【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
学校という場所は、もう少し入学希望者を歓迎するものだと思っていた。
正門を抜けて最初に待っていたのは、笑顔の教師でも、満開の桜でもない。
銃を持った衛兵だった。
「身分証と願書を提示しろ。荷物は台の上へ」
低い声で促される。
門の内側には銀線を張り巡らせた検問所があり、その先には武装した討魔師が何人も立っていた。
受験生が一人通るたび、銀製の呪具が身体を上から下まで走査する。
普通の学校なら、校門で配るのは案内冊子だろう。
ここでは先に、吸血鬼かどうかを調べられる。
歓迎の気持ちより、殺意の方が少し強い。
「止まるなよ」
手をつないだままのアギトが振り返った。
「止まってないよ。ちょっと学校の個性に驚いてただけ」
「これくらい普通だろ」
「討魔師の普通って、ずいぶん物騒なんだね」
「吸血鬼が紛れ込んだら困るからな」
「そ、そうだね」
まったくもって正論だった。
現在進行形で第六真祖を連れ込んでいる人間が言わなければ、満点を与えてもよかった。
「手」
カイが言った。
「え?」
「まだつないでる」
視線を下げる。
オレの右手は、アギトの左手にしっかり包まれていた。
正門はとっくに通り過ぎている。
「あ、本当だ」
「何だよ」
「もう離しても大丈夫じゃない?」
「別にこのままでいいだろ」
「よくないと思うな。見られてるよ?」
周囲の受験生が、こちらをちらちら見ている。
ピンクブロンドの少女が男と手をつないで歩いていれば、視線を集めるのは当然だ。
片方の顔がよければ絵になる。
カイとだったら、もう少し好意的な視線を集められたかもしれない。
「見せておけばいい」
「何を?」
「お前が俺と来たってことを」
アギトは平然としている。
「同じ家を出た時点で、もう十分じゃないかな?」
「足りねえ」
「何に?」
「知らん」
「アギトも分かってないんだ」
「うるせえ」
ようやく手が離れた。
理由の分からない占有宣言をされても困る。
土地なら登記が必要だし、人間なら本人の同意が必要である。
吸血鬼については、たぶん血を飲ませれば成立する。
どれを選んでも、アギトには教えられない知識だった。
検問を抜けると、広い石畳の道が校舎へ続いていた。
窓には細い銀線が格子状に埋め込まれている。屋上には結界柱。校舎の間には訓練場らしき建物がいくつも並び、遠くから金属同士がぶつかる音が聞こえてきた。
華やかさはない。
その代わり、襲撃されても簡単には落ちない。
「ゲームだと、もう少し学校っぽかったんだけどな……」
「何か言ったか?」
「立派な学校だねって言ったの」
危ない危ない。
ゲームで見たアカデミーは、画面一枚でずいぶん綺麗にまとめられていた。
現実には、背景へ描かれなかった銃座もあれば、血を洗い流すための排水溝もある。
正面玄関の横には、巨大な黒い石碑が置かれていた。
表面には、細かな文字で無数の名前が刻まれている。
「これ……」
「戦死者だろ」
アギトが足を止めた。
卒業生でも、歴代の校長でもない。
アカデミーを卒業し、戦場で死んだ討魔師たち。
そして、卒業まで辿り着けなかった候補生たちの名前だった。
アギトは黙って碑を見上げている。
先ほどまでの騒がしさが、嘘のように消えていた。
カイは少し離れたところで足を止め、刻まれた名前を上から順に追っている。
誰かを探しているらしい。
父親の名前だろうか。
そう思ったが、声はかけなかった。
見つけたいのか。
見つからないでほしいのか。
そのくらいは、オレにも聞かない方がいいと分かる。
「カイ」
それでも呼ぶと、カイはこちらを見た。
「何?」
「……何でもない」
「そう」
カイは碑へ視線を戻し、ほんの少しだけ眺めてから歩き出した。
「行くぞ」
アギトが言う。
「うん」
カイが答える。
それだけで、二人には十分だった。
◇ ◇ ◇
願書受付には、すでに長い列ができていた。
アカデミーを志願する十六歳は多い。
人類を守りたい若者が多い――という綺麗な理由だけではないだろう。
討魔師候補生になれば、食事と寝床が保証される。
成績次第では、家族への配給も増える。
卒業できれば地位も得られる。
生き残れば、という条件がつく点を除けば、就職先としてはかなり優秀だった。
「最後尾、あそこだね」
「長いな」
「帰る?」
「帰るわけねえだろ」
「聞いてみただけだよ」
列へ並ぶ。
前には、同じ年ごろの少年少女が続いていた。
緊張して願書を何度も確認する者。
親と抱き合っている者。
すでに武器を背負っている者。
オレたちの少し前には、右脚を義足にした少年が立っていた。
まだ新しい義足らしく、歩くたびに金属が小さく軋んでいる。
列が進んだ。
少年も一歩前へ出る。
その瞬間、後ろを急いでいた受験生と肩がぶつかった。
「あっ」
少年が体勢を崩す。
抱えていた書類が宙へ散った。
アギトが列を飛び出した。
少年の腕をつかみ、倒れる寸前で支える。
「大丈夫か?」
「す、すみません……」
「謝るな。立てるか?」
アギトは少年を壁際へ座らせると、散らばった書類を拾い始めた。
風に飛ばされた一枚が、往来の中央へ滑っていく。
誰かに踏まれる寸前、その紙を黒い靴が押さえた。
「通路を空けてください」
凜とした声が響く。
黒髪の少女が、周囲の受験生へ指示を出していた。
「そちらの方は受付係を呼んでください。後ろの皆さんは、列を壁側へ寄せて」
声を荒らげているわけではない。
それでも周囲は自然と従っていた。
少女は落ちた書類を拾いながら、義足の少年の状態を確認する。アギトが目の前の一人を助けているあいだに、混乱しかけた列まで元へ戻してしまった。
ずいぶん手際がいい。
アギトにも、あのくらい周囲を見る余裕があれば助かるのだが。
まあ、ないものを求めても仕方がない。魚へ木登りを教えるよりは、カイへ愛想笑いを教える方がまだ成功率は高そうである。
やがて係員が来て、義足の少年を椅子へ運んでいく。
「助かりました」
少年がアギトと少女へ頭を下げた。
「気にすんな」
「無理をしないでください。受付には事情を説明しておきます」
少女は拾った書類を順番どおりに揃え、少年へ手渡した。
「戻るぞ」
アギトがオレたちの方へ歩き出す。
「待ってください」
少女が呼び止めた。
「何だよ」
「一度列を離れたのですから、最後尾へ並び直してください」
「は?」
「皆さん、順番を守って待っています」
「すぐそこにいただろ」
「事情は見ていました」
「ならいいだろ」
「よくありません。全員が自分の事情を理由に戻れば、順番の意味がなくなります」
「困ってるやつを助けるなって言うのか?」
「一言も言っていません」
少女は静かに言い返した。
「私も列を離れました。ですから、私も最後尾へ並び直します」
アギトが口を閉じる。
自分だけを棚へ上げているわけではないらしい。
規則を盾に人を責めたいのではなく、本当に自分を含めた全員が守るべきものだと思っている。
「……面倒くせえな」
「よく言われます」
「褒めてねえぞ」
「承知しています」
表情一つ変えない。
アギトはしばらく少女を見ていたが、やがて息を吐いた。
「分かった。最後尾に行く」
「最初からそうしてください」
「やっぱり面倒くせえ」
「アギト」
オレは小さく手を振った。
「私たちも一緒に並び直すよ」
「お前らはそのままでいいだろ」
「一人で後ろに行ったら、寂しくて泣いちゃうかもしれないでしょ?」
「誰が泣くか!」
「アギト」
カイが平坦な声で言う。
「もう泣きそう」
「どこがだ!」
結局、オレとカイも列を抜けた。
これで、ここまで待った時間はきれいに消滅した。
善行には代償が伴う。
そして大抵の場合、善行をしていない同行者まで連帯責任で支払わされる。
少女も最後尾へ向かってくる。
オレの近くまで来たところで、その足が止まった。
黒い瞳が、まっすぐこちらへ向けられる。
「……クーゲルシュタインさん?」
「え?」
名前を呼ばれ、少女の顔を見返す。
どこかで見た覚えがあった。
輪郭も背丈も、八年前とはまるで違う。それでも、こちらを見る真っ直ぐな目だけは変わっていない。
黒い喪服。
大人たちの足元に立ち、兄の棺を見つめていた少女。
「……澪ちゃん?」
「はい」
少女は丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです。久世澪です」
そこでようやく、八年前の小さな姿と、目の前の少女が重なった。
久世澪。
航平さんの妹。
そして原作では、アギトと同じ部隊に所属する少女。
そのことは、八年前の葬儀ですでに知っていた。
知らなかったのは、あの小さな女の子が、こんなふうに背筋を伸ばしてオレの前へ現れることだけだ。
「大きくなったね」
つい、そんな言葉が出た。
こちらも同じだけ成長しているので、ずいぶん年上ぶった発言ではある。
「クーゲルシュタインさんも」
「私はあのころから可愛かったけどね」
「はい。そう思います」
真顔で肯定された。
冗談を真正面から受け止められると、こちらが恥ずかしくなる。会話にも受け身の練習が必要らしい。
「兄の葬儀では、ありがとうございました」
澪がもう一度、深く頭を下げる。
「私、何もしてないよ」
「兄とともに帰還した方から伺いました。最後まで、兄を助けようとしてくださったと」
「でも、助けられなかった」
久世航平は死んだ。
オレが何をしても、その結末は変えられなかった。
「それでもです」
澪は顔を上げた。
八年前と同じ、真っ直ぐな目だった。
「兄を一人にしないでくださって、ありがとうございました」
「……うん」
あの日、棺の前に立っていた八歳の少女は、もういない。
けれど、忘れたわけでも、乗り越えたふりをしているわけでもないのだろう。
抱えたまま、ここまで歩いてきた。
その先が、吸血鬼と戦うための学校だっただけだ。
「お前、知り合いだったのか?」
アギトが横から口を挟んだ。
「八年前に少しだけね」
「聞いてねえぞ」
「聞かれてないもん」
「そういうことは言えよ」
「どこまで報告すればいいの?」
「全部」
「それはちょっと怖いかな」
「何がだよ」
アギトは不満そうに眉を寄せる。
オレの過去に、自分の知らない部分があったことが気に入らないらしい。
八年間も一緒にいると、情報共有の範囲が家族というより国家機密並みに広くなる。
「改めまして、久世澪です」
澪がアギトへ向き直った。
「綾辻アギトだ」
「先ほどは助かりました」
「お前もな」
「ですが、列へ戻ろうとしたことについては感心しません」
「まだ言うのかよ」
「事実ですから」
「助けたやつの順番が遅れたら意味ねえだろ」
「受付には事情を説明しました。彼の順番は維持されます」
「先に言えよ」
「聞かれませんでしたので」
「お前……」
アギトが睨む。
澪は少しも動じない。
なるほど。
原作どおり、第一印象は最悪らしい。
これなら今後、互いの長所を知って距離を縮める余地も十分にある。
非常に順調だ。
ぜひ、そのままオレのいないところで進めてほしい。
「じゃあ、私はカイと先に――」
「何でだよ」
袖をつかまれた。
「え?」
「何でお前がカイと行くんだ」
「二人がお話ししてるから、邪魔かなって」
「邪魔じゃねえ」
「でも」
「お前もいろ」
「どうして?」
「どうしてもだ」
アギトはそれだけ言うと、オレの袖をつかんだまま前を向いた。
原作ヒロインとの初対面で、なぜオレの立ち位置まで固定されるのだろう。
主人公の行動範囲を塞ぐ、見えない壁にでもなった気分である。
「仲がよろしいのですね」
澪が言った。
「八年一緒だからね」
「家族みたいなもんだ」
アギトが即答する。
そう。
家族。
非常に安全で、健全な単語である。
恋愛フラグとはまったく関係がない。
「そうですか」
澪は、アギトがつかんでいるオレの袖へ一度だけ目を向けた。
なぜだろう。
少しだけ、納得していないように見えた。
◇ ◇ ◇
受付を終えた受験生は、そのまま講堂へ案内された。
壇上に立った教官は、右腕が義手だった。
「アカデミーの役目は、吸血鬼を殺す人間を作ることではない」
低い声が講堂へ響く。
「敵を殺すだけなら兵士で足りる。討魔師に求められるのは、任務を果たし、仲間を連れて帰ることだ」
背後の壁には、候補生の進路が記されている。
近接戦闘。
遠距離術式。
結界、防御。
索敵。
救護。
戦術指揮。
兵站、装備整備。
全員が最前線で剣を振るうわけではない。
とはいえ、どの課程へ進んでも最低限の戦闘と撤退訓練は必修らしい。
つまり、安全な後方職など存在しない。
就職説明会でその事実を最初に伝える点だけは誠実だった。
「希望課程を第三希望まで記入しろ。適性試験の結果と併せて、正式な所属を決める」
用紙が配られる。
アギトは迷わず近接戦闘へ印をつけた。
実に分かりやすい。
カイはしばらく用紙を見つめたあと、何も書かずに机へ置いた。
「カイ、書かないの?」
「どこでもいいよ」
「一番困る回答だね」
「適性で決まるなら、それでいい」
声にも表情にも迷いはない。
選択肢が多すぎて決められないのではなく、自分で選ぶ理由がないらしい。
本人は困らないだろうが、進路指導の教官は少し困りそうである。
澪は近接戦闘と戦術指揮へ印をつけている。
オレは救護と兵站の間で迷った。
どちらも直接、吸血鬼と殴り合う機会は少なそうだ。
理想は図書館司書だが、課程表には存在しない。
「戦術指揮」
隣から声がした。
「え?」
アギトが、オレの用紙を指さしている。
「お前はそこだろ」
「どうしてアギトが決めるの?」
「昔から俺たちに指図してる」
「人聞きが悪いなあ。ちょっと効率のいい方法を教えてあげてただけだよ」
「それを指揮って言うんだろ」
「向いてると思う」
カイまで同意する。
「カイも?」
「リーシャの言うとおりにした方が、だいたいうまくいくから」
「だいたいなんだ」
「たまに失敗する」
「保険をかけるのが上手になったね」
昔なら無条件で信じてくれたのに。
十六歳ともなると、現実を知ってしまうらしい。
「お二人とも、クーゲルシュタインさんを随分信頼しているのですね」
澪がこちらを見る。
「当然だろ」
アギトが答えた。
「こいつの判断で、俺たちが助からなかったことはねえ」
思ったより重い言葉が返ってきた。
澪も一瞬、目を見開く。
「少し大げさだよ」
「大げさじゃねえ」
「私だって間違えるよ?」
「そのときは俺が何とかする」
アギトは何でもないことのように言った。
「だから、お前は好きに決めろ」
「……そっか」
好きに決めろと言いながら、戦術指揮へ進ませようとしている。
発言と行動が矛盾している気もするが、アギトの中では両立しているのだろう。
オレが決める。
失敗したらアギトが何とかする。
ずいぶん都合のいい制度である。
澪が、ほんの少しだけアギトを見る目を変えた。
自信過剰な規則破りから、仲間を信じる規則破りくらいには昇格したのかもしれない。
順調だ。
この調子でフラグを立ててほしい。
そしてオレ以外のルートへ進んでほしい。
「では次に、身元および種族鑑定を行う」
教官が告げた。
順調ではなかった。
◇ ◇ ◇
検査室の前には、いくつもの項目が掲示されていた。
身分記録照合。
眷属化反応。
吸血痕の確認。
種族鑑定。
最後の四文字だけ、妙に大きく見える。
「リーシャ」
カイがこちらを見た。
「何?」
「顔色、悪いね」
「そうかな? いつもどおり可愛いと思うけど」
「そういう話じゃねえだろ」
アギトが眉を寄せる。
「朝のパンが焦げてたからかな」
「食ってただろ」
「身体は食べたけど、心が受けつけなかったのかも」
「パンに心を壊されるな」
八年前、一度は正式な鑑定を受けている。
結果は人間。
人類側の最高機関が、リーシャ・クーゲルシュタインを人間と認めた。
だから今回も、おそらく問題はない。
おそらく。
試験というものは、一度合格していても再試験と聞いた瞬間に不安になる。
まして落ちた場合、浪人では済まない。
首が飛ぶ。
物理的に。
「次、リーシャ・クーゲルシュタイン」
名前を呼ばれた。
「はーい」
笑顔で返事をする。
逃走経路は窓が二つ。
廊下に討魔師が四人。
正面突破は不可能ではないが、アギトたちの人生が終わる。
つまり、大人しく検査を受けるしかない。
検査室へ入ろうとすると、アギトまでついてきた。
「アギトは外で待ってていいよ?」
「一緒に入っていいって書いてある」
保護者および同行者一名まで入室可能。
たしかに書いてある。
「カイでもいいんだけど」
「俺が行く」
「どうして?」
「俺が行くって決めた」
便利な理由である。
この世の意思決定がすべてそれで済むなら、会議という文化はもっと早く滅びていただろう。
「僕は外で待つよ」
カイはあっさりと言った。
「終わったら呼んで」
「うん。じゃあ、行ってくるね」
「そう」
カイはそれ以上、何も聞かなかった。
こちらの不安に気づいていないのか。
気づいたうえで、聞かないのか。
たぶん後者だ。
だからこそ、今はありがたかった。
検査室には白衣の女性と、銀の枠へ収められた鑑定呪具が置かれていた。
「左手をこちらへ。右腕を出してください」
「採血もするんですか?」
「少量です」
針が用意される。
怖いのは針ではない。
その先に待つ結果である。
「震えてるぞ」
アギトが言った。
「ちょっと寒いだけだよ」
「室温は高い」
「カイみたいなこと言わないでくれる?」
椅子へ座る。
白衣の女性が腕を消毒した。
「力を抜いてください」
「はーい」
針が近づく。
気づけば、隣に立つアギトの袖を指でつまんでいた。
アギトがオレの手を見る。
「あ」
離そうとした。
その前に、アギトが手のひらを返した。
指が重なる。
「握ってろ」
「子供じゃないんだけど」
「なら離せばいい」
離そうとする。
アギトの指が強くなる。
「アギトが離してくれないじゃん」
「動くと危ねえからだ」
「まだ針、刺さってないよ?」
「先に動かないようにしてんだよ」
白衣の女性が、小さく笑った。
澪がここにいなくてよかった。
これを見られたら、家族という説明に余計な注釈が必要になるところだった。
針が刺さる。
採られた血が、透明な管を通っていく。
赤い。
当然だ。
青かったら、その時点で別の意味で大問題である。
「次に、左手を鑑定盤へ」
銀の盤へ手を置く。
細かな術式が光を帯びた。
心臓が一度、大きく鳴る。
術式の光が指先から腕へ広がり、やがて中央へ集まった。
白い紙の上へ、黒い文字が浮かび上がる。
人間。
眷属化反応なし。
異常なし。
「問題ありません」
「……そっか」
身体から力が抜ける。
人類の検査技術が、八年間ほとんど進歩していなくて本当によかった。
今日ほど技術発展の停滞を祝福した日はない。
「終わったぞ」
アギトが言った。
「うん」
「だから心配する必要ねえって言っただろ」
「私、そんなに心配って言ってたっけ?」
「顔に書いてあった」
「便利な顔だね、私」
握られていた手を見下ろす。
「もう離していいよ?」
「ああ」
今度は素直に離れた。
少し冷えた指先に、アギトの体温が残っている。
「怖くなかっただろ」
「うん。アギトのおかげかな」
笑ってみせる。
アギトが一瞬、目を逸らした。
「……そうかよ」
耳が赤い。
採血を受けたのはオレなのに、なぜこいつの血行がよくなっているのだろう。
◇ ◇ ◇
全員の検査が終わるころには、外はすでに傾き始めていた。
帰れると思った受験生たちを、教官の声が引き止める。
「明日、予備選抜試験を実施する」
講堂がざわついた。
「試験は四名一組。模擬市街地における救出および撤退を行う。班員の組み合わせは、受付番号と本日の検査結果を基に決定した」
正面の掲示板へ、班分けが張り出される。
受験生が一斉に集まった。
「押すなよ」
アギトがオレの前へ立ち、流れてくる人間を肩で止める。
「自分が一番押してない?」
「お前が潰れるだろ」
「そこまで小さくないよ」
「僕が見る」
カイが人混みの向こうへ視線を向けた。
「第七班」
淡々と名前を読み上げる。
「綾辻アギト」
「ああ」
「氷室カイ」
「うん」
「久世澪」
「私です」
すぐ近くから声がした。
振り返ると、澪も掲示板を見上げている。
カイが最後の名前を読む。
「リーシャ・クーゲルシュタイン」
「……私も?」
「四人とも同じだね」
原作主人公。
原作のサブヒロイン。
原作ではここにいなかった幼馴染。
そして、正体を隠したラスボス。
戦力以前に、役職欄がおかしい。
「よろしくお願いします」
澪がこちらへ頭を下げた。
続いて、アギトを見る。
「明日は試験です。規則には従ってください」
「必要ならな」
「必要かどうかを、あなた一人で決めないでください」
「現場じゃ、考えてる時間がねえこともある」
「だからこそ、事前に決めた手順があります」
また始まった。
だが、先ほどとは少し違う。
互いを嫌っているというより、互いの考えを確かめているように見える。
最悪の第一印象から、早くも一歩進んでいる。
さすが原作主人公。
フラグ建築の仕事が速い。
「リーシャ」
アギトがこちらを見る。
「お前が指示を出せ」
「明日の試験で?」
「ああ」
「久世さんの方が向いてそうだけど」
「お前がやれ」
澪との会話を中断して、迷わずオレを選ぶ。
待ってほしい。
そこは原作ヒロインを立てる場面ではないだろうか。
「私、戦闘適性もまだ分からないよ?」
「関係ねえ。俺がお前の指示に合わせる」
「僕も」
カイまで続いた。
澪が三人を見比べる。
「そこまで言うのでしたら、私も従います。ただし、判断の根拠は説明してください」
「う、うん」
いつの間にか指揮官になっていた。
オレはもう一度、掲示板に並んだ四人の名前を見る。
アギト。
カイ。
久世澪。
リーシャ・クーゲルシュタイン。
主人公、ヒロイン、幼馴染、ラスボス。
どう考えても、初期パーティーの組み方ではない。
「面倒そうだね」
カイが言った。
「カイもそう思う?」
「うん」
「お前ら、試験前からやる気なくすなよ」
アギトが呆れたように言う。
「俺たちが一番になる。簡単だろ」
「どこから出てくるの、その自信」
「できるから言ってる」
アギトは笑った。
その横で、澪が小さく息を吐く。
「本当に自信だけはあるのですね」
「実力もある」
「それは明日、確認します」
「望むところだ」
二人の視線がぶつかる。
うん。
順調だ。
このまま久世澪がアギトへ惚れて。
アギトも澪を選んで。
リーシャルートから、綺麗に外れてくれればいい。
「リーシャ、帰るぞ」
アギトが当然のようにオレの手首をつかんだ。
「ちょっと、アギト」
「菓子を買うんだろ」
「あ、覚えてたんだ」
「約束したからな」
「あの」
澪が、遠慮がちに声をかける。
「私も同行してもよろしいでしょうか」
「え?」
「先ほどの受験生の書類について、受付へ確認したいことがあります。途中までは同じ方向かと思いまして」
アギトが助けた少年のことを、まだ気にかけているらしい。
「もちろん。一緒に帰ろうよ」
「ありがとうございます」
「カイもね」
「うん」
四人で歩き出す。
先頭では、アギトと澪がまた規則について言い争っている。
その後ろを、オレとカイがついていく。
原作主人公と原作ヒロイン。
初対面としては悪くない。
むしろ、かなりいい。
なのにアギトは何度もこちらを振り返り、オレがついてきているか確認していた。
そのたびに、つかまれた手首へ少しだけ力が加わる。
……まあ。
まだ初日だ。
恋愛ルートというものは、時間をかけて進むものである。
焦る必要はない。
たぶん。
きっと。
そうであってほしい。
何しろアギトがリーシャルートへ入った場合、最後に待っているのは告白でも結婚式でもない。
オレの葬式なのだから。