エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。   作:サボテニウム

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第23話

 

 

 

 砂埃の向こうから、足音が聞こえた。

 

 ゆっくりと。

 

 崩れた瓦礫を踏み越え、こちらへ近づいてくる。

 

 月夜はオレを庇ったまま立ち上がった。

 

 腰に差した刀へ手を置く。

 

 けれど、まだ抜かない。

 

「鬼折竜禅」

 

 月夜が口にした名前を、オレは頭の中で反芻した。

 

 鬼折竜禅。

 

 十三戦鬼の一人。

 

 ゲーム本編にも登場した人物ではあるが、正直なところ、オレの記憶にはほとんど残っていない。

 

 吸血鬼を激しく憎んでいたこと。

 

 全身に傷があったこと。

 

 やたらと好戦的だったこと。

 

 あとは、どこかのイベント戦で戦ったような気もする。

 

 つまり、ほぼ何も分からない。

 

 素晴らしい。

 

 知識という最大の武器が、肝心なところでまるで役に立たない。

 

「相変わらず過保護だな、月夜」

 

 砂埃の奥から、低い声が響いた。

 

 苛立っているようにも、笑っているようにも聞こえる。

 

 やがて、青白い刀身が姿を現した。

 

 大太刀。

 

 月夜の刀よりも一回り以上長く、その刀身の周囲では薄い風が渦巻いている。

 

 風は一定の流れを持たず、まるで獣の呼吸のように膨らみ、縮み、青白い魔力を脈動させていた。

 

 それを肩に担ぎ、一人の男が瓦礫を踏み越える。

 

 全身を覆うのは、十三戦鬼専用の鎧装。

 

 露出した腕と顔には無数の古傷が走っている。

 

 鋭く吊り上がった目は、オレたちではなく、西へ続く通路を見ていた。

 

 口元だけが、わずかに笑っている。

 

 敵を見つけた人間の顔ではない。

 

 獲物を見つけた獣の顔だった。

 

「子供ごと斬り飛ばそうとした奴に言われたくねえな」

 

 月夜が答える。

 

「当ててねえだろうが」

 

「建物が半分崩れたぞ」

 

「避けられねえ位置には撃ってねえ」

 

「八歳児に求める判断じゃねえよ」

 

「お前がいた」

 

 鬼折は当然のように言った。

 

「なら死なねえ」

 

「信頼が重いな」

 

「褒めてやってんだ。喜べ」

 

 いや。

 

 絶対に褒めていない。

 

 月夜も同じ感想だったらしく、面倒そうに舌打ちした。

 

 鬼折の視線が、ようやくこちらへ向く。

 

 最初に月夜。

 

 次にオレ。

 

 そして、背後にいる二人の調査員と、担架へ横たえられた若者の遺体。

 

 鬼折の笑みが消えた。

 

「二人か」

 

 無精髭の男が顔を上げる。

 

「何がだ」

 

「調査員は三人と聞いてる」

 

「一人死んだ」

 

「誰に殺された」

 

「……誰にも殺されちゃいない」

 

「死体があるだろうが」

 

 鬼折の声が低くなる。

 

 無精髭の男は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 

「救難信号を使った。そいつで古い防衛術式が動いて、天井が崩れた」

 

「鬼に捕まってなきゃ、信号を使う必要もなかった」

 

「それは……そうだが」

 

「なら、鬼に殺されたのと同じだ」

 

「同じではありません」

 

 反射的に口を挟んでいた。

 

 鬼折の目がオレへ向く。

 

 鋭い。

 

 月夜とは種類の違う目だ。

 

 月夜は、オレの言葉の裏を探る。

 

 鬼折は、オレが敵かどうかだけを見ているように思えた。

 

「直接殺したわけではありません」

 

「捕虜にした」

 

「はい」

 

「殺そうとした奴もいた」

 

「……はい」

 

「なら同じだ」

 

「助けようとした人もいました」

 

「結果、一人死んだ」

 

「でも、二人は生きています」

 

「一人死んでんだろうが」

 

 話が平行線だ。

 

 鬼折の言っていることは、完全に間違っているわけではない。

 

 ナオトたちが調査員を捕らえなければ、あの若者が救難信号具を使うこともなかった。

 

 崩落も起きなかった。

 

 彼も死ななかった。

 

 原因をたどれば、確かにディアボロスへ行き着く。

 

 だからといって、ロウカたちが殺したと言い切るのも違う。

 

 事故だった。

 

 誰も望んでいなかった。

 

 そんな説明で、死んだ人間が戻るわけではないけれど。

 

「その子は俺たちを助けた」

 

 眼鏡の男が言った。

 

 鬼折の視線が移る。

 

「鬼か」

 

「人間だと言っている」

 

「言ってるだけか」

 

「見たところは人間だ」

 

 眼鏡の男はオレを見る。

 

「少なくとも、吸血鬼と一緒になって俺たちを殺そうとはしなかった」

 

「手は」

 

 鬼折が尋ねる。

 

「何?」

 

「包帯を巻いてる」

 

 まずい。

 

 オレは反射的に両手を背中へ隠した。

 

 自分から怪しい行動をしてどうする。

 

「崩落した瓦礫をどかしたときの火傷です」

 

「八歳のガキが?」

 

「急いでいたので」

 

 横で月夜が小さく鼻を鳴らした。

 

 笑ったのかもしれない。

 

 あとで覚えていろ。

 

 鬼折は焼け焦げた床と壁を見回した。

 

 破裂した術式回路。

 

 熱で変形した鉄材。

 

 それから、もう一度オレを見る。

 

「少なくとも、今は人間の臭いだな」

 

 今は、という部分が非常に気になる。

 

 十三戦鬼は全員、疑うことを趣味にしているのだろうか。

 

「だが、鬼どもが随分と大事にしてやがる」

 

「友達なので」

 

「鬼と?」

 

「はい」

 

「趣味が悪いな」

 

「よく言われます」

 

 主に自分自身から。

 

 鬼折はオレの返答が気に入らなかったらしい。

 

 眉間の皺が深くなる。

 

「そのガキをこっちへ寄越せ」

 

「断る」

 

 答えたのは月夜だった。

 

 鬼折が月夜を見る。

 

「お前に聞いてねえ」

 

「こいつの監督は俺だ」

 

「監督されてるガキが、鬼の巣にいるのか」

 

「それについては今後の課題だな」

 

「今後があればいいがな」

 

 鬼折が一歩踏み出す。

 

 月夜も、わずかに立ち位置を変えた。

 

 オレと鬼折の間へ入るように。

 

「人間なら保護する」

 

「保護って顔じゃねえだろ」

 

「鬼に誑かされてる可能性がある」

 

「自分から誑かしに行くタイプだよ、こいつは」

 

「それは保護した方がいいんじゃないですか?」

 

 思わず聞いてしまった。

 

 月夜が振り返る。

 

「黙ってろ」

 

「はい」

 

「随分懐かれてんじゃねえか」

 

「日頃の行いがいいからな」

 

「さっき、その子も同じことを言ってたぞ」

 

 無精髭の男が余計な情報を加える。

 

 鬼折が月夜とオレを交互に見る。

 

「似た者同士か」

 

「やめてください」

 

「こっちの台詞だ」

 

 即座に月夜から否定された。

 

 傷つく。

 

 鬼折は興味を失ったように鼻を鳴らすと、西の通路へ向き直った。

 

「人間は確保した」

 

 肩から大太刀を下ろす。

 

 刀身の周囲で、風が強くなった。

 

「なら、残りを狩る」

 

「任務は救出だろ」

 

 月夜が言う。

 

「終わった」

 

「救出任務はな」

 

 鬼折の口元が吊り上がる。

 

「鬼狩りは、今からだ」

 

「本隊を待て」

 

「待ってる間に逃げる」

 

「逃がせばいい」

 

 月夜が言った。

 

 倉庫の空気が静まる。

 

 鬼折の笑みが消えた。

 

「今、何つった」

 

「聞こえただろ」

 

「もう一回言ってみろ」

 

「調査員は戻った。負傷者もいる。こんな崩れかけた場所で戦えば、人間まで巻き込む」

 

「そいつらを後ろへ下げろ」

 

「一人は脚をやってる」

 

「なら、お前が担げ」

 

「俺が離れた途端、追う気だろ」

 

「当たり前だ」

 

 迷いのない即答だった。

 

「ここで逃がせば、いずれ人間を殺す」

 

「殺さない奴もいる」

 

「今はな」

 

 鬼折は西の闇を睨む。

 

「腹が減った。仲間を殺された。住む場所を奪われた。理由なんざ、あとからいくらでも生えてくる」

 

「人間も同じだろ」

 

「だから人間同士でも殺し合う」

 

「分かってんじゃねえか」

 

「分かってるから先に殺すんだよ」

 

 鬼折が大太刀を持ち上げた。

 

 青白い風が収束する。

 

 まずい。

 

 逃げたロウカたちへ、もう一度斬撃を飛ばす気だ。

 

「やめて!」

 

 オレは月夜の背後から飛び出した。

 

 だが、腕をつかまれる。

 

「出るな」

 

「でも!」

 

「お前が止められる相手じゃねえ」

 

 止められる。

 

 本当の力を使えば。

 

 第六真祖の力を解放すれば、鬼折を止めることはできる。

 

 おそらく殺すことも。

 

 だが、それをすれば、すべてが終わる。

 

 月夜の目の前で力を使えば、オレが吸血鬼か人間かという疑いは消える。

 

 完全に黒になる。

 

 孤児院へは戻れない。

 

 アギトにも、カイにも会えない。

 

 月夜も敵になる。

 

 だから、使えない。

 

 力がないからではない。

 

 力を持っているからこそ、使えない。

 

「退け、月夜」

 

「嫌だね」

 

「俺と斬り合う気か」

 

「お前が大人しく帰るなら、今日はやめといてやる」

 

「ハッ」

 

 鬼折が笑った。

 

 今までで一番楽しそうに。

 

「そういうところが気に食わねえんだよ」

 

「奇遇だな。俺もお前のそういう顔が嫌いだ」

 

「なら抜け」

 

「嫌だ」

 

「抜かせてやるよ」

 

 鬼折が大太刀を振るった。

 

 青白い風が爆発する。

 

 先ほどとは比べものにならない。

 

 地下通路そのものを削りながら、巨大な風の刃が西へ走る。

 

 ロウカたちが逃げた方向へ。

 

「月夜さん!」

 

 オレが叫ぶ。

 

 月夜の右手が、刀の柄へ触れた。

 

 次の瞬間。

 

 音が消えた。

 

 月夜は動いていない。

 

 少なくとも、オレにはそう見えた。

 

 黒い鞘。

 

 柄へ置かれた右手。

 

 立ち位置さえ変わっていない。

 

 それなのに、青白い風の刃が中央から割れた。

 

 二つに分かれた風が月夜とオレの左右を通り過ぎ、背後の壁を深く抉る。

 

 轟音が、遅れて届いた。

 

 何をした。

 

 いつ抜いた。

 

 いつ斬った。

 

 全く見えなかった。

 

「……あ?」

 

 鬼折の頬へ、細い赤線が走る。

 

 一筋の血が流れた。

 

 本人も気づいていなかったらしい。

 

 指先で頬を拭い、付着した血を見る。

 

 鬼折の口元が、大きく吊り上がった。

 

「やっと抜いたな」

 

 月夜の刀は、すでに鞘へ収まっていた。

 

「見えたのか」

 

「見えてねえよ」

 

 鬼折が笑う。

 

 心の底から楽しそうに。

 

「だから面白えんだろうが」

 

 鬼折は大太刀を構え直した。

 

 今度は月夜だけを見ている。

 

「黒刀・絶影」

 

 その名を聞いた瞬間、背筋が震えた。

 

 黒刀・絶影。

 

 月夜の刀。

 

 光を反射しない黒い刀身。

 

 抜刀する瞬間も、刃の軌道も、斬られた事実さえ相手へ認識させない。

 

 今の一撃で分かった。

 

 月夜がいつ刀を抜いたのか、オレには見えなかったのではない。

 

 月夜が刀を抜いたという事実そのものを、知覚できなかった。

 

「もう一度やれ」

 

 鬼折が言う。

 

「嫌だ」

 

「次は見切る」

 

「一回目も見えてねえだろ」

 

「だから次があんだろうが!」

 

 鬼折が踏み込む。

 

 月夜も腰を落とした。

 

 十三戦鬼同士が、本気でぶつかろうとしている。

 

 止めなければ。

 

 だが、どうやって。

 

 オレが間へ入れば、今度こそ斬撃に巻き込まれる。

 

 力を使えば正体が露見する。

 

 言葉で止まるような二人にも見えない。

 

 どうする。

 

 何か。

 

 何かないか。

 

「お父さん!」

 

 遠くから、ロウカの声が響いた。

 

 鬼折の動きが止まる。

 

 月夜が顔を上げる。

 

「ロウカ?」

 

 オレは西の通路を見る。

 

 暗闇の向こうから、小さな影が走ってくる。

 

 灰色の髪。

 

 狼の耳。

 

 ロウカだ。

 

 その後ろから、ナオトも追ってきている。

 

「待て、馬鹿!」

 

「お父さんがいる」

 

「いるわけねえだろ!」

 

「匂いがする」

 

「だからって戻るな!」

 

 何をしているのだ、あの兄妹は。

 

 逃げろと言ったばかりではないか。

 

「ロウカ、来ちゃ駄目!」

 

 オレも叫ぶ。

 

 しかし、ロウカは止まらない。

 

 鬼折が大太刀を持ち上げる。

 

 その瞬間、刀身の周囲を流れていた風が大きく揺れた。

 

 喜んでいる。

 

 そう見えた。

 

 刀が、戻ってきた二人へ反応している。

 

「なるほどな」

 

 鬼折が低く呟く。

 

「てめえらか」

 

「鬼折!」

 

 月夜が黒刀へ手をかける。

 

「分かってる」

 

 鬼折は笑った。

 

「今度は外さねえ」

 

 大太刀が振り下ろされる。

 

 青白い風が地面を這った。

 

 ロウカとナオトへ向かって。

 

 月夜の姿が霞む。

 

 再び音が消えた。

 

 気づいたときには、月夜が風の前へ立っている。

 

 黒刀・絶影は、すでに鞘へ戻っていた。

 

 風の刃だけが、数十もの細かな断片に分かれて消滅する。

 

「逃げろ!」

 

 月夜が兄妹へ叫ぶ。

 

 だが、ロウカは逃げなかった。

 

 鬼折の持つ大太刀を、じっと見つめている。

 

 正確には、大太刀の鞘を。

 

 灰色の毛皮で作られた、古びた鞘。

 

「それ」

 

 ロウカが呟く。

 

 鬼折の目が細くなる。

 

「何だ」

 

「お父さん」

 

「何の話だ」

 

「その刀」

 

 ロウカは震える指で、大太刀を指した。

 

「返して」

 

 鬼折が眉を寄せる。

 

「返す?」

 

「お父さんを返して」

 

 一瞬。

 

 本当に一瞬だけ、鬼折の顔から表情が消えた。

 

 理解できないのではない。

 

 思い当たるものを探しているように見えた。

 

 やがて鬼折は、手にした大太刀を見下ろす。

 

「……ああ」

 

 青白い風が、刀身を撫でる。

 

「旧横浜連絡路の風狼か」

 

「親父を知ってんのか」

 

 ナオトがロウカの前へ出る。

 

 鬼折を見る目に、先ほどまでとは違う殺意が宿っていた。

 

「どこにいる」

 

「ここだ」

 

「ふざけんな」

 

「ふざけてねえ」

 

 鬼折は大太刀を肩へ担いだ。

 

「骨と牙は刀身の芯。魔力核は鍔へ埋めた。皮は鞘に使ってる」

 

 ナオトの顔から血の気が引く。

 

 ロウカは動かなかった。

 

 ただ、灰色の毛皮を見つめている。

 

「何を……言ってる」

 

「そのままの意味だ」

 

「親父を、刀にしたってのか」

 

「使える遺骸だったからな」

 

「遺骸……?」

 

 ナオトの声が震える。

 

「親父を物みたいに言うな!」

 

「物じゃねえ」

 

 鬼折は、肩に担いだ大太刀をわずかに持ち上げた。

 

 青白い風が刀身へ絡みつき、低い獣の唸り声を響かせる。

 

「兵器だ」

 

「同じだろうが!」

 

「違う。物は置いておくだけだ。こいつは鬼を殺す」

 

「俺たちの父親だぞ!」

 

「俺が会ったときには、武器を持った敵だった」

 

 鬼折の口元から、笑みが消えた。

 

「旧横浜連絡路。その西東京側の出口で、そいつは一人で待ってやがった」

 

 ロウカの狼耳が動く。

 

 ナオトも、怒鳴るのを止めた。

 

「親父が……?」

 

「背後には川底を通る地下道があった。奥から女とガキの臭いがした」

 

 母親と、幼いナオトとロウカ。

 

 鬼折が嗅いだのは、おそらく三人の匂いだ。

 

 父親は家族を先に地下道の奥へ逃がし、自分だけが出口に残ったのだろう。

 

「そいつが人間を殺したかどうかは知らねえ」

 

「だったら――」

 

「だが、俺に牙を剥いた」

 

 ナオトの言葉を、鬼折が切り捨てる。

 

「戦場で武器を向けてきた相手に、善良な鬼かどうか聞き取り調査する趣味はねえ」

 

「親父は、家族を守ろうとしただけだ!」

 

「ああ」

 

 鬼折はあっさりと認めた。

 

「だから俺を殺そうとした。俺も、俺の後ろにいる人間を守るために殺した」

 

「……!」

 

「そこに何の違いがある」

 

 鬼折の言葉は冷たかった。

 

 だが、ロウカたちの父親を嘲笑してはいなかった。

 

「そいつは最後まで出口を退かなかった。逃げもしなかった。俺を止めてる間に、地下道の奥にいた連中は見失った」

 

 ナオトとロウカが生きている。

 

 母親も生きている。

 

 鬼折の話が事実なら、父親は本当に家族を逃がすため、一人で十三戦鬼を足止めしたのだ。

 

「出口の壁に、爪痕が残ってた」

 

 ロウカが呟く。

 

「あれは……」

 

「さあな。俺が着いたときには、もう刻まれてた」

 

 鬼折は興味なさそうに答えた。

 

 けれど、ロウカには何か思い当たるものがあったらしい。

 

 灰色の瞳が、わずかに揺れる。

 

 あの爪痕は、父親が家族へ残した印だったのかもしれない。

 

 この先へ行け。

 

 振り返るな。

 

「親父は……俺たちを逃がしたのか」

 

「知らなかったのかよ」

 

 鬼折が鼻を鳴らす。

 

「あの風狼は、死ぬまで一言も喋らなかったからな」

 

「だったら!」

 

 ナオトが一歩踏み出す。

 

「だったら、何で死体まで弄んだ!」

 

「弄んでねえ」

 

「骨を削って! 牙を抜いて! 皮まで剥いで! それのどこが――」

 

「強かったからだ」

 

 鬼折の声が、ナオトの怒声を押し潰した。

 

「弱い鬼の骨じゃ、刀にしたところで使い物にならねえ。そいつの風は俺の鎧装を裂いた。牙は折れず、魔力核も死んだあとまで脈打ってやがった」

 

 鬼折が大太刀の柄を握る。

 

「だから使った」

 

 それは鬼折なりの評価なのだろう。

 

 ロウカたちの父親は強かった。

 

 家族を守り、人類最高戦力の一人を足止めした。

 

 だからこそ、その遺体は武器にされた。

 

 最悪の敬意だった。

 

「土に埋めりゃ、いずれ腐る」

 

 鬼折は青白い刃をナオトへ向けた。

 

「だが、こいつは今も戦ってる」

 

「親父は、人間を守りたいなんて思ってねえ!」

 

「死体の意思なんざ聞いてねえよ」

 

「この野郎……!」

 

「返してほしけりゃ奪え」

 

 鬼折の口元に、再び好戦的な笑みが浮かんだ。

 

「そいつも、俺から家族を守ろうとした」

 

 大太刀の切っ先が、ナオトの喉元へ向く。

 

「息子のお前は、どうする」

 

 ナオトの全身から、風が噴き出した。

 

 床に積もっていた砂埃が、円を描いて吹き飛ぶ。

 

「ナオト」

 

 ロウカが兄を呼ぶ。

 

 返事はなかった。

 

 ナオトの背中が大きく膨らむ。

 

 骨が軋む。

 

 筋肉が隆起し、服を内側から引き裂いた。

 

 指先から伸びた黒い爪が、コンクリートの床を削る。

 

 灰色の体毛が腕から肩へ、肩から胸元へと広がっていく。

 

 顔が前へせり出し、人間の歯が鋭い牙へ変わった。

 

 獣血解放。

 

 獣型吸血鬼が、自らの血に刻まれた祖先の形を肉体へ呼び戻す戦闘形態。

 

 ただ姿が変わるわけではない。

 

 理性で抑えていた捕食本能も、魔力も、再生能力も、すべて解放する。

 

 だが、ナオトはまだ若い。

 

 未成熟な身体で完全な獣血解放を行えば、心臓と魔力核へかかる負担は大きい。

 

 長くは保たない。

 

 それでも、ナオトは止まらなかった。

 

 二本の脚で立つ、巨大な灰色の狼。

 

 その両腕を取り巻く風が、細く、鋭く研ぎ澄まされていく。

 

 何十もの三日月形の風刃。

 

 触れたものを切り刻む鎌鼬が、黒い爪の一本一本へまとわりついた。

 

「ワオオオオオオン――!」

 

 狼の雄叫びが、地下通路を震わせた。

 

 天井から砂と小石が降り注ぐ。

 

 ロウカが目を見開いた。

 

「お父さんと、同じ声」

 

「そうかよ」

 

 鬼折の笑みが深くなる。

 

「ようやく似てきたじゃねえか」

 

「その口で親父を語るな!」

 

 ナオトが地面を蹴る。

 

 一歩で姿が消えた。

 

 次の瞬間、鬼折の眼前へ巨大な風爪が迫る。

 

 五本の鎌鼬が床を抉り、壁を裂きながら鬼折へ殺到した。

 

「それだ!」

 

 鬼折が大太刀を振り下ろす。

 

 青白い風と、灰色の風爪が衝突した。

 

 轟音。

 

 爆発した風が、地下倉庫を内側から破壊する。

 

 飛び散った鎌鼬が、オレたちにも襲いかかった。

 

 月夜がオレの前へ出る。

 

 右手が黒刀の柄へ触れた。

 

 抜刀は見えなかった。

 

 ただ、オレへ届くはずだった風だけが、音もなく細切れになって消えた。

 

「下がってろ」

 

「ナオトが!」

 

「あいつ自身が選んだ」

 

「だからって!」

 

「今出れば、お前まで斬られる」

 

 月夜は鬼折だけでなく、ナオトも警戒していた。

 

 獣血解放によって理性を失ったわけではない。

 

 だが、今のナオトに周囲を気遣う余裕はなかった。

 

「ワオオオオオオン!」

 

 ナオトが再び吠える。

 

 右腕を横へ振り抜く。

 

 五つの鎌鼬が別々の軌道を描き、鬼折を包囲した。

 

 正面から二つ。

 

 頭上から一つ。

 

 残りの二つは壁に沿って迂回し、背後へ回る。

 

 鬼折は正面から来た風刃だけを大太刀で弾いた。

 

 背後から迫った鎌鼬が、十三戦鬼の鎧装を切り裂く。

 

 鬼折の肩と頬へ、赤い線が走った。

 

 血が流れる。

 

「当たった……」

 

 オレの口から声が漏れた。

 

 鬼折は自分の頬へ触れた。

 

 指先についた血を見る。

 

 そして笑った。

 

「親父より荒いな」

 

「黙れ!」

 

「だが――」

 

 鬼折の瞳が鋭く細められる。

 

「後ろに家族がいるときの風は、よく似てやがる」

 

 鬼折が大太刀を横へ薙いだ。

 

 青白い風が放たれる。

 

 ナオトも両腕を交差させ、灰色の鎌鼬を重ねた。

 

 二つの風が激突する。

 

 灰色の鎌鼬が、青白い風を押し返していく。

 

「いける!」

 

 そう思った。

 

 だが、大太刀を覆う風が脈打った。

 

 ナオトの鎌鼬が、突然揺らぐ。

 

「何だ……?」

 

 灰色の風が、ナオトの命令を離れていく。

 

 鬼折の大太刀へ吸い寄せられていた。

 

「この刀を鍛えた連中は、性格が悪くてな」

 

 鬼折が笑う。

 

「素材になった鬼の力を再現するだけじゃ満足しなかった」

 

 青白い風が、灰色の鎌鼬へ食らいつく。

 

「血のつながりを逆にした」

 

「血の……?」

 

「本来なら、同じ血を守るために吹く風だ」

 

 父親の風は、家族を守るために使われた。

 

 妻と子供を逃がすために。

 

 少なくとも、鬼折の話を信じるなら。

 

「そいつを、同じ血を追い詰める猟犬に作り替えた」

 

 大太刀が、ナオトの風を飲み込む。

 

 父親から受け継いだ魔力だからこそ、構造も流れも、すべて知られているのだろう。

 

 ナオトが強く風を放つほど、鬼折の刀へ与える力も増えていく。

 

「同じ風で、こいつに勝てると思うな」

 

 鬼折が大太刀を振り抜いた。

 

 奪われた灰色の鎌鼬が、父親の青白い風と混ざり合う。

 

 巨大な狼の頭部が形作られた。

 

 風の狼が口を開き、ナオトへ襲いかかる。

 

 ナオトは横へ跳ぶ。

 

 狼の牙を避けた。

 

 だが、風狼は空中で首を巡らせた。

 

 獲物を見失わない。

 

 血の匂いを追うように軌道を変え、ナオトの背中へ食らいついた。

 

「ぐあああっ!」

 

 肩から脇腹までが切り裂かれる。

 

 鮮血が宙へ舞った。

 

 獣人化した巨体が床へ叩きつけられる。

 

「ナオト!」

 

 ロウカが駆け出す。

 

「来るな!」

 

 ナオトが吠えた。

 

 黒い爪を床へ突き立て、身体を起こす。

 

 傷は深い。

 

 だが、獣血解放中の吸血鬼なら再生できるはずだった。

 

 それなのに、傷口が閉じない。

 

 青白い風が肉の奥へ入り込み、再生しようとするたび内側から切り刻んでいる。

 

「傷が……戻らねえ」

 

「血も肉も、こいつは知ってる」

 

 鬼折が歩み寄る。

 

「お前がどう風を作るか。どこに魔力を通すか。どう傷を塞ぐか」

 

 大太刀から、狼の唸り声が響く。

 

「親父が、俺を……?」

 

「違う」

 

 ロウカが首を振る。

 

「お父さんはそんなことしない」

 

「ああ。そのとおりだ」

 

 意外にも、鬼折が肯定した。

 

「こいつに、父親の意思なんざ残ってねえ」

 

 鬼折が大太刀を持ち上げる。

 

「あるのは骨と、牙と、魔力だけだ」

 

 青白い切っ先が、ロウカへ向けられた。

 

「だから、誰を斬っても迷わねえ」

 

「やめろ!」

 

 ナオトが立ち上がる。

 

 ロウカの前へ滑り込み、その巨体で妹を隠した。

 

 鬼折が愉快そうに目を細める。

 

「同じだな」

 

「何がだ」

 

「親父もそこに立った」

 

 ナオトの狼耳が動く。

 

「地下道の出口で、女とガキを背中に隠してた」

 

 その言葉に、ナオトの身体がわずかに揺れた。

 

「一度だけ吠えた」

 

 鬼折が続ける。

 

「それから、俺に向かってきた」

 

 家族へ逃げろと伝えるための雄叫びだったのだろうか。

 

 オレには分からない。

 

 だが、ナオトには何か伝わったらしい。

 

 自分の背後に立つロウカを見る。

 

 そのさらに西には、母親がいる。

 

 まだ生まれていない子供も。

 

 ナオトは今、初めて知ったのだ。

 

 自分たちが生き延びた理由を。

 

 父親が残ったからだ。

 

 一人で鬼折と戦ったからだ。

 

「ロウカ」

 

 ナオトが呼ぶ。

 

「何」

 

「母さんのところへ戻れ」

 

「一緒に行く」

 

「駄目だ」

 

「二人で戦う」

 

「この刀は、血が近いほど俺たちを見つけやすい」

 

 ナオトは傷口を押さえる。

 

 指の間から、血が流れ続けている。

 

「俺一人なら、こいつをここに縛れる」

 

「どうやって」

 

「風を喰わせる」

 

 鬼折の刀は、ナオトの風を奪える。

 

 ならば、奪わせ続ければいい。

 

 処理しきれないほどの風と魔力を叩き込み、刀をナオト一人へ釘づけにするつもりなのだろう。

 

 勝つためではない。

 

 逃がすための戦い。

 

「そんなことしたら」

 

「長くは保たねえ」

 

「死ぬ」

 

「死なねえよ」

 

「嘘」

 

「兄貴を信じろ」

 

「信用できない」

 

「何でだよ!」

 

「ナオトだから」

 

「今それ言うか!?」

 

 思わず振り返ったナオトに、ロウカがしがみつく。

 

 獣人化した灰色の毛を、細い指で強くつかむ。

 

「一緒に帰る」

 

「……」

 

「母さんのところに、二人で帰る」

 

 ロウカの声は、ほとんど震えていなかった。

 

 それでも、ナオトには分かったのだろう。

 

 妹が怖がっている。

 

 自分を失うことを。

 

「ナオト」

 

「悪い」

 

「嫌」

 

「今日だけは聞け」

 

「嫌」

 

「母さんを守ってくれ」

 

「ナオトが守って」

 

「腹の子もいる」

 

「一緒に守る」

 

「ロウカ」

 

 ナオトは妹の手を、自分の身体からゆっくりと外した。

 

「親父は、一人で俺たちを逃がした」

 

 鬼折が構える。

 

 大太刀の風が、獲物の血を求めるように唸り始める。

 

「だから俺たちは生きてる」

 

「ナオト」

 

「今度は俺の番だ」

 

 ナオトはロウカを背後へ押しやった。

 

 鬼折へ向き直る。

 

 爪にまとわりつく鎌鼬が、傷ついた身体を覆っていく。

 

「あれはもう親父じゃねえ」

 

 青白い風が膨れ上がる。

 

「親父だったものだ」

 

 ナオトは両腕を広げた。

 

 地下通路を塞ぎ、誰も自分の後ろへ通さないように。

 

「でも、親父が俺たちにくれた時間まで、あいつのものじゃねえ」

 

「ほう」

 

 鬼折が嬉しそうに大太刀を構える。

 

「やってみろ、クソガキ」

 

 ナオトは大きく息を吸った。

 

「ワオオオオオオン――!」

 

 かつて父親が家族を逃がすために放ったものと、同じなのかもしれない雄叫び。

 

 灰色の風が地下通路を埋め尽くす。

 

「親父に一度守られた!」

 

 無数の鎌鼬が、ナオトの周囲で荒れ狂う。

 

「だったら今度は、俺が家族を守る番だ!」

 

 

 

 

 

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