【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。   作:サボテニウム

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幕間 死ねなかった者たち 前編

 

 

 

 西暦二〇五六年。

 

 人類の敗北から、六年。

 

 パリは、再び燃えていた。

 

 夜空を赤く染めているのは、朝焼けではない。

 

 砲撃によって燃え上がった市街地。

 

 崩れた家屋から噴き出す炎。

 

 そして、街の東側を覆う赤黒い魔力の光だった。

 

 かつて欧州における人類側の一大拠点だった都市は、第一真祖直属軍――明けの明星の攻勢によって、陥落寸前まで追い詰められている。

 

 石畳を、避難民の列が埋め尽くしていた。

 

 泣き叫ぶ子供。

 

 足を引きずる負傷者。

 

 家族の名を呼びながら、何度も後ろを振り返る者。

 

 誰もが、何かを置き去りにしている。

 

 家を。

 

 友を。

 

 昨日までの暮らしを。

 

 それでも、足を止めることだけは許されなかった。

 

「第三班! 橋の手前で列を詰まらせるな!」

 

 銃声と悲鳴を切り裂いて、男の怒号が響く。

 

「動ける負傷者は子供を背負え! 荷物は捨てろ! 命より高い荷物があるなら、俺があとで買い取ってやる!」

 

 避難民の最後尾。

 

 燃え落ちる市街地と、セーヌ川へ架かる最後の橋との間に、一人の男が立っていた。

 

 氷室宗一郎。

 

 十三戦鬼の一人。

 

 肩から腰へ走った傷は深い。

 

 左腕は折れ、力なく垂れ下がっている。

 

 脇腹から流れる血は、すでに軍服の半分を黒く染めていた。

 

 それでも、その声には微塵も弱った様子がない。

 

「氷室隊長!」

 

 若い討魔師が駆け寄ってくる。

 

「東側の防衛線が突破されました! 敵の先鋒が、あと二分ほどで到達します!」

 

「二分か」

 

 宗一郎は燃え上がる市街地を眺め、顎を撫でた。

 

「もう少しゆっくり来てくれりゃ、茶の一杯くらい出してやったんだがな」

 

「冗談を言っている場合ですか!」

 

「怒るな怒るな。こういうときに冗談も言えない隊長は、部下を余計に怖がらせる」

 

 宗一郎の指先が、戦場をなぞる。

 

 橋を渡り終えていない避難民の数。

 

 敵が姿を現す路地。

 

 風向き。

 

 川の流れ。

 

 崩落させるべき建物。

 

 橋脚を落とす順序。

 

 残存魔力。

 

 視線を一度動かしただけで、必要な情報を拾い上げていく。

 

「第五班を北の路地へ回せ。敵を倒す必要はない。左右の建物を落として道を塞げ」

 

「敵を残すのですか?」

 

「今必要なのは死体の数じゃない。時間だ」

 

 宗一郎は若い討魔師の肩を叩く。

 

「二分稼げ。全員、生きて橋を渡れ」

 

「氷室隊長は、どうなさるのです」

 

「俺は三分稼いでから帰る」

 

「また、そのようなことを」

 

「心配するな」

 

 宗一郎は白い歯を見せた。

 

「家に無愛想な倅を一人置いてきてる。親父が土産話もなしに帰らなかったら、教育に悪いだろうが」

 

「……ご子息は、隊長の帰りを待っておられるのですか」

 

「いや。たぶん今頃、普通に寝てる」

 

「氷室隊長!」

 

「冗談だ」

 

 笑みを残したまま、宗一郎の目だけが変わる。

 

「行け」

 

 若い討魔師は反射的に背筋を伸ばした。

 

「ここは俺が預かる。橋を渡ったら、後ろを見るな」

 

「……ご武運を」

 

「帰ったら酒を奢れ」

 

「必ず」

 

「安酒だったら凍らせるからな」

 

 若い討魔師が走り去る。

 

 その背中が避難民の列へ紛れた瞬間、宗一郎の笑みが消えた。

 

 敵の数。

 

 自軍の残存戦力。

 

 橋を落とすまでの時間。

 

 生還できる確率。

 

 すべてを、もう一度だけ計算する。

 

「さて」

 

 宗一郎は石畳へ片膝をついた。

 

「格好いいところを見せる相手が、誰も残ってないのが残念だ」

 

 右掌を地面へ押し当てる。

 

 白い冷気が、指の隙間から溢れた。

 

 瞬間。

 

 街が凍った。

 

 石畳を走った氷が、路地へ迫っていた吸血鬼たちの足を呑み込む。

 

 壁を這い上がり。

 

 窓を塞ぎ。

 

 街灯を、馬車を、瓦礫を巻き込みながら、巨大な氷壁となって街路を封鎖する。

 

「――《氷獄》」

 

 宗一郎が拳を握る。

 

 氷壁の内側から、無数の氷柱が突き出した。

 

 吸血鬼たちの身体が、次々と貫かれる。

 

 悲鳴。

 

 血飛沫。

 

 砕ける石。

 

 そのすべてが、白い冷気の中で静止していく。

 

 宗一郎は倒した敵を確認しない。

 

 視線はすでに、次の路地へ向いていた。

 

「右から十二。屋根に四。地下に――三か」

 

 足元へ影が伸びた。

 

 宗一郎は振り返らず、右手を払う。

 

 背後へ回り込んでいた吸血鬼の喉が、石畳から生えた氷刃によって切断された。

 

「隠れるなら呼吸を止めろ。雪山じゃ初歩だぞ」

 

 敵が倒れるより早く、宗一郎は次の術式を放つ。

 

 凍結した建物の壁面が崩れ落ち、路地を埋めた。

 

 明けの明星の進軍が再び止まる。

 

 宗一郎は脇腹へ手を当てた。

 

 流れ続けていた血を、傷口ごと凍結させる。

 

「あと一分」

 

 橋を見る。

 

 まだ十数人が残っている。

 

 追撃部隊は想定より速い。

 

 ならば、予定を変える。

 

「最後尾!」

 

 橋の向こうへ声を飛ばした。

 

「走れ! 三十数える前に橋を落とす!」

 

 負傷者を支えていた討魔師が振り返る。

 

「まだ氷室隊長が!」

 

「十三戦鬼を舐めるな!」

 

 宗一郎は笑った。

 

「セーヌ川くらい、凍らせて渡る!」

 

 最後の避難民が橋を渡り切る。

 

 討魔師が対岸へ飛び込むように辿り着いた。

 

 宗一郎は橋脚へ右手を向けた。

 

 セーヌ川の水面が白く染まる。

 

 冷気が水中を走り、石と鉄で組まれた橋脚を内側から凍結させていく。

 

「伏せろ!」

 

 指を鳴らした。

 

 凍りついた橋脚が、一斉に砕ける。

 

 轟音。

 

 巨大な橋が中央から崩落し、川へ沈んだ。

 

 水柱が夜空へ立ち上る。

 

 市街地と避難民が、完全に切り離された。

 

 これで、数千人が逃げ切った。

 

 宗一郎は対岸へ消えていく人影を確認し、短く息を吐く。

 

「一分余ったな」

 

 自分も帰る。

 

 そのつもりだった。

 

 パリに残された経路は、橋だけではない。

 

 北西の地下水路。

 

 崩れた鐘楼の地下に残る保守通路。

 

 魔力さえ保てば、宣言どおりセーヌ川を凍らせることもできる。

 

 生還の可能性は低い。

 

 だが、ゼロではない。

 

 氷室宗一郎は、可能性がゼロにならない限り、生き延びる手段を探す男だった。

 

 そのとき。

 

 拍手が聞こえた。

 

 一度。

 

 また一度。

 

 急かすこともなく。

 

 感動することもなく。

 

 出来のよい余興を褒めるような、ゆっくりとした拍手だった。

 

 宗一郎が振り返る。

 

 凍りついた街路の奥から、明けの明星の兵士たちが姿を現した。

 

 十人。

 

 五十人。

 

 百人。

 

 だが、誰一人として宗一郎へ襲いかからない。

 

 赤黒い軍装に身を包んだ吸血鬼たちは、道の両側へ分かれていく。

 

 頭を垂れ。

 

 息を潜め。

 

 王の進む道を空ける。

 

 その中央を、一人の男が歩いてきた。

 

 武器はない。

 

 防具もない。

 

 炎と瓦礫の中を進んできたはずなのに、衣服には煤一つついていなかった。

 

 無防備。

 

 そう見える。

 

 だが宗一郎は、右手を構えたまま一歩も動かなかった。

 

 背筋を伝う冷たさは、自らの魔術によるものではない。

 

 対峙した瞬間に理解する。

 

 勝てるか、勝てないかではない。

 

 生き物として立っている場所が違う。

 

「見事であった」

 

 男が告げる。

 

 低く、静かな声だった。

 

「螻蟻にしては、よく足掻いた」

 

「お褒めにあずかり光栄だ」

 

 宗一郎は肩をすくめる。

 

「王様直々のお出迎えとは、随分と手厚いな」

 

「思い上がるな」

 

 男の視線が、宗一郎をなぞった。

 

「珍しい芸を見たゆえ、足を止めただけだ」

 

 周囲の兵士たちは、男の顔を見ることさえしない。

 

 第一真祖ベリアル。

 

 七人の真祖の頂点に立つ吸血鬼。

 

 明けの明星を率いる王。

 

 ベリアルは崩落した橋へ目を向ける。

 

「数千の螻蟻を逃がすため、一匹だけ残ったか」

 

「勝手に一匹と数えるな」

 

 宗一郎は傷口から落ちかけた血を、皮膚ごと凍らせた。

 

「俺はまだ帰る途中だ」

 

「戯けたことを」

 

 ベリアルが宗一郎へ視線を戻す。

 

「我が前に立ちながら、己に帰路が残されていると思うたか」

 

「帰り道ってのは、自分で作るもんだ」

 

 宗一郎は腰を落とす。

 

「王様なら、道を空けるくらいの度量を見せろ」

 

 ベリアルの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

 

「凡骨の分際で、我に度量を説くか」

 

「説教は無料だ。聞くだけ聞いておけ」

 

「痴れ者が」

 

 ベリアルは歩みを止めない。

 

「我に届いてみせよ、凡骨」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 宗一郎が地面を蹴った。

 

 石畳が砕ける。

 

 一息で間合いを潰し、右手に形成した氷剣をベリアルの首へ振り抜く。

 

 刃が届く直前。

 

 黒い炎が灯った。

 

 赤ではない。

 

 熱によって揺らめくこともない。

 

 光さえ呑み込みながら、闇そのものが燃えている。

 

 暗黒の炎。

 

 氷剣が触れる。

 

 溶けない。

 

 砕けない。

 

 ただ、その部分だけが消えた。

 

 宗一郎は即座に剣を捨て、後方へ跳ぶ。

 

「焼くんじゃない。触れた術式そのものを食ってやがる」

 

 一度見ただけで、能力の性質を切り分ける。

 

 同じ攻撃は二度使わない。

 

 宗一郎が右手を振る。

 

 街路の両側に残されていた水道管が破裂した。

 

 噴き出した水が瞬時に凍り、無数の細い氷線となってベリアルを取り囲む。

 

 倒すための攻撃ではない。

 

 暗黒の炎が展開する速度。

 

 干渉可能な範囲。

 

 反応の遅れる方向。

 

 それらを測るための探針だった。

 

 黒炎が広がる。

 

 氷線が次々と消えていく。

 

 宗一郎は、その順序を見ていた。

 

「右後ろが遅い」

 

 氷線を踏み台にして宙へ跳ぶ。

 

 ベリアルの死角。

 

 黒炎の展開が最も遅れた位置へ回り込み、氷槍を放つ。

 

 だが、ベリアルは振り向かなかった。

 

 街路へ転がっていた死体から、血が浮かび上がる。

 

 一滴。

 

 また一滴。

 

 人間の死体から。

 

 吸血鬼の死体から。

 

 敵も味方も区別なく、流れ出していた血が空中へ集まっていく。

 

 無数の槍へ形を変えた。

 

 ベリアルが指を動かす。

 

 血槍が放たれた。

 

 氷槍と衝突する。

 

 双方が砕けた。

 

 散った血は、地面へ落ちる前に細い鎖へ変わる。

 

「趣味の悪い王様だ」

 

 宗一郎は身を捻り、二本をかわす。

 

 三本目が頬を裂いた。

 

 傷から滲んだ血が、空中へ引き抜かれようと浮かび上がる。

 

 宗一郎は即座に自分の頬を凍結させた。

 

「死体が弾倉で、傷口が銃口か」

 

 指を鳴らす。

 

 街路に倒れていた死体が、一斉に白く凍りついた。

 

 皮膚だけではない。

 

 流れ出した血も。

 

 瓦礫の隙間も。

 

 服へ染み込んだ一滴に至るまで。

 

 浮かび上がりかけていた血が、動きを止める。

 

「悪いな」

 

 宗一郎が笑った。

 

「初見殺しは一回までって決めてるんだ」

 

 ベリアルの眉が、ごくわずかに動いた。

 

「ほう」

 

「王様でも感心することがあるらしい」

 

「己の浅知恵を誇るな、凡骨」

 

 ベリアルが片手を上げる。

 

 宗一郎の身体が警告を発した。

 

 反射的に飛び退く。

 

 直前まで立っていた場所を、赤い槍が貫いた。

 

 死体から引き出された血ではない。

 

 宗一郎自身の脇腹。

 

 凍結した傷口を内側から破り、血が引きずり出されていた。

 

「我が支配する血に、生死の別などない」

 

 ベリアルが指を曲げる。

 

 宗一郎の体内で、血が逆流した。

 

「がっ……!」

 

 心臓が大きく跳ねる。

 

 宗一郎は迷わない。

 

 自らの胸を叩き、心臓の周囲だけを凍結させる。

 

 血流を強制的に抑え込んだ。

 

 身体を壊しかねない荒技。

 

 それでも、膝はつかない。

 

「自らの心臓まで凍らせるか」

 

「長生きの秘訣は、健康診断と早めの治療だ」

 

 宗一郎は口元の血を拭う。

 

「医者には見せられんがな」

 

 軽口を叩きながら、目は笑っていない。

 

 死体からの血液操作。

 

 生体への干渉。

 

 暗黒の炎。

 

 再生能力。

 

 現時点で、明確な隙はない。

 

 ならば、作るしかない。

 

 宗一郎が両手を広げた。

 

 パリの気温が、一気に下がる。

 

 セーヌ川の水面が凍り始める。

 

 燃えていた家屋の炎が小さくなり、空気中の水分が白い霧へ変わった。

 

 濃霧が街路を包み込む。

 

 視界が消える。

 

 魔力の気配さえ、無数の氷片へ分散された。

 

「目眩ましか」

 

 ベリアルの声が、霧の向こうから響く。

 

「逃げるためじゃない」

 

 宗一郎の声は、別方向から聞こえた。

 

「お前に探させるためだ」

 

 氷の像が、濃霧の中へ次々と立ち上がる。

 

 十。

 

 二十。

 

 五十。

 

 宗一郎と同じ姿。

 

 同じ体温。

 

 同じ魔力反応。

 

 血の匂いまで、氷の内部へ閉じ込めてある。

 

 暗黒の炎が走った。

 

 氷像の一体が消える。

 

 次。

 

 また次。

 

 そのたびに、黒炎の軌道が白い霜となって浮かび上がる。

 

 宗一郎は攻撃していない。

 

 ベリアルへ力を使わせ、その癖を見ている。

 

 濃霧の中。

 

 宗一郎は地面へ横たわる血の鎖へ、そっと手を触れた。

 

 凍結。

 

 血の鎖の内部を氷が走る。

 

 鎖から血槍へ。

 

 血槍から石畳へ。

 

 そして、ベリアルの足元へ。

 

「そこだ」

 

 宗一郎が地面を蹴った。

 

 囮の氷像が一斉に砕ける。

 

 白い破片が濃霧を裂いた。

 

 ベリアルの右側。

 

 黒炎が展開するよりも早く、宗一郎が懐へ潜り込む。

 

 右手には氷の短刀。

 

 暗黒の炎へ触れれば消される。

 

 宗一郎は刃を投げ捨てた。

 

 代わりに、ベリアルの胸へ素手を叩き込む。

 

「――凍れ」

 

 接触点から氷が侵入する。

 

 皮膚。

 

 肉。

 

 血管。

 

 第一真祖の肉体そのものを、内側から凍結させていく。

 

 同時に、背後のセーヌ川から巨大な氷槍が伸びた。

 

 宗一郎がベリアルの体内へ打ち込んだ氷を目印に、一直線に飛来する。

 

 胸を貫いた。

 

 衝撃が市街地を揺らす。

 

 氷槍はベリアルの身体を串刺しにしたまま、背後の建物へ突き刺さった。

 

 石壁が崩れる。

 

 白い氷が広がり、第一真祖を建物ごと凍結させる。

 

 宗一郎は即座に距離を取った。

 

 右手の指先が、黒く変色している。

 

 接触した一瞬だけで、暗黒の炎に侵食されていた。

 

 それでも。

 

 手応えはあった。

 

 心臓を貫いた。

 

 肉体の内部まで凍結させた。

 

 だが、勝ったとは思わない。

 

 宗一郎は息を整えながら、次の変化を待った。

 

 氷の中で。

 

 赤黒い炎が灯る。

 

 火は氷を溶かさない。

 

 凍結という現象そのものを、内側から食い破っていく。

 

 氷槍へ亀裂が走った。

 

 巨大な氷塊が、音もなく崩れていく。

 

 ベリアルが一歩、前へ出た。

 

 胸を貫いていた槍が、灰となって散る。

 

 傷は残っている。

 

 第一真祖の胸から、わずかに血が流れていた。

 

 ベリアルは指先で自らの血へ触れる。

 

 その赤を、興味深そうに眺めた。

 

「見事」

 

 初めて。

 

 その声に、明確な評価が含まれていた。

 

「人の身で、我に傷を刻むか」

 

「そいつはどうも」

 

 宗一郎は肩で息をしながら笑う。

 

「治療費は請求するなよ」

 

 ベリアルが宗一郎を見る。

 

 もはや、名も持たぬ螻蟻を見る目ではなかった。

 

「名は」

 

「氷室宗一郎」

 

「氷室宗一郎か」

 

 第一真祖が、初めて名を呼ぶ。

 

「その名、覚えてやろう」

 

 宗一郎の足元で、血が動いた。

 

「光栄に思え、痴犬」

 

 宗一郎は即座に跳ぼうとした。

 

 遅い。

 

 凍結した死体の内部。

 

 地面の下。

 

 宗一郎の魔力が届かなかった、さらに深い場所。

 

 パリで流れた血のすべてが、目を覚ましていた。

 

 石畳が赤く染まる。

 

 川のように血が流れ、無数の鎖が宗一郎の両脚へ絡みつく。

 

 力任せに引きちぎる。

 

 切れた鎖が槍へ変わり、肩を貫いた。

 

 宗一郎は槍を凍結させる。

 

 凍った血が、暗黒の炎を纏う。

 

「くそったれ……」

 

 宗一郎が槍を引き抜く。

 

 その間に。

 

 空が赤く染まり始めていた。

 

 戦場に流れた血が、重力へ逆らって昇っていく。

 

 人間の死体から。

 

 吸血鬼の死体から。

 

 瓦礫の下から。

 

 宗一郎自身の傷口から。

 

 無数の血が、ベリアルの頭上へ集まる。

 

 赤黒い巨大な球体。

 

 その中心で、闇と炎が混ざり合った黒い太陽が燃えていた。

 

 星。

 

 そうとしか呼べないものが、パリの夜空へ生まれようとしている。

 

 宗一郎の本能が告げる。

 

 あれが完成すれば、街一つでは済まない。

 

 敵を殺すためだけの術ではない。

 

 戦場にある生も死も、第一真祖の所有物へ変える何か。

 

 だが。

 

 ベリアルは指を閉じた。

 

 空へ生まれかけていた赤黒い星が、霧のように消える。

 

 昇っていた血も。

 

 暗黒の炎も。

 

 初めから存在しなかったかのように、消え去った。

 

「痴犬一匹を躾けるために、明星を墜とすほど我は酔狂ではない」

 

 宗一郎は理解した。

 

 あの術を使う必要さえない。

 

 そう判断されたのだ。

 

 自分は全力だった。

 

 街を使い。

 

 川を使い。

 

 敵の術式を分析し。

 

 命を削って、一度だけ第一真祖へ傷を刻んだ。

 

 ベリアルにとっては。

 

 ただ、名前を覚える価値があると認めた程度のことだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 勝てない。

 

 宗一郎は迷わず、その結論を受け入れた。

 

 恐怖でも、絶望でもない。

 

 戦場における事実として。

 

 勝てない敵へ、勝てると思い込んで挑み続けるのは勇気ではない。

 

 ただの無能だ。

 

 目的を変える。

 

 敵を倒すことから。

 

 情報と身体を奪わせないことへ。

 

 十三戦鬼として知る人類側の防衛線。

 

 東京の戦力。

 

 討魔師たちの配置。

 

 自らが扱う氷の魔術。

 

 第一真祖へ渡すわけにはいかない。

 

 捕虜となれば、必ず利用される。

 

 ならば。

 

 死ぬ。

 

 宗一郎は、残された魔力を右手へ集めた。

 

 だが、自らの胸へは手を伸ばさない。

 

 目に見える動作を取れば、止められる。

 

「なお抗うか」

 

 ベリアルが告げる。

 

「悪いな」

 

 宗一郎は笑った。

 

「負けず嫌いなんだ」

 

 地面から氷槍を生み出す。

 

 正面。

 

 左右。

 

 背後。

 

 連続する攻撃。

 

 すべて囮。

 

 ベリアルが暗黒の炎を放った瞬間。

 

 宗一郎は、自らの魔力核の内部へ、あらかじめ生じさせておいた氷を砕いた。

 

 戦いながら、準備していた。

 

 外から止めることはできない。

 

 魔力核が崩壊する。

 

 心臓が止まった。

 

 宗一郎の身体から力が抜ける。

 

 倒れながら、東京を思い浮かべた。

 

 静かな息子。

 

 言葉の少ない少年。

 

 宗一郎が大げさに抱きつけば、露骨に嫌そうな顔をする。

 

 それでも、強くは振り払わない。

 

 手を離したあとも、ほんの少しだけ近くに残る。

 

「悪いな、カイ」

 

 最後の言葉が、掠れた息とともに漏れた。

 

「土産話は……また今度だ」

 

 視界が暗くなる。

 

 音が消える。

 

 痛みも消えた。

 

 死んだ。

 

 確かに。

 

 一度は。

 

 ベリアルは、動かなくなった宗一郎を見下ろした。

 

 止められなかったのではない。

 

 止めなかった。

 

 人間が最後に何を選ぶのか。

 

 ただ、それを見届けた。

 

「満足したか、痴犬」

 

 返事はない。

 

 宗一郎は死んでいる。

 

「では、次は我の番だ」

 

 ベリアルが宗一郎の胸へ手をかざす。

 

 赤黒い血が、指先から滴り落ちた。

 

 傷口へ。

 

 砕けた魔力核へ。

 

 止まった心臓へ。

 

 第一真祖の血が流れ込む。

 

「戯け」

 

 冷たい声が、死者へ降り注ぐ。

 

「死を選べば、我から逃れられると思うたか」

 

 宗一郎自身のものではない血が、亡骸を内側から満たしていく。

 

 砕けた骨が戻る。

 

 裂けた肺が塞がる。

 

 崩壊した魔力核が、人間とは異なるものへ作り変えられていく。

 

 止まっていた心臓が動いた。

 

 一度。

 

 二度。

 

 人間だった頃とは異なる鼓動。

 

 宗一郎は目を開けた。

 

「……っ!」

 

 反射的に、自分の心臓を凍結させる。

 

 心臓が砕けた。

 

 身体が死ぬ。

 

 だが、第一真祖の血が破片をつなぎ合わせる。

 

 鼓動が戻る。

 

 宗一郎は喉元へ氷刃を生み出した。

 

 頸動脈を切断する。

 

 噴き出した血は、地面へ落ちる前に逆流した。

 

 傷口が塞がる。

 

 魔力核を壊す。

 

 再生する。

 

 心臓を止める。

 

 動き出す。

 

 何度死のうとしても。

 

 第一真祖の血が、宗一郎を死から引き戻した。

 

「やめろ……」

 

 宗一郎の声が掠れる。

 

「何を止めよと?」

 

「俺を……生かすな」

 

「先ほどまで生へ執着していた痴犬が、今度は死を乞うか」

 

「人間のまま、死なせろ」

 

 ベリアルは宗一郎の胸へ目を落とした。

 

 第一真祖の血が、肉体を作り変え続けている。

 

「そのようなものは、先ほど死んだ」

 

 宗一郎はベリアルへ殴りかかろうとした。

 

 右腕が動かない。

 

 筋肉は動こうとしている。

 

 宗一郎自身も、明確に命令している。

 

 それでも体内を流れる血が、その意思を拒絶した。

 

「痴犬が」

 

 ベリアルは、道理を知らぬものへ教えるような声で告げる。

 

「我の所有物が、誰の許しを得て壊れる」

 

「俺は、貴様のものじゃない」

 

「戯け」

 

 ベリアルが宗一郎の顎をつかむ。

 

 抗おうとした右腕は動かなかった。

 

 体内を巡る血が、宗一郎の意思を拒んでいる。

 

 赤い瞳が、逃げ場のない距離から宗一郎を見下ろした。

 

「今、この瞬間から、お前の生も死も我のものだ」

 

 

 

 

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