エロゲのヒロインに転生したんだが、もうオレは限界かもしれない。 作:サボテニウム
「遅え」
孤児院の門をくぐるなり、アギトが駆け寄ってきた。
門柱の横に立っていたところを見ると、ずっとここで待っていたらしい。
本人としては、たまたま外に出ていただけということにしたいのだろう。腕を組み、いかにも今来たばかりのような顔をしている。
ただし、オレたちの姿を見つけた瞬間に全力で走り出したので、その設定には少々無理があった。
「ただいま、アギト」
「どこ行ってたんだよ」
「ちょっと用事」
「ちょっとで何日も帰ってこねえのかよ」
ごもっともだった。
アギトはオレの顔を覗き込む。
怪我をしていないか確かめるように、頭から足元まで視線を動かし、それからオレの後ろにいる月夜とクロエを睨んだ。
「あいつらに何された?」
「別に、何もされてないよ」
「嘘つけ」
即答だった。
信頼がない。
いや、これまでの実績を考えれば妥当な評価なのかもしれない。むしろオレの嘘を即座に見抜くあたり、教育の成果が表れている。
「少し調べられただけ」
「何を」
「私にもよく分かんない」
半分くらいは本当だ。
人間であることを確かめるために、なぜ銀の鏡で身体の内側まで覗かれ、針のついた腕輪を巻かれ、銀板へ手を押しつける必要があるのか。
説明を受けた今でも、仕組みはよく分かっていない。
健康な人間でも具合が悪くなりそうな検査だった、ということだけは理解している。
「腕」
玄関の方から、カイの声がした。
壁際に立ち、こちらを見ている。
いつからそこにいたのだろう。
こいつは気配を消しているというより、自分に関係のない時間だけ背景へ戻る性質がある。
そのうち誰にも気づかれないまま、家具として数えられるようになるかもしれない。
「赤くなってる」
カイの視線は、オレの左腕へ向けられていた。
袖口から、針を刺された痕が少しだけ覗いている。
オレは袖を引き、赤い点を隠した。
「検査で少し刺されただけ」
「痛かった?」
「ちょっとだけ」
「誰に刺された」
アギトの声が一段低くなった。
「聞いてどうするの?」
「別に」
「殴りに行くつもりでしょ」
「行かねえよ」
そう言いながら、アギトは拳を握っている。
最近の子供は、考えていることを手元へ表示する機能でも搭載しているのだろうか。
「じゃあ、その拳は何?」
「……癖だ」
「ずいぶん治安の悪い癖だね」
「うるせえ」
アギトはオレから目を逸らすと、月夜へ向き直った。
「リーシャに何したんだよ」
月夜が足を止める。
「必要な検査だ」
「何の検査だよ」
「お前には関係ない」
「ある!」
アギトが即座に言い返した。
月夜の目がわずかに細くなる。
空気が重くなった。
つい先日まで吸血鬼と斬り合っていた十三戦鬼と、将来的には作中最強候補になる主人公。
カードだけ見れば夢の対決だが、片方が八歳なので、今のところ勝負にすらならない。
「もう終わったから」
オレはアギトの服を引いた。
「大丈夫だよ」
「でも」
「帰ってきたでしょ」
アギトは納得していない顔で、しばらくオレを見ていた。
やがて月夜から一歩離れる。
「……次は先に言えよ」
「何を?」
「どこへ行くのか」
「私も知らなかったんだけど」
「分かった時点で言え」
「無茶言わないでよ」
連れて行かれる途中で伝書鳩でも飛ばせというのだろうか。
なお、オレの場合は蠅を飛ばせるので、技術的には可能だった。
できることと、やっていいことは別である。
「もう帰ってきた」
カイが言った。
「見りゃ分かる」
「なら、今はいい」
「お前は心配じゃなかったのかよ」
「心配だった」
カイは平然と答える。
「でも、帰ってきた」
「……そうだけどよ」
アギトが言葉に詰まる。
カイは時々、妙に強い。
難しい話を単純な事実だけで殴ってくるので、反論する隙がないのだ。
「中へ入りましょう」
クロエが穏やかに声をかけた。
「リーシャも疲れていますから」
「平気です」
そう答えると、クロエはオレの顔をじっと見た。
「本当に?」
「はい」
鑑定前と同じやり取りだった。
違うのは、今回は足が震えていないことくらいだ。
「それなら、よかったです」
クロエは微笑み、オレの背中へ手を添えた。
相変わらず子供扱いがひどい。
実際に見た目は八歳児なので、抗議しても勝てる見込みはなかった。
玄関をくぐったところで、修道女の一人がクロエへ駆け寄ってきた。
「シスタークロエ。先ほど、本部からこちらが」
差し出された封筒を、クロエが受け取る。
中の書類へ目を通すと、その表情から笑みが消えた。
「リーシャ」
「はい」
「少し、お話があります」
アギトとカイも足を止める。
クロエは二人を一度見たあと、オレへ視線を戻した。
「西トウキョウで亡くなった調査員の方の身元が確認されました」
胸の奥が、わずかに固くなる。
「お名前は、久世航平さん。二十二歳です」
「……久世?」
思わず聞き返した。
「知っている方ですか?」
「いえ」
すぐに否定する。
知っているはずがない。
少なくとも、久世航平という名前は、原作に一度も登場しなかった。
だが、その姓には覚えがある。
久世澪。
八年後、討魔師養成学院へ入学するサブヒロインの一人。
冷静で真面目。
規則に厳しく、死者の名前や記録を残すことへ異様なほどこだわっていた少女。
『妹に、帰るって言ったんだ』
瓦礫の下で、航平はそう言っていた。
帰ると約束した。
妹が待っている。
だから、自分で救難信号を作動させた。
あの妹が、久世澪だったのか。
「明日、ご葬儀が行われるそうです」
クロエが続ける。
「救助された調査員の方が、ご遺族へリーシャのことを話したそうなのです」
「私のことを?」
「最後まで、航平さんを助けようとしてくれた子がいたと」
助けられなかった。
その言葉が、喉まで出かかった。
「ご遺族が、リーシャにも参列してほしいと仰っています」
クロエはオレの前へしゃがみ、目線を合わせた。
「つらければ、お断りしてもいいのですよ」
断ることはできる。
オレは航平を助けられなかった。
あの救難信号を止めることもできなかった。
信号が作動し、地下施設が崩れた。
月夜たちが来た。
ナオトが死んだ。
ロウカたちは、さらに西へ逃げることになった。
だが、救難信号がなければ、生き残った二人の調査員も帰れなかったかもしれない。
航平の行動が正しかったのか。
止めようとしたオレが正しかったのか。
誰が間違っていたのか。
いまだに分からない。
世の中の問題がすべて四択式なら、どれほど楽だっただろう。
正解が分からなくても、二十五パーセントの確率で当たる。
現実は選択肢どころか、問題文すら最後まで読ませてくれない。
「行きます」
オレは答えた。
「分かりました」
クロエが小さく頷く。
月夜は何も言わなかった。
「葬式?」
アギトが尋ねる。
「うん」
「俺も行く」
「アギトは関係ないよ」
「お前だって関係ねえだろ」
「少しだけあるの」
「だったら俺にもある」
どういう理屈だ。
関係性というものが、隣に立っているだけで感染する病気なら、検疫が必要である。
「遊びに行くんじゃないよ」
「分かってる」
「アギト」
クロエが静かに名前を呼んだ。
アギトは口を閉じる。
「今回は、リーシャと月夜さんに行ってもらいます」
「なんであいつなんだよ」
「現場で救助にあたった関係者だからです」
アギトは月夜を睨んだ。
「リーシャに変なことすんなよ」
「お前に言われるまでもない」
月夜が短く返す。
また空気が悪くなりそうだったので、オレはアギトの袖を引いた。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「……絶対だからな」
「うん」
アギトは、それでようやく引き下がった。
◇ ◇ ◇
翌日。
葬儀は、トウキョウエリア西部にある小さな聖堂で行われた。
白い壁。
高い天井。
正面に掲げられた銀の十字架。
中央には、固く閉ざされた棺が置かれている。
棺の上には、一枚の木札が載せられていた。
久世航平。
二十二歳。
そこには、名前があった。
年齢があった。
久世航平という一人の人間が、確かにこの世界で生きていたことを示すものがあった。
長椅子には黒い服を着た人々が並び、誰も声を発しない。
オレの少し後ろには月夜が立っている。
あの地下施設で救助にあたった関係者として、謹慎中でも参列を許されたらしい。
人類政府にも、葬儀へ出る自由までは取り上げない程度の慈悲が残っていたようだ。
聖職者が航平の最期を読み上げる。
「久世航平氏は、西トウキョウ旧連絡路において救難信号を作動させ、同行者二名の生還に大きく貢献されました」
間違ってはいない。
航平が信号を出したから、救助隊が来た。
彼が帰ろうとしたから、二人は帰ることができた。
「その勇気と献身を、我々は永く記憶するでしょう」
参列者たちが頭を下げる。
オレも目を伏せた。
記憶する。
言葉にするのは簡単だ。
だが、人間は死者を全員背負ったまま生きられるほど丈夫にはできていない。
声を忘れる。
顔を忘れる。
何年も経てば、名前を見てもすぐには思い出せなくなる。
それは仕方のないことだ。
忘れなければ、前へ進めない人間もいる。
オレだって、いつか航平の顔を思い出せなくなるかもしれない。
『妹に、帰るって言ったんだ』
それでも。
あの言葉だけは、しばらく耳から離れてくれそうになかった。
葬儀が終わると、救助された調査員の一人がオレのもとへ来た。
腕や額には、まだ包帯が巻かれている。
「来てくれて、ありがとう」
「いえ」
「紹介したい子がいるんだ」
男が振り返る。
その後ろに、一人の少女が立っていた。
オレと同じくらいの年齢。
肩まで伸びた黒い髪。
胸元には、片方の翼だけが彫られた銅色の飾りが下がっている。
棺の上にも、対になるもう一つの翼が置かれていた。
二つを重ねれば、一羽の鳥になるのだろう。
「航平の妹の、澪ちゃんだ」
男の言葉に、心臓が一度だけ強く脈打った。
久世澪。
やはり、この少女だった。
原作でオレが知っている彼女は、もっと大きい。
アギトと出会い、同じ部隊へ所属し、物語へ関わっていく少女。
だが、今ここにいるのは、兄を失ったばかりの八歳の子供だった。
ゲームの登場人物にも、画面へ映る前の人生がある。
家族がいて。
約束があって。
帰ってこなかった人を待った夜がある。
当たり前のことだ。
だが、原作では立ち絵も台詞も与えられなかった時間を目の前にすると、その当たり前がやけに重かった。
頭の片隅で、冷静な思考が動き始める。
久世澪は、将来アギトと関わる重要人物だ。
ここで恩を売っておけば、八年後に利用できるかもしれない。
原作が始まったとき、味方へ引き込めれば――
そこまで考えて、やめた。
兄の葬儀に立つ八歳児を前に、将来の利用価値を計算する。
さすがはラスボス。
人の心を持参せずに、ヒロインイベントだけ回収しようとしている。
しかも主人公より八年も早い。
時系列を無視した先行攻略にも、限度というものがあった。
「この子が、最後まで航平を助けようとしてくれたリーシャちゃんだ」
調査員が澪へ伝える。
澪がオレを見る。
泣いてはいなかった。
両手で胸元の片翼を握り、背筋を伸ばしている。
大人たちの前で、きちんとしなければならないと思っているのだろう。
兄を失った子供にまで礼儀を要求するとは、世間というものはなかなか厳しい。
澪はオレへ向き直ると、深く頭を下げた。
「兄を助けようとしてくれて、ありがとう」
返事ができなかった。
感謝されるようなことはしていない。
瓦礫をどかすことはできなかった。
銀の術式に焼かれながら手を伸ばして。
結局、何一つ間に合わなかった。
「……助けられなかったよ」
ようやく、それだけ答える。
澪が顔を上げた。
「でも、助けようとしてくれたって聞いたから」
「それでも、帰せなかった」
「うん」
澪は小さく頷いた。
それから、少しだけ迷うように視線を落とした。
「兄は……最後に、何か言ってた?」
瓦礫に押し潰された航平の顔が浮かぶ。
口元から血を流しながら、それでも彼は帰ろうとしていた。
「妹に、帰るって言ったって」
澪の指へ力が入る。
「そう言ってたよ」
「……私のこと、覚えてた?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「最後まで、澪ちゃんのところへ帰ろうとしてた」
「兄は、一人じゃなかったんだよね」
「一人じゃなかったよ」
「そっか」
澪は、もう一度小さく頷いた。
「そっか……」
同じ言葉を繰り返した途端、その顔が歪んだ。
声を出さないように唇を噛む。
だが、目からこぼれた涙までは止められなかった。
どうすればいいのか分からない。
抱き締めるべきか。
何か慰めの言葉をかけるべきか。
残念ながら、エロゲを何周しても、兄の葬儀で泣く少女への正しい対応までは教えてくれなかった。
こういう大切な場面に限って、選択肢は表示されない。
現実のゲーム設計は不親切である。
オレは澪の隣に立った。
何も言わずに。
彼女が泣き止むまで、そこを離れなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
消灯時間を過ぎたころ、オレは孤児院の窓を開けた。
腕には、昼間のうちに集めておいた石を抱えている。
一つ一つは大した重さではない。
しかし、数が増えれば八歳児の細腕には十分な負担になる。
吸血鬼の力を使えば簡単に運べるが、それは避けた。
昨日、正式に人間だと認められたばかりなのだ。
人間の少女は、夜中に蠅の群れへ変わって石を運んだりしない。
少なくとも、一般的な家庭教育ではそう教えられているはずである。
窓枠へ足をかけ、静かに地面へ降りる。
「どこへ行く」
背後から声がした。
振り返る。
宿舎の壁際に、月夜が立っていた。
暗闇の中で黙って立たれると、心臓に悪い。
この男には、登場する前に足音を立てるという最低限の礼儀を覚えてほしい。
「散歩です」
月夜の視線が、オレの腕へ落ちる。
「石を抱えてか」
「筋力訓練です」
「嘘が下手だな」
返す言葉がない。
昨日、人類側から人間であるとの認定は受けたが、嘘の技術については審査対象外だったらしい。
「月夜さんは戻ってください。謹慎中でしょう」
「お前を見張るのも処分のうちだ」
「そうですか」
それ以上は何も言わなかった。
帰ってほしいと言っても、聞くような男ではない。
オレは石を抱え直し、歩き始めた。
月夜も黙って後ろをついてくる。
孤児院の裏手を抜ける。
街灯の少ない細い道を進み、小さな林へ入った。
銀の十字架も、街の明かりも見えない場所。
大きな木の根元で足を止める。
抱えてきた石を地面へ下ろした。
一つ。
二つ。
三つ。
崩れないように、少しずつ積み上げていく。
久世航平には、棺があった。
葬儀があった。
木札には、彼の名前が刻まれていた。
家族や仲間が集まり、久世航平という人間が生きていたことを確かめる時間があった。
ナオトには何もない。
人類側の報告書に残ったのは、敵性吸血鬼一体という文字だけ。
名前はない。
家族を逃がすために残ったことも。
妹へ最後の命令を託したことも。
母親と腹の子の誕生を待っていたことも。
何一つ書かれていない。
当たり前だ。
人類にとってナオトは、救助対象を襲った敵だ。
人を殺そうとした吸血鬼だ。
その報告は、何一つ間違っていない。
ただ、正しいことが全部ではないというだけだ。
「墓か」
月夜が聞いた。
「違います。ただの石です」
「そうか」
月夜はそれ以上、何も聞かなかった。
地面へしゃがみ、近くに落ちていた石を一つ拾う。
オレが積んだ石の上へ、静かに置いた。
「吸血鬼ですよ」
「知ってる」
「人間を殺そうとしました」
「知ってる」
「それでも?」
月夜は石の山を見たまま答えた。
「家族を逃がすために残ったことも知ってる」
それだけ言うと、月夜は立ち上がった。
オレは積み上げた石へ目を戻す。
墓ではない。
名前も刻まれていない。
誰かが見つけても、何のために積まれた石なのか分からないだろう。
雨が降れば崩れる。
風が吹けば、またただの石へ戻る。
それでいい。
墓だと認めれば、ナオトが死んだことを受け入れなければならない。
ただの石だと言い張れば、まだどこかで生きているふりができる。
我ながら、ずいぶん往生際が悪い。
「帰るぞ」
月夜が言った。
「もう少しだけ、待ってください」
返事はなかった。
けれど、月夜は先へ行かなかった。
木のそばへ立ち、黙って待っている。
オレは最後の石を置いた。
名前を刻むものはない。
刻むつもりもなかった。
それでも、心の中でだけ呼ぶ。
ナオト。
ディアボロスのリーダー。