二人の間へ入った。
「戦うつもりはありません」
「そいつらは?」
「ありません」
「お前に聞いてない」
月夜がナオトを見る。
ナオトは答えない。
正確に言えば、戦う気満々だから答えられない。
「ナオト」
ロウカが服を引く。
「今は逃げる」
「……くそっ」
ナオトが短剣を下ろす。
月夜は刀から手を離さなかったが、抜きもしなかった。
「リーシャ」
「はい」
「こっちへ来い」
「行けません」
「命令だ」
「聞けません」
月夜の目が細くなった。
孤児院で「ここにいろ」と言われたときと同じだ。
違うのは、今度はオレも退けないということ。
「人間二人は解放しました。今から東へ戻します」
「吸血鬼どもは」
「西へ逃げます」
「お前には関係ない」
「あります」
「どういう関係だ」
「友達」
ロウカが答えた。
オレより先に。
月夜がロウカを見る。
「お前に聞いてない」
「私がリーシャの友達だから答えた」
「そうか」
「そう」
会話が終わった。
何だ、この二人。
無口な人間同士を会話させると、ここまで情報量が減るのか。
「リーシャ」
月夜がもう一度オレを呼ぶ。
「来い」
「みんなを逃がしたら戻ります」
「今だ」
「今は無理です」
「そいつらは吸血鬼だぞ」
「知っています」
「なら、どけ」
「嫌です」
月夜の手が刀の柄を握る。
オレはその場から動かない。
怖くないわけではない。
ゲームに登場した月夜の戦闘能力は知っている。
原作では、本気を出したバフォメットと互角に斬り合った男だ。
人間の姿を維持したまま戦えば、オレでも無傷では済まない。
だが、今ここで退けば、月夜はロウカたちを斬るかもしれない。
「待ってくれ」
緊張を破ったのは、無精髭の男だった。
死んだ仲間の担架から手を離し、月夜へ向き直る。
「その子は、俺たちを逃がそうとしている」
月夜は男を見る。
「捕虜か」
「ああ」
「何があった」
無精髭の男が、ここで起きたことを話し始めた。
西側の測量中、ディアボロスに発見されて捕らえられたこと。
ナオトが三人を殺そうとしていたこと。
オレとロウカが反対したこと。
若い男が救難信号具を使ったこと。
古い防衛術式が暴走し、崩落が起きたこと。
「死んだのは」
「信号を使った若いやつだ」
「吸血鬼に殺されたんじゃないのか」
「少なくとも、俺が見た限りでは違う」
男は死体を見る。
「俺たちを逃がして、瓦礫の下敷きになった」
「そのあと、この子が助けようとした」
眼鏡の男も口を挟んだ。
「手が焼けても、瓦礫をどかし続けていた」
余計なことを。
月夜の視線が、布を巻かれたオレの両手へ落ちる。
「見せろ」
「大した怪我ではありません」
「見せろ」
同じ言葉を繰り返す。
逆らっても、今度は力ずくで確認されるだろう。
オレは渋々、右手の布を少しだけ解いた。
赤黒く焼けた皮膚が露わになる。
治りかけてはいるが、表面にはまだ火傷の痕が残っている。
月夜はオレの手に触れなかった。
近づけた視線だけで状態を確認する。
「何で焼けた」
「瓦礫をどかしたときに」
「瓦礫で火傷するのか」
「床の術式が暴走していました」
オレは周囲を示す。
壁と床には、青白い術式が走った跡が残っている。
破裂した回路の周辺は黒く焦げ、天井から落ちた鉄材の一部も熱で変形していた。
どの焼け跡が銀によるもので、どれが術式回路の発熱によるものか。
見ただけでは区別できない。
少なくとも、オレにはできない。
月夜にもできないでくれ。
「素手で触ったのか」
「急いでいたので」
「便利な言葉だな」
「事実です」
月夜はオレの手から、焼け焦げた床へ視線を移した。
納得したようには見えない。
かといって、火傷を見ただけで正体を見抜いた様子もない。
大丈夫。
まだだ。
まだ、決定的な証拠は何も見られていない。
「こいつを信じるな」
突然、ナオトが言った。
お願いだから黙っていてほしい。
「ナオト」
ロウカが止めようとするが、遅かった。
「そいつは第六真祖の手先かもしれねえ」
倉庫の空気が、また変わった。
月夜がゆっくりとナオトを見る。
「どういう意味だ」
「リーシャはゲルマニアから来たって言ってた。父親も向こうの吸血鬼だってな」
ナオト。
あとで絶対に殴る。
それも、原型がなくなるくらい殴る。
「違います」
オレはすぐに否定した。
「何が違う」
「父がゲルマニア出身なのは本当です。でも、吸血鬼ではありません」
「俺たちには吸血鬼だって言っただろうが」
「そう言わないと、話を聞いてもらえないと思ったからです」
「は?」
ナオトが呆れた声を出す。
「じゃあ、最初から俺たちを騙してたのか!」
「ナオトたちも、勝手に信じただけでしょう」
「開き直りやがった!」
「今はそこじゃない」
「俺にとっては大問題だ!」
月夜は騒ぐナオトから目を離し、オレだけを見ていた。
「父親はゲルマニア人なのか」
「……はい」
「名前は」
答えられない。
リーシャの父親の名前を、オレは知っている。
カイゼン・フォン・ゲルマニア。
先代の第六真祖。
口にすれば、すべてが終わる。
「覚えていません」
「母親だけじゃなく、父親の名前もか」
「小さいころに死にましたから」
嘘だ。
正確には、リーシャが生まれて間もないころに死んでいる。
オレの記憶にないという意味なら、嘘ではない。
相変わらず便利な理屈である。
月夜は何も言わなかった。
けれど、その顔から感情が消えている。
怖い。
怒っているのか。
疑っているのか。
何か別のことを考えているのか。
全く分からない。
「吸血鬼のふりをして、吸血鬼の集団へ近づいた」
月夜が確認する。
「はい」
「使い魔に追跡させていたのも、こいつらか」
「違います」
「なら誰だ」
「……知りません」
さすがに「私です」とは言えない。
「知らない使い魔に助けられて、夜中にここまで来たのか」
「それは」
「孤児院からここまで何キロあると思ってる」
「途中で荷車に乗りました」
口から出任せである。
「誰の荷車だ」
「寝ていたので分かりません」
「随分と都合よく西へ向かう荷車があったんだな」
「日頃の行いがよかったんだと思います」
「そうか」
絶対に信じていない。
だが、月夜はそれ以上問い詰めなかった。
代わりに、オレの肩越しにロウカたちを見る。
「お前は、どちらの味方だ」
どちら。
人間か。
吸血鬼か。
そんなもの、決まっている。
オレは第六真祖だ。
本来なら、迷う余地などない。
それなのに、今のオレの後ろには吸血鬼がいる。
目の前には、助けようとした人間がいる。
どちらかを選べと言われても、選べるはずがなかった。
「死にたくない人の味方です」
「人、か」
月夜が小さく言う。
失敗した。
吸血鬼は人ではない。
ナオトなら、そう揚げ足を取るかもしれない。
「吸血鬼も含めてです」
「両方助ける気か」
「はい」
「できると思ってるのか」
「できるかどうかは、やってから考えます」
「無計画だな」
「月夜さんに言われたくありません」
あ。
言ってしまった。
月夜の眉が少しだけ動く。
「随分と余裕があるらしいな」
「ありません」
「なら、少しは反省しろ」
「帰ったらします」
「帰る気はあるんだな」
「あります」
「本当に?」
「……あります」
疑われている。
正しく。
「三分だ」
月夜が言った。
「え?」
「人間二人を東へ向かわせろ」
月夜は無精髭の男たちを見る。
「俺が途中まで護衛する」
「吸血鬼たちは?」
「知らん」
「でも」
「俺が見ていない間に、勝手にどこかへ行くかもしれないな」
月夜は淡々と言った。
一瞬、意味が分からなかった。
いや。
分かってはいけない気がした。
「三分で準備しろ」
「五分ください」
「三分だ」
「お母さんがいるんです」
「四分」
「間を取る場所がおかしくないですか?」
「三分に戻すぞ」
「四分でお願いします」
月夜がオレを睨む。
オレも目を逸らさなかった。
「四分後、お前は俺と帰る」
「分かりました」
「嘘をつくな」
「まだついてません」
「これからつく顔をしてる」
鋭い。
何なのだ、この男。
カイだけでも厄介なのに、さらに観察力の高い人間を追加しないでほしい。
「リーシャ」
ロウカが呼ぶ。
「準備できた」
母親を乗せた担架。
食料と水を詰めた袋。
最低限の毛布。
ほかの物資は、ほとんど残していくらしい。
ナオトはまだ納得していない顔をしていた。
それでも、母親の担架の横に立っている。
「西へ行って」
オレはロウカへ言った。
「できるだけ地上の道は使わないで。人間の集落には近づかないこと」
「リーシャは?」
「捕虜を見送ったら追いつく」
「私も残る」
「ダメ」
「なら、リーシャも一緒に来て」
「すぐ行くから」
「その言葉は信用できない」
「何で?」
「来なくていいって書いたのに来たから」
「そこにつながるの?」
ロウカは真剣だった。
困った。
信頼されているのか、信用されていないのか分からない。
「私が戻らなかったら、ナオトとお母さんを守って」
「リーシャも守る」
「今は家族を優先して」
「リーシャも友達」
言葉に詰まる。
ロウカは相変わらず無表情だった。
だからこそ、冗談ではないことが分かる。
「……ありがとう」
「一緒に来て」
「月夜さんと約束したから」
ロウカが月夜を見る。
月夜もロウカを見る。
「リーシャを連れていく?」
「ああ」
「殺す?」
「今のところは」
「今のところ?」
「ロウカ、気にしなくていいから」
何ということを言うのだ、この男。
案の定、ロウカの目つきが鋭くなった。
灰色の狼耳が後ろへ伏せられる。
「殺したら、殺す」
「やってみろ」
「やる」
「だから喧嘩しないで!」
時間がないのに、どうしてオレが仲裁しなければならないのだろう。
しかも十三戦鬼と未来の中ボスの。
「ロウカ、行って」
「……分かった」
納得はしていない。
それでもロウカは母親の担架へ戻った。
「ナオト」
オレは兄の方を見る。
「何だよ」
「みんなをお願い」
「俺は残る」
「お願い」
「しつこい」
「ロウカはお母さんを守りながら、道を探さないといけない。後ろから来る敵まで相手にできない」
「だから俺がここで止める」
「今じゃない」
「何?」
「残るなら、敵が追いついてからでいい」
ナオトが黙る。
「今ここで一人になっても、ただ囲まれて死ぬだけだよ。少しでも西へ進んで、逃げ道を選んで、それでも追いつかれたときに考えて」
「……お前に命令される筋合いはねえ」
「うん」
「俺が自分で決める」
「うん」
「だから、俺がみんなを連れていく」
ナオトが母親の担架を持つ吸血鬼へ指示を飛ばす。
「行くぞ。俺についてこい!」
周囲の吸血鬼たちが顔を見合わせる。
そして、歩き始めた。
ナオトではなく、西へ向かうロウカのあとを追って。
「おい! 俺が先だ!」
ナオトも慌てて駆け出す。
一応、全員で逃げることには成功した。
方法については不問としよう。
◇ ◇ ◇
月夜には、分からないことばかりだった。
リーシャは人間だと言った。
見た目も、気配も、人間の少女にしか見えない。
呼吸をしている。
体温がある。
吸血鬼特有の淀んだ魔力も感じられない。
少なくとも、月夜の目にはそう映っていた。
だが、普通の人間であるはずもなかった。
孤児院から旧西トウキョウ区域まで、八歳の少女が数時間で到達できるはずがない。
庭に足跡を残さず、外壁を越えた。
虫の使い魔を操る何者かが、脱走を手助けした。
吸血鬼たちと以前から面識があり、その集団の中で指示を出している。
人間の調査員を助けた。
同時に、吸血鬼も助けようとしている。
嘘をついていることは間違いない。
けれど、何について嘘をついているのかが分からない。
人間であることか。
吸血鬼との関係か。
生まれか。
父親か。
母親か。
それとも、すべてか。
リーシャが夕莉の娘である可能性を、月夜は捨てていない。
顔だけではない。
年齢も合う。
夕莉がゲルマニアへ渡った時期とも矛盾しない。
そして今、父親がゲルマニア出身だという話まで出た。
偶然で片づけるには、あまりにも重なりすぎている。
だが、その一方で吸血鬼とのつながりも濃すぎた。
もしリーシャが吸血鬼なら。
もし、夕莉の娘でもあるのなら。
人間と吸血鬼の間に生まれた子供ということになる。
あり得ない。
少なくとも、月夜は一度も聞いたことがなかった。
人間と吸血鬼は、姿こそ似ているが、その生命の在り方も魔力の流れも異なる。
子を成す以前に、互いの血が拒絶するとされている。
吸血鬼社会でも、人間との交わりは血を汚す大罪だと聞く。
仮に夕莉が吸血鬼と関係を持っていたのなら。
彼女がゲルマニアで処刑された理由も、これまで聞かされていたものとは変わってくる。
だが、それならなぜ、リーシャは人間にしか見えない。
逆に本当に人間なら、なぜ吸血鬼たちの中へ入り込み、これほど信頼されている。
どちらかが間違っている。
あるいは、どちらも間違っている。
今の段階で答えを決めるのは危険だった。
黒だと決めれば、斬らなければならない。
白だと決めれば、見落とすものがある。
ならば、灰色のまま連れ帰る。
少なくとも、ここで死なせるよりはいい。
「行けるか?」
月夜は眼鏡の男へ尋ねた。
「ああ。ゆっくりなら」
「途中で部隊に会うはずだ」
「お前は一緒に来ないのか」
「少し遅れて行く」
男はリーシャを見る。
「その子を連れて?」
「ああ」
「なら、無事に連れて帰れ」
月夜は答えなかった。
代わりに、死体を乗せた担架の片側を持つ。
無精髭の男が驚いた顔をした。
「手伝うのか」
「時間がない」
「十三戦鬼に死体を運ばせるとはな」
「喋る余裕があるなら、そっちを持て」
「はいはい」
三人が東側の通路へ向かおうとする。
リーシャはその場に残り、西へ消えていったロウカたちの背中を見つめていた。
今すぐ追いかけたいのだろう。
月夜にもそれは分かった。
「行くぞ」
「あと少しだけ」
「四分は終わった」
「まだ三分半くらいです」
「数えてたのか」
「こういう約束には厳しいので」
「普段から厳しくしろ」
リーシャが小さく息を吐く。
そのときだった。
空気が鳴った。
低い風切り音。
月夜が顔を上げる。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、リーシャの身体を抱えて床へ倒した。
直後。
青白い風の刃が、地下倉庫の入口を横切った。
コンクリートの壁が、音もなく斜めにずれる。
一拍遅れて、上半分が崩れ落ちた。
轟音。
舞い上がる砂埃。
月夜はリーシャを庇ったまま、入口の向こうを睨む。
「今のは……」
リーシャが顔を上げる。
月夜は答えなかった。
答える必要はない。
あの風を見間違えるはずがなかった。
吸血鬼の骨と牙を芯にして鍛えられた、青白い大太刀。
圧縮した風を刃として放つ鬼狩之太刀。
そして、それを扱う十三戦鬼。
「鬼折竜禅」
月夜が名前を口にする。
遠く。
西へ逃げ始めていたロウカが、突然足を止めた。
「ロウカ?」
ナオトが振り返る。
ロウカは東から流れてきた風へ顔を向けていた。
鼻をひくつかせる。
何度も。
確かめるように。
「どうした?」
ナオトがもう一度尋ねる。
ロウカの灰色の瞳が、大きく見開かれた。
「……お父さん」
「は?」
「今の風」
ロウカは震える声で言った。
「お父さんの匂いがする」