【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
神聖守護領域アルカディアでは、今も一日に三度、鐘が鳴る。
朝は、今日を生きるために。
昼は、失われた領土を忘れないために。
夜は、いつか帰還する王へ祈りを捧げるために。
鐘の音が響くたび、街の人々は足を止めた。
兵士は胸へ拳を当て。
商人は店先で頭を垂れ。
母親は幼い子供の手を握りながら、空を見上げる。
建物の壁には、第四真祖アラストルの紋章が掲げられていた。
大戦で深い傷を負った王は、聖域の最奥で眠っている。
傷が癒えた日。
偉大なる王は再び民の前へ姿を現し、失われた故郷を取り戻してくれる。
誰もが、そう信じていた。
鐘の音は地上を渡り。
石壁を震わせ。
誰も知らない地下深くへ、かすかに届く。
その音を。
エレオノーラは、独りで聞いていた。
◇ ◇ ◇
地下聖堂に窓はない。
朝も。
昼も。
夜も。
石壁に掛けられた燭台の火だけが、変わらぬ明かりを落としている。
かつて王のみが祈りを捧げた聖堂だった。
今では祭壇も聖像も取り払われ、残されているのは一脚の椅子と、床を這う黒い鎖だけだった。
鎖はエレオノーラの両手首と両足首へ繋がれている。
細い。
第四真祖を拘束するには、あまりにも頼りない鎖だった。
少し腕へ力を込めるだけでよい。
鎖は千切れる。
床も砕ける。
地下聖堂を覆う幾重もの結界さえ、彼女を閉じ込めておくことはできない。
エレオノーラが望めば、地上へ出るまで一分とかからないだろう。
それでも。
彼女は、ここにいた。
右手首から伸びた鎖へ、そっと指を触れる。
冷たい鉄の向こうから、いくつもの鼓動が伝わってきた。
速い鼓動。
弱い鼓動。
眠りの中にある、穏やかな鼓動。
一つではない。
百でもない。
鎖と結界を維持する契約は、地上で暮らす民の命へ繋がれていた。
誰が契約へ組み込まれているのか、彼女には分からない。
老いた者かもしれない。
戦争で足を失った兵士かもしれない。
子を抱いた母親かもしれない。
夜ごと第四真祖の帰還を祈っている、幼い子供かもしれない。
鎖を壊せば。
彼らの命が、代わりに砕ける。
「…………」
エレオノーラは鎖から指を離した。
手首には、薄く赤い跡が残っている。
傷ではない。
第四真祖の肉体を、ただの鉄が傷つけることなどできない。
それでも鎖は、彼女をここから一歩も動かさなかった。
力によってではない。
鎖の先にいる人々を、彼女が殺せないという。
ただ、それだけの理由で。
重い音を立てて、地下聖堂の扉が開いた。
エレオノーラが顔を上げる。
幾重もの結界を越え、数人の男たちが入ってきた。
先頭を歩くのは、白髪の老人だった。
アルカディア評議会議長。
かつては王の御前で膝をつき、エレオノーラへ忠誠を誓っていた男。
その背後には二人の護衛が続いている。
武装していた。
だが、第四真祖を討つための武装ではない。
彼女が力を振るえば、剣を抜く時間さえ与えられずに死ぬ。
そのことは、護衛たち自身が誰よりも理解していた。
議長はエレオノーラの前まで歩み寄る。
「陛下」
そう呼んだ。
しかし、膝はつかなかった。
「お身体に変わりはございませんか」
「はい」
エレオノーラは小さく頷く。
「皆さんは、お変わりありませんか」
議長の眉が、わずかに動いた。
「我々のことより、ご自身のことをお尋ねください」
「私のことは分かっていますから」
穏やかな声だった。
責める響きはない。
エレオノーラは議長の手に抱えられた書類へ目を向けた。
「北部の避難民へ、食料は届きましたか」
「先週、麦と干し肉を積んだ輸送隊が到着しております」
「薬は」
「十分とは申せませんが、重傷者を優先して配布しております」
「冬を越せない集落があると聞きました」
「南部への移住を始めました。今月中には、全員を移動させる予定です」
「そうですか」
エレオノーラは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「よかった」
議長は何も答えない。
彼女がいつ解放されるのか。
なぜここへ閉じ込められているのか。
そうしたことを、エレオノーラは一度も尋ねなかった。
問うのは、いつも民のことばかりだった。
「負傷した兵士たちは」
「治療を続けております」
「ご家族には、きちんと説明を?」
「行っております」
「亡くなった方々は」
議長は抱えていた書類の中から、一冊の薄い名簿を取り出した。
「こちらに」
エレオノーラは両手で受け取った。
鎖が、床の上をわずかに擦る。
名簿を開く。
一人目。
二人目。
三人目。
並んでいるのは数字ではない。
すべて名前だった。
エレオノーラは、ゆっくりと頁をめくる。
「この方は……」
指が、一つの名前の上で止まった。
「西門を守っていた方ですね。娘さんが、生まれたばかりだったはずです」
「遺族には、十分な補償を行います」
「十分な補償とは、どのくらいですか」
「向こう十年、生活に困ることはない額を」
「十年が過ぎたあとは」
「それまでには、娘も成人しております」
「父親がいないことは、十年では終わりません」
静かな言葉だった。
議長は唇を結ぶ。
エレオノーラは名簿へ視線を戻した。
一つずつ。
名を覚えるように。
あるいは忘れないように。
最後の頁まで目を通してから、名簿を閉じた。
「ご報告、ありがとうございました」
胸元へ抱くようにして、議長へ返す。
議長は名簿を受け取らず、別の書類を取り出した。
厚い紙の束。
その最上部には、軍の紋章と、広げられた翼を持つ第四真祖の印章が押されている。
「本日は、ご報告だけに参ったのではございません」
「分かっています」
エレオノーラは、議長の手元を見た。
「軍を動かすのですね」
「はい」
議長は否定しなかった。
護衛の一人が、折り畳まれた地図を床へ広げる。
現在のアルカディア。
大戦以前の三分の一にも満たない領土。
国境の向こう側には、奪われた都市や集落の名が記されている。
別の色で塗られた土地。
かつてはすべて、エレオノーラが守ると誓った場所だった。
「占領地に残された同胞は、今も敵国の支配下にあります」
議長の指が、地図の上を動く。
「徴税は年々重くなり、連れ去られた者も少なくありません。国境周辺では、小規模ながら襲撃も続いております」
「承知しています」
「軍の編成は、すでに終えております」
「…………」
「兵糧も武器も揃えました。南部諸侯からも、派兵の約束を取りつけております」
議長は書類をエレオノーラへ差し出した。
「第一帝国への報復を、お認めください」
地下聖堂へ、沈黙が落ちた。
エレオノーラは書類を受け取らない。
地図に記された矢印を見ていた。
国境を越え。
奪われた都市を通り。
第一帝国の領域へ深く突き刺さる、幾本もの矢印。
「戦えば」
エレオノーラが口を開く。
「何人が死ぬのですか」
議長は答えなかった。
「教えてください」
「戦場に、確かな数はございません」
「では、予測で構いません」
「少なくはないでしょう」
「何人ですか」
「陛下」
「その書類には、書かれていないのですか」
議長が差し出している紙へ目を向ける。
兵力。
進軍経路。
補給計画。
占領後の統治案。
多くの数字が並んでいる。
ただ。
死ぬ者の数だけが、どこにも書かれていない。
「勝つために必要な犠牲です」
「誰にとって必要なのですか」
「国にとってです」
「国とは、誰のことですか」
議長の顔が強張る。
「領土ですか。城ですか。地図の上に引かれた線ですか」
「民です」
議長は、はっきりと答えた。
「我々は、民を守るために戦います」
「その民を、戦場へ送るのですね」
「戦わなければ、さらに多くを失います」
議長の声が低くなる。
「我々は、すでに国土の大半を奪われました。故郷を追われた者は数え切れず、占領地では今も民が苦しんでいる」
「分かっています」
「いいえ」
議長は首を横へ振った。
「陛下は、分かっておられない」
護衛たちが緊張したように議長を見る。
だが、議長は言葉を止めなかった。
「剣を収めれば、敵も剣を収めるとお考えですか」
「そうは思っていません」
「慈悲を示せば、敵も慈悲を返すと?」
「いいえ」
「ならば、なぜです」
議長の手の中で、書類が震えた。
「我々は、いつまで奪われ続ければよいのですか」
「…………」
「父を殺された子供へ、復讐を忘れろとお命じになりますか。故郷を奪われた老人へ、死ぬまで耐えろと仰せになるのですか」
「そのようなことは――」
「陛下の慈悲は、誰のためにあるのです」
議長の声が、地下聖堂へ響いた。
「我々のためですか。それとも、我々を殺した敵のためですか」
エレオノーラは地図を見つめた。
失われた土地。
戻らない人々。
首都が陥落した日。
助けを求めて伸ばされた手。
彼女が間に合わなかった場所。
忘れたことなど、一度もない。
「敵を許したいのではありません」
エレオノーラは、静かに答えた。
「では」
「死者を忘れたわけでもありません」
「ならば、剣を」
「ですが」
エレオノーラは顔を上げる。
議長の目を見る。
「死んだ方々を理由に、生きている方々を死なせることはできません」
「それは王の言葉ではない」
議長は即座に言った。
エレオノーラの瞳が、わずかに揺れる。
「王は、選ばねばなりません」
議長は続ける。
「一人を捨て、百人を救わねばならないことがある。百人を戦場へ送り、一万の民を守らねばならないこともある」
「…………」
「誰も死なせたくないなどという願いで、国は守れません」
「分かっています」
「いいえ。分かっておられるなら、承認を」
「できません」
かすかな声だった。
けれど、迷いはなかった。
「これ以上、民を死なせることはできません」
議長は目を閉じた。
深く息を吸う。
怒りを鎮めようとしているようにも。
何かを諦めようとしているようにも見えた。
「では」
再び目を開く。
「陛下のお名前だけを、お借りいたします」
エレオノーラが顔を上げた。
「私の名前を?」
「地上の民は、陛下が療養中であると信じております」
「それは、嘘です」
「必要な嘘です」
「必要かどうかは、騙される方々が決めることです」
「真実を明かせば、国が割れます」
議長は淡々と告げる。
「第四真祖アラストルは、報復を拒み、評議会によって地下へ幽閉された。そう公表すれば、何が起こるとお考えですか」
「…………」
「軍は分裂する。諸侯は互いを疑う。陛下を救い出そうとする者と、我々に従う者の間で内乱が起きるでしょう」
エレオノーラには、否定できなかった。
「民は今も、あなたの帰還を信じています」
議長が言う。
「その信仰があるから、飢えた者は明日まで耐えられる。兵士は国境に立ち続けられる。故郷を失った者も、いつか帰れると信じられる」
「私の名で、戦争を始めるおつもりですか」
「あなたのお名前は、まだこの国に必要です」
「私は、認めていません」
「陛下ご本人が国を守れぬと仰るのなら」
議長は、手にした書類を胸元へ戻した。
「せめて、そのお名前には守っていただきます」
エレオノーラの指が、膝の上で僅かに動いた。
鎖が小さく鳴る。
「それでは」
エレオノーラは、かすれた声で言った。
「私が王である意味は、どこにあるのですか」
「…………」
「私の言葉は聞かず。私の名だけを使うのなら」
議長は答えなかった。
答えられなかったのか。
答える必要を感じなかったのか。
エレオノーラには分からない。
長い沈黙のあと。
議長は地図の上に置かれていた戦死者名簿を手に取った。
「首都アルカディアが陥落した日」
低い声だった。
「私は、二人の息子を失いました」
エレオノーラが目を見開く。
「一人は東門で。もう一人は、避難民を逃がす途中で」
「……知りませんでした」
「お伝えしておりませんでしたから」
「なぜ」
「陛下は、すべてをご自身の罪になさる」
議長は名簿を見下ろす。
「戦場で死んだ兵士の名前を一人ずつ覚え。残された家族の暮らしを案じ。救えなかった者のために、夜ごと祈りを捧げる」
「当然のことです」
「王には、その当然が許されない」
議長の指が、名簿の表紙を強く押さえた。
「すべての死を一人分の重さで背負えば、王は一歩も動けなくなる」
「だから、忘れろと仰るのですか」
「違います」
初めて、議長の声に痛みが混じった。
「我々が覚えております」
顔を上げる。
「陛下が忘れられないのなら、我々も忘れない。だからこそ、彼らの死を無意味にはできないのです」
「新しい死者を増やすことが、無意味にしないことなのですか」
「奪われたまま膝をつくよりは」
「あなたの息子さんたちは」
エレオノーラの声に、わずかな震えが生まれる。
「そのために亡くなったのですか」
議長は答えなかった。
「さらに多くの方を戦場へ送るために?」
「陛下」
「残されたあなたが、復讐を続けるために?」
「おやめください」
議長の表情が、初めて崩れた。
怒り。
悲しみ。
長い年月、押し殺してきたものが滲んでいる。
「では、我々にどうしろと仰るのです」
「…………」
「許せと?」
「違います」
「忘れろと?」
「違います」
「戦うな。忘れるな。許すな。だが、何もするなと」
議長は笑った。
笑いというには、あまりに乾いた音だった。
「それが、陛下のくださる答えですか」
エレオノーラは言葉を失う。
何を言っても。
彼の息子たちは戻らない。
彼の痛みを消すこともできない。
それでも、戦えと命じることだけはできなかった。
「カイゼンを信じたことが、すべての始まりでした」
議長が言った。
エレオノーラの身体が、わずかに固まる。
「あの男を敵として処断していれば、首都は陥落しなかった」
「…………」
「陛下にとって、最も信頼する盟友だった。だからあなたは疑わなかった」
「はい」
エレオノーラは否定しない。
「ジブラルタル海峡を開き、第一、第五、第七の軍勢を我らの領土へ招き入れた。それでもなお、何か理由があるはずだとお考えになった」
「はい」
「その結果が、この国です」
議長が地図を指す。
小さくなったアルカディア。
色を奪われた国土。
「責任は、私にあります」
「責任を認めれば、死者が戻るのですか」
「戻りません」
「あなたがここで祈り続ければ、奪われた土地が返るのですか」
「返りません」
「ならば、なぜ庇うのです」
議長の声が鋭くなる。
「なぜ今も、あの裏切り者を憎もうとなさらない」
「…………」
「かつて、あなたの隣に立つはずだった男だからですか」
エレオノーラの指が、わずかに震えた。
「あの男は、あなたを裏切った。国を売った。あなたを信じた民を殺した」
「分かっています」
「いいえ」
議長は一歩、エレオノーラへ近づいた。
「今も分かっておられない」
護衛たちが、息を詰める。
「鬼龍院夕莉」
その名が、地下聖堂へ落ちた。
エレオノーラの瞳が揺れる。
「カイゼンは、あの人間の女と出会って変わった」
「…………」
「人間に心を許し。己の立場を忘れ。最後には、あなたと我々を裏切った」
「それは――」
「あの女がいなければ」
「やめてください」
エレオノーラが遮った。
それでも議長は止まらない。
「あの女さえ現れなければ、カイゼンは――」
「……二人を悪く言うのは、やめてください」
声は小さかった。
怒鳴ったわけでもない。
椅子から立ち上がったわけでもない。
ただ。
エレオノーラが、顔を上げただけだった。
次の瞬間。
地下聖堂が揺れた。
燭台の炎が、一斉に消える。
暗闇の中で、エレオノーラの瞳だけが赤く輝いた。
床が軋む。
石壁へ亀裂が走る。
空気そのものが押し潰されるような圧力に、護衛たちが膝をついた。
剣の柄へ手を伸ばすことさえできない。
議長の顔から血の気が引く。
第四真祖アラストル。
かつて世界の三分の一を支配し。
第一真祖ベリアルと世界の覇権を争った王。
その憤怒が。
ほんの僅かに、地下聖堂へ漏れ出していた。
黒い鎖が張り詰める。
一本の鎖へ、鋭い亀裂が走った。
壊れる。
そう思った瞬間。
「……っ」
エレオノーラが苦しげに息を呑んだ。
鎖の向こうから。
声が聞こえた。
小さな悲鳴。
遠く離れた場所で、誰かが胸を押さえて倒れる気配。
眠っていた子供が、苦しそうに泣き始める声。
エレオノーラは、すぐに力を収めた。
消えていた燭台へ、再び火が灯る。
圧力が消えた。
エレオノーラは亀裂の入った鎖を両手で包み込む。
壊すためではない。
それ以上、壊れないように。
自らの魔力で、鎖を繋ぎ止める。
「大丈夫です」
誰へ向けた言葉なのか。
議長たちではない。
鎖の向こうで怯えている、顔も知らない誰かへ。
「もう、何もしませんから」
優しく。
子供をあやすように囁く。
「怖がらないでください」
やがて、鎖の向こうの鼓動が落ち着いていく。
エレオノーラは、それを確かめてから顔を上げた。
議長は彼女を見ていた。
恐怖ではない。
悲しみに近い目だった。
「あなたは最後まで、王には向いていなかった」
エレオノーラは何も言わない。
「敵を憎めず」
「…………」
「裏切り者さえ切り捨てられず」
「…………」
「自らを幽閉した者の命まで、守ろうとなさる」
議長は、亀裂の入った鎖を見る。
「あなたは、我々を殺せる」
「はい」
「この国に、あなたを止められる者はいない」
「はい」
「それでも、ここから出ようとはなさらない」
エレオノーラは、鎖へ添えていた手を膝へ戻した。
「出れば、皆さんが死んでしまいますから」
「だから王には向いていないのです」
議長の声には、もう怒りがなかった。
「王は、すべてを救うことなどできない」
「分かっています」
「いいえ」
議長は、ゆっくりと首を振る。
「あなたは分かっていて、なお諦めない」
エレオノーラは俯いた。
暫くして。
「そうかもしれません」
静かに答える。
議長が目を細めた。
「認められるのですか」
「王に向いていなかったことを?」
「はい」
「私がもっと正しい王であれば、首都を守れたのかもしれません」
エレオノーラは床へ広げられた地図を見る。
「カイゼンが、あの選択を一人で背負わずに済む道を、見つけられたのかもしれない」
「…………」
「あなたの息子さんたちも、死なずに済んだのかもしれません」
議長は唇を噛んだ。
「ですが」
エレオノーラは顔を上げる。
自分を捕らえた者たち。
自分の言葉を聞かず。
自分の名前だけを利用し。
今も鎖の先へ民の命を繋ぎ、彼女を閉じ込めている者たち。
それでも。
エレオノーラの瞳に、憎しみはなかった。
「それでも、あなたたちが無事でいてくれるなら、それでいいです」
議長は何も言わなかった。
護衛たちも、俯いたまま動かない。
あまりにも静かな言葉だった。
責めてもいない。
許すとも言っていない。
ただ、本当に。
彼らの無事だけを願っていた。
議長は、手の中の作戦書へ目を落とす。
やがて、それをエレオノーラへ差し出すことなく、外套の内側へ戻した。
「報復作戦は、予定どおり進めます」
「…………」
「陛下のご承認は、得られなかったものと記録いたします」
「私の名前を使うのですか」
「国民へは、第四真祖アラストルのご意志を継ぐ戦いであると発表します」
「私の意志ではありません」
「承知しております」
議長は、そう答えた。
謝罪はない。
躊躇もない。
彼もまた、自分が正しいと信じている。
エレオノーラは、それ以上何も言わなかった。
「失礼いたします」
議長が踵を返す。
護衛たちも立ち上がり、その後ろへ続く。
重い扉の前で、議長は一度だけ立ち止まった。
振り返らないまま告げる。
「陛下には、引き続きご療養いただきます」
丁寧な言葉だった。
かつて、臣下が王の身体を気遣うために使っていた言葉。
今は。
ここから出すつもりはないという宣告だった。
扉が開く。
議長たちの姿が、暗い通路へ消えていく。
「議長」
エレオノーラが呼び止める。
老人の足が止まった。
「何か」
「地上は冷えると聞きました」
「…………」
「お帰りの際は、お気をつけて」
議長の肩が、僅かに揺れた。
しかし。
最後まで振り返ることはなかった。
扉が閉じる。
一つ目の錠が下りる。
二つ目。
三つ目。
続いて結界が起動し、淡い光が石壁を走った。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなっても。
エレオノーラは、しばらく閉じた扉を見つめていた。
◇ ◇ ◇
地下聖堂に、再び静寂が戻る。
エレオノーラは椅子から下り、冷たい石床へ座った。
背中を壁へ預ける。
鎖が鳴った。
地上では、夜の鐘が鳴り始めていた。
一度。
二度。
三度。
王の帰還を願うための鐘。
その王が、誰にも知られず地下へ閉じ込められている。
エレオノーラは目を閉じる。
眠るつもりはなかった。
ただ、ほんの少しだけ。
鐘の音に耳を澄ませていたかった。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
◇ ◇ ◇
夢を見た。
まだ。
裏切りという言葉が、二人の間になかった頃。
白い石で作られた長い回廊を、カイゼンが歩いている。
窓の外から、柔らかな日差しが差し込んでいた。
戦火はない。
悲鳴もない。
壁に亀裂はなく。
床には血の跡もない。
カイゼンが少し先で立ち止まる。
「エレオノーラ」
振り返った。
彼女が知っている顔で。
彼女が信じていた頃の顔で。
「何をしている。遅いぞ」
「すみません」
エレオノーラは小走りで追いかける。
カイゼンは呆れたように息を吐きながら、それでも待っていてくれた。
「置いていくぞ」
「待ってください」
「ならば急げ」
「はい」
手を伸ばす。
あと少しで、届く。
そのはずだった。
けれど。
足が動かなかった。
エレオノーラが振り返る。
両足へ、黒い鎖が絡みついている。
地下聖堂にあるものと、同じ鎖。
「…………」
鎖を外そうと手を伸ばす。
その瞬間。
向こう側から、無数の声が聞こえた。
助けて。
苦しい。
死にたくない。
子供の泣き声。
兵士の呻き声。
母親が、誰かの名前を呼ぶ声。
エレオノーラは鎖から手を離した。
「カイゼン」
前を向く。
彼はもう歩き始めていた。
白い回廊の奥へ。
一人で。
「待ってください」
声を上げる。
カイゼンは止まらない。
「カイゼン」
呼んでも。
振り返らない。
背中が、遠ざかっていく。
エレオノーラは鎖を引いた。
その向こうで、誰かが悲鳴を上げる。
それ以上、動けなかった。
「待って」
声が震える。
「行かないでください」
カイゼンの姿が、光の中へ溶けていく。
あとには何も残らない。
白い回廊も。
暖かな日差しも。
彼の声も。
すべてが消える。
◇ ◇ ◇
エレオノーラは目を覚ました。
暗い地下聖堂。
冷たい石床。
両手と両足へ繋がれた、黒い鎖。
目の前には、誰もいない。
カイゼンも。
議長も。
彼女の帰還を信じている民も。
誰一人として。
エレオノーラは暗闇へ手を伸ばした。
その指が、誰かへ届くことはなかった。
「……置いていかないでください」