エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。 作:サボテニウム
錆びついた梯子を上りきると、冷たい風が頬を撫でた。
空はまだ暗い。
けれど、東の端だけが薄い青色に染まり始めていた。
もうすぐ朝が来る。
地下にいるあいだは、時間の感覚なんてすっかりなくなっていた。
ナオトが死んで。
ロウカたちと別れて。
それでも地上では、何事もなかったかのように新しい一日が始まろうとしている。
「リーシャ」
先に地上へ出ていた月夜が、梯子の下に手を伸ばしていた。
「自分で上がれます」
「そうか」
月夜はそれ以上何も言わず、手を引っ込めた。
いや、少しくらい粘れよ。
今のは強がりだと気づいてくれてもいいだろ。
なんて内心で文句を言いながら、オレは残り数段の梯子を上る。
指に力を入れた途端、両手に鋭い痛みが走った。
「っ……」
足を滑らせる。
身体が後ろへ傾いた。
落ちる。
そう思った瞬間、月夜の腕がオレの身体をつかんだ。
脇の下へ腕を入れられ、そのまま子猫のように地上へ引き上げられる。
「歩けると言ったな」
「梯子は歩くものじゃありません」
「屁理屈は言えるらしいな」
月夜はオレを地面へ下ろす。
声はいつもどおり低い。
けれど、包帯の巻かれた両手を一度見てから、何も言わずに歩き出した。
人を心配しているなら、もっと分かりやすく心配すればいいのに。
この男は、そういうところが不器用だ。
いや。
今のオレたちは、まだそんなことを言えるほど親しくはないか。
月夜にとってオレは、姉に似ている正体不明の子供。
オレにとって月夜は、正体を疑いながら監視してくる十三戦鬼。
命を助けられた。
吸血鬼を逃がす道まで開いてくれた。
だからといって、すべてを信用できるわけではない。
少なくとも、オレはそう思っている。
「……」
月夜の背中を追って歩く。
地上へ出た場所は、人気のない古い街道の脇だった。
崩れかけた建物が並び、道の隙間から伸びた雑草が夜露に濡れている。
遠くには、トウキョウエリアを囲う結界塔が見えた。
白い光が等間隔に並び、夜明け前の街を守っている。
月夜はオレより少し前を歩いていた。
速くもなく、遅くもない。
オレが立ち止まらなければ、ちょうどついていけるくらいの速度だった。
さっきまでの地下通路では、耳が痛くなるほど風が鳴っていた。
ナオトの風。
父親の風。
家族を逃がすために吹いた風。
けれど地上の風は弱い。
ただ静かに、壊れた街の間を通り抜けていく。
それなのに。
草木が揺れる音を聞いた瞬間、足が止まった。
ワオオオオオオン――!
耳の奥で、あの雄叫びが蘇る。
行け。
振り返るな。
実際に言葉を聞いたわけではない。
それでも、そう聞こえた。
「リーシャ」
月夜が振り返っていた。
「……はい」
「歩けるか」
「歩けます」
答えたのに、足は動かなかった。
月夜は何も言わない。
こちらへ戻ってくると、自分が羽織っていた黒い外套を外した。
そのまま、オレの頭から乱暴に被せる。
「わっ」
急に視界が暗くなった。
重い。
大人用なので、裾がほとんど地面へついている。
「何するんですか」
「寒いだろ」
「月夜さんは」
「平気だ」
「そういう問題ではなくてですね」
「歩けるなら歩け」
月夜は再び前を向いた。
外套を返そうにも、両手が痛くてうまくつかめない。
結局、引きずらないよう身体へ巻きつけながら、後を追うしかなかった。
外套には、冷たい夜気と、わずかな鉄の匂いが染みついていた。
人間の血か。
吸血鬼の血か。
それとも、月夜自身の血なのか。
オレには分からない。
ただ、思っていたより温かかった。
◇ ◇ ◇
それからしばらく、オレたちは一言も話さなかった。
月夜は何があったのか聞かない。
ロウカたちがどこへ行ったのかも。
ナオトが最後に何を言ったのかも。
オレがなぜ吸血鬼を助けたのかも。
聞かれたら、何と答えるつもりだったのだろう。
将来的に利用できる戦力だから。
原作の展開を変えたかったから。
ロウカが死ねば後味が悪いから。
いくらでも理由は並べられる。
けれど、今はどれも口にしたくなかった。
その全部が、ナオトの死を自分の都合で飾る言い訳に聞こえてしまいそうだった。
「一つ聞く」
孤児院の尖塔が遠くに見え始めた頃、月夜が口を開いた。
「何ですか」
「あの狼の子供」
月夜は前を向いたまま続ける。
「友達か」
ロウカのことだ。
なぜそんなことを聞くのか。
オレが吸血鬼とどれほど深く関わっているのか、確認したいのかもしれない。
この回答も、あとで報告書に書かれるのだろうか。
人間の少女リーシャは、吸血鬼を友人と呼んだ。
そんな一文だけを見れば、オレは立派な人類の裏切り者だ。
いつものオレなら、否定したかもしれない。
たまたま知り合っただけ。
助けたのは成り行き。
友達と呼べるほど親しくはない。
自分を守るための答えなら、いくらでも作れる。
「はい」
それでも、オレは頷いた。
「友達です」
「そうか」
月夜は、それだけ言った。
責めない。
問い返さない。
刀へ手を伸ばすこともしなかった。
「……それだけですか」
「ああ」
「人間が吸血鬼と友達なのは、おかしいと思わないんですか」
「思う」
即答だった。
少しくらい迷ってくれてもいいだろ。
「だが、今はそれだけだ」
「そうですか」
「ああ」
会話は終わった。
月夜が何を考えているのか、やはり分からない。
ただ。
その「おかしい」には、嫌悪よりも困惑が含まれているような気がした。
◇ ◇ ◇
セントテレジア孤児院の門が見えてきた。
空はすっかり明るくなり始めている。
普段なら、あと少しすれば朝の鐘が鳴る時間だ。
孤児たちはまだ眠っているだろう。
誰にも見つからないうちに部屋へ戻ることは――。
「リーシャ!」
無理だった。
門の前から、聞き慣れた怒鳴り声が飛んでくる。
アギトだ。
寝間着の上に薄い上着を羽織っただけの姿で、こちらへ駆けてくる。
その後ろにはカイがいた。
カイも普段着ではない。
どうやら二人とも、まともに寝ていなかったらしい。
さらに少し離れた場所には、シスタークロエが立っていた。
こちらはいつもどおり、穏やかな表情をしている。
ただし、目だけは少しも笑っていない。
あ。
これ、怒られるやつだ。
「どこ行ってたんだよ!」
アギトが目の前で立ち止まる。
肩で息をしていた。
目の下には薄い隈ができている。
「ごめん、ちょっと――」
「ちょっとじゃねえだろ!」
「アギト、声が大きいよ」
「うるせえ!」
怒鳴りながら、アギトがオレへ飛びついた。
「わっ」
勢いを受け止めきれず、一歩後ろへ下がる。
アギトの両腕が、オレの身体へ強く回された。
「馬鹿野郎!」
耳元で怒鳴られる。
近い。
うるさい。
そして、痛い。
「どこ行ってたんだよ……!」
もう一度同じことを言った。
けれど、今度の声は震えていた。
「起きたらいねえし……どこ探してもいねえし……!」
「ごめん」
「月夜までいなくなるし!」
「それは私のせいじゃないと思うけど」
「うるせえ!」
アギトの腕へ、さらに力が入る。
「死んだと思っただろうが!」
その言葉に、身体が固まった。
死んだ。
ナオトは死んだ。
ロウカは、兄が後から来ると言った。
母親にも、そう伝えた。
けれど、ナオトが帰ることはない。
今、オレを抱きしめているアギトの温かさが、急にひどく残酷なものに感じられた。
オレは帰ってきた。
ナオトは帰れなかった。
アギトの背中へ腕を回そうとする。
しかし、包帯の巻かれた手が持ち上がらない。
いや。
手の怪我なんて関係ない。
オレには、抱き返す資格がないような気がした。
「……ごめん」
結局、同じ言葉しか出てこなかった。
「ごめんじゃねえよ」
「アギト」
カイが静かに呼ぶ。
「何だよ!」
「リーシャ、怪我してる」
「え」
アギトが慌てて身体を離した。
外套の隙間から、両手の包帯が見えていた。
包帯のところどころには、赤黒い血が染みている。
「何だよ、それ」
「ちょっと擦りむいただけ」
「嘘」
カイが即座に否定した。
「擦り傷なら、そんな巻き方しない」
「……たまたま包帯が余ってたから」
「袖にも血がついてる」
「手から流れたの」
「量が合わない」
カイの視線が、オレの服へ向いている。
ナオトの血。
崩落の中で、いつついたのかは分からない。
乾いて黒くなった血が、袖と裾に残っていた。
「その血、リーシャのじゃないよね」
「……」
「誰か死んだ?」
空気が止まった。
アギトがオレを見る。
クロエも。
月夜も。
カイは感情の読めない顔をしていた。
単純に疑問を口にしただけなのかもしれない。
けれど、今のオレには答えられなかった。
ナオトが死んだ。
鬼折に殺された。
ロウカの父親だった刀で。
そんなことを、ここで言えるはずがない。
「カイ」
クロエが静かに名前を呼んだ。
「今は、治療が先です」
「……はい」
カイはそれ以上聞かなかった。
ただ、オレから目を逸らさない。
「リーシャ」
クロエが近づいてくる。
「中へ入りましょう」
「でも、朝の仕事が」
「今日はお休みです」
「大丈夫です。歩けますし、仕事も――」
「お休みです」
笑顔だった。
反論は許されないらしい。
「……はい」
オレは素直に頷いた。
◇ ◇ ◇
「これは、擦り傷ではありませんね」
孤児院の治療室。
椅子へ座らされたオレは、クロエに包帯を外されていた。
皮膚が包帯へ張りついている。
布を剥がすたびに、焼けた皮膚が引っ張られ、じくじくと痛んだ。
「痛みますか?」
「全然」
「嘘ですね」
「……少しだけ」
「そうでしょうね」
クロエは薬液を染み込ませた布で、傷口を慎重に拭う。
黒く焼け焦げた皮膚の下から、赤い肉が見えていた。
銀の術式線へ触れた傷だ。
吸血鬼のオレにとっては、普通の火傷よりもずっと深い。
本来なら、真祖の力を使えば簡単に治せる。
しかし、そんなことをすれば目の前の十三戦鬼に正体を教えるようなものだ。
幸い、人間形態の肉体では再生能力も大きく抑えられている。
今の傷だけを見れば、普通の子供が負った火傷にしか見えないはずだ。
「熱で焼けた傷とは少し違います」
クロエが呟く。
やっぱり駄目かもしれない。
「何に触れましたか?」
「えっと……」
何と答える。
熱した鉄。
古い電線。
壊れた暖房器具。
この世界の文明で、不自然ではないものは――。
「古い地下施設にあった術式線だ」
治療室の壁際から月夜が答えた。
いつの間にか部屋へ入っていた。
いや、最初からいたか。
今はこいつの存在を気にする余裕がなかった。
「銀製ですか?」
「おそらくな。崩落で破損していた」
「そうですか」
クロエは月夜の顔を見る。
二人の視線が、数秒だけぶつかる。
十三戦鬼同士にしか分からない何かが、その間で交わされたように見えた。
「リーシャは、なぜそのような場所に?」
「それは――」
「迷子になりました」
月夜に先を越される前に、オレは答えた。
「迷子?」
「はい。少し遠くまで歩いていたら、帰り道が分からなくなって……古い建物を見つけたので、休もうと思って中へ入りました」
自分で言っておいて何だが、かなり苦しい。
普通の八歳児が夜中に孤児院を抜け出し、何キロも離れた西トウキョウで地下施設へ入った。
迷子という言葉で済ませるには、行動力がありすぎる。
「そこで崩落に巻き込まれました」
「そうですか」
クロエは穏やかに頷いた。
信じた顔ではない。
「怖かったでしょう」
「……はい」
「月夜さんが見つけてくださったのですね」
「はい」
「ほかに、誰かいましたか?」
傷口へ薬を塗るクロエの手は止まらない。
声も変わらない。
ただの確認のようにも聞こえる。
「いません」
オレは嘘をついた。
あまりにも簡単に。
「私と月夜さんだけです」
ナオトがいた。
ロウカがいた。
母親と、腹の子がいた。
逃げていった吸血鬼たちがいた。
死んだ人間がいた。
鬼折がいた。
それでも、いなかったと答えた。
「そうですか」
クロエは、また同じ言葉を返した。
傷口へ新しい布を当て、包帯を巻いていく。
嘘を見抜いているのか。
本当に信じているのか。
オレには分からない。
「傷が治るまでは、水仕事は禁止です」
「でも」
「禁止です」
「……はい」
「外出も」
「それは怪我と関係なくないですか?」
「禁止です」
「はい」
反論の余地はなかった。
クロエが包帯の端を結ぶ。
今度は先ほどよりも丁寧で、指も動かしやすい。
「よく帰ってきてくれましたね」
クロエがオレの頭を撫でた。
優しい手だった。
怒られると思っていた。
叱られる方が、まだ楽だった。
どうして勝手に外へ出たのか。
どれだけ心配したと思っているのか。
もう二度とするな。
そう責められたなら、謝ればいい。
けれど、クロエは何も責めなかった。
ただ、帰ってきたことを喜んでいる。
それが、今のオレにはつらかった。
「……ごめんなさい」
「謝る相手は、私だけではなさそうですよ」
クロエが治療室の扉を見る。
扉の隙間から、赤い髪が少しだけ覗いていた。
「アギト」
「うっ」
「盗み聞きは感心しません」
「盗み聞きじゃねえよ! 入っていいって言われるの待ってただけだ!」
「扉に耳をつけながらですか?」
「これは、その……!」
アギトの後ろから、カイも顔を出した。
「アギトが勝手にやった」
「お前もいたじゃねえか!」
「僕は止めてた」
「嘘つけ!」
「静かにしてください。ほかの子供たちが起きてしまいます」
「「……はい」」
二人の声が綺麗に重なった。
少しだけ笑いそうになった。
でも、うまく笑えなかった。
◇ ◇ ◇
治療が終わると、オレは自分の部屋へ戻された。
本来ならアギトとカイは男子部屋へ帰るべきなのだが、今日は誰も追い出そうとしなかった。
オレはベッドへ横になる。
アギトはベッドの横に座り、腕を組んでこちらを睨んでいた。
カイは少し離れた椅子へ腰掛けている。
月夜はクロエと話すことがあるらしく、治療室に残った。
何を話すのかは、考えなくても分かる。
オレが吸血鬼を逃がしたこと。
鬼折が現れたこと。
ナオトが死んだこと。
そして、オレが普通の人間ではあり得ない場所にいたこと。
今日を無事に乗り切れたからといって、何も終わっていない。
「リーシャ」
「何?」
「もう勝手にいなくなるな」
アギトが言った。
怒鳴らなかった。
だからこそ、余計に重く聞こえた。
「うん」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目だ!」
「アギト、静かに」
「お前は黙ってろ!」
「また怒られるよ」
「くそっ……」
アギトは声を抑え、もう一度オレを見る。
「絶対だ」
「……うん」
守れる約束ではない。
オレには、まだやらなければならないことがある。
トウキョウを守る。
ベリアルの侵攻を止める。
アギトが第四真祖の力を継承する未来に備える。
ロウカを見つける。
何も言わずに姿を消すことは、これからもあるかもしれない。
それでも今は、頷くことしかできなかった。
「今日は話さなくていいと思う」
カイが言った。
「え?」
「誰が死んだのか」
カイはオレの服についた血を思い出すように、袖を見る。
「今は、言いたくないんでしょ」
「……うん」
「なら、今日は聞かない」
「今日は?」
「明日は分からない」
「そこはずっと聞かないって言ってくれてもいいんじゃないかな」
「気になるから」
相変わらず正直なやつだ。
「でも」
カイが少しだけ目を伏せる。
「話したくなったら聞く」
「……ありがとう」
「うん」
部屋が静かになる。
窓の外から、朝の鐘が聞こえ始めた。
一度。
二度。
三度。
孤児院の一日が始まる音。
廊下の向こうでは、起き始めた子供たちの話し声が聞こえる。
いつもと同じ朝だ。
今日もまずいスープが出て。
掃除をして。
洗濯をして。
アギトが文句を言い。
カイがそれを馬鹿にする。
そんな一日が始まる。
ナオトが死んでも。
ロウカが西へ逃げても。
オレたちの日常は続いていく。
「ねえ、アギト」
「何だよ」
「もし、私が帰ってこなかったらどうする?」
アギトの眉が吊り上がった。
「またどっか行く気か!」
「もしもの話だよ」
「縁起でもねえこと言うな!」
「だから、もしも」
アギトはしばらく黙った。
怒った顔のまま、考えている。
「探す」
やがて答えた。
「どこを?」
「全部」
「全部って」
「トウキョウも、西も、ヨコハマも。どこに行ったって探す」
「見つからなかったら?」
「見つかるまで探す」
迷いのない答えだった。
八歳の子供らしい、何の根拠もない答え。
世界がどれだけ広いのかも。
人間の領域がどれだけ狭いのかも。
吸血鬼の支配地へ入ることが、どれほど危険なのかも。
アギトはまだ知らない。
それでも。
「馬鹿だね」
「何だと!」
「普通は諦めるよ」
「俺は諦めねえ」
「死んじゃうかもしれないよ」
「死なねえ」
「どうして言い切れるの」
「お前を見つけてねえから」
あまりにも馬鹿な理屈だった。
けれど、アギトは本気だった。
ロウカも、オレに言った。
見つけて。
オレは答えた。
必ず。
何一つ保証なんてないくせに。
それでも約束した。
「じゃあ」
声が震えないように、息を整える。
「ちゃんと見つけてね」
「当たり前だ」
「遠くにいても?」
「見つける」
「姿が変わっても?」
「見つける」
「私が、アギトの知ってる私じゃなくても?」
「何だよ、それ」
「例えばの話」
アギトは不満そうに顔をしかめた。
「お前はお前だろ」
「……」
「変なこと聞くなよ」
何も知らないから言える。
オレが蠅の王だと知らない。
自分の両親を殺した吸血鬼だと知らない。
真実を知ったとき、同じ言葉を言えるはずがない。
それなのに。
今だけは、その言葉を信じたくなった。
「リーシャ」
「何?」
アギトが、ベッドの上に出ていたオレの手をつかもうとする。
包帯に気づき、途中で止めた。
代わりに、手首の傷ついていない部分をそっと握る。
いつもなら、もっと乱暴につかむくせに。
「おかえり」
胸の奥が痛んだ。
銀の傷よりも。
切り裂かれたナオトの姿を思い出すよりも。
ずっと深い場所が、痛んだ。
オレは顔を壁の方へ向ける。
アギトに見られたくなかった。
カイにも。
「……ただいま」
たった四文字が、ひどく重かった。
ナオトはもう、その言葉を返すことができない。
ロウカは今も、兄が帰ってくると信じようとしている。
それでもオレは帰ってきた。
帰ってきてしまった。
そんなオレの手首を、アギトは離さなかった。
オレも。
その手を振りほどくことだけは、できなかった。