エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。 作:サボテニウム
「始めてください」
口にした途端、銀の鏡が強く輝いた。
白い光がオレの全身を舐めるように走る。
熱くはない。
痛くもない。
だが、身体の内側まで覗かれているような感覚がした。
オレは鑑定台の上で、両手を固く握る。
逃げるな。
動くな。
余計なことを考えるな。
オレは人間だ。
どこからどう見ても、ただの可憐な八歳児である。
少なくとも今は。
「第一種族相、投影を開始します」
鑑定官の声とともに、鏡の表面が水のように揺れた。
そこへオレの姿が映し出される。
銀色の髪。
赤い瞳。
白い肌。
見慣れたリーシャ・クーゲルシュタインの姿だ。
角もない。
翼もない。
全身を蠅で覆った化け物の姿でもない。
普通の少女。
いや、目の色だけなら吸血鬼らしく見えなくもないが、赤い目の人間など探せばいる。
たぶん。
いてくれ。
鑑定官が鏡の周囲に浮かんだ文字を確認する。
「種族相に混濁なし」
別の鑑定官が書板へ結果を記した。
「人間相です」
白。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。
まだ最初の一つだ。
安心するには早い。
分かっている。
それでも、黒と言われなかった。
その事実だけで、止めていた息がわずかに漏れた。
視界の端に月夜がいる。
壁際に立ち、こちらを見ていた。
表情は変わらない。
右手も、絶影の柄へ置かれたままだ。
まだ信じていないらしい。
オレのことをではなく、この鑑定そのものを。
「次に、生命波形を測定します」
水晶の柱が鑑定台の横へ運ばれてきた。
透明な柱の内部には、淡い光の粒が雪のように舞っている。
鑑定官がオレの胸元へ細い杖を向けると、水晶の中の光が一斉に動き始めた。
規則正しく上下する。
オレの心臓の動きに合わせているらしい。
なるほど。
魔術版の心電図みたいなものか。
いや、待て。
真祖の心臓って普通に動いているのか?
そもそも吸血鬼の生命波形と人間の生命波形は何が違うんだ?
設定資料集にそんな細かい話は載っていなかった。
なんでプレイヤー向けの設定資料集には、ヒロインの胸囲は載っているのに生命波形は載ってないんだよ。
今必要なのは圧倒的に後者だろうが。
水晶の光が、次第に白い一本の線へ変わっていく。
鑑定官がそれを慎重に確認した。
「脈動、体温、魂魄の定着、すべて人間域」
「異常なし」
再び書板へ文字が記される。
白。
二つ目。
「続いて、魔力回路の構造を確認します」
針のついた腕輪が運ばれてくる。
見た瞬間、思わず身体を引きかけた。
「動かないでください」
「これ、刺すんですか?」
「表皮へ触れるだけです」
鑑定官は平然と答えた。
絶対に嘘だ。
どう見ても刺すための形をしている。
腕輪の内側には、銀色の針が何十本も並んでいる。
拷問器具を医療器具と呼び張るのはやめてほしい。
「痛みはほとんどありません」
「ほとんど、ということは少しは痛いんですね」
「動かないでください」
答えになっていない。
鑑定官が腕輪をオレの左腕へ巻きつける。
直後。
「痛っ」
細い針が一斉に皮膚へ触れた。
刺さないと言ったな。
表皮へ触れるだけと言ったな。
これは世間一般では刺さっていると言うんじゃないのか。
文句を言おうとしたが、腕輪から流れ込んできた魔力に意識を奪われる。
細い糸のような魔力が、皮膚の下へ染み込んでくる。
腕から肩へ。
肩から胸へ。
そこから全身へ。
オレの中にある魔力の通り道を、一つずつ確かめるように進んでいく。
まずい。
これ、本当にまずいやつでは?
人間相になっているとはいえ、オレの本質は第六真祖だ。
身体のどこかに、真祖の魔力回路が残っている可能性はある。
もし、この腕輪がそこまで到達したら。
右手が熱くなる。
逃げろと、本能が訴えていた。
今ならまだ間に合う。
蠅へ変わり、天井へ逃げる。
月夜が鬼折を止めている間に、本部を抜ける。
その後のことは――。
「動くな」
月夜の声がした。
オレは顔を上げる。
月夜は先ほどと同じ場所に立っている。
ただ、まっすぐオレを見ていた。
「動いてませんよ」
「今、逃げようとしただろ」
「してません」
「顔に出てる」
「失礼ですね」
「嘘が下手なんだよ」
何で分かるんだ。
こいつ、読心術でも使えるのか?
だが、月夜と話したおかげで、身体から余計な力が抜けた。
逃げるな。
オレがさっき、自分で決めたことだ。
検査を受ける。
受けて、帰る。
アギトとカイのいる孤児院へ。
腕輪へ目を戻す。
針の根元に埋め込まれた小さな石が、一つずつ光り始めた。
赤でもない。
黒でもない。
淡い白。
「魔力回路、単層循環型」
「異種回路の混在なし」
「人間の構造と一致します」
白。
三つ目。
鑑定官が腕輪を外す。
針の痕が、腕へ小さな赤い点となって残っていた。
痛い。
だが、オレの首はまだ胴体と繋がっている。
安いものだ。
「次は銀への接触反応です」
安くなかったかもしれない。
鑑定官が銀の板を持ってきた。
掌ほどの大きさで、表面には聖句が刻まれている。
純銀。
しかも、おそらく討魔師が吸血鬼を殺すために使うものと同じ純度だ。
「右手を出してください」
オレは包帯を外された右腕を見る。
銀に焼かれた傷が、まだ赤く残っている。
「怪我をしていない方の手でもいいですか?」
「左手で構いません」
少しだけ安心した。
オレは左手を差し出す。
鑑定官が掌へ銀板を載せた。
冷たい。
それだけだった。
皮膚が焼けることもない。
煙も出ない。
身体の中から力を奪われる感覚もなかった。
人間形態になっているオレの身体は、銀を異物として認識していない。
知識としては分かっていた。
だが、実際に何も起きないのを見るまでは信じられなかった。
「発熱なし」
「皮膚変質なし」
「拒絶反応なし」
鑑定官がオレの傷へ視線を向ける。
「右腕の負傷は、強い銀性魔力を受けたことによる魔力熱傷と考えられます。種族特有の拒絶反応ではありません」
よく分からないが、人間でも強い銀の魔力を浴びれば火傷くらいはするらしい。
ありがとう、人間の脆弱な身体。
今回だけは心から感謝する。
「判定、人間」
白。
四つ目。
これで終わりか。
そう思ったオレは甘かった。
「次に、吸血衝動の誘発試験を行います」
「まだあるんですか?」
思わず聞いてしまった。
鑑定官がこちらを見る。
「正式鑑定ですので」
いや多くない?
健康診断でここまで調べないだろ。
八歳児に何を求めてんだよ。
黒い液体の入った透明な器が運ばれてくる。
先ほどから気になっていたやつだ。
蓋が厳重に閉じられ、器の周囲には何重にも封印札が巻かれている。
見るからに危険物である。
「これから対象者の捕食衝動を一時的に刺激します」
「危険はないんですか?」
「人間にはありません」
吸血鬼だった場合の話を聞いているんだが。
鑑定官が封印札を一枚ずつ剥がしていく。
最後に器の蓋をわずかに開いた。
甘い匂いがした。
花でも果実でもない。
もっと生々しい匂い。
温かい血。
流れたばかりの、人間の血の匂いだ。
喉の奥が小さく動いた。
まずい。
オレは反射的に唇を閉じる。
人間形態では吸血衝動もほとんどなくなる。
普段なら、血の匂いを嗅いでも食事とは思わない。
だが、この黒い液体は単なる血ではない。
吸血鬼の本能そのものを引きずり出す呪具だ。
腹の奥で、何かが目を覚ましかけた。
喉が渇く。
黒い器の中身を見たい。
蓋を開けて、顔を近づけたい。
ほんの少しだけ。
味見するだけなら――。
違う。
オレは人間だ。
少なくとも、今は人間だ。
爪を掌へ食い込ませる。
痛みで意識を繋ぎ止める。
「反応は?」
旭が尋ねた。
鑑定官がオレではなく、器の側面を見ている。
透明だった器の一部に、細い目盛りが浮かんでいた。
針はまったく動いていない。
「捕食衝動の上昇なし」
「対象者の魂魄にも変化ありません」
「人間です」
器の蓋が閉じられる。
甘い匂いが消えた。
オレは気づかれないように息を吐く。
危なかった。
いや、結果が白なら危なくはなかったのか?
オレ自身は飲みたくなった気がするんだが。
呪具が反応しなかったのなら、あれは単なる気のせいということにしておこう。
白。
五つ目。
「使役契約の痕跡を調べます」
今度は古びた十字架が持ち上げられた。
中央には小さな水晶が埋め込まれ、その周囲を細い鎖が囲んでいる。
「使役契約?」
「吸血鬼が人間へ偽装している場合、本体や眷属との間に魔力的な繋がりが残ります」
なるほど。
つまり、使い魔を使っている吸血鬼を見つける道具か。
これも相当まずい。
オレには無数の蠅の使い魔がいる。
今も、遠く離れた場所にいる配下たちと繋がっている。
人間形態になったからといって、その契約自体が消滅したわけではない。
十字架の水晶が光る。
細い鎖がひとりでに動き、オレの両手首へ巻きついた。
冷たい魔力が流れ込んでくる。
先ほどの腕輪よりも浅い。
代わりに、身体の内側ではなく外側へ向かって広がっていく。
オレと繋がっているものを探している。
西へ向かった蠅。
ヨコハマに残してきた配下。
遠く離れた吸血鬼たち。
それらへ伸びる糸の一本でも見つけられれば終わりだ。
水晶の光が強くなる。
鎖が小さく震える。
オレは息を止めた。
やがて。
水晶の中に浮かんだ光が、そのまま消えた。
「外部契約なし」
「使役、被使役、眷属化、いずれの痕跡も確認できません」
人間相になったオレと、吸血鬼としてのオレ。
二つは同じ存在でありながら、魔術的には完全に切り離されている。
人間のオレをいくら探っても、吸血鬼のオレへは辿り着けない。
そういうことらしい。
「判定、人間」
白。
六つ目。
鑑定官たちの空気が少しだけ緩んだ。
書板へ結果を記していた男も、筆を置こうとしている。
終わった。
今度こそ終わった。
「最後に、原罪反応を確認します」
終わっていなかった。
部屋の奥から、円盤状の呪具が運び込まれる。
黒い石で作られた円盤。
その表面は七つに分かれ、それぞれに異なる紋章が刻まれている。
見覚えがあった。
原作で、真祖の力を判別するために使われていた呪具。
七罪盤。
七つの原罪へ反応し、真祖、あるいは真祖の血を濃く引く吸血鬼を見つけるためのものだ。
そのうちの一つ。
大きく口を開けた獣の紋章。
暴食。
第六真祖ベルゼブブを示す紋章だった。
おい。
これは聞いてないぞ。
簡易鑑定なら問題ない。
正式な種族判定も、おそらく突破できる。
そう思っていた。
だが、真祖の原罪そのものを探られるなんて、設定資料集のどこにも書いていなかった。
いや、原作のリーシャはこの鑑定を受けていない。
書かれていなくて当然だ。
七罪盤が鑑定台の前へ置かれる。
七つの紋章が、順番に淡く光った。
「両手を盤上へ」
嫌です。
心の中では即答した。
だが、実際のオレはゆっくりと両手を伸ばす。
逃げるな。
ここまで来た。
六つも白だった。
きっと大丈夫だ。
何の根拠もない言葉を、頭の中で何度も繰り返す。
掌が黒い円盤へ触れた。
冷たい。
その直後、七罪盤の紋章が一斉に消えた。
部屋が静まり返る。
誰も声を出さない。
鑑定官たちは、円盤を凝視している。
鬼折も。
旭も。
クロエも。
月夜も。
オレは暴食の紋章から目を離せなかった。
光るな。
頼むから光るな。
頼む。
頼む。
頼む。
一秒。
二秒。
三秒。
暴食の紋章は黒いままだった。
ほかの六つも何も起こらない。
「原罪反応なし」
鑑定官の声が、静かな部屋へ響いた。
「真祖因子、眷属因子ともに確認できません」
書板を持った男が、最後の欄へ文字を記す。
「判定、人間」
白。
最後の一つも。
白だった。
「以上をもって、正式種族鑑定を終了します」
終わった。
本当に。
終わった。
全身から力が抜ける。
危うく鑑定台の上へ倒れそうになり、両手をついて身体を支えた。
今すぐ寝転がりたい。
それどころか三日くらい眠りたい。
精神的な疲労なら、地下で鬼折に追い回されたときよりひどい。
「総合結果を報告します」
主任らしい鑑定官が旭へ向き直る。
「リーシャ・クーゲルシュタインの肉体、魂魄、魔力回路、種族相、すべて人間のものと一致しました」
旭は黙って聞いている。
「吸血鬼、およびその眷属であることを示す反応は一切ありません」
「結論は」
「人間です」
その言葉が、部屋へ落ちた。
誰もすぐには話さなかった。
オレは視線だけを月夜へ向ける。
月夜の顔はいつもと変わらない。
だが。
絶影の柄へ置かれていた右手が、ゆっくりと離れた。
それだけだった。
深く息を吐くわけでもない。
笑うわけでもない。
ただ、刀から手を離した。
それを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「待て」
鬼折が声を上げる。
温かくなったものが一瞬で冷えた。
「まだ何かあるんですか」
思わず口から出た。
鬼折がこちらを見る。
「ずいぶん余裕じゃねえか」
「これ以上何を調べるのかと思っただけです」
「決まってんだろ。もう一度だ」
「すべての項目で人間判定が出ています」
主任鑑定官が答える。
「使用した呪具にも異常はありません」
「全部同じ場所で管理してる道具だろうが」
鬼折が七罪盤を顎で示す。
「誰かが細工してりゃ、全部まとめて白になる」
「鬼折」
月夜の声が低くなる。
「鑑定を受けろと言ったのはお前だ」
「ああ」
「結果が出た」
「新しい道具の結果はな」
鬼折は旭を見る。
「軍の倉庫に旧式の判別器が残ってるはずだ。管理系統も術式も違う」
「対象者はすでに七項目の鑑定を終えています」
鑑定官が止めようとする。
「子供の身体へ、これ以上の負担をかけるべきではありません」
「人間なら死なねえ」
「鬼折」
月夜の手が再び絶影へ近づく。
「それ以上やるなら、先に俺とやれ」
「またかよ」
鬼折が楽しそうに笑った。
「てめえ、本当に分かりやすくなったな」
「月夜さん」
オレは鑑定台の上から呼びかける。
「黙ってろ」
「嫌です」
「お前はもう終わった」
「もう一度受けます」
月夜がこちらを見る。
「必要ない」
「ここで断ったら、鬼折さんは納得しません」
「こいつが納得する必要はない」
「でも、疑いは残ります」
正式な記録が白でも、十三戦鬼の一人が黒だと言い続ければ意味がない。
それなら。
ここですべて終わらせた方がいい。
「大丈夫です」
「お前の大丈夫は信用してない」
アギトと同じことを言われた。
そんなに信用がないのか、オレ。
「今度は本当に大丈夫です」
「今度は、って言ったな」
「言葉の綾です」
「やめろ」
「受けます」
「リーシャ」
「私が決めたことです」
自分のことを、誰かに勝手に決めさせたくない。
その考えは今も変わっていなかった。
月夜はしばらく黙っていた。
やがて、苛立たしげに舌打ちする。
「一度だけだ」
「はい」
「異常が出たら即座に止める」
「分かりました」
「鬼折」
月夜の視線が鬼折へ移る。
「これで最後だ」
「白ならな」
それからしばらくして、旧式の軍用判別器が運び込まれた。
新しい鑑定具よりも、さらに物々しい見た目をしている。
円形に組まれた銀の枠。
その内側に並ぶ十二本の聖杭。
中央には黒ずんだ石板があり、人一人が立てる程度の空間しかない。
どう見ても検査器具ではない。
処刑台だ。
「これ、本当に鑑定用なんですか?」
「第三次吸血鬼大戦の初期に、前線で使用されていたものです」
鑑定官が説明する。
「誤判定が多いため、現在は使用されていません」
「今、誤判定が多いと言いました?」
「黒を白と判定することはほとんどありません」
「逆は?」
鑑定官が黙った。
おい。
「人間を吸血鬼と判定することはあるんですか?」
「術式が古いため、まれに」
「まれにあるんですね?」
「入れ」
鬼折が言う。
こいつ、自分で入ってみろ。
心の中で悪態をつきながら、銀の枠の中へ入る。
月夜が枠のすぐ外に立った。
「近くないですか」
「異常が出たら壊す」
「判別器を?」
「全部だ」
何を指して全部と言っているのか、あえて聞かないことにした。
鑑定官が術式を起動する。
十二本の聖杭から銀色の光が伸び、オレの身体を囲んだ。
逃げ道を塞ぐように、光の柱が天井まで立ち上がる。
中央の石板へ文字が浮かぶ。
人間。
吸血鬼。
その二つだけ。
新しい鑑定具のように細かく調べるものではない。
目の前にいる存在が人間か。
それ以外か。
それだけを無理やり判別する、戦場用の道具。
銀の光が身体へ食い込んでくる。
「うっ……」
痛い。
先ほどまでの検査とは比べものにならない。
皮膚ではない。
身体の内側から押し潰されるような痛み。
人間形態の奥にある吸血鬼のオレを、力ずくで引きずり出そうとしている。
視界が揺れる。
膝が折れそうになる。
「止めろ」
月夜の声がした。
「まだ判定が――」
「止めろと言った」
「待ってください」
オレは光の中から声を出す。
「もう少しです」
「出ろ」
「嫌です」
「倒れるぞ」
「倒れてません」
強がった直後、膝が揺れた。
月夜の眉間に皺が寄る。
「今、倒れかけただろ」
「気のせいです」
「次に動いたら壊す」
「だから何をですか」
「全部だ」
やっぱり聞かなくてよかった。
石板の文字が激しく点滅する。
人間。
吸血鬼。
二つの文字が交互に浮かび、消えていく。
心臓が跳ねた。
判別器が迷っている。
人間相の下にあるものへ、気づきかけている。
月夜の手が絶影の柄へ触れた。
鬼折が腰を落とす。
鑑定官たちが術式の周囲から離れる。
旭だけが動かない。
石板の光が強くなる。
そして。
一方の文字が消えた。
残った文字は。
『人間』
銀色の光が消える。
解放された瞬間、身体から力が抜けた。
前へ倒れかけたオレを、月夜が片腕で受け止める。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
「信用できない」
「今日はよく言われますね、それ」
月夜は返事をせず、オレを銀の枠から引きずり出した。
主任鑑定官が石板を確認する。
「旧式軍用判別器による結果も、人間です」
誰も反論しなかった。
反論できなかった。
新式の正式鑑定。
旧式の軍用判別。
異なる二つの術式が、同じ答えを出した。
鬼折は石板を睨んでいた。
しばらくして、大きく舌打ちする。
「白なら、今日は斬らねえ」
「最初から斬るなよ」
月夜が吐き捨てる。
「今日は、だ」
鬼折がオレを見る。
鋭い目。
それでも、刀へ手を伸ばすことはなかった。
「次に鬼の側で見つけたら、判定を待つとは思うな」
「次はありません」
「どうだかな」
鬼折は背を向ける。
扉の前で一度だけ足を止めた。
「餓鬼」
「何ですか」
「白なら白らしく生きろ」
それだけ言い残し、部屋を出ていった。
何様だ。
そう思ったが、口には出さなかった。
鬼折なりに、判定を受け入れたということなのだろう。
たぶん。
あれで。
オレは月夜から身体を離す。
まだ少し足元がふらついたが、一人で立てないほどではない。
「私が人間で安心しました?」
月夜を見上げて聞く。
「別に」
「さっきまで全員斬りそうな顔をしてましたけど」
「元からこういう顔だ」
「怖い顔ですね」
「お前に言われたくない」
「私は可愛いですよ」
「自分で言うな」
月夜が絶影から完全に手を離す。
その手が二度と柄へ戻らないことを確認してから、オレは小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
すべての検査が終わると、クロエがオレの右腕へ新しい包帯を巻いてくれた。
「痛みますか?」
「少しだけです」
「無理をしてはいけませんよ」
「はい」
「リーシャの『はい』は、あまり信用できませんね」
「クロエさんまで……」
いつの間に、オレはここまで信用を失ったのだろう。
周囲では、鑑定官たちが呪具を片づけている。
七罪盤も。
銀の鏡も。
オレを散々痛めつけた針つきの腕輪も、箱の中へ収められていく。
旭は事務官から鑑定記録を受け取り、最初から最後まで読み返していた。
月夜はその横で、主任鑑定官を呼び止める。
「一つ聞く」
「何でしょうか」
「血縁関係を調べる術式はあるか」
クロエの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
すぐに包帯を巻き直し始めたので、見間違いかもしれない。
主任鑑定官は月夜を見る。
「どの程度の血縁でしょうか」
「親子だ」
誰と誰の話だ?
オレは月夜の横顔を見る。
月夜はオレを見ていない。
「死んだ人間の髪が残っている。それと、生きている人間が親子かどうか調べられるか」
「難しいでしょう」
「できないのか」
「血縁者同士の魔力が似ることはあります。しかし、それをもって親子であるとは断定できません」
鑑定官が片づけられていく呪具へ目を向ける。
「魔力の性質は、長期間の契約や師弟関係、同じ土地で暮らした者同士でも似ることがあります」
「髪や血は?」
「身体から切り離された時点で、魔力的な性質が変質します。保存状態が良くても、比較できるのはごく一部です」
「親子でも分からないのか」
「少なくとも、正式な証明としては使えません」
月夜は黙った。
その表情からは、何を考えているのか分からない。
誰の髪が残っているのだろう。
オレと誰かが親子かもしれないと疑っているのか。
以前も、月夜はオレの母親について妙に詳しく聞いてきた。
誕生日。
年齢。
出身。
母親の名前。
もしかすると、オレの本当の家族に心当たりがあるのだろうか。
「何の話ですか?」
オレが聞くと、月夜はこちらを見た。
「お前には関係ない」
「私と誰かの血縁を調べようとしてませんでした?」
「聞き間違いだ」
「親子ってはっきり言ってましたよね」
「忘れろ」
「無理ですよ」
「なら勝手に考えてろ」
月夜はそれ以上答えなかった。
相変わらず説明が足りない。
だが、無理に聞いても答える男ではないことは分かっている。
いつか話すつもりがあるのか。
それとも、永遠に黙っているつもりなのか。
今のオレには判断できなかった。
「鬼龍院月夜」
旭が鑑定記録から顔を上げた。
「西トウキョウ旧連絡路における独断行動について、処分を通達する」
月夜が面倒そうに振り返る。
「今やるのか」
「今だからだ」
旭は事務官から別の書類を受け取る。
「命令を無視した追跡行動。敵性吸血鬼への追撃妨害。現場指揮系統の混乱。いずれも看過できない」
「救出対象は全員連れ帰った」
「結果の話はしていない」
「なら好きにしろ」
「一か月間、本部への出頭を停止する」
謹慎。
十三戦鬼に対する処分として重いのか軽いのか、オレには分からない。
「期間中は、セントテレジア孤児院付属宿舎で待機しろ」
ん?
孤児院?
「また、リーシャ・クーゲルシュタインについては、吸血鬼との接触経緯に不明な点が残っている」
旭の視線がオレへ向けられる。
冷たい目。
表情からは、何の感情も読み取れない。
「正式鑑定によって人間であることは証明された。よって、拘束および追加の尋問は行わない」
まずは安心した。
「ただし、当面の間は行動記録を提出させる」
「監視を続けるということですか?」
「そうだ」
やっぱり終わっていなかった。
オレの自由はどこへ消えたんだ。
「監視役は鬼龍院月夜とする」
オレと月夜が同時に旭を見る。
「俺に監視しろってことか」
「そう理解して構わない」
「それのどこが謹慎だ」
「本部への出頭は禁止している」
「仕事をさせてるだろ」
「お前が監視対象から離れない以上、ほかの者を置く方が非効率だ」
正論のようで、何かがおかしい。
月夜を処分すると言いながら、孤児院へ置く。
オレを監視すると言いながら、監視役はオレを守るために全員斬ろうとした月夜。
これでは罰というより。
月夜を本部から遠ざけたうえで、オレのそばに置くための命令に見える。
考えすぎだろうか。
旭がそんな回りくどいことをする理由は分からない。
「異議は」
「ある」
「却下する」
「なら聞くな」
「形式上必要だ」
月夜は露骨に嫌そうな顔をした。
だが、命令を拒否するとは言わなかった。
旭は次にオレを見る。
「リーシャ・クーゲルシュタイン」
「はい」
「本日の鑑定結果は、討魔師協会の正式記録として保管される」
旭が鑑定書の最後へ署名する。
紙の下部へ、協会の印章が押された。
白い紙へ、赤い印が残る。
「以後、正当な根拠なくお前を吸血鬼として拘束、処分することは認めない」
「……はい」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
鑑定を受ける前まで。
オレが人間であるという事実は、オレ自身がついた嘘でしかなかった。
アギトへついた嘘。
カイへついた嘘。
クロエへ。
月夜へ。
孤児院にいるすべての人間へついた、大きな嘘。
だが、今。
その嘘へ、人類側の最高機関が印を押した。
リーシャ・クーゲルシュタインは人間である。
それが正式な記録になった。
オレの言葉ではない。
国が認めた事実として。
「帰るぞ」
月夜が言う。
「もう帰っていいんですか?」
「ここに残りたいのか」
「帰ります」
即答した。
今頃、アギトは孤児院の入口を何度も確認しているだろう。
カイも、何も言わず窓から外を見ているかもしれない。
帰ったら、何と説明すればいいのだろう。
大丈夫だった。
何も問題はなかった。
やっぱり私は人間だった。
そのすべてが正しくて。
そのすべてが嘘だった。
クロエに手を引かれ、オレは鑑定室を出る。
月夜がすぐ後ろを歩く。
旭は残された書類を読んでいた。
最後まで、こちらを見ることはなかった。
重い扉が閉じる。
こうしてリーシャ・クーゲルシュタインは、正式に人間となった。
本当は吸血鬼であるオレの嘘が。
初めて、この国の真実になった。