【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。   作:サボテニウム

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幕間 死ねなかった者たち 後編

 

 

 

 神聖守護領域アルカディアでは、今も一日に三度、鐘が鳴る。

 

 朝は、今日を生きるために。

 

 昼は、失われた領土を忘れないために。

 

 夜は、いつか帰還する王へ祈りを捧げるために。

 

 鐘の音が響くたび、街の人々は足を止めた。

 

 兵士は胸へ拳を当て。

 

 商人は店先で頭を垂れ。

 

 母親は幼い子供の手を握りながら、空を見上げる。

 

 建物の壁には、第四真祖アラストルの紋章が掲げられていた。

 

 大戦で深い傷を負った王は、聖域の最奥で眠っている。

 

 傷が癒えた日。

 

 偉大なる王は再び民の前へ姿を現し、失われた故郷を取り戻してくれる。

 

 誰もが、そう信じていた。

 

 鐘の音は地上を渡り。

 

 石壁を震わせ。

 

 誰も知らない地下深くへ、かすかに届く。

 

 その音を。

 

 エレオノーラは、独りで聞いていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 地下聖堂に窓はない。

 

 朝も。

 

 昼も。

 

 夜も。

 

 石壁に掛けられた燭台の火だけが、変わらぬ明かりを落としている。

 

 かつて王のみが祈りを捧げた聖堂だった。

 

 今では祭壇も聖像も取り払われ、残されているのは一脚の椅子と、床を這う黒い鎖だけだった。

 

 鎖はエレオノーラの両手首と両足首へ繋がれている。

 

 細い。

 

 第四真祖を拘束するには、あまりにも頼りない鎖だった。

 

 少し腕へ力を込めるだけでよい。

 

 鎖は千切れる。

 

 床も砕ける。

 

 地下聖堂を覆う幾重もの結界さえ、彼女を閉じ込めておくことはできない。

 

 エレオノーラが望めば、地上へ出るまで一分とかからないだろう。

 

 それでも。

 

 彼女は、ここにいた。

 

 右手首から伸びた鎖へ、そっと指を触れる。

 

 冷たい鉄の向こうから、いくつもの鼓動が伝わってきた。

 

 速い鼓動。

 

 弱い鼓動。

 

 眠りの中にある、穏やかな鼓動。

 

 一つではない。

 

 百でもない。

 

 鎖と結界を維持する契約は、地上で暮らす民の命へ繋がれていた。

 

 誰が契約へ組み込まれているのか、彼女には分からない。

 

 老いた者かもしれない。

 

 戦争で足を失った兵士かもしれない。

 

 子を抱いた母親かもしれない。

 

 夜ごと第四真祖の帰還を祈っている、幼い子供かもしれない。

 

 鎖を壊せば。

 

 彼らの命が、代わりに砕ける。

 

「…………」

 

 エレオノーラは鎖から指を離した。

 

 手首には、薄く赤い跡が残っている。

 

 傷ではない。

 

 第四真祖の肉体を、ただの鉄が傷つけることなどできない。

 

 それでも鎖は、彼女をここから一歩も動かさなかった。

 

 力によってではない。

 

 鎖の先にいる人々を、彼女が殺せないという。

 

 ただ、それだけの理由で。

 

 重い音を立てて、地下聖堂の扉が開いた。

 

 エレオノーラが顔を上げる。

 

 幾重もの結界を越え、数人の男たちが入ってきた。

 

 先頭を歩くのは、白髪の老人だった。

 

 アルカディア評議会議長。

 

 かつては王の御前で膝をつき、エレオノーラへ忠誠を誓っていた男。

 

 その背後には二人の護衛が続いている。

 

 武装していた。

 

 だが、第四真祖を討つための武装ではない。

 

 彼女が力を振るえば、剣を抜く時間さえ与えられずに死ぬ。

 

 そのことは、護衛たち自身が誰よりも理解していた。

 

 議長はエレオノーラの前まで歩み寄る。

 

「陛下」

 

 そう呼んだ。

 

 しかし、膝はつかなかった。

 

「お身体に変わりはございませんか」

 

「はい」

 

 エレオノーラは小さく頷く。

 

「皆さんは、お変わりありませんか」

 

 議長の眉が、わずかに動いた。

 

「我々のことより、ご自身のことをお尋ねください」

 

「私のことは分かっていますから」

 

 穏やかな声だった。

 

 責める響きはない。

 

 エレオノーラは議長の手に抱えられた書類へ目を向けた。

 

「北部の避難民へ、食料は届きましたか」

 

「先週、麦と干し肉を積んだ輸送隊が到着しております」

 

「薬は」

 

「十分とは申せませんが、重傷者を優先して配布しております」

 

「冬を越せない集落があると聞きました」

 

「南部への移住を始めました。今月中には、全員を移動させる予定です」

 

「そうですか」

 

 エレオノーラは、ほんの少しだけ表情を和らげた。

 

「よかった」

 

 議長は何も答えない。

 

 彼女がいつ解放されるのか。

 

 なぜここへ閉じ込められているのか。

 

 そうしたことを、エレオノーラは一度も尋ねなかった。

 

 問うのは、いつも民のことばかりだった。

 

「負傷した兵士たちは」

 

「治療を続けております」

 

「ご家族には、きちんと説明を?」

 

「行っております」

 

「亡くなった方々は」

 

 議長は抱えていた書類の中から、一冊の薄い名簿を取り出した。

 

「こちらに」

 

 エレオノーラは両手で受け取った。

 

 鎖が、床の上をわずかに擦る。

 

 名簿を開く。

 

 一人目。

 

 二人目。

 

 三人目。

 

 並んでいるのは数字ではない。

 

 すべて名前だった。

 

 エレオノーラは、ゆっくりと頁をめくる。

 

「この方は……」

 

 指が、一つの名前の上で止まった。

 

「西門を守っていた方ですね。娘さんが、生まれたばかりだったはずです」

 

「遺族には、十分な補償を行います」

 

「十分な補償とは、どのくらいですか」

 

「向こう十年、生活に困ることはない額を」

 

「十年が過ぎたあとは」

 

「それまでには、娘も成人しております」

 

「父親がいないことは、十年では終わりません」

 

 静かな言葉だった。

 

 議長は唇を結ぶ。

 

 エレオノーラは名簿へ視線を戻した。

 

 一つずつ。

 

 名を覚えるように。

 

 あるいは忘れないように。

 

 最後の頁まで目を通してから、名簿を閉じた。

 

「ご報告、ありがとうございました」

 

 胸元へ抱くようにして、議長へ返す。

 

 議長は名簿を受け取らず、別の書類を取り出した。

 

 厚い紙の束。

 

 その最上部には、軍の紋章と、広げられた翼を持つ第四真祖の印章が押されている。

 

「本日は、ご報告だけに参ったのではございません」

 

「分かっています」

 

 エレオノーラは、議長の手元を見た。

 

「軍を動かすのですね」

 

「はい」

 

 議長は否定しなかった。

 

 護衛の一人が、折り畳まれた地図を床へ広げる。

 

 現在のアルカディア。

 

 大戦以前の三分の一にも満たない領土。

 

 国境の向こう側には、奪われた都市や集落の名が記されている。

 

 別の色で塗られた土地。

 

 かつてはすべて、エレオノーラが守ると誓った場所だった。

 

「占領地に残された同胞は、今も敵国の支配下にあります」

 

 議長の指が、地図の上を動く。

 

「徴税は年々重くなり、連れ去られた者も少なくありません。国境周辺では、小規模ながら襲撃も続いております」

 

「承知しています」

 

「軍の編成は、すでに終えております」

 

「…………」

 

「兵糧も武器も揃えました。南部諸侯からも、派兵の約束を取りつけております」

 

 議長は書類をエレオノーラへ差し出した。

 

「第一帝国への報復を、お認めください」

 

 地下聖堂へ、沈黙が落ちた。

 

 エレオノーラは書類を受け取らない。

 

 地図に記された矢印を見ていた。

 

 国境を越え。

 

 奪われた都市を通り。

 

 第一帝国の領域へ深く突き刺さる、幾本もの矢印。

 

「戦えば」

 

 エレオノーラが口を開く。

 

「何人が死ぬのですか」

 

 議長は答えなかった。

 

「教えてください」

 

「戦場に、確かな数はございません」

 

「では、予測で構いません」

 

「少なくはないでしょう」

 

「何人ですか」

 

「陛下」

 

「その書類には、書かれていないのですか」

 

 議長が差し出している紙へ目を向ける。

 

 兵力。

 

 進軍経路。

 

 補給計画。

 

 占領後の統治案。

 

 多くの数字が並んでいる。

 

 ただ。

 

 死ぬ者の数だけが、どこにも書かれていない。

 

「勝つために必要な犠牲です」

 

「誰にとって必要なのですか」

 

「国にとってです」

 

「国とは、誰のことですか」

 

 議長の顔が強張る。

 

「領土ですか。城ですか。地図の上に引かれた線ですか」

 

「民です」

 

 議長は、はっきりと答えた。

 

「我々は、民を守るために戦います」

 

「その民を、戦場へ送るのですね」

 

「戦わなければ、さらに多くを失います」

 

 議長の声が低くなる。

 

「我々は、すでに国土の大半を奪われました。故郷を追われた者は数え切れず、占領地では今も民が苦しんでいる」

 

「分かっています」

 

「いいえ」

 

 議長は首を横へ振った。

 

「陛下は、分かっておられない」

 

 護衛たちが緊張したように議長を見る。

 

 だが、議長は言葉を止めなかった。

 

「剣を収めれば、敵も剣を収めるとお考えですか」

 

「そうは思っていません」

 

「慈悲を示せば、敵も慈悲を返すと?」

 

「いいえ」

 

「ならば、なぜです」

 

 議長の手の中で、書類が震えた。

 

「我々は、いつまで奪われ続ければよいのですか」

 

「…………」

 

「父を殺された子供へ、復讐を忘れろとお命じになりますか。故郷を奪われた老人へ、死ぬまで耐えろと仰せになるのですか」

 

「そのようなことは――」

 

「陛下の慈悲は、誰のためにあるのです」

 

 議長の声が、地下聖堂へ響いた。

 

「我々のためですか。それとも、我々を殺した敵のためですか」

 

 エレオノーラは地図を見つめた。

 

 失われた土地。

 

 戻らない人々。

 

 首都が陥落した日。

 

 助けを求めて伸ばされた手。

 

 彼女が間に合わなかった場所。

 

 忘れたことなど、一度もない。

 

「敵を許したいのではありません」

 

 エレオノーラは、静かに答えた。

 

「では」

 

「死者を忘れたわけでもありません」

 

「ならば、剣を」

 

「ですが」

 

 エレオノーラは顔を上げる。

 

 議長の目を見る。

 

「死んだ方々を理由に、生きている方々を死なせることはできません」

 

「それは王の言葉ではない」

 

 議長は即座に言った。

 

 エレオノーラの瞳が、わずかに揺れる。

 

「王は、選ばねばなりません」

 

 議長は続ける。

 

「一人を捨て、百人を救わねばならないことがある。百人を戦場へ送り、一万の民を守らねばならないこともある」

 

「…………」

 

「誰も死なせたくないなどという願いで、国は守れません」

 

「分かっています」

 

「いいえ。分かっておられるなら、承認を」

 

「できません」

 

 かすかな声だった。

 

 けれど、迷いはなかった。

 

「これ以上、民を死なせることはできません」

 

 議長は目を閉じた。

 

 深く息を吸う。

 

 怒りを鎮めようとしているようにも。

 

 何かを諦めようとしているようにも見えた。

 

「では」

 

 再び目を開く。

 

「陛下のお名前だけを、お借りいたします」

 

 エレオノーラが顔を上げた。

 

「私の名前を?」

 

「地上の民は、陛下が療養中であると信じております」

 

「それは、嘘です」

 

「必要な嘘です」

 

「必要かどうかは、騙される方々が決めることです」

 

「真実を明かせば、国が割れます」

 

 議長は淡々と告げる。

 

「第四真祖アラストルは、報復を拒み、評議会によって地下へ幽閉された。そう公表すれば、何が起こるとお考えですか」

 

「…………」

 

「軍は分裂する。諸侯は互いを疑う。陛下を救い出そうとする者と、我々に従う者の間で内乱が起きるでしょう」

 

 エレオノーラには、否定できなかった。

 

「民は今も、あなたの帰還を信じています」

 

 議長が言う。

 

「その信仰があるから、飢えた者は明日まで耐えられる。兵士は国境に立ち続けられる。故郷を失った者も、いつか帰れると信じられる」

 

「私の名で、戦争を始めるおつもりですか」

 

「あなたのお名前は、まだこの国に必要です」

 

「私は、認めていません」

 

「陛下ご本人が国を守れぬと仰るのなら」

 

 議長は、手にした書類を胸元へ戻した。

 

「せめて、そのお名前には守っていただきます」

 

 エレオノーラの指が、膝の上で僅かに動いた。

 

 鎖が小さく鳴る。

 

「それでは」

 

 エレオノーラは、かすれた声で言った。

 

「私が王である意味は、どこにあるのですか」

 

「…………」

 

「私の言葉は聞かず。私の名だけを使うのなら」

 

 議長は答えなかった。

 

 答えられなかったのか。

 

 答える必要を感じなかったのか。

 

 エレオノーラには分からない。

 

 長い沈黙のあと。

 

 議長は地図の上に置かれていた戦死者名簿を手に取った。

 

「首都アルカディアが陥落した日」

 

 低い声だった。

 

「私は、二人の息子を失いました」

 

 エレオノーラが目を見開く。

 

「一人は東門で。もう一人は、避難民を逃がす途中で」

 

「……知りませんでした」

 

「お伝えしておりませんでしたから」

 

「なぜ」

 

「陛下は、すべてをご自身の罪になさる」

 

 議長は名簿を見下ろす。

 

「戦場で死んだ兵士の名前を一人ずつ覚え。残された家族の暮らしを案じ。救えなかった者のために、夜ごと祈りを捧げる」

 

「当然のことです」

 

「王には、その当然が許されない」

 

 議長の指が、名簿の表紙を強く押さえた。

 

「すべての死を一人分の重さで背負えば、王は一歩も動けなくなる」

 

「だから、忘れろと仰るのですか」

 

「違います」

 

 初めて、議長の声に痛みが混じった。

 

「我々が覚えております」

 

 顔を上げる。

 

「陛下が忘れられないのなら、我々も忘れない。だからこそ、彼らの死を無意味にはできないのです」

 

「新しい死者を増やすことが、無意味にしないことなのですか」

 

「奪われたまま膝をつくよりは」

 

「あなたの息子さんたちは」

 

 エレオノーラの声に、わずかな震えが生まれる。

 

「そのために亡くなったのですか」

 

 議長は答えなかった。

 

「さらに多くの方を戦場へ送るために?」

 

「陛下」

 

「残されたあなたが、復讐を続けるために?」

 

「おやめください」

 

 議長の表情が、初めて崩れた。

 

 怒り。

 

 悲しみ。

 

 長い年月、押し殺してきたものが滲んでいる。

 

「では、我々にどうしろと仰るのです」

 

「…………」

 

「許せと?」

 

「違います」

 

「忘れろと?」

 

「違います」

 

「戦うな。忘れるな。許すな。だが、何もするなと」

 

 議長は笑った。

 

 笑いというには、あまりに乾いた音だった。

 

「それが、陛下のくださる答えですか」

 

 エレオノーラは言葉を失う。

 

 何を言っても。

 

 彼の息子たちは戻らない。

 

 彼の痛みを消すこともできない。

 

 それでも、戦えと命じることだけはできなかった。

 

「カイゼンを信じたことが、すべての始まりでした」

 

 議長が言った。

 

 エレオノーラの身体が、わずかに固まる。

 

「あの男を敵として処断していれば、首都は陥落しなかった」

 

「…………」

 

「陛下にとって、最も信頼する盟友だった。だからあなたは疑わなかった」

 

「はい」

 

 エレオノーラは否定しない。

 

「ジブラルタル海峡を開き、第一、第五、第七の軍勢を我らの領土へ招き入れた。それでもなお、何か理由があるはずだとお考えになった」

 

「はい」

 

「その結果が、この国です」

 

 議長が地図を指す。

 

 小さくなったアルカディア。

 

 色を奪われた国土。

 

「責任は、私にあります」

 

「責任を認めれば、死者が戻るのですか」

 

「戻りません」

 

「あなたがここで祈り続ければ、奪われた土地が返るのですか」

 

「返りません」

 

「ならば、なぜ庇うのです」

 

 議長の声が鋭くなる。

 

「なぜ今も、あの裏切り者を憎もうとなさらない」

 

「…………」

 

「かつて、あなたの隣に立つはずだった男だからですか」

 

 エレオノーラの指が、わずかに震えた。

 

「あの男は、あなたを裏切った。国を売った。あなたを信じた民を殺した」

 

「分かっています」

 

「いいえ」

 

 議長は一歩、エレオノーラへ近づいた。

 

「今も分かっておられない」

 

 護衛たちが、息を詰める。

 

「鬼龍院夕莉」

 

 その名が、地下聖堂へ落ちた。

 

 エレオノーラの瞳が揺れる。

 

「カイゼンは、あの人間の女と出会って変わった」

 

「…………」

 

「人間に心を許し。己の立場を忘れ。最後には、あなたと我々を裏切った」

 

「それは――」

 

「あの女がいなければ」

 

「やめてください」

 

 エレオノーラが遮った。

 

 それでも議長は止まらない。

 

「あの女さえ現れなければ、カイゼンは――」

 

「……二人を悪く言うのは、やめてください」

 

 声は小さかった。

 

 怒鳴ったわけでもない。

 

 椅子から立ち上がったわけでもない。

 

 ただ。

 

 エレオノーラが、顔を上げただけだった。

 

 次の瞬間。

 

 地下聖堂が揺れた。

 

 燭台の炎が、一斉に消える。

 

 暗闇の中で、エレオノーラの瞳だけが赤く輝いた。

 

 床が軋む。

 

 石壁へ亀裂が走る。

 

 空気そのものが押し潰されるような圧力に、護衛たちが膝をついた。

 

 剣の柄へ手を伸ばすことさえできない。

 

 議長の顔から血の気が引く。

 

 第四真祖アラストル。

 

 かつて世界の三分の一を支配し。

 

 第一真祖ベリアルと世界の覇権を争った王。

 

 その憤怒が。

 

 ほんの僅かに、地下聖堂へ漏れ出していた。

 

 黒い鎖が張り詰める。

 

 一本の鎖へ、鋭い亀裂が走った。

 

 壊れる。

 

 そう思った瞬間。

 

「……っ」

 

 エレオノーラが苦しげに息を呑んだ。

 

 鎖の向こうから。

 

 声が聞こえた。

 

 小さな悲鳴。

 

 遠く離れた場所で、誰かが胸を押さえて倒れる気配。

 

 眠っていた子供が、苦しそうに泣き始める声。

 

 エレオノーラは、すぐに力を収めた。

 

 消えていた燭台へ、再び火が灯る。

 

 圧力が消えた。

 

 エレオノーラは亀裂の入った鎖を両手で包み込む。

 

 壊すためではない。

 

 それ以上、壊れないように。

 

 自らの魔力で、鎖を繋ぎ止める。

 

「大丈夫です」

 

 誰へ向けた言葉なのか。

 

 議長たちではない。

 

 鎖の向こうで怯えている、顔も知らない誰かへ。

 

「もう、何もしませんから」

 

 優しく。

 

 子供をあやすように囁く。

 

「怖がらないでください」

 

 やがて、鎖の向こうの鼓動が落ち着いていく。

 

 エレオノーラは、それを確かめてから顔を上げた。

 

 議長は彼女を見ていた。

 

 恐怖ではない。

 

 悲しみに近い目だった。

 

「あなたは最後まで、王には向いていなかった」

 

 エレオノーラは何も言わない。

 

「敵を憎めず」

 

「…………」

 

「裏切り者さえ切り捨てられず」

 

「…………」

 

「自らを幽閉した者の命まで、守ろうとなさる」

 

 議長は、亀裂の入った鎖を見る。

 

「あなたは、我々を殺せる」

 

「はい」

 

「この国に、あなたを止められる者はいない」

 

「はい」

 

「それでも、ここから出ようとはなさらない」

 

 エレオノーラは、鎖へ添えていた手を膝へ戻した。

 

「出れば、皆さんが死んでしまいますから」

 

「だから王には向いていないのです」

 

 議長の声には、もう怒りがなかった。

 

「王は、すべてを救うことなどできない」

 

「分かっています」

 

「いいえ」

 

 議長は、ゆっくりと首を振る。

 

「あなたは分かっていて、なお諦めない」

 

 エレオノーラは俯いた。

 

 暫くして。

 

「そうかもしれません」

 

 静かに答える。

 

 議長が目を細めた。

 

「認められるのですか」

 

「王に向いていなかったことを?」

 

「はい」

 

「私がもっと正しい王であれば、首都を守れたのかもしれません」

 

 エレオノーラは床へ広げられた地図を見る。

 

「カイゼンが、あの選択を一人で背負わずに済む道を、見つけられたのかもしれない」

 

「…………」

 

「あなたの息子さんたちも、死なずに済んだのかもしれません」

 

 議長は唇を噛んだ。

 

「ですが」

 

 エレオノーラは顔を上げる。

 

 自分を捕らえた者たち。

 

 自分の言葉を聞かず。

 

 自分の名前だけを利用し。

 

 今も鎖の先へ民の命を繋ぎ、彼女を閉じ込めている者たち。

 

 それでも。

 

 エレオノーラの瞳に、憎しみはなかった。

 

「それでも、あなたたちが無事でいてくれるなら、それでいいです」

 

 議長は何も言わなかった。

 

 護衛たちも、俯いたまま動かない。

 

 あまりにも静かな言葉だった。

 

 責めてもいない。

 

 許すとも言っていない。

 

 ただ、本当に。

 

 彼らの無事だけを願っていた。

 

 議長は、手の中の作戦書へ目を落とす。

 

 やがて、それをエレオノーラへ差し出すことなく、外套の内側へ戻した。

 

「報復作戦は、予定どおり進めます」

 

「…………」

 

「陛下のご承認は、得られなかったものと記録いたします」

 

「私の名前を使うのですか」

 

「国民へは、第四真祖アラストルのご意志を継ぐ戦いであると発表します」

 

「私の意志ではありません」

 

「承知しております」

 

 議長は、そう答えた。

 

 謝罪はない。

 

 躊躇もない。

 

 彼もまた、自分が正しいと信じている。

 

 エレオノーラは、それ以上何も言わなかった。

 

「失礼いたします」

 

 議長が踵を返す。

 

 護衛たちも立ち上がり、その後ろへ続く。

 

 重い扉の前で、議長は一度だけ立ち止まった。

 

 振り返らないまま告げる。

 

「陛下には、引き続きご療養いただきます」

 

 丁寧な言葉だった。

 

 かつて、臣下が王の身体を気遣うために使っていた言葉。

 

 今は。

 

 ここから出すつもりはないという宣告だった。

 

 扉が開く。

 

 議長たちの姿が、暗い通路へ消えていく。

 

「議長」

 

 エレオノーラが呼び止める。

 

 老人の足が止まった。

 

「何か」

 

「地上は冷えると聞きました」

 

「…………」

 

「お帰りの際は、お気をつけて」

 

 議長の肩が、僅かに揺れた。

 

 しかし。

 

 最後まで振り返ることはなかった。

 

 扉が閉じる。

 

 一つ目の錠が下りる。

 

 二つ目。

 

 三つ目。

 

 続いて結界が起動し、淡い光が石壁を走った。

 

 足音が遠ざかる。

 

 完全に聞こえなくなっても。

 

 エレオノーラは、しばらく閉じた扉を見つめていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 地下聖堂に、再び静寂が戻る。

 

 エレオノーラは椅子から下り、冷たい石床へ座った。

 

 背中を壁へ預ける。

 

 鎖が鳴った。

 

 地上では、夜の鐘が鳴り始めていた。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 王の帰還を願うための鐘。

 

 その王が、誰にも知られず地下へ閉じ込められている。

 

 エレオノーラは目を閉じる。

 

 眠るつもりはなかった。

 

 ただ、ほんの少しだけ。

 

 鐘の音に耳を澄ませていたかった。

 

 意識が、ゆっくりと沈んでいく。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 夢を見た。

 

 まだ。

 

 裏切りという言葉が、二人の間になかった頃。

 

 白い石で作られた長い回廊を、カイゼンが歩いている。

 

 窓の外から、柔らかな日差しが差し込んでいた。

 

 戦火はない。

 

 悲鳴もない。

 

 壁に亀裂はなく。

 

 床には血の跡もない。

 

 カイゼンが少し先で立ち止まる。

 

「エレオノーラ」

 

 振り返った。

 

 彼女が知っている顔で。

 

 彼女が信じていた頃の顔で。

 

「何をしている。遅いぞ」

 

「すみません」

 

 エレオノーラは小走りで追いかける。

 

 カイゼンは呆れたように息を吐きながら、それでも待っていてくれた。

 

「置いていくぞ」

 

「待ってください」

 

「ならば急げ」

 

「はい」

 

 手を伸ばす。

 

 あと少しで、届く。

 

 そのはずだった。

 

 けれど。

 

 足が動かなかった。

 

 エレオノーラが振り返る。

 

 両足へ、黒い鎖が絡みついている。

 

 地下聖堂にあるものと、同じ鎖。

 

「…………」

 

 鎖を外そうと手を伸ばす。

 

 その瞬間。

 

 向こう側から、無数の声が聞こえた。

 

 助けて。

 

 苦しい。

 

 死にたくない。

 

 子供の泣き声。

 

 兵士の呻き声。

 

 母親が、誰かの名前を呼ぶ声。

 

 エレオノーラは鎖から手を離した。

 

「カイゼン」

 

 前を向く。

 

 彼はもう歩き始めていた。

 

 白い回廊の奥へ。

 

 一人で。

 

「待ってください」

 

 声を上げる。

 

 カイゼンは止まらない。

 

「カイゼン」

 

 呼んでも。

 

 振り返らない。

 

 背中が、遠ざかっていく。

 

 エレオノーラは鎖を引いた。

 

 その向こうで、誰かが悲鳴を上げる。

 

 それ以上、動けなかった。

 

「待って」

 

 声が震える。

 

「行かないでください」

 

 カイゼンの姿が、光の中へ溶けていく。

 

 あとには何も残らない。

 

 白い回廊も。

 

 暖かな日差しも。

 

 彼の声も。

 

 すべてが消える。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 エレオノーラは目を覚ました。

 

 暗い地下聖堂。

 

 冷たい石床。

 

 両手と両足へ繋がれた、黒い鎖。

 

 目の前には、誰もいない。

 

 カイゼンも。

 

 議長も。

 

 彼女の帰還を信じている民も。

 

 誰一人として。

 

 エレオノーラは暗闇へ手を伸ばした。

 

 その指が、誰かへ届くことはなかった。

 

「……置いていかないでください」

 

 

 

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