エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。 作:サボテニウム
「だったら今度は、俺が家族を守る番だ」
ナオトの言葉に応えるように、灰色の風が膨れ上がった。
地下通路を埋め尽くす無数の鎌鼬。
床が削れ、壁が裂け、天井から砂と小石が降り注ぐ。
風の中心に立つナオトの姿は、もう人間の少年には見えなかった。
二本の脚で立つ、巨大な灰色の狼。
黒い爪。
血に濡れた牙。
肩から脇腹へ走る深い傷。
傷口には青白い風が食らいつき、塞がろうとする肉を内側から切り刻んでいる。
それでも、ナオトは倒れなかった。
ワオオオオオオン――!
三度目の雄叫び。
ナオトが両腕を振り抜く。
数え切れないほどの鎌鼬が、鬼折へ殺到した。
避ける場所などない。
正面だけではなかった。
壁を伝い、床を這い、天井を削り、あらゆる方向から鬼折へ襲いかかる。
「ハッ!」
鬼折が笑った。
心の底から楽しそうに。
鬼狩之太刀を大きく振るい、正面の鎌鼬を青白い風で薙ぎ払う。
だが、すべては消せない。
背後へ回った風刃が、鎧装へ次々と傷を刻む。
肩。
脇腹。
太腿。
鬼折の頬に新たな赤い線が走り、血が飛んだ。
それでも鬼折の笑みは消えない。
「もっとだ!」
鬼折が吠える。
「その程度で親父を取り戻せると思うな!」
「言われなくても!」
ナオトがさらに魔力を解放する。
灰色の体毛が逆立った。
爪へまとわりつく風が、より鋭く、より薄く研ぎ澄まされていく。
放たれた鎌鼬の一部が、鬼折ではなく鬼狩之太刀へ向かった。
青白い刀身へ、灰色の風が次々と吸い込まれる。
鬼狩之太刀は、同じ血から生まれた風を奪う。
奪った風を支配し、持ち主へ撃ち返す。
ナオトも、それは分かっているはずだ。
なのに攻撃を止めない。
「何を……」
オレは息を呑んだ。
鬼狩之太刀の周囲で、青白い風が大きく膨らむ。
一つ。
二つ。
三つ。
取り込まれた鎌鼬が、刀身の内側で暴れている。
鬼折が右手へ力を込めた。
その瞬間、大太刀から甲高い音が響いた。
金属の軋む音ではない。
獣が苦痛に耐えかねて上げた、悲鳴のような音だった。
鬼折の笑みが、わずかに変わる。
「てめえ……」
何かに気づいたらしい。
「最初から俺を斬る気がねえな」
ナオトは答えず、両腕を振るい続ける。
無数の鎌鼬が鬼狩之太刀へ食らいつく。
吸い込まれる。
奪われる。
それでも、さらに叩き込む。
「刀を潰す気か」
「今さら気づいたか!」
獣の口から、ナオトが笑う。
「俺の風が欲しいんだろ!」
爪を地面へ突き立てた。
ナオトを中心に風が渦巻く。
毛皮の隙間から血が噴き出した。
獣血解放に耐えきれず、ナオト自身の肉体が裂け始めている。
それでも止めない。
「だったら――」
ナオトが両腕を広げた。
「腹いっぱい食わせてやる!」
灰色の竜巻が、鬼折へ突進した。
鬼狩之太刀が歓喜するように震え、迫る風を吸い上げる。
青白い光が激しく明滅する。
鬼折の右腕にも、細かな傷が走った。
刀へ流れ込んだ魔力を制御しきれず、逆流しているのだ。
「なるほどな」
鬼折が低く笑う。
「勝てねえ相手との戦い方は知ってやがる」
「勝つ必要なんかねえよ」
ナオトの声が風の中から聞こえる。
「あいつらが逃げ切れば――」
血に濡れた牙が覗いた。
「俺の勝ちだ!」
東から、複数の足音が近づいてくる。
鎧装が擦れる音。
武器を手にした人間たちの呼吸。
救難信号を受けた本隊だ。
もう時間がない。
「月夜」
鬼折が笑みを浮かべたまま呼ぶ。
「聞こえてんだろ」
「ああ」
「後続が来る。人間を連れて下がれ」
鬼折は、壁際にいる二人の調査員を見る。
無精髭の男が死んだ若者の身体を抱え、眼鏡の男は壁に手をついて辛うじて立っている。
「お前はどうする」
月夜が尋ねた。
「見りゃ分かるだろ」
鬼折が鬼狩之太刀を握り直す。
「こいつを殺す」
「楽しそうだな」
「楽しいに決まってんだろうが」
鬼折は隠そうともしなかった。
「弱えくせに、命の使い方だけは分かってやがる」
「それで殺すのか」
「だから殺すんだよ」
鬼折の言葉に、迷いはなかった。
「爪を向けた。なら戦士だ」
「子供だぞ」
「戦場じゃ関係ねえ」
月夜は何も答えなかった。
黒刀・絶影へ添えた手も離さない。
鬼折を止めるのか。
ナオトを助けるのか。
オレには分からなかった。
ただ、月夜がすぐに動けない理由だけは分かる。
鬼折だけではない。
獣血解放したナオトの風も、周囲を無差別に切り裂いている。
オレとロウカを守りながら、二人の間へ割って入る。
それは月夜にとっても、簡単なことではない。
「リーシャ!」
ナオトが叫んだ。
「ロウカを連れていけ!」
「でも!」
「早くしろ!」
ロウカはナオトの後ろに立ったまま、動こうとしない。
灰色の毛皮を、細い指でつかんでいる。
「ロウカ!」
「嫌」
ナオトは振り返らなかった。
「母さんのところへ戻れ!」
「二人で戻る」
「無理だ!」
「無理じゃない」
「この刀は、俺たちの血を追ってくる!」
「なら、二人で倒す」
「お前まで残ったら、母さんはどうすんだよ!」
ロウカの指が止まった。
「母さんだけじゃねえ」
ナオトの声が低くなる。
「腹の子もいる」
「……」
「あいつらには、お前が必要だ」
「ナオトも必要」
「俺はこいつを止める」
「私も止める」
「話を聞け!」
「聞いてる」
「なら行け!」
「嫌」
ナオトの周囲で風が荒れ狂う。
それでもロウカは兄の背中から離れない。
ナオトが風を放つたび、鬼狩之太刀はそれを飲み込む。
刀身が青白く膨れ上がる。
ナオトの傷は増えていく。
時間がない。
そんなことは、ロウカにも分かっているはずだった。
分かっているからこそ、動けないのだ。
ここで離れたら、二度と兄の背中に触れられない。
きっと、そう分かっている。
「ロウカ」
ナオトが、もう一度妹の名前を呼んだ。
先ほどまでの怒鳴り声ではなかった。
「何」
「母さんを頼む」
「嫌」
「腹の子も」
「ナオトが守って」
「俺は、こっちを守る」
「一緒に守る」
「ロウカ」
「嫌」
短い言葉だった。
けれど、その一言にすべてが詰まっていた。
置いていかないで。
一人にしないで。
父親のように、帰ってこない人にならないで。
ロウカは泣いていなかった。
声もほとんど震えていない。
ただ、兄の毛皮をつかむ指だけが白くなっていた。
ナオトは、しばらく何も言わなかった。
やがて、大きく息を吐く。
「……俺はさ」
獣の姿のまま、照れたように頭を掻こうとした。
だが、その腕は傷つきすぎて持ち上がらなかった。
「ずっと、リーダーだって言ってたけど」
「誰も思ってない」
「知ってるよ!」
ナオトが怒鳴る。
少しだけ、いつもの兄妹に戻った。
「お前も母さんも、俺の話なんか聞きやしねえ! あいつらも俺じゃなくてお前についていくし!」
「ナオトが頼りないから」
「うるせえ!」
その声には、どこか笑いが混じっていた。
けれど、次に続いた言葉は違った。
「だから、一回だけでいい」
ナオトは鬼折を見たまま、妹へ告げる。
「俺をリーダーにしてくれ」
ロウカが兄を見上げる。
「一回だけ?」
「ああ」
「次は?」
「次は、お前がやれ」
「やりたくない」
「俺より向いてる」
「ナオトがやればいい」
「……それができねえから頼んでんだよ」
ロウカの顔が、初めて大きく歪んだ。
「嫌」
「ロウカ」
「嫌」
「これはお願いじゃねえ」
ナオトの声が変わった。
兄の声ではない。
強がりばかりで、誰にも従ってもらえなかった少年の声でもない。
家族と仲間の命を背負う者の声だった。
「リーダーの命令だ」
風の音だけが響いていた。
ロウカは兄の背中を見つめる。
ナオトも、振り返らない。
長い沈黙だった。
本当は、ほんの数秒だったのかもしれない。
それでも、オレにはひどく長く感じられた。
「……分かった」
ロウカの指が、兄の毛皮から離れる。
ナオトが笑った。
「聞こえねえ」
ロウカは唇を噛んだ。
それから、もう一度答えた。
「分かった、リーダー」
「よし」
ナオトはそれだけ言った。
嬉しそうにはしなかった。
振り返りもしなかった。
ただ、灰色の尾が一度だけ、大きく揺れた。
「リーシャ」
「うん」
「こいつを頼む」
「……うん」
喉の奥が詰まる。
本当は、頷いてはいけない気がした。
オレが引き受けてしまえば、ナオトはもう戻らなくてよくなる。
そんな気がした。
けれど、断ることもできなかった。
「絶対に守る」
「当たり前だ」
ナオトは笑った。
「友達なんだろ」
オレはロウカの腕をつかむ。
ロウカは抵抗した。
「離して」
「行こう」
「待つ」
「駄目」
「ナオトが後から来る」
「……うん」
「なら待つ」
「ここで待ったら、お母さんたちも見つかる」
ロウカの身体から力が抜けた。
ナオトが守ろうとしているものを、ロウカ自身が危険にさらす。
それだけはできない。
分かっている。
分かっているから、つらいのだ。
「俺が道を開く」
月夜が西へ続く通路を見る。
先ほどの戦闘で壁と天井が崩れ、逃走路の半分が瓦礫に塞がれていた。
月夜の右手が黒刀・絶影へ触れる。
抜いた瞬間は見えなかった。
ただ、次の瞬間には、積み重なっていた瓦礫へ無数の線が走っていた。
一拍遅れて岩と鉄材が崩れ、細い道が開く。
「行け」
月夜が言う。
「お前も来るの」
ロウカが尋ねた。
「途中までだ」
「ナオトは」
月夜は答えなかった。
代わりにオレを見る。
「急げ」
「月夜さんは?」
「後ろを抑える」
「鬼折を止めるんですか」
「必要なら」
月夜は黒刀の柄へ手を置いたまま、鬼折を見る。
「だが、今はお前たちを守る方が先だ」
声は低く、静かだった。
そこに苛立ちも、馴れ馴れしさもない。
ただ、判断だけがあった。
「走れるか」
「はい」
オレが答えると、月夜は一度だけ頷いた。
「なら行け」
「ナオト!」
オレは叫んだ。
灰色の狼が、ほんの少しだけ顔をこちらへ向ける。
血に濡れた牙を見せて笑った。
「早く行け、馬鹿!」
「馬鹿はそっちだよ!」
「知ってる!」
ナオトが両腕を振るう。
オレたちの背後で風が爆発した。
だが、その風はオレたちを傷つけなかった。
荒々しく、それでいて不思議なほど優しく、背中を西へ押した。
父親と同じ風。
家族を逃がすために吹く風。
オレはロウカの手を握り、開かれた通路へ走った。
月夜が最後尾につく。
背後では、鬼折の笑い声と、ナオトの雄叫びがぶつかっている。
ワオオオオオオン――!
振り返ってはいけない。
分かっている。
それでも、オレは振り返った。
ナオトの周囲を埋め尽くす灰色の鎌鼬。
その向こうで、鬼折が鬼狩之太刀を振るう。
青白い風が、ナオトの風を次々と飲み込んでいく。
ナオトの狙いは刀を壊すことだけではなかった。
壁や天井へ走っていた鎌鼬。
一見すると鬼折を外した攻撃。
そのすべてが、地下通路を支える柱へ傷を刻んでいる。
ナオトは最初から、ここを崩すつもりだったのだ。
「さっきから狙いが甘いと思ったら」
鬼折も気づいたらしい。
周囲の柱を見回し、楽しそうに笑う。
「俺ごと埋める気か」
「気づくのが遅えよ」
「自分も死ぬぞ」
「だから何だ!」
ナオトが地面を蹴る。
鬼折へ飛びかかる。
爪と大太刀がぶつかった。
灰色と青白い風が渦を巻く。
「名前は」
鬼折が尋ねた。
「あ?」
「てめえの名前だ!」
ナオトの爪が鬼折の鎧装へ食い込む。
鬼折の大太刀が、ナオトの肩へ沈む。
それでも両者は退かない。
「ナオト!」
血を吐きながら、灰色の狼が吠えた。
「それだけか!」
「ディアボロスの――」
ナオトは牙を剥いて笑う。
「リーダー、ナオトだ!」
「覚えた!」
鬼折の笑みが深くなる。
「来い、ナオト!」
鬼狩之太刀が脈打った。
吸収された膨大な風が、一気に解放される。
父親の青白い風。
ナオトから奪った灰色の鎌鼬。
二つが絡まり合い、巨大な狼の姿へ変わっていく。
地下通路を埋め尽くすほどの風狼。
大きく開かれた顎の奥で、無数の刃が渦を巻いている。
あれをまともに受ければ、ナオトの身体など一瞬で切り刻まれる。
逃げて。
声にしようとした。
けれど、ナオトは逃げなかった。
背後には、オレたちがいる。
そのさらに先には、ロウカの母親たちがいる。
ナオトが避ければ、風狼は西へ走る。
「来いよ」
ナオトは両腕を広げた。
地下通路を塞ぐように。
「親父の風なら――」
血に濡れた牙を剥く。
「息子の俺が受け止めてやる!」
風狼がナオトを飲み込んだ。
音が消えた。
次に聞こえたのは、無数の刃が肉と骨を切り刻む音だった。
「ナオト!」
ロウカが叫ぶ。
オレの手を振りほどこうとする。
だが、離さなかった。
離せなかった。
「行かせて!」
「駄目!」
「ナオトが!」
「分かってる!」
「なら離して!」
「離せないよ!」
ロウカがオレを見る。
その顔は、泣いていなかった。
けれど、涙よりもずっと悲しい顔をしていた。
「リーダーの命令だから!」
オレが叫ぶ。
ロウカの動きが止まった。
風狼が消える。
ナオトは立っていた。
胸。
肩。
腹。
全身を深く切り裂かれ、灰色の毛皮が赤く染まっている。
獣人化も崩れ始めていた。
それでも倒れない。
鬼折の持つ鬼狩之太刀を、両手でつかんでいる。
刃が掌へ食い込み、指が切断されかけていた。
それでも離さない。
「離せ」
鬼折が言う。
「勝負はついた」
「まだだ」
「てめえは死ぬ」
「あいつらが……逃げ切るまで……」
ナオトの口から、血があふれる。
「終わってねえ……!」
鬼折の表情から、笑みが消えた。
怒りでも、苛立ちでもない。
まっすぐにナオトを見ている。
「そうかよ」
鬼折は鬼狩之太刀を握り直した。
「なら、最後まで立ってろ」
大太刀が、さらに深くナオトの胸へ沈む。
ナオトの身体が大きく震えた。
それでも、足は地面から離れない。
黒い爪が床へ食い込んでいる。
口が開いた。
ワオオオオオオン――!
最後の雄叫びが、地下通路を駆け抜けた。
父親が残した爪痕と同じ。
言葉にしなくても、意味だけは分かった。
行け。
振り返るな。
その声に呼応して、柱へ刻まれていた鎌鼬が一斉に走った。
亀裂が広がる。
天井が軋む。
「崩れる!」
月夜がオレとロウカを抱え、前方へ飛んだ。
直後。
地下通路が崩壊した。
巨大な瓦礫が、東と西の間へ降り注ぐ。
轟音。
砂埃。
世界が上下に揺れる。
オレは月夜の腕の中で、それでも東側へ顔を向けた。
崩れ落ちる天井の隙間。
狭くなっていく視界の向こうに、ナオトが見えた。
もう立ってはいなかった。
獣人化が解け、小さな少年の姿へ戻っている。
その身体を、鬼折が片腕で受け止めていた。
優しくではない。
地面へ落とさないために。
それだけだった。
東側から到着した兵士たちの声が聞こえる。
「鬼折様!」
「調査員は無事です!」
「その遺体は――」
鬼折が何かを答えた。
崩落の音にかき消され、すべては聞き取れない。
ただ、最後の一言だけが、妙にはっきりと耳へ届いた。
「魔力核を傷つけるな」
瓦礫が落ちた。
東側の光が消える。
ナオトの姿も、鬼折の姿も、完全に見えなくなった。
あとに残ったのは、分厚い瓦礫の壁だった。
「ナオト」
ロウカが壁へ近づく。
両手で石をどかそうとする。
一つ。
二つ。
小さな手で、重い瓦礫を動かそうとする。
「ナオト」
返事はない。
「後から来るって言った」
爪が割れた。
指先から血が出る。
それでも止めない。
「死なないって言った」
「ロウカ」
「嘘ばっかり」
声は震えていなかった。
「ナオトは、嘘ばっかり」
オレは、ロウカの手をつかんだ。
「行こう」
「待つ」
「お母さんたちが待ってる」
「ナオトも待ってる」
「……うん」
「だから、ここにいる」
「ここにいたら、ナオトが守ったものが全部なくなる」
ロウカの手が止まった。
「お母さんも、腹の子も、みんな見つかる」
「……」
「ナオトの命令を聞いて」
「嫌」
「ロウカ」
「ナオトはリーダーじゃない」
「最後はリーダーだったよ」
ロウカは瓦礫の壁を見つめた。
返事を待っているように。
けれど、もう雄叫びは聞こえない。
風の匂いも届かない。
「……後から来る」
ロウカが呟く。
「うん」
オレは否定しなかった。
「だから先に行って、待っていよう」
それが正しいことなのかは分からない。
優しい嘘なのか。
残酷な嘘なのか。
ただ、今のロウカを歩かせるには、それしかなかった。
「……うん」
ロウカは瓦礫へ背を向けた。
その瞬間、ロウカの小さな背中から、子供らしさが一つ消えたように見えた。
◇ ◇ ◇
西へ進んで間もなく、オレたちは避難民へ追いついた。
崩落の音を聞いたらしく、全員が不安そうに通路の奥を見ている。
ロウカの母親は簡易担架の上で身体を起こし、こちらを探していた。
「ロウカ!」
「母さん」
ロウカが駆け寄る。
母親は娘の頬と身体へ触れ、怪我がないことを確かめる。
それから、ロウカの背後を見る。
「ナオトは?」
誰も答えなかった。
避難民たちの間へ、重い沈黙が落ちる。
ロウカは東を振り返った。
ここからでは、崩れた通路は見えない。
兄の足音も聞こえない。
匂いも、風も届かない。
「後から来る」
ロウカは言った。
何の感情も見せない、いつもの声で。
「そう……」
母親は胸へ手を当てた。
「無茶をしていないといいけれど」
「大丈夫」
ロウカは母親の担架へ手をかける。
「先に行けって」
「ナオトが?」
「うん」
ロウカは短く頷いた。
「リーダーの命令」
避難民たちが顔を見合わせる。
今まで誰も、ナオトを本気でリーダーとは呼ばなかった。
それでも、このときだけは誰も笑わなかった。
一人の吸血鬼が、黙って荷物を背負い直す。
別の者が、担架の反対側を持った。
誰も号令をかけていないのに、全員が西へ向き直る。
ナオトの命令に従うように。
さっきまで信用できないと言っていた兄の嘘を、ロウカは初めて、自分の口で引き継いだ。
◇ ◇ ◇
さらに進むと、通路が二つに分かれていた。
一方は、細く長く続く旧排水路。
暗闇の向こうへ、緩やかに西へ下っている。
ロウカたちが進む道だ。
もう一方は、錆びた梯子のある保守用通路。
地上へ出たあと、人類側の街道へつながっているらしい。
月夜は梯子を見上げた。
「リーシャ。戻るぞ」
ロウカがオレを見る。
「リーシャも行こう」
「……私は行けない」
「どうして」
「帰らないといけないから」
「孤児院に?」
「うん」
「こっちには来ないの?」
「行けない」
「どうして」
ロウカは同じ問いを繰り返す。
オレは答えを探した。
孤児院には、オレの帰りを待っている人がいる。
けれど、それを口にすれば、ロウカよりもそちらを選んだように聞こえてしまう気がした。
違う。
ロウカを置いていきたいわけではない。
むしろ、このまま一緒に西へ行けたなら、どれほど楽だろう。
だが、オレが消えれば捜索は終わらない。
月夜だけではない。
クロエも、人類側の組織も、行方不明になった子供を捜す。
オレを追う足音が、そのままロウカたちへ向かうかもしれない。
「私が一緒に行ったら、捜す人が来る」
「追いかけてくる?」
「たぶん」
ロウカは月夜を見た。
「この人も?」
月夜は少しの間、答えなかった。
「俺だけでは済まない」
鬼折に向けていたものとは違う、低く抑えた声だった。
「孤児院にも、上にも報告が回る。リーシャが行方不明のままなら、捜索は続く」
「なら、倒す」
ロウカが真顔で言う。
「倒さないで」
「リーシャを連れていこうとする」
「それでも駄目」
「どうして」
「月夜さんは、私を助けに来たから」
ロウカは理解できないように、わずかに首を傾げた。
月夜も何も言わない。
オレを吸血鬼だと疑っている。
人間だとも信じ切っていない。
それでも、ここまで追ってきた。
オレを捕らえるためなのか。
連れ戻すためなのか。
あるいは、死なせないためなのか。
月夜自身にも、その答えはまだ出ていないのかもしれない。
「私が戻れば、少なくとも私を捜す必要はなくなる」
「リーシャは、私たちを逃がすために戻るの?」
「それだけじゃない」
「帰りたい?」
答えるまでに、少し時間がかかった。
「……うん」
孤児院へ。
待っている人たちのところへ。
吸血鬼である自分を隠したままでも、あそこへ帰りたいと思っている。
「ロウカのことも大事だよ」
「なら、一緒に来る」
「大事な人が、同じ場所にいるとは限らないんだよ」
「分からない」
「私も分からない」
前世のオレに、家族と呼べる人がいたのか。
今世のオレに、本当に帰るべき場所があるのか。
自分でも、よく分からない。
「でも、離れたら終わりじゃないと思いたい」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
「家族について、あまり詳しくないから」
「私も」
「じゃあ、これから確かめよう」
「どうやって」
「また会って」
ロウカの指へ、少しだけ力が戻る。
「また会える?」
「会える」
「嘘」
即答だった。
胸へ刺さる。
オレはロウカに、何度も嘘をついてきた。
人間だ。
父親は吸血鬼だ。
すぐに戻る。
大丈夫。
都合の悪いことを隠し、相手を安心させるために、簡単な言葉を並べてきた。
だから、今さら信じてもらえなくても当然だった。
「……そうかもしれない」
「また嘘をつく?」
「つくかもしれない」
「駄目」
「うん」
オレはロウカの手を握った。
「絶対に会えるとは言えない」
「うん」
「いつ会えるかも分からない」
「うん」
「ロウカたちがどこへ行くのかも、私には分からない」
「何も分からない」
「うん」
何一つ保証できない。
未来がどうなるのか、オレは知っているはずだった。
けれど、その未来はもう変わり始めている。
ナオトの死は、オレの知っていた物語にはなかった。
だから、もう『原作では』と自分へ言い聞かせることもできない。
「でも、会いに行く」
「本当?」
「うん」
「見つけられる?」
「見つける」
「ずっと遠くに行っても?」
「見つける」
「姿が変わっても?」
「見つけるよ」
ロウカはオレの顔をじっと見る。
嘘を見抜こうとしているのかもしれない。
やがて、つないだ手を強く握り返した。
「なら、生きて」
「うん」
「死んだら殺す」
「それは無理じゃないかな」
「できる」
「できないよ」
「できるようになる」
ロウカなら、本当にできるようになりそうで怖い。
「リーシャも」
「何?」
「私を見つけて」
いつもの平坦な声。
けれど、その奥にあるものだけは、痛いほど伝わった。
「必ず」
今度は迷わず答えた。
未来のことなど分からない。
約束を守れる保証もない。
それでも、この言葉だけは嘘にしたくなかった。
ロウカは手を離した。
母親の担架のもとへ戻る。
避難民たちは一人ずつ、暗い排水路へ入っていく。
ロウカは担架の先頭に立ち、西へ歩き始めた。
少し進む。
振り返る。
また進む。
もう一度、振り返る。
オレは手を振った。
ロウカは振り返したりはしなかった。
ただ、曲がり角へ姿が隠れる最後の瞬間まで、オレを見続けていた。
「リーシャ」
「何?」
「見つけて」
暗闇の向こうから、声が届く。
「必ず!」
オレの声が、長い排水路へ響いた。
返事はなかった。
ロウカの姿も、避難民たちの灯りも、やがて西の闇へ溶けていった。
残されたのは、オレと月夜だけだった。
「帰るぞ」
月夜が短く言い、錆びた梯子へ手をかける。
先ほどの会話について、何かを尋ねることも、からかうこともしなかった。
オレが動き出すのを、ただ待っている。
孤児院へ。
オレの帰りを待っている人たちのもとへ。
オレは西へ続く暗闇を、もう一度見た。
あの先にロウカがいる。
帰らなかった兄の命令を背負って、母親と仲間たちを連れて歩いている。
「……はい」
オレは東へ続く梯子へ向き直った。
同じ風に背中を押され、同じ場所から逃げたはずなのに。
ロウカは西へ。
オレは東へ。
オレたちは、正反対の方角へ歩き始めた。
ロウカの背中には、もう帰らない兄の命令があった。
オレの背中には、まだ帰れる場所があった。
その違いを。
オレは、ずっと忘れることができなかった。