【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
兄の雄叫びは、もう聞こえなかった。
旧排水路の天井から、水滴が落ちている。
一滴。
また一滴。
浅く溜まった水を踏むたび、避難民たちの足音が暗闇の奥へ重なった。
通路は細く、緩やかに西へ下っている。
壁を覆う苔。
錆びた配管。
とうに役目を終えた灯具。
足元を流れる濁った水だけが、彼らの進む方向と同じように西へ向かっていた。
ロウカは母親の担架の先頭を歩いている。
一度だけ、後ろを振り返った。
リーシャの姿は、もう見えない。
いくつか前の曲がり角で、銀色の髪は暗闇に隠れてしまった。
けれど最後まで、あの少女はこちらを見ていた。
『必ず』
そう言った。
必ず見つけると。
ロウカはもう一度、来た道の奥を見つめた。
リーシャよりも。
月夜よりも。
さらに遠い場所。
崩落した通路の向こうから、風は届かなかった。
血の匂いも。
獣の毛の匂いも。
耳に障るほど大きかった兄の声も。
何も届かない。
「ロウカ」
呼ばれて、前を向く。
担架の上から、母が手を伸ばしていた。
ロウカは担架の持ち手から片手を離し、その手を握った。
「ここにいる」
「ええ」
母は安心したように目を細める。
その顔は青白い。
肩から脇腹へ巻かれた布には、乾ききらない血が滲んでいた。
それでも母の視線は、ロウカの後ろへ向いている。
誰かが追いついてくるのを待つように。
「ナオトは?」
ロウカは少しだけ黙った。
担架を支える男たちの足音が続いている。
負傷者へ肩を貸す者。
幼い子供を背負う者。
少ない食料を抱える者。
誰も話さない。
誰も振り返らない。
振り返っても、そこにナオトはいないと分かっているから。
「後から来る」
ロウカは答えた。
「そう」
母は疑わなかった。
「ナオトはリーダーだものね」
「うん」
「最後に来るのね」
「うん」
嘘だった。
ナオトは嘘ばかりだった。
死なないと言った。
あとから行くと言った。
必ず追いつくような顔をしていた。
そのくせ最後には、ロウカ一人へ全部を渡して、自分だけが崩落の向こうへ残った。
ずるい。
嫌い。
帰ってきたら殴る。
そう考えながら、ロウカは母の手を握っていた。
けれど、風は来ない。
ロウカは誰よりも兄の匂いを知っている。
泥にまみれていても。
血を浴びていても。
獣人化して姿が変わっていても。
ナオトの匂いだけは間違えない。
それなのに、何も届かなかった。
たぶん。
兄は死んだ。
その言葉を、ロウカは口にしなかった。
母へ伝えれば、母まで前へ進めなくなる。
自分で認めれば、今すぐ来た道を戻ってしまいそうだった。
だから言わない。
ナオトは後から来る。
嘘でも。
その嘘を口にしている間だけは、母も、自分も、前へ進める。
「少し上がるぞ」
先頭を進んでいた男が、声を抑えて告げた。
旧排水路の床が崩れ、大小の瓦礫が道を塞いでいる。
完全に通れないわけではない。
だが担架を水平に保ったまま越えるのは難しかった。
「右を持て」
「もっと上げろ」
「壁にぶつけるな」
担架を運ぶ男たちが位置を変える。
ロウカも両手で持ち手を握った。
傷ついた母の身体が揺れないよう、足元を確かめながら一歩ずつ進む。
「私も持つ」
「無理をするな」
「持てる」
「前を見ろ。転ぶぞ」
「転ばない」
濡れた石へ足を置く。
冷たい水が足首まで跳ねた。
担架の重みが腕にかかる。
ロウカは歯を食いしばった。
ナオトなら、これくらい簡単に持っただろう。
文句を言いながら。
俺一人で足りると怒鳴りながら。
それでも一番危ない側を、自分で持ったに違いない。
「ナオトなら」
後ろから声が聞こえた。
ロウカの耳が、わずかに動く。
「ナオトなら、こういうとき……」
声は途中で消えた。
言った男も、ロウカが聞いていることに気づいたらしい。
「……悪い」
「何が?」
ロウカは前を見たまま聞いた。
「いや」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
ナオトなら、どうするのか。
ロウカにも分からない。
兄はいつも考えるより先に走った。
正しいからではない。
誰かがやらなければならないことを、自分が引き受けた。
それだけだった。
瓦礫を越える。
再び、緩やかな下り道が続く。
旧排水路は長かった。
どれほど歩いたのか、ロウカには分からない。
明かりはほとんどない。
壊れかけた灯具へわずかな魔力を流し、必要なときだけ周囲を照らしている。
長く灯せば、追手に見つかるかもしれない。
だから足元を確かめると、すぐに消した。
暗闇。
足音。
水滴。
誰かの荒い呼吸。
担架の軋む音。
それだけが何度も繰り返された。
食料は少ない。
負傷者もいる。
ここを抜けた先に、本当に安全な場所があるのかも分からない。
それでも止まれなかった。
東へ戻れば、討魔師がいる。
南へ続く川底の地下路は崩落している。
生きるために進める方向は、西だけだった。
◇ ◇ ◇
「風だ」
しばらくして、前方を歩いていた男が立ち止まった。
ロウカも顔を上げる。
確かに、風が来ていた。
湿った土と枯れ葉の匂い。
排水路の淀んだ空気とは違う。
生きた森の匂いだった。
さらに進むと、暗闇の奥がわずかに白んでいる。
旧排水路の終わりだった。
かつて水を山間へ流していた吐出口は、半分ほど土砂で埋まっている。
鉄柵は錆びて外れ、壁には太い木の根が入り込んでいた。
大人一人が身体を屈めれば通れる隙間が残っている。
「外を確認する」
男が先に隙間を抜けた。
しばらくして、低い声が返ってくる。
「人の気配はない」
避難民たちは一人ずつ外へ出た。
子供。
負傷者。
荷物。
最後に、担架を傾けないよう慎重に通す。
ロウカは外へ出た瞬間、目を細めた。
夜だった。
空は雲に覆われている。
月明かりすら乏しい。
それでも地下の暗闇よりは明るかった。
周囲には深い森が広がっている。
木々の向こうに山の影が重なり、その先は見えない。
来た道を振り返る。
旧排水路の吐出口は、斜面と草木に隠されていた。
知らずに通れば、そこに入口があるとは気づかないだろう。
「ここから先は山道だ」
男が言った。
「旧オクタマ方面に、放棄された集落がある。戦争が始まる前、避難民が使っていた場所だ」
「まだ残ってるのか?」
「分からん」
「人間側に使われている可能性は」
「それも分からん」
分からないことばかりだった。
建物が残っているのか。
水があるのか。
食料があるのか。
そこまで母を運べるのか。
追手が来る前に辿り着けるのか。
誰にも分からない。
「進むしかない」
一人が言った。
誰も反論しなかった。
ロウカは担架の先頭へ戻る。
「行く」
短く告げて、持ち手を握った。
暗い山道を、西へ進み始めた。
◇ ◇ ◇
母が最初に異変を訴えたのは、森へ入ってしばらくしてからだった。
「ロウカ」
担架の横へ垂れていた手が、ロウカの服をつかむ。
「何?」
「少し……止まって」
担架の上で、母が身体を丸めた。
額から汗が流れている。
傷の痛みとは違う。
大きくなった腹を両手で抱え、歯を食いしばっていた。
「止めて」
ロウカが言う。
担架を運んでいた者たちが足を止めた。
「どうした」
「母さんが痛いって」
「傷か?」
男の一人が担架の横へ膝をつく。
母の腹部に傷はない。
だが呼吸は速く、浅くなっていた。
「大丈夫よ」
痛みの合間に、母が言う。
「少し休めば……」
「大丈夫じゃない」
ロウカは顔を覗き込む。
「痛そう」
「赤ちゃんが、少し暴れているだけ」
「まだ生まれない」
「ええ。まだ少し早いわ」
母は笑おうとした。
うまく笑えていなかった。
次の瞬間。
担架に敷かれた布が濡れた。
周囲にいた者たちの表情が変わる。
年嵩の女が人を押し退けるように近づき、母の状態を確かめた。
「……破水してる」
「何?」
ロウカには、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
「生まれる」
女が短く答える。
「今から?」
「ああ」
「まだ早い」
「赤ん坊は待ってくれない」
ロウカは母の腹を見る。
そこに、まだ顔も知らない弟か妹がいる。
ナオトが守れと言った子供。
母は再び苦しそうに息を吐き、ロウカの手を強く握った。
「先へ進まないと」
誰かが言った。
「ここは道の途中だ」
「この状態で運ぶ方が危険だ」
「なら、ここで産ませるのか?」
「追跡されたら全員見つかる」
「だからって歩かせられるわけがないだろ」
「集落まで、あとどれほどある」
「分からん」
「分からないじゃ困る!」
声が重なる。
誰も間違ってはいなかった。
ここに留まれば、発見されるかもしれない。
移動させれば、母と子供が死ぬかもしれない。
どちらを選んでも危険だった。
「ナオトなら――」
一人が言いかける。
それきり、口を閉ざした。
森へ重い沈黙が落ちる。
ナオトはいない。
その続きを、誰も言えなかった。
ロウカは聞こえなかったふりをした。
母の手を握ったまま、周囲を見回す。
木々。
伸び放題の草。
崩れかけた石垣。
その先に、黒い影が見えた。
「家」
ロウカが言った。
「何?」
「あそこ」
斜面の下。
木々の間に、屋根が半分だけ見えている。
蔦に覆われ、傾いていた。
放棄された集落の端へ、すでに入っていたらしい。
「ロウカ、待て」
呼び止める声を無視して、ロウカは走った。
土を蹴り、斜面を下る。
古い家だった。
戸は外れ、窓も割れている。
床には枯れ葉が入り込み、一部は腐っていた。
それでも壁と屋根は残っている。
奥の部屋なら、雨風を防げる。
人の匂いはしない。
最近使われた痕跡もなかった。
「ここ」
追いついてきた者たちへ、ロウカは言った。
「ここで産む」
「だが、周囲の確認が――」
「母さんを運んで」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
男は一瞬だけロウカを見る。
やがて、うなずいた。
「ああ」
全員が動き始めた。
床の枯れ葉を払い。
割れた窓を布で塞ぎ。
残っている水を集め。
毛布を母の下へ敷く。
ロウカは母の手を握ったまま、その様子を見ていた。
命令したつもりはなかった。
ただ、ここで産むと言っただけだった。
それでも皆が動いた。
ナオトがいたときと同じように。
◇ ◇ ◇
出産は、すぐには終わらなかった。
どれほど時間が過ぎたのか、ロウカには分からない。
割れた窓を塞ぐ布の向こうは、変わらず暗い。
古い家の中に、母の荒い呼吸が響いている。
痛みが来るたび、ロウカの手を握る力が強くなった。
「痛い?」
「少しね」
「嘘」
「そうね」
母は弱々しく笑う。
「すごく痛いわ」
「代わる」
「代われないの」
「どうして?」
「これは、お母さんの仕事だから」
「私も手伝う」
「もう手伝ってくれてる」
汗で濡れた指が、ロウカの手を握り返した。
「そばにいてくれるでしょう?」
「いる」
「なら、大丈夫」
母はそう言った。
ロウカには、とても大丈夫には見えなかった。
「ナオトは?」
痛みが引いたわずかな時間に、母が尋ねた。
「もう近くまで来たかしら」
ロウカは答えなかった。
母は戸口を見る。
「赤ちゃんが生まれる前に、来られるといいのだけれど」
「……後から来る」
「そう」
「ナオトは後から来る」
「ええ」
「だから、待ってて」
「分かったわ」
「絶対に来るから」
「ええ」
母は本当に信じている。
ナオトが後から来ると。
だからロウカも、信じている顔をしなければならなかった。
兄が死んだかもしれないと知っている顔をしてはいけない。
「ナオトにも、早く見せてあげないとね」
「うん」
「きっと驚くわ」
「うん」
「あの子、ちゃんと抱けるかしら」
「落とす」
「あら」
「ナオト、乱暴だから」
「それなら、ロウカが教えてあげて」
「分かった」
教える。
赤ん坊は、こうやって抱くと。
首を支えないと駄目だと。
大きな声を出したら泣くと。
帰ってきたら、全部。
だから。
早く来て。
そう思った瞬間、母が悲鳴を上げた。
「来るよ!」
母の足元にいる女が声を張る。
「もう少しだ。息を吐いて!」
ロウカの手が、痛いほど強く握られる。
母が叫ぶ。
何度も。
ロウカはそのたびに、何もできない自分を知った。
敵なら殺せる。
道なら探せる。
荷物なら運べる。
けれど母の痛みだけは、代わってあげられない。
「母さん」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「大丈夫よ」
「嘘」
「そうね……」
母は息を吐く。
泣きそうな顔で、それでも笑った。
「でも、もう少しだから」
その言葉のあと。
小さな身体が、女の腕の中へ滑り落ちた。
「生まれた!」
女の子だった。
血に濡れた、小さな赤ん坊。
あまりにも小さくて、ロウカは一瞬、それが生きているものだと分からなかった。
女が背中を撫でる。
「泣け」
反応はない。
「おい。泣け」
小さな背が、何度か叩かれる。
ロウカは息を止めた。
やがて。
「ぁ……」
かすかな音。
続いて、小さな泣き声が上がった。
「生きてる」
ロウカが呟く。
「ああ。生きてる」
女が赤ん坊を布で包む。
母が震える腕を伸ばした。
その顔に、安堵が浮かぶ。
「女の子……」
「うん」
「ロウカ、妹よ」
「うん」
ロウカは妹の顔を見る。
目は閉じたまま。
小さな口を開き、精いっぱい泣いている。
ナオトが守れと言った子。
兄が残ったから、ここまで連れてこられた命。
母が赤ん坊を受け取ろうとする。
だが女は渡さなかった。
「まだだ」
「え?」
「もう一人いる」
母も。
ロウカも。
周囲の者たちも言葉を失った。
「もう一人?」
「腹にいる。まだ終わってない」
再び母の顔が苦痛に歪む。
「嘘……」
「息をして。すぐ来る」
「聞いてないわ……」
「こっちも知らなかった」
女の声にも余裕がない。
最初の子を別の者へ預け、再び母の足元へ戻る。
ロウカは母の手を握り直した。
「二人いる」
「そうみたいね」
「ナオト、もっと驚く」
「ええ……きっと」
母が苦しそうに笑う。
それから間もなく、二人目が生まれた。
また女の子だった。
最初の子よりも小さい。
泣き声も弱い。
それでも生きていた。
二つの声が、古い家の中で重なる。
避難民たちの顔に、初めて安堵が浮かんだ。
けれど。
「まだ」
赤ん坊を取り上げた女が、青ざめた顔で言う。
「まだいる」
「……三人?」
母の声が震えた。
「三人だ」
誰も、何も言えなかった。
ロウカは母の腹を見る。
そこに一人いると思っていた。
ナオトが守れと言った、腹の子。
一人ではなかった。
三人いた。
ナオトは知らなかった。
自分が守ろうとした命が、一つではなかったことを。
母が再び叫ぶ。
体力はもうほとんど残っていない。
握られた手が冷たくなっている。
「母さん」
「ロウカ」
「ここにいる」
「離れないで」
「うん」
「お願い」
「絶対に離れない」
ロウカは母の手を両手で包んだ。
母が息を吐く。
長く。
苦しそうに。
それでも最後の力を振り絞る。
そして。
三人目が生まれた。
女の子。
けれど、泣かなかった。
小さな身体は動かない。
「どうして?」
ロウカが聞く。
誰も答えなかった。
女は赤ん坊を布で拭き、背中を撫でる。
「泣いて」
ロウカは近づいた。
「泣いて」
反応はない。
「生きて」
小さな胸へ手を伸ばす。
触れるのが怖かった。
あまりにも小さい。
少し力を入れれば、壊れてしまいそうだった。
「ナオトが守ったから」
ロウカは赤ん坊へ言う。
「死んだら駄目」
女がもう一度、背を叩く。
「泣いて」
ロウカは繰り返した。
「生きて」
長い沈黙だった。
本当は、ほんの数秒だったのかもしれない。
それでもロウカには、ひどく長く感じられた。
やがて。
小さな口が開いた。
「……ぁ」
息を吸う音。
次の瞬間。
細い泣き声が上がった。
三つ。
三人分。
弱く。
小さく。
それでも確かに、生きている声だった。
ロウカは何も言わなかった。
その場へ座り込む。
足から力が抜けていた。
母も目を閉じている。
けれど口元は笑っていた。
「ロウカ」
「何?」
「三人のお姉ちゃんね」
「……うん」
「守ってあげて」
その言葉を聞いた瞬間。
兄の声が、頭の中で響いた。
『母さんを守ってくれ』
『腹の子もいる』
『今度は俺の番だ』
腹の子は、一人ではなかった。
三人いた。
兄は三人分の命を守った。
母を。
ロウカを。
ここまで逃げてきた全員を。
何も知らないまま、崩落の向こうへ残った。
「守る」
ロウカは答えた。
「全員、守る」
◇ ◇ ◇
最初に異変を知らせたのは、外を見張っていた男だった。
戸が開く。
冷たい夜風が、血と汗の匂いがこもった部屋へ入り込んだ。
「東に光がある」
全員の顔から安堵が消えた。
「どのくらいだ」
「山二つ向こう。さっき一度見えた。今、また」
「人類側か?」
「分からない」
「照明弾か?」
「それも分からん。ただ、動いているように見えた」
男は戸口から東を指した。
ロウカも外へ出る。
森は暗い。
遠い尾根の隙間に、一瞬だけ白い光が浮かんだ。
すぐに消える。
星ではない。
月でもない。
それ以上のことは分からなかった。
人類側の追跡者なのか。
別の吸血鬼なのか。
何かを探している者なのか。
ただ山中を移動している誰かなのか。
何も分からない。
「ここにいれば見つかる」
男が言った。
「だが、今すぐ動かせる状態じゃない」
別の者が母を見る。
出産を終えたばかり。
意識はあるが、身体を起こすこともできない。
三人の赤ん坊も小さく、呼吸は安定していなかった。
「夜が明けるまで待つか」
「遅い」
「なら三人を置いていくのか」
「そんなことは言ってない!」
「声を抑えろ」
「だが、どうする」
その言葉で、全員が黙った。
どうする。
誰が決める。
これまでは、ナオトがいた。
無茶でも。
間違っていても。
大声で命令し、誰よりも先に動く少年がいた。
けれど、もういない。
全員の視線が部屋の中をさまよう。
やがて。
一人の男が、ロウカを見た。
「どうする、リーダー」
ロウカは即座に答えた。
「私はリーダーじゃない」
強い声だった。
誰も反論しなかった。
ナオトがリーダーだ。
最後に、そう呼んだ。
『分かった、リーダー』
『絶対に守る』
自分で答えた。
だからロウカはリーダーではない。
兄が後から来る。
戻ってきたら、またナオトが決める。
それまで待てばいい。
そう言おうとした。
けれど誰も動かなかった。
全員がロウカを見ていた。
次の言葉を待っている。
母がいる。
生まれたばかりの妹たちがいる。
傷ついた仲間たちがいる。
子供もいる。
食料は少ない。
東には正体の分からない光がある。
ナオトはいない。
風は、兄の匂いを運んでこない。
たぶん。
もう来ない。
ロウカは唇を噛んだ。
ナオトは死んだ。
その言葉は、まだ口にできない。
けれど、死んだのなら。
もう戻ってこないのなら。
自分がしっかりしなければならない。
母を守る。
妹たちを守る。
生き残った者たちを守る。
兄が命を懸けて残したものを、ここで失うわけにはいかない。
ロウカは立ち上がった。
「火を消して」
すぐに一人が動く。
部屋の隅で燃えていた小さな火へ、土がかけられた。
「外に残った足跡を隠す」
別の者が戸口へ向かう。
「動ける人は、西の道を見てきて」
「何人だ」
「二人。匂いを残さないで」
「分かった」
「母さんと妹たちを運べるものを作って」
「担架ならある」
「揺れないようにして。布も増やす」
「毛布が足りない」
「動ける人の分を使って。負傷者の分は残す」
言葉が次々に出た。
考えるより先に。
迷っている時間はなかった。
「食料をまとめて」
「水は?」
「持てるだけ」
「いつ出る」
ロウカは東を見る。
再び、白い光が浮かぶ。
今度は少し長かった。
「夜明け前」
「もっと西へ行くのか?」
「うん」
「どこまで?」
ロウカは暗い山の向こうを見る。
その先に何があるのかは知らない。
家があるのか。
水があるのか。
生きていけるのか。
何も分からない。
それでも答えた。
「追いつかれないところまで」
誰も異議を唱えなかった。
全員が動いていた。
ロウカの言葉に従って。
火を消し。
床を片づけ。
担架を補強し。
赤ん坊を包む布を集めている。
「私はリーダーじゃない」
ロウカは小さく呟いた。
誰にも聞こえなかったのかもしれない。
聞こえていて、答えなかったのかもしれない。
もう誰も、彼女の否定を待ってはいなかった。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
生存者たちは、再び歩き始めた。
火を消した廃屋には、何も残さない。
血のついた布も。
食べ物の欠片も。
誰かがいたと分かるものは、すべて持ち出すか土へ埋めた。
母は補強された担架へ乗せられている。
胸元には、三人の赤ん坊。
一枚の大きな布に包まれ、互いへ寄り添うように眠っていた。
ロウカは担架の先頭に立った。
旧排水路へ入ったときと同じ場所。
けれど今は、母の手を握ることができない。
両手で持ち手を握り、担架を支えなければならなかった。
「ロウカ」
母が呼ぶ。
「何?」
「見て」
母が布を少しだけ開く。
三人の妹の顔が並んでいた。
よく似ている。
けれど少しずつ違う。
一人は眉間へ小さく皺を寄せ。
一人は口を開いたまま眠り。
一人はロウカの指へ触れようと、手を動かしていた。
「ナオトが来たら、驚くわね」
母が微笑む。
「一人だと思っていたら、三人だもの」
「うん」
「きっと大騒ぎするわ」
「うん」
「ちゃんと抱いてくれるかしら」
「落とさないように見てる」
「お願いね」
「うん」
ロウカは、それ以上何も言わなかった。
ナオトは来ない。
たぶん。
だから自分が教えることもない。
兄が妹たちを抱く日は来ない。
そう分かっている。
それでも母へは言わなかった。
今はまだ。
今は、自分が覚えていればいい。
兄が三人を守ったことを。
兄が最後まで逃げなかったことを。
誰にも本気でリーダーと呼ばれなかった少年が、最後には全員を逃がしたことを。
兄の名前を。
ロウカが忘れなければいい。
担架が持ち上がる。
一歩。
また一歩。
生存者たちは、さらに西へ進み始めた。
東の光は、もう木々に隠れて見えない。
それでも足を止める者はいなかった。
やがて、担架の上から声がした。
一人が泣く。
その声に起こされるように、二人目も泣き始める。
少し遅れて、三人目の声が重なった。
小さな産声だった。
森を震わせるほど大きくはない。
敵を怯ませる力もない。
風を刃へ変えることもできない。
兄の雄叫びとは、似ても似つかなかった。
それでも三つの声は、夜明け前の山中で必死に響いていた。
守られるだけの命ではなかった。
消えかけながら。
奪われかけながら。
それでも生きることを諦めていない声だった。
生きる場所をよこせと。
この世界へ要求する。
三つの産声だった。
これにて、幼少期編は完結です。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
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ここまで読んで「続きも読んでみたい」「これからも応援したい」と思っていただけましたら、感想・評価・ブックマークで応援していただけると、とても嬉しいです!
第1章「学園編」でも、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。