【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
第31話 十六歳
朝は嫌いだ。
窓の隙間から差し込む光は目に刺さるし、鳥は頼んでもいないのに鳴くし、人間はなぜか一日の始まりを祝福すべきものだと思っている。
昨日と同じ苦労を、今日もまた一から始めなければならない時間の、いったい何がめでたいのだろう。
夜行性の吸血鬼へ配慮した社会制度が存在しないことも含めて、人類にはまだ改善の余地がある。
「リーシャ、起きろ」
扉の向こうから声が響いた。
もちろん、改善されるべき人類の筆頭はこいつである。
「んー……起きてるよぉ」
布団を頭までかぶったまま答える。
「起きてるやつは、そんなに布団へ潜らねえだろ」
「そうかな? 起き方なんて人それぞれじゃない?」
「いいから出てこい。遅れるぞ」
「まだ大丈夫だよ。あと少しだけ」
「昨日も同じことを言って、朝飯が冷めただろ」
「今日は冷める前に起きるもん」
「信用できるか」
ひどい。
八年間も一緒に暮らしてきた相手へ向ける言葉とは思えない。
もっとも、八年間の実績を証拠として提出された場合、こちらが敗訴する可能性は極めて高かった。
「リーシャ」
今度は、すぐそばから声がした。
「……ん?」
布団の端を少しだけ持ち上げる。
氷室カイが、ベッドの横に立っていた。
眠気でぼやけた視界の中央に、整った顔がある。
相変わらず、顔だけはとてもいい。
朝一番に見るには少し刺激が強い。美形も甘い菓子と同じで、空腹時にいきなり摂取すると身体によくないらしい。
「時間」
「カイ……どうやって入ったの?」
「扉から」
「鍵、かかってなかった?」
「開いてたから」
「そっかぁ」
なら仕方ないか。
扉が開いていれば入る。実に簡潔な論理である。
鍵が開いている店から商品を持ち出した人間も、同じ供述をするのだろう。
「仕方なくねえだろ!」
扉が勢いよく開いた。
今度こそ、うるさい方の人類が姿を現す。
綾辻アギトは部屋へ入るなり、カイを睨んだ。
「また勝手に入ったのか」
「起きないから」
「俺が起こしてただろ」
「起きてなかった」
「もう少しで起きてた」
「起きてないよ」
「お前に言われなくても分かってる!」
アギトの声が一段大きくなる。
朝から元気で何よりである。
その無駄な熱量を発電にでも利用すれば、トウキョウエリアの燃料事情も多少は改善するだろう。
「二人とも、朝から仲がいいね」
オレは布団から顔だけを出して、笑いかけた。
「どこがだ」
「仲良くないよ」
二人の声がきれいに重なる。
「ほら、ぴったり」
「違う!」
「偶然」
アギトだけが強く否定し、カイはいつもどおり平坦だった。
八年前なら背丈も大して変わらなかった二人だが、今ではどちらもオレを見下ろすほど大きくなっている。
特にアギトは、この数年で急に背が伸びた。
毎朝の鍛錬を欠かさない身体からは、幼い少年の面影がほとんど消えている。肩も広くなり、腕には鍛えられた筋肉が薄く浮いていた。
口の悪さだけは、八年前から驚くほど変わっていない。
「もう起きるから、二人とも外で待っててくれる?」
「分かった」
カイは即座に踵を返した。
アギトはその背中を呼び止める。
「待て」
「何?」
「お前、いつからこうやってリーシャの部屋へ入ってるんだ」
「前から」
「前っていつだ」
「孤児院にいたころ」
「八年もやってんのか?」
「もっと前から」
「もっと前?」
アギトが眉を寄せる。
「鍵が開いてたら入ってた」
「だから、それをやめろって言ってんだ」
「どうして?」
「どうしてって……」
アギトがこちらを見る。
寝間着姿のオレと目が合った途端、わずかに視線を逸らした。
「昔とは違うだろ」
「何が?」
「それは……とにかく違うんだよ」
「説明になってないね」
「お前は黙って出ろ」
「アギト」
オレは布団の上から、そっと手を上げた。
「カイだけじゃなくて、アギトも出てくれると嬉しいかな」
「分かってる」
「うん。ありがとう」
可愛らしく笑ってみせると、アギトは何か言いかけてやめた。
「……早くしろよ」
「はーい」
二人が部屋を出ていく。
扉が閉まったあとも、廊下から声が聞こえていた。
「次からはノックしろ」
「アギトもしてなかったよ」
「俺は扉の外から声をかけた」
「最後は勝手に入ってきた」
「あれはお前を追い出すためだ!」
朝から楽しそうで結構なことである。
オレはようやく身体を起こし、ベッドから足を下ろした。
鏡の前へ座り、寝癖のついた髪を手で持ち上げる。
腰近くまで伸びた髪は、淡いピンクブロンド。
瞳の色も、かつての真紅ではなく深い葡萄色へ変わっている。
八年間、ほとんど人間形態のまま暮らし続けた影響だった。
吸血鬼として本来持っていた銀の髪と真紅の瞳は、長く周囲のマナへ馴染むうちに少しずつ色を変えた。
人間として生活するには都合がいい。
少なくとも、銀髪赤眼の美少女よりは吸血鬼らしさが薄い。
ピンクブロンドに葡萄色の瞳という組み合わせが一般的な人間らしいかと聞かれると、判断に困るところではあるが。
美少女というものは、多少色彩が派手でも「そういうもの」で処理される。
容姿の良さは、ときに社会常識より強い。
「……とうとう来ちゃったか」
鏡のそばに置かれた紙へ目を向ける。
討魔師育成機関。
通称、アカデミー。
その入学願書だった。
八年前。
燃えるヨコハマから逃げる小舟の上で、アギトは言った。
十六歳になったら討魔師になる。
吸血鬼を一匹残らず、この世から殺す。
そして、オレの家族の仇も取ってやると。
どれも頼んでいない。
特に最後の約束については、履行されると非常に困る。
依頼人と討伐対象が同一人物である場合、契約は無効にならないだろうか。
法学には詳しくないが、少なくとも重大な利益相反には該当すると思う。
残念ながら、アギトが討魔師になる未来だけは変わらなかった。
いや。
変えなかった、と言う方が正しい。
文字を教えた。
算数を教えた。
夜中まで一緒に勉強した。
食事にも気を配った。
怪我をすれば手当てをして、無茶をすれば叱った。
将来自分を殺すかもしれない主人公を、八年間かけて健康かつ健全に育成した。
敵へ塩を送るどころではない。
塩分、糖分、タンパク質まで管理している。
ここまで来ると、自殺志願者というより専属トレーナーである。
「リーシャ、まだか?」
扉の向こうから、今度は少し抑えたアギトの声が聞こえた。
「もうちょっと待ってね」
「さっきも聞いた」
「女の子の支度は時間がかかるんだよ?」
「昨日のうちにやっておけよ」
「寝癖を昨日のうちに直すのは難しいかな」
「カイはもう朝飯を食い始めてるぞ」
「えっ、待って。私の分、残しておいてね?」
「だから早く来い!」
◇ ◇ ◇
「お前、志望動機は書いたのか?」
朝食の席で、月夜さんがアギトへ尋ねた。
「ああ」
アギトは焦げ目のついたパンを齧りながら答える。
「昨日のうちに書いた」
「珍しいな。雨でも降るか?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「朝飯のパンを炭にする男」
「これは焼き目だ」
「そうか。なら、もう少しで立派な燃料だったな」
月夜さんはそう言いながら、焦げたパンを平然と口へ運んだ。
アギトが焼いたパンである。
料理が下手なわけではない。
本人は少し焦げている方が香ばしいと主張している。
炭化と調理の境界線について、我が家では長年にわたる見解の相違があった。
「アギト、願書見せて?」
「何でだよ」
「ちょっと気になって」
「ちゃんと書いた」
「うん。アギトがそう言うと、余計に気になるかな」
「どういう意味だ」
「見せれば分かるよ」
手を差し出すと、アギトは不満そうな顔をしながらも願書を渡してきた。
昔から、何だかんだ言いながら最終的にはこちらへ渡す。
素直ではない。
ただ、素直でないことまで含めて分かりやすい。
志望動機の欄へ目を落とす。
『吸血鬼を一匹残らず殺すため』
「…………」
うん。
気持ちは伝わる。
とてもよく伝わる。
こちらとしては少し伝わりすぎて、今すぐ願書ごと燃やしたいくらいである。
「どうだ」
アギトが自信ありげに尋ねてくる。
「アギトらしくて、いいと思うよ」
「だろ」
「でも、少しだけ怖いかな」
「どこがだ」
「全部」
つい本音が出た。
いけない。
外面は大切にしなければならない。
オレは笑顔を崩さず、願書を指で示した。
「ほら、討魔師になりたい理由を聞かれてるんだから、『人類を守るため』とかでよくない?」
「嘘を書くつもりはねえ」
「嘘じゃないよ」
オレはアギトの顔を見る。
「アギトは、人類を守りたいんでしょ?」
アギトが黙る。
両親の仇を討ちたい。
吸血鬼を殺したい。
それも本心だ。
けれど、それだけなら八年間、誰よりも強くなるための努力を続けられただろうか。
泣いている子供を放っておけない。
困っている人間を見れば手を貸す。
自分が傷ついてでも、誰かを守ろうとする。
アギトはそういう男だった。
「……まあな」
少しして、アギトが答える。
「だったら、それを書けばいいと思うな」
「仇討ちをやめるつもりはねえぞ」
「うん。知ってるよ」
嫌というほど。
「全部書かなくても、アギトの覚悟はなくならないから」
「だとさ」
月夜さんが椅子の背へ身体を預けた。
「願書を読んだ受付が怯えて逃げたら、提出できないからな。殺意は腹にしまっとけ」
「月夜まで何だよ」
「俺はお前が書類で落ちるところを見て笑いたくないだけだ」
「落ちるわけねえだろ」
「その自信を文章に変えろ。殺意じゃなくてな」
アギトはしばらく不満そうに願書を見ていたが、やがてペンを取った。
「……人類を守るため、でいいんだな」
「うん。すごく立派だよ」
「子供扱いするな」
「してないよ?」
「その言い方がしてる」
難しい年頃である。
幼いころは勉強を褒めれば素直に喜んでいたのに、今では褒め方にまで注文をつけてくる。
成長とは、できなかったことができるようになる代わりに、扱いづらさが増す現象らしい。
向かいでは、カイが静かに食事を終えていた。
願書はすでに記入済み。
必要な書類も大きさごとに揃えられ、机の端へ置かれている。
相変わらず隙がない。
朝の光を受けた横顔は、今日も無駄に整っていた。
「カイは今日も顔がいいね」
思わず口にする。
「そう」
カイは一度だけ顔を上げた。
「もう少し何かないの?」
「何が?」
「褒められた感想とか」
「別に」
「そっか。カイらしいね」
オレが笑うと、隣から紙の擦れる音がした。
アギトが、書き直していた願書を机の上へ置く。
「朝から何の話してんだ」
「カイの顔がいいって話」
「見れば分かることを、いちいち口にする必要あるか?」
「綺麗なものは褒めた方がいいでしょ?」
「そうかよ」
アギトはパンの残りを口へ入れた。
少しだけ機嫌が悪そうに見える。
焦げたパンが苦かったのだろうか。
自分で焼いたのだから、責任を持って食べてほしい。
「リーシャ」
月夜さんがこちらを呼んだ。
「なあに?」
「受けないと言ってたよな」
「うん。そのつもりだけど」
「じゃあ、これは誰のだ?」
一枚の紙が、テーブルの中央へ滑ってくる。
見覚えのある筆跡。
見覚えのある名前。
リーシャ・クーゲルシュタイン。
「あっ」
昨夜、記入した願書だった。
「月夜さん、それどこにあったの?」
「新聞の下」
「ちゃんと隠したつもりだったのに」
「半分出てたぞ」
「半分も?」
「むしろ見つけてほしい置き方だったな」
「違うよ。ちょっと失敗しただけ」
「隠し事に向いてないな、お前」
月夜さんが口元を緩める。
八年前なら、こちらが何を言っても無表情で返される方が多かった。
今では平然と軽口を叩いてくる。
人間関係とは不思議なものである。
距離が縮まった結果として扱いが雑になるのなら、打ち解ける前の方が丁寧に扱われていた可能性すらある。
「やっぱり受けるんじゃねえか」
アギトが言った。
「まだ決めてないよ」
「願書は全部埋まってるぞ」
「書くだけなら自由でしょ?」
「必要書類も揃ってる」
カイが淡々と補足する。
「カイ、そこは黙っててくれてもよくない?」
「聞かれたから」
「誰も聞いてないよ?」
「そう」
少しも悪びれていない。
「お前も来るだろ」
アギトが当然のように言った。
「私が?」
「俺とカイだけで行くつもりかよ」
「二人とも十六歳なんだから、学校くらい二人で行けるでしょ?」
「そういう話じゃねえ」
「じゃあ、どういう話?」
問いかけると、アギトは言葉を止めた。
少しだけ視線を逸らす。
「……三人で行くと思ってた」
先ほどまでの強い口調が、わずかに弱くなる。
恋愛ではない。
少なくとも、オレにはそう聞こえた。
アギトにとって、オレとカイが隣にいるのは当たり前なのだ。
八年間。
同じ食卓を囲んだ。
同じ家へ帰った。
喧嘩をして、叱られて、それでも翌朝にはまた顔を合わせた。
三人でいることに理由など必要なかった。
だから、進む道が分かれる可能性を考えていない。
家族とは厄介なものである。
相手の人生へ口を出す権利を、いつの間にか当然のように獲得している。
そして、さらに厄介なことに。
口を出される側も、それを完全には嫌だと思えなくなっている。
「リーシャも来た方がいいと思う」
カイが言う。
「カイも?」
「アギトだけだと面倒だから」
「おい」
アギトの眉が動く。
「どういう意味だ」
「そのまま」
「俺のどこが面倒なんだよ」
「全部」
「カイまで!」
先ほどオレが願書へ下した評価と同じだった。
どうやら、この家では「全部」が便利な回答として定着しつつあるらしい。
「二人とも、すぐ喧嘩するしね」
「仕掛けてくるのはカイだ」
「僕は事実を言ってるだけ」
「それが気に入らねえんだよ」
「はいはい」
オレは二人を宥めるように笑ってから、願書へ手を伸ばした。
本当は、最初から提出するつもりだった。
アギトがオレの知らないところで原作の事件へ巻き込まれるのは困る。
カイも同じだ。
オレの知っている原作からは、すでに多くのものが変わっている。
ナオトは死んだ。
ロウカたちは西へ消えた。
月夜さんは、原作とは違う形でオレたちのそばにいる。
原作知識など、今では穴だらけの地図と大差ない。
それでも地図を捨てて歩くよりはましだ。
アギトのそばにいれば、何かが起きたときに対応できる。
正体へ近づきそうなら、少しくらい進路を曲げられるかもしれない。
そして何より。
こいつら二人だけを、吸血鬼と戦うための学校へ送り出して。
オレ一人が家で帰りを待つなど――。
それは、少し。
本当に少しだけ。
嫌だった。
「仕方ないなあ」
オレは願書を自分の前へ引き寄せる。
「二人がそんなに心配なら、一緒に行ってあげようかな」
「最初からそのつもりだっただろ」
アギトが少しだけ笑う。
「そこは素直に喜んでくれてもいいんじゃない?」
「喜んでる」
「そうは見えないけど?」
「俺には俺の喜び方があるんだよ」
「へえ。難しいね」
「お前に言われたくねえ」
「私は分かりやすいよ?」
「どこがだ」
「可愛い顔をしてるときは、だいたい機嫌がいいの」
「それじゃ常に機嫌がいいことになるだろ」
一瞬。
食卓が静かになった。
アギト本人も、口にしてから気づいたらしい。
耳が少しだけ赤くなる。
「……そういう意味じゃねえ」
「ふふっ」
オレは頬へ手を添えた。
「アギトって、私のこと可愛いと思ってたんだ?」
「思ってねえ!」
「今言ったよ」
「言葉の流れだ!」
「可愛いと思ってないと、あんな言葉は出ないと思うけど」
「うるせえ!」
アギトが顔を背ける。
なるほど。
十六歳の男というものは、朝食の席で自爆する生き物らしい。
「若いなあ」
月夜さんが呆れたように言った。
「月夜!」
「何だ。違うのか?」
「違う!」
「そういうことにしといてやるよ」
月夜さんは笑いながら、残ったパンを口へ放り込んだ。
それから、わずかに目を細める。
「ま、受けるなら好きにしろ」
先ほどまで軽かった声が、ほんの少しだけ変わった。
「止めたところで、お前らは勝手に行くだろうしな」
「分かってるじゃねえか」
「育て方を間違えた」
「俺は間違ってねえ」
「そういうところだよ」
月夜さんはアギトへ面倒そうな視線を向ける。
「ただし、死ぬなよ」
短い言葉だった。
「お前ら三人分の葬式なんて、面倒でやってられん」
「朝から縁起でもないな」
「縁起で生きて帰れるなら、討魔師はいらない」
月夜さんは、アギトを見る。
次に、カイ。
最後にオレへ視線を向けた。
「死なない訓練より、死なない判断を覚えてこい」
「分かってる」
アギトは迷わず答えた。
「俺が全員連れて帰る」
「大きく出たな」
「できるから言ってる」
以前ほど露骨ではないが、自信の強さは変わらない。
無根拠な万能感ではない。
積み上げてきた努力を、誰より自分自身が信じている。
カイも小さく頷いた。
「僕も帰るよ」
「そりゃ助かる」
月夜さんは肩をすくめる。
「俺一人になったら、家事を全部やらなきゃならないからな」
「そこなの?」
オレが尋ねると、月夜さんは平然と答えた。
「大事だろ」
「たしかに、月夜さんの料理だけで生活するのは不安かも」
「お前、言うようになったな」
「あはは。冗談だよ」
「半分は本気だろ」
「どうかな?」
「リーシャの冗談は分かりにくい」
カイが言う。
「カイには言われたくないかな」
「そう」
カイは特に気にした様子もなく、お茶を飲んだ。
◇ ◇ ◇
八年前と比べれば、トウキョウは随分と街らしくなった。
崩れていた建物は取り壊され、その跡地には新しい集合住宅が並んでいる。
道の両側には露店が開き、配給品と交換できる野菜や保存食が売られていた。
子供たちが走っている。
洗濯物が風に揺れている。
広場では、片腕を失った元討魔師が若者へ木剣を教えていた。
平和になったわけではない。
人類の生存圏は、八年前とほとんど変わっていない。
街の外へ一歩出れば、そこは吸血鬼の領域だ。
夜間外出には制限があり、聖域を維持する銀は常に不足している。
それでも人間は、瓦礫をどかした場所に家を建てた。
死体を埋めた土へ種を蒔いた。
昨日まで泣いていた場所で、今日の食事を作っている。
人類というものは、諦めが悪い。
客観的に見れば、吸血鬼に勝てる要素などほとんどないのに、まだ滅びるつもりがない。
だからこそ、原作のアギトは剣を取った。
「リーシャ」
少し先を歩いていたアギトが振り返る。
「遅いぞ」
「待ってくれてもいいじゃん」
「菓子屋の前で止まってるお前が悪い」
「街の様子を見てたの」
「菓子しか見てなかっただろ」
「菓子屋さんだって街の一部だよ?」
道端では、薄く焼いた生地へ果物の蜜を塗った菓子が売られている。
砂糖はまだ高級品だ。
甘い匂いが風に乗って流れてきた。
受験の帰りに買ってもらおう。
もちろん、合格祈願とは関係ない。
人間は何かと理由をつけなければ贅沢を許せない、貧しい生き物である。
「帰りに買えばいい」
隣を歩いていたカイが言った。
「本当?」
「配給券が余ってるから」
「ありがとう、カイ」
オレは嬉しくなって、カイの顔を覗き込んだ。
「優しいし、顔もいいなんて完璧だね」
「そう」
「もう少し喜んでくれてもいいよ?」
「喜んでる」
「どこが?」
「ここ」
カイが自分の顔を指さす。
表情はほとんど変わっていない。
「全然分からないよ」
「僕には分かる」
「それでいいの?」
「いいよ」
これ以上ないほどカイ的な回答だった。
「……俺が買う」
前を歩いていたアギトが、不意に口を挟んだ。
「え?」
「その菓子。俺が買う」
「カイが買ってくれるって」
「俺の方が配給券を持ってる」
「量で張り合うものじゃないと思うけど」
「別に張り合ってねえ」
「そう?」
「そうだ」
声だけは妙に強い。
カイは特に気にした様子もなく言った。
「僕はどっちでもいいよ」
「じゃあ俺が買う」
「うん。ありがとう」
オレが笑うと、アギトは少しだけ満足そうに前を向いた。
分かりやすい。
何がそこまで嬉しいのかは分からないが。
道を進むにつれて、若者の姿が増えていく。
皆、同じ方向へ歩いていた。
腰へ木剣を下げた者。
家族と一緒に来た者。
緊張した顔で願書を握り締める者。
片脚に義足をつけた少女もいた。
討魔師を志願する理由は、それぞれ違うのだろう。
家族を殺された。
故郷を奪われた。
配給を増やしたい。
名誉を得たい。
誰かを守りたい。
あるいは、ほかに生きる道がなかった。
十六歳になったばかりの子供へ、これからの人生を選ばせる。
平時なら、ずいぶん乱暴な制度だ。
だが、この世界では十六歳まで生きられたこと自体が、ひとつの資格なのかもしれない。
大通りの先に、銀色の外壁が見えた。
高い塀。
その内側から突き出す、いくつもの訓練塔。
遠くには、半球状の結界設備が陽光を反射している。
正門の上には、人類側の紋章が刻まれていた。
討魔師育成機関。
アカデミー。
その姿を見た瞬間、足が止まった。
知っている。
ゲームの画面で、何度も見た。
アギトが仲間と出会った場所。
初めて実戦訓練を受けた場所。
久世澪をはじめとするヒロインたちと関係を築き、人類最強の討魔師へ成長していく場所。
ここから始まる。
原作本編が。
八年前。
燃えるヨコハマで目を覚ましてから、ずっと先のことだと思っていた。
まだ時間がある。
それまでに何とかすればいい。
そうやって先延ばしにしてきた物語が、ついに目の前まで来てしまった。
「リーシャ」
呼ばれて、顔を上げる。
正門の向こうに、アギトが立っていた。
カイも、その少し先で足を止めている。
「何してんだ」
アギトがこちらへ手を差し出した。
「行くぞ」
八年前。
ヨコハマから逃げる小舟の上でも、同じ手を差し出された。
あのころは小さかった。
血と煤で汚れていた。
今では、オレの手を簡単に包めるほど大きくなっている。
「置いていくぞ」
「それは困るかな」
オレは小さく笑い、その手を取った。
指が強く握り返される。
この手の持ち主は、いずれ人類最強の討魔師になる。
第四真祖アラストルの力を継ぎ。
両親の仇へ辿り着き。
最後には、オレを殺すかどうかを選ぶ。
その未来は、まだ消えていない。
「アギト」
「何だ」
「もう手を離しても大丈夫だよ?」
「まだ門を通ってない」
「門まで手をつなぐ必要ある?」
「迷子になるだろ」
「ならないよ。私、十六歳なんだけど」
「さっき菓子屋に引っかかってた」
「あれは迷子じゃないって」
アギトはこちらの手を離さないまま歩き出す。
「ほら、行くぞ」
「もう。引っ張らないでよ」
「お前が遅いんだ」
「女の子の歩幅に合わせるのも大事だと思うな」
「分かった。少し遅くする」
一瞬だけ、素直だった。
「……今日は聞いてくれるんだ?」
「俺だって人の話くらい聞く」
「たまにね」
「聞いてる」
「じゃあ、手は?」
「これは別だ」
「ふふっ。そっか」
隣では、カイが何も言わずについてくる。
オレはアギトに手を引かれながら、アカデミーの門をくぐった。
原作主人公の物語が、ようやく始まる。
ただし。
アギトの隣には、原作にはいなかったカイがいる。
育ての親になった月夜さんがいる。
ロウカたちは、西のどこかで生きている。
そして、両親の仇であるラスボスは――。
ピンクブロンドの髪を揺らし、葡萄色の瞳で笑いながら。
原作主人公と手をつないで、仲良く入学願書を出しに来ていた。
原作本編。
開始時点ですでに、何かがおかしかった。