【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
日が沈むと。
ヨコハマは起きた。
「…………」
宿舎を出たオレは、しばらくその場で立ち止まっていた。
昨日も遠くから街を見た。
けれど。
こうして中へ入ってみると、印象がまるで違う。
黒い石造りの建物。
急な角度で伸びる屋根。
空へ突き刺さるような尖塔。
窓枠や手すりには鉄が多く使われ、通りの両側には重厚な街灯が並んでいる。
青白い光が石畳を照らしていた。
その間を。
大勢の人が歩いている。
「すごいな……」
思わず声が漏れた。
八年前。
ここは燃えていた。
建物は崩れ。
道路には死体が転がり。
煙で空すら見えなかった。
その街と。
目の前の光景が。
どうしても重ならない。
「随分変わったね」
「八年にございます」
隣を歩くバフォメットが答えた。
「長い?」
「街を作るには短く、人が慣れるには十分な年月かと」
「なるほど」
確かに。
道を歩く者たちからは。
ここが最近征服された都市だという雰囲気を、あまり感じない。
黒い外套を羽織った吸血鬼。
買い物袋を抱えた女。
酒場から出てくる男たち。
露店へ群がる子供。
制服姿の兵士。
そして。
人間。
「…………」
普通にいる。
吸血鬼の隣を歩いている。
数としては少ない。
けれど。
隠れているわけでもない。
荷物を運ぶ男。
店先を掃除している老婆。
パンを並べる若い女。
吸血鬼の客から硬貨を受け取り、深く頭を下げていた。
「人間のお店?」
「左様にございます」
「店、持てるんだ」
「名誉ゲルマニア人には財産権が認められております」
「ああ」
そうだった。
オレが作った制度だ。
正確には、バフォメットたちと相談しながら作った。
当時は数字と報告書でしか見ていなかったものが。
今、目の前にある。
店先には焼きたてのパンが並んでいた。
「…………」
いい匂い。
「バフォメット」
「は」
「あれ食べたい」
「視察中にございます」
「街の食文化を確認するのも視察だよ」
「…………」
「何?」
「いえ」
絶対に何か言いたかった顔だ。
山羊だけど。
「一つください」
店へ近づく。
人間の女が顔を上げた。
「いらっしゃいま――」
途中で止まる。
オレではない。
後ろを見た。
バフォメット。
「…………っ」
顔色が変わった。
すぐに姿勢を正す。
「バ、バフォメット大将軍閣下!」
「よい」
低い声が返る。
女はそれでも身体を固くしたままだった。
「普通にして」
オレが言うと。
今度はこちらを見る。
「…………」
「パン、一つください」
「は、はい!」
「そんな緊張しなくて大丈夫だよ」
「申し訳ございません!」
「謝らなくても――」
「ベルゼブブ様」
「何?」
「大将軍である私が背後に立った状態で、それは無理があるかと」
「…………」
振り返る。
二メートルを超える黒山羊。
腕は丸太。
顔は怖い。
しかも軍の最高幹部。
「少し離れてて」
「護衛にございます」
「六歩」
「……」
「五歩」
「……」
「四歩」
「御意」
交渉成立。
バフォメットが下がる。
四歩。
あまり変わらない。
「…………まあいいか」
パンを受け取る。
丸く。
少し硬そうな表面。
焼き色は濃い。
「ありがとう」
「い、いえ!」
「いくら?」
「結構でございます!」
「駄目だよ」
「ですが――」
「買い物だから」
硬貨を置く。
女は両手で受け取った。
「ありがとうございます……!」
一口。
「…………」
外は硬い。
でも。
中は柔らかい。
香ばしい。
少し酸味がある。
「おいしい」
女の顔が。
ほんの少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
今度は。
さっきより自然な声だった。
「これ、ゲルマニアのパン?」
「はい。祖父から教わりました」
「お祖父さんはゲルマニア出身なの?」
「いえ」
女が少し笑う。
「祖父はヨコハマの人間です」
「…………?」
「師匠がゲルマニア人でした」
「ああ」
そういうことか。
八年。
文化というものは。
軍隊よりずっと静かに国境を越えるらしい。
「また来るね」
「はい!」
店を離れる。
パンを食べながら歩く。
「いいじゃん」
「何がでございましょう」
「ちゃんと根付いてる」
料理。
建物。
服。
言葉遣い。
全部。
昔のヨコハマとは違う。
かといって。
本国をそのまま移したわけでもない。
「ゲルマニアになったんだね」
「ここはゲルマニア領にございます」
「そういう意味じゃなくて」
「承知しております」
「じゃあ言わせないでよ」
「失礼いたしました」
絶対わざとだ。
少し先。
広場へ出た。
「…………」
音楽が聞こえる。
弦楽器。
その後ろから。
低い金管の音。
数人の演奏家が広場の中央で曲を奏でていた。
周囲には人が集まっている。
吸血鬼も。
人間も。
酒を飲みながら聞く者。
立ち止まる者。
子供を肩へ乗せている男もいる。
「上手い」
「本国より移住した楽団にございます」
「プロ?」
「左様に」
演奏者の一人を見る。
若い男に見える。
「何歳?」
「二百十二歳だったかと」
「…………」
そりゃ上手いわ。
二百年練習している。
「人間、勝てないじゃん」
「音楽に勝敗がございますか?」
「そういう話じゃない」
でも。
少し笑った。
音楽が流れている。
パンの匂い。
肉の焼ける匂い。
酒場から聞こえる笑い声。
活気がある。
ちゃんと。
人が暮らしている街だ。
そのとき。
「…………」
別の匂いがした。
甘い。
それも。
妙に食欲を刺激する。
「この匂い……」
「市場にございます」
バフォメットが言う。
そちらへ進む。
露店が増えた。
野菜。
果物。
魚。
乾燥した香草。
腸詰。
燻製肉。
そして。
「…………」
足が止まった。
肉屋だった。
大きな肉塊が並んでいる。
腿。
肩。
肋。
綺麗に切り分けられ。
それぞれに値札がついていた。
そこまではいい。
問題は。
札に書かれている文字だった。
『北部第二牧場産』
「…………」
もう一枚。
『雌・若齢』
「…………」
さらに。
『腿肉・一等』
「バフォメット」
「は」
「これ」
「畜人肉にございます」
即答。
「…………そうだよね」
分かっていた。
分かっていたのだが。
文字で見ると。
なかなか来るものがある。
肉屋の店主がこちらに気づいた。
吸血鬼の男だ。
「お嬢ちゃん、見る目あるな」
「え?」
「今日のはいいぞ。脂が綺麗に入ってる」
「…………」
「少し焼いてやろうか?」
振り返る。
バフォメットを見る。
「食べる?」
「なぜ私にお尋ねになるのでしょう」
「一人で食べるの嫌だから」
「私はすでに食事を済ませております」
「じゃあ私だけ食べる」
何なんだ。
この会話。
「お願いします」
「あいよ」
普通だ。
あまりにも。
店主は肉を切る。
塩。
香草。
黒い粒状の香辛料。
鉄板へ置く。
じゅっ。
音がした。
香りが広がる。
「…………」
美味しそう。
困る。
ものすごく困る。
(人間なんだよな)
焼けているのは。
人間だ。
分かっている。
前世の感覚なら。
全力で逃げる場面である。
なのに。
口の中に唾液が溜まる。
身体は。
どう考えても食べたがっている。
「ほら」
小さな木皿を渡された。
薄く切った肉。
横には。
先ほどとは違う、小さなパン。
「パンも?」
「肉汁吸わせて食うんだよ」
「へえ」
フォークを刺す。
「…………」
一瞬だけ。
止まった。
でも。
食べる。
「…………」
噛む。
「…………っ」
何だこれ。
柔らかい。
表面は香ばしい。
中には肉汁が残っている。
脂が甘い。
香草。
塩。
少し辛い香辛料。
全部が。
妙に合う。
パンを食べる。
肉汁を吸った部分が。
さらに美味しい。
「…………」
もう一口。
「…………」
店主が笑っている。
「どうだ?」
「なにこれ、めちゃくちゃうまっ……!」
「だろ?」
「え、待って」
もう一切れ。
「本当においしい」
「北部じゃ有名な血統だからな」
「今それ聞きたくなかった」
「?」
「何でもないです」
食べる。
美味い。
倫理観が。
味覚に負けている。
(最悪だ……)
なのにフォークが止まらない。
「ベルゼブブ様」
「何?」
「お気に召されましたか」
「…………うん」
「何よりにございます」
「嬉しそうに言わないで」
「国家の食文化を皇帝陛下がお認めになったのです。喜ばぬ理由がございません」
「言い方」
最後の一切れまで食べる。
「…………」
なくなった。
少し悲しい。
もっと悲しいのは。
それを悲しいと思った自分である。
「もう一皿――」
言いかけて。
やめる。
「…………」
「追加なさいますか?」
「しない」
「左様で」
「その顔やめて」
「私には山羊の顔しか――」
「二回目は通用しないよ」
店を離れる。
しばらく歩く。
「バフォメット」
「は」
「普通の食事でも、お腹は満たせるんだよね」
「無論にございます」
「パンも。野菜も。魚も」
「肉体そのものを維持する栄養は、人と大きく変わりません」
「でも」
市場を見る。
並んでいる人肉。
血を詰めた瓶。
客。
店。
「魔力は別」
「左様にございます」
バフォメットが淡々と答える。
「人の血肉からでなければ、我らは魔力を補えませぬ」
「食べなかったら?」
「まず魔力が枯れます」
「そのあと?」
「再生能力が落ち、身体機能が衰え」
一拍。
「いずれ死にます」
「…………」
やっぱり。
そういうことだ。
嗜好品ではない。
吸血鬼にとって。
人間は。
食べなければ生きられない食料だ。
「だから牧場がある」
「はい」
単純だった。
残酷なくらい。
単純。
「人間を食べるなって言ったら」
「国民を飢えさせることになります」
「だよね」
分かっている。
だから。
こんな制度になった。
勝手に人間を襲わせない。
登録された食肉。
管理された採血。
そして。
畜人。
人間だったころの感覚なら。
最悪だと思う。
でも。
ここに住んでいる吸血鬼からすれば。
食料を安定して供給するための。
ただの仕組みだ。
「…………」
歩く。
少し先に。
血を扱う店があった。
ワインのように。
赤い液体が瓶へ詰められている。
「そこも?」
「血舗にございます」
「血の専門店?」
「左様に」
「…………文化だなあ」
少し覗く。
年代。
採血地。
保存方法。
血型。
いろいろ書かれている。
「…………」
ワインだ。
完全に。
「こちらを」
店員が細いグラスを差し出した。
「試飲?」
「はい」
赤い液体。
「これは?」
「今朝採血された若い女の鮮血にございます」
「情報が生々しいな」
「鮮度を示すためでございます」
「そういうことじゃない」
でも。
受け取る。
香りを嗅ぐ。
「…………」
甘い。
身体の奥が。
勝手に反応した。
一口。
「――っ」
違った。
人間の食事とは。
全然違う。
舌で感じる味だけではない。
喉を通る。
その瞬間。
身体の内側へ。
何かが広がった。
熱い。
胸の奥。
もっと深い。
魔力核。
そこへ直接。
力が染み込んでいく。
「…………」
もう一口。
「おいしい……」
さっきの肉とは違う。
これは。
身体そのものが求めている。
オレは一般の吸血鬼とは少し事情が違うらしい。
人の血肉を取らなくても、今まで普通に動けていた。
それでも。
この身体が。
本来何を食べる生き物なのか。
嫌というほど分かった。
「ベルゼブブ様?」
「何でもない」
グラスを置く。
「おいしかった」
「光栄にございます」
「作ったのあなたじゃないでしょ」
店員が慌てて頭を下げる。
少し笑って。
外へ出た。
◇
市場を抜ける。
人通りが少し減った。
「…………」
そのとき。
車輪の音がした。
大きな荷車。
いや。
馬車に近い。
窓には。
鉄格子がついていた。
「…………」
中に。
人間がいる。
一人。
二人。
もっと。
男。
女。
若い者が多い。
首元には。
同じ形の金属札。
数字が刻まれている。
「バフォメット」
「は」
「あれは?」
「移送車にございます」
「どこへ?」
「郊外へ」
「…………」
聞かなくても。
なんとなく分かった。
けれど。
聞く。
「牧場?」
「左様にございます」
馬車が通り過ぎる。
中にいる一人の女と。
一瞬。
目が合った。
「…………」
逸らされた。
何も言わない。
助けを求めるわけでもない。
ただ。
膝の上で両手を握っていた。
「名誉ゲルマニア人じゃないんだ」
「違います」
「畜人」
「はい」
「…………」
その言葉。
市場で肉を見たときより。
今の方が。
重かった。
「名誉ゲルマニア人なら、ああはならない?」
「原則として」
「勝手に食べられることも?」
「重罪にございます」
「財産も持てる」
「はい」
「働ける」
「無論に」
「住む場所も選べる」
「法の範囲内であれば」
「医者にもかかれる」
「はい」
では。
今の馬車に乗っていた人たちは。
「何が違うの?」
「身分にございます」
簡単に。
バフォメットは答えた。
「…………」
そう。
この国では。
人間だから。
同じではない。
名誉ゲルマニア人。
畜人。
同じ種族でも。
片方には権利がある。
片方には。
商品としての価値がある。
「名誉ゲルマニア人になれる条件は?」
「忠誠」
「だけ?」
「納税。就労。軍務への協力。技能。功績。その他、帝国への有用性が認められた者」
「…………」
「お忘れに?」
「覚えてるよ」
オレが認可した制度なのだから。
「ただ」
通り過ぎていった馬車を見る。
「紙で読むのと、見るのは違うね」
「左様でございますか」
「うん」
バフォメットは何も言わなかった。
代わりに。
少し先へ視線を向ける。
「明日」
「何?」
「お時間をいただけますでしょうか」
「いいけど」
「一件、ベルゼブブ様ご自身にご覧いただきたいものがございます」
「何?」
「名誉ゲルマニア人の昇格式にございます」
「昇格?」
「はい」
バフォメットが言った。
「明日」
一拍。
「一人の人間が、ゲルマニア人となります」
「…………」
立ち止まる。
名誉。
ではない。
「本物の?」
「左様に」
「吸血鬼になるんだ」
「はい」
市場の音楽が。
遠くからまだ聞こえていた。
美味しい料理。
綺麗な街。
音楽。
酒。
笑い声。
その向こうには。
人間牧場がある。
畜人がいる。
そして。
人間から吸血鬼へ。
境界を越える者までいる。
「…………」
ゲルマニア。
オレの国。
……どうやら。
まだ知らないことが、思っていたより多いらしい。
「行く」
「御意」
「見せて」
「喜んで」
バフォメットが頭を下げる。
明日。
一人の人間が。
人間ではなくなる。